最近、溝口睦子氏著『古代氏族の系譜』をお借りして、つまみ読みしています。

 

【内容説明】によると、

近年発見された大伴系の系譜『古屋家家譜』は、古伝を正確に伝えた秀れた史料である。本書は、この『古屋家家譜』と従来の『伴氏系図』を合わせ考察することにより、古代史に重要な役割を担った大伴氏の古本系の一部を推定復元する。さらにその復元された本系から、日本の古代国家形成にかかわる興味ある問題点を取り出し、そのもつ意味を探る。」もので、

溝口氏は4頁に「さて大伴氏は、説明するまでもない古代屈指の名族であるが、残念なことに物部氏や中臣(藤原)氏のような本宗家の古い系譜や家記の類が残っていない。」と書かれるような視点をお持ちです。

 

読ませる力が強い文章だという印象を持ちましたし、

大伴(久米)に拘って歴史を学んでいる私にとっては心地よい内容なのですが、

その分、書かれていることを鵜呑みにしてしまいそうな怖さがあります。

 

今回お借りした理由は、

越前と〝久米の子ら〟。 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) 等でご紹介した「大伴連一族の系図(試案)」は、あくまでも、宝賀寿男氏による試案であり、

『古屋家家譜』と同じものでは無いことに気付いたからでした。

 

宝賀氏の著書『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の1314頁では、

鎌田純一氏執筆の『甲斐国一之宮 浅間神社誌』が昭和五四年(一九七九)に刊行されて、その史料篇に社家系譜(『世系略譜』『古屋家家譜』『降屋家系譜』の三編)が掲載された。それが佐伯有清氏の目にとまって、その大著『新撰姓氏録の研究 考証篇第三』(一九八二年刊)のなかで、『古屋家家譜』のはじめのほう天長年間(八二四~八三四年)までの部分が転載・紹介されている。この 系図が田中卓博士や溝口睦子氏らから研究されて比較的信頼性が高いものと評価され、大伴氏の系譜と氏族研究は新たな展開を迎えた。だから、この『古屋家家譜』を踏まえた検討かどうかにより、 内容的に随分違いが出てくる。」等、紹介されています。

 

 【2024/05/06 追記】

甲斐国一之宮浅間神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) を見付けました。『古屋家家譜』は146コマ~、送信サービスで閲覧可能です。

 (追記終わり)     

 

32頁には、「『古屋家家譜』では、道臣命の五代祖先に天石門別安国玉主命をあげ、「一名大刀辛雄命」と記されており、九頭神社で祀られる大国栖玉命に当たるともされる。久米氏の系図のほう は、中田憲信編の『諸系譜』第二冊・第十五冊などに「波多門部造(はたのかどべ)」系図として神代からのものが 見えており、ここに見える「麻戸 明主命(まとあかるぬし)(「麻戸明+主」は「窓開ける者」の意)が手力雄命に当た る神である。福岡県北九州市若松区にある戸明(とあけ)神社も長野県の戸隠神社も、同じく天手力雄大神を祀る。「波多門部造」の系図は淡路二ノ宮の大和大国魂神社祠官一族に伝来してきたものであり、 真年・憲信関係系図の再発掘のなかで共にしっかり再評価される必要がある。」、

 

49頁には、「天手力男命は天照大神の籠もる天岩戸を開けたという故事で名高く、天石門別命の別名ももつが、『古事記』の天孫降臨の段では、両神は別人のように扱われる(同じ段では、天忍日命と天津久米命も別人に扱われ、二人と数えられる。これは、本来は「AすわなちB」という同人の意味での連記が、「AB」という別人の連記と誤解されたことに因るか)。この段では、天石戸別神には櫛石窻(いわまど)神・豊石窻神という又名もあげられる が、「窻」は「窓、マド」のことであり、久米氏の系図では「麻戸」とも記されている。「天孫本紀」 には御門之神とも見える。」と書かれています。

 

どうも、 『古屋家家譜』と、「波多門部造」の系図が見付かっていなければ、

「天手力男命は、大伴(久米)の祖神」というようなことは言えなかったようです。

 

『古屋家家譜』を伝えてきたのは甲斐国一之宮浅間神社 で、

「波多門部造」の系図は淡路国二宮の大和大国魂神社なのですが、

社名で分かるように、両社とも天手力男命を祀る神社ではありません。

 

「波多門部造」から想像される久米の歴史1 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) でも書きましたが、「波多門部造」の系図には、

波多氏は淡道国造に任ぜられた矢口宿祢の子孫であり、

淡路島の三原郡の郡領を世襲した家だったが、

外祖の八木氏(海神族系の八木造氏の後裔)がつとめてきた大和神社の年預職を譲り受け、南北朝期まで世襲していたことなどが記されています。

 

こちら↓をクリックすれば「波多門部造」の系図が見られます。

 

 


淡道国造 - Wikipedia 202179() 16:49 時点の版では、波多門部造の系図が途中までですが載っていて大変嬉しいのですが、添え書きが簡略化されていたり、「狭比知乃造」が「佐比知乃造」になっていたり、少し違いがあります。

 

「波多門部造」の系図の最後に記された説明文には、

「右ハ淡路国三原郡幡多郷(上八太村 秦孝年ノ家系也」とあります。

 

いつから「秦」を名乗るようになったのか知りたいのですが、

宝賀氏の「大伴氏族と久米氏族」wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm には「淡道ノ凡直、波多門部造(録・右京。波多〔秦〕-淡路国三原郡波多郷人、大和大国魂社年預。」と記していますので、明確では無いのかもしれません。

 

話が『古屋家家譜』から逸れていると思われるかもしれませんが、

甲斐の浅間神社と波多〔秦〕氏は、関係があるようなのです。

 

・・・と言いましても、「甲斐国一之宮 浅間神社」ではなく、

「河口浅間神社」(山梨県南都留郡富士河口湖町河口1番地)の方なのですが。

 

 

「甲斐国一之宮 浅間神社」と「河口浅間神社」は、ともに、

「八代郡浅間神社」の論社となっていて、「八代郡浅間神社」の創建の理由は

『三代実録』↓に書かれていますが、他の記事に較べて長いように感じます。

 

 

河口浅間神社(山梨・富士河口湖町) (y-tohara.com)に書き下し文が載っていて、

ありがたく思いました。

 

本当は全文をお知らせしたいのですが、引用するには長いので、

伴真貞とは - コトバンク (kotobank.jp) を参考に書きますが、

八代郡擬大領である伴真貞が、貞観7(865)神がかりして「はやく神社をさだめ明神をまつれ」との浅間明神の託宣をのべた。国司が卜筮をしても同じ結果だったので祝に任じられ、伴秋吉を禰宜(ねぎ)として神宮がたてられたのですが、

それは、富士山の噴火を鎮めるためでした。

 

伴真貞の名前は「甲斐国一之宮 浅間神社」が伝えてきた『古屋家家譜』にあり、

境内には「真貞社」が座しています。

 

一方、「河口浅間神社」では、参道中央の「波多志神」が伴直真貞の霊を祀っているのだとか。伴直真貞は秦氏、という説もあるようですが、

プロフィール - 河口御師梅谷 (jimdo.com) には、

「参道中央には、波多志神の祠がございます。波多志とは、中国の秦氏(はたし)のことです。河口では古くから秦氏伝説・徐福伝説が言い伝えられています。」と記され、「河口御師由緒」の項には大変興味深いことが書かれています。

 

「河口浅間神社」の神職・御師27代目の本庄元直氏だからこそ書ける、

情報量が多いページだと感じながら拝読したのですが、

伴真貞には触れていません。

 

それに対し、「甲斐国一之宮 浅間神社」が伝えてきた『古屋家家譜』では、

伴直真貞を、金村大連公の息子である磐連公の子孫と伝え、

甲斐国一之宮 浅間神社の神官家は、伴直真貞の子孫が継いでいたとのことです。

 

 

緑の枠は私が付けました。

 

ところが、溝口氏は、71ページからの「3 『古屋家家譜』の特徴点」の項の冒頭で、

『古屋家家譜』は、すでに田中卓氏が指摘しておられるように、いくつかの新史料を含む秀れた古系譜である。しかしその内容を仔細にみると、同時に多くの矛盾点や疑問点をも抱えた、すこぶる複雑な系譜でもある。『伴氏系図』は、三河伴氏によって大伴氏の本系が取り入れられた過程も比較的明白 で、ある意味で単純な系譜であるが、この系譜の場合、甲斐の伴氏とこの系譜(の古代部分)との結びつきにはあとでみるように疑問点が多く、種々問題がある。要するに、これは正体のきわめてつかみにくい系譜である。」と述べています。

 

宝賀氏の意見も基本的には同じで、著書の3738ページに、

「(前略)金村大連・磐連親子から大伴直方麻呂(磐連の曾孫とされるから、両者の中間には二代入る)につながる系譜について、問題がいくつかある。

 その第一は、連姓から直姓というのは当時のカバネで見れば、明らかに貶姓であって、これが理由もなく実際になされたとは先ず信じがたい。しかも、大伴山前連か ら大伴直という姓氏の変更の動きも変である。かつ、甲斐の直姓の諸氏(壬生直、小長谷直など)を見れば、これらは甲斐国造の一族であったとされており、大伴直氏もその同族とするのが自然となる(太山亮博士に同説)。だからこそ、甲斐一宮という由緒ある式内古社(山梨県笛吹市一宮町一ノ宮に鎮座)を伴直氏が歴代、奉斎してきた事情にも通じる。同社は、社伝によると、垂仁天皇八年に現社地の南東二キロにある神山の麓に創祀され、貞観七年(八六五)に現社地に遷座したと伝えるから、甲斐国造の一族が長く奉斎してきたものであろう。大伴直氏も甲斐国造一族として、同地に置かれた大伴部の古くからの管掌者であって、職掌上の上司筋の大伴連との縁で系譜を仮冒して大山連氏に接合させたものとみられる。(後略)」と記しています。

 

 

空海の実家の讃岐の佐伯直氏が、

大伴金村大連の弟の子孫だと主張したことと似ていますね。

 

 

 

宝賀氏は、「讃岐の佐伯直氏は同族である」との伴善男の奏言を、

「善男が講じた勢力拡大策の一つであったとみられる」と82ページに書かれていますが、系図には記されていない婚姻関係や養子縁組などがあるような気がします。

 

甲斐国造の祖とされる狭穂彦王は、

垂仁天皇に対して叛乱を起こして失敗し自殺していますので、

ここら辺も何か関係しているのかもしれません。

 

 

前出のプロフィール - 河口御師梅谷 (jimdo.com)には、

梅谷(本庄)の檀那場は、信州佐久や群馬でした。先日も、佐久の方がお見えになり、江戸時代の檀家帳をお見せしたら、ご自分のご先祖様のお名前が書かれて いて、大変驚かれていました。」とありますが、

長野県の佐久市望月字御桐谷227には、

全国的に見ても珍しいことに、大伴神社が座しています。

https://ameblo.jp/yabutsubakime/entry-12633902229.html

 

武家家伝_新開氏 (harimaya.com) によると、「秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。」ということから、信州の秦氏と大伴氏関係の人々が、

富士山噴火による被害からの復興に協力したことを想像してしまいます。

 

 

 

上の地図のポインターは

1、甲斐国一之宮 浅間神社  山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684

2、河口浅間神社  山梨県南都留郡富士河口湖町河口1番地

3、大伴神社 長野県佐久市望月233(227 )  で付けています。

 

ラインが 甲斐国一之宮 浅間神社の東側を通っていますが、

元々は、現社地の南東二キロにある神山の麓に創祀されていた、ということから

そこを通るラインであるような気もします。

 

 

拙稿の最後に、溝口氏の著書から『古屋家家譜』の一部をお借りします。

 

 

 

 

色々と気になることがありますが、またの機会に。