自然災害と「応天門の変」の関係についての考察(5)
poch1270様に、拙ブログをご紹介頂きました。
ありがとうございました。
私は、今まで何回か、空海と「久米」との関係について書いてきましたが、
久米氏と同族である大伴氏と、空海との関係については触れてきませんでした。
何故かといいますと、
歴史の素人である私にとっては、先祖について調べるだけでも一苦労で、
ブログを始めた一年前は、
大伴氏のことは、久米と直接関係すること以外は興味を持っていなかったのです。
なので、当然、知識がありません。
けれど、何故だか「応天門の変」について書き始めてしまい、
poch1270様の記事を拝読することで、
空海の一族が「応天門の変」に少なからず係わっているように思えてきました。
ちなみに、以前、poch1270様からアドバイスを頂いて書いた記事が、こちら↓です。
空海の一族は、大伴氏と同族であるということを、
伴善男の奏言もあり、朝廷から認められています。
『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事に、
「讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫した。この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、正六位下書博士佐伯直豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置である」
というような内容が書かれているそうです。
※クリックしたら、そのページに飛べます。
ところが、このことは、仮冒と見られています。
「佐伯」には三種類あり、佐伯部 - Wikipedia の「概要」から引用致しますが、
「(前略)
古墳時代の中頃(5-6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。」
とのこと。
地方豪族を管掌した中央佐伯氏は大伴氏と同族ですが、
空海の先祖は、東国人の捕虜である佐伯部を讃岐で管掌した播磨国造の氏族で、
空海の一族は大伴氏の同族ではない、と見られているのです。
説明を端折ってしまいましたし、間違っているかもしれませんので、
興味を持たれた方は、
「讃岐の佐伯直とその一族 」wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saeki-sa1.htm や、
讃岐の古代豪族 空海の家系についての研究史を見てみると : 瀬戸の島から (livedoor.blog) 、などの他の記事を読むことをお勧めします。
伴善男の奏言は、様々な勢力拡大策のうちの一つ、という説がありますが、
伴善男 - Wikipedia によると、
承和10年(843年)2月10日に讃岐権介に、
斉衡1年(854年) 正月16日には、他の役職と兼ねて讃岐守に任ぜられています。
讃岐国 - Wikipedia の「讃岐守」の項には、
「伴善男(従四位下・参議):仁寿4年(854年)1月16日(854年)- 斉衡4年(857年)1月」とあり、
次は源寛で、続いて藤原良縄が、約1年ずつ讃岐守を務めています。
その後が紀夏井で、天安2年(858年)11月25日 から貞観6年(864年)1月まで
讃岐守の任に留まっていますので、
伴善男の実質的な後任者は、紀夏井だったのかもしれません。
讃岐国多度郡人であった空海の一族が佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したのは
貞観3年(861年)11月11日です。
紀夏井は、讃岐守の4年間の任期を終えるも、百姓等の懇望により、さらに2年間讃岐守の任に留まったと伝わりますが、
佐伯宿祢の左京への移貫が少なからず関係していたのかもしれません。
自然災害と「応天門の変」との関係についての考えるようになってから、
(国と清和天皇を守るために、
伴善男と紀夏井を表向きは流罪にして朝廷内のしがらみから逃がし、
実は自由に活動出来るように仕組んだ人物がいるのでは? )
と妄想していました。
もし、本当にそんな人がいるとしたら、
清和天皇から信頼があり、そして、
バックアップできる強力な組織を持っている法光大師(真雅)あたりでしょうか。
空海の弟である法光大師(真雅)は、清和天皇の誕生以来の護持僧であり、
清和天皇と、外祖父である藤原良房から厚い信任を得ており、
貞観2年(860年)2月に東寺一長者となっています。
そういえば、伴善男の流刑地(静岡県伊豆市吉奈 ポインター2)は、
空海が開いた修善寺(静岡県伊豆市修善寺964番地 ポインター1)とは、
直線距離で約7kmという近さで、移動もしやすそうです。
また、伴善男が亡くなったとされる貞観10年には、
空海と 真雅 の甥(もしくは姪の息子)にあたる円珍が、
天台宗の総本山である延暦寺第5代座主となっています。
そして、母が伴氏である源能有と菅原道真の活躍があるわけです。
2人が右大臣に昇進するほど結果を出せたのには、
(大)伴氏が陰から支えたおかげもあったのでは・・・? と想像しています。