天津久米命の子孫の系図は、

諸系譜. 2- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

3種類収録されています。

 

「久米宿祢」は42コマ~

〇「山宿祢 山部宿祢也」は54コマ~

〇「波多門部造」は104コマ~ですが、

「波多門部造」は

諸系譜. 15- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

8コマ~にも載っています。

 

今回は、諸系譜第二冊の「波多門部造」についてご紹介しますが、

採取した方が「實ニ可珍重也」と感想を添えられているだけあって、

私には荷が重い、

かなり奥が深い事柄が記されています。

 

宝賀寿男 氏は

『大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門 (古代氏族の研究)』で、

「(前略)これは、淡路島の式内明神大社、大和大国玉神社(兵庫県南あわじ市榎列上幡多)の年預職を世襲した波多氏(のちに秦氏という。波多門部造姓)が伝えたとみられる。波多氏は三原郡の郡領を世襲した家であったが、外祖の八木氏(海神族系の八木造氏の後裔)がつとめてきた大和神社の年預職を譲り受け、南北朝期まで世襲した。(後略)」と説明しています。

大和大国玉神社は、

大和神社(奈良県天理市新泉町星山306)と同じく、

大和(※倭、日本とも書きます)大国魂神を主祭神としています。

 

渟名城入姫命 - Wikipedia から引用させて頂きます。

「(前略)『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神・倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。しかし、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったという。

 

また同書垂仁天皇253月条では、「一云」として、大倭大神が自分を祀るよう神託したので、中臣連祖の探湯主の卜によって「渟名城稚姫命」に祀らせたという。天皇は渟名城稚姫命に命じ、神地を穴磯邑(あなしむら:奈良県桜井市穴師)として大市(奈良県桜井市芝付近)の長岡岬で祀らせたが、姫の体は痩せ細り祀ることが出来なかった。そこで大倭直祖の長尾市宿禰に祀らせることとしたという。この「渟名城稚姫命」は渟名城入姫命と同一人物とされる。

 

考証

上記2つの記事は同じものとされ、いずれも奈良県天理市の大和神社の起源譚になる。上記伝承からは、崇神天皇の血統では倭の国魂を祀ることが出来ないこと、その祭祀には倭国造(大倭直)一族が関わることが特徴として指摘される(後略)」。

 

大和大圀魂神社 | 淡路島日本遺産 (kuniumi-awaji.jp) には

「日本書紀に登場する「御原(みはら)の海人(あま)」を統率したとされる倭(やまと)氏ゆかりの神社で、淡路国二宮と呼ばれます。境内からは大和社印(県指定有形文化財)が出土。古代の社殿は西向きで瀬戸内海に面していましたが、海上を通る船人が礼拝をせず祟りをなしたことから南向きに変更されたと伝えられます。」

記されています。

 

これらのことから私が不思議に思うのは、

八木氏が〝久米〟に大和大国玉神社の年預職を譲ったことです。

 

〝久米〟との間に通婚関係が出来たからといっても、

八木氏などの倭国造(大倭直)一族の男性を跡継ぎにするより

大切な理由があったのでしょうか。

 

藤原純友が瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことが、

それまでの拘りを捨てさせたのでしょうか。

これらのことは、下に貼る

諸系譜. 2- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

106コマ左ページから分かることから想像しました。

 


 

もしかしたら、倭国造(大倭直)一族と〝久米〟は

通説から推察される以上の繋がりがあったのかもしれません。

その思いを強くしたのは、今回も地図でした。

 

1、大和神社(奈良県天理市新泉町星山306

経緯度34.570833, 135.8375

 

2、大和大国魂神社(兵庫県南あわじ市榎列上幡多857

経緯度34.322638, 134.776003

 

3、倭大国魂神社(徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3

経緯度34.049139, 134.017083

 

4、宝来山古墳(奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池

宝来山古墳 34.679961, 135.781219) です。

 

1、2、3だと直線状に繋がっているとは言いにくいのですが、

3、2を繋げた先は奈良市に向かっています。

(これは何かありそうだ)と思い調べると、

宮内庁により「菅原伏見東陵」として垂仁天皇の陵に治定されている

宝来山古墳が見つかったのでした。

 

【垂仁天皇菅原伏見東陵】写真・アクセス・営業時間|奈良県の賃貸なら【賃貸のマサキ】 (chinmasa.com) によると、

「陵墓のそばには小島のような古墳があり、垂仁天皇の家臣である田道間守の陵だと言われています。」とのことですので、

本当は、こちらと繋げた可能性もありそうです。

 

けれど、垂仁天皇の和風諡号が〝いくめ〟であること、

父である崇神天皇が〝みまき〟で

徳島県の倭大国魂神社が美馬(みま)市に座すことを考え合わせると、

垂仁天皇の陵墓とされる場所には、

特別な意味があるのかもしれません。

 

「波多門部造」から想像される久米の歴史は他にもありますので、

次からも何回か書くことになりそうです。