昨日、縄文人の遺伝子についての最新の記事を探していて、古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明! - ナゾロジー (nazology.net)  を見付けました。

 

記事の最初の方に、

 

オーストリアのウィーン大学(Universität Wien)で行われた研究によって、古代朝鮮の南部に存在した「伽耶(かや)」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたことが判明しました。

と、太文字で書かれています。

 

一通り目を通したあと、参考文献として紹介されている1,700-year-old Korean genomes show genetic heterogeneity in Three Kingdoms period Gaya (phys.org)  に飛び、翻訳ソフトを使ったのですが、

 

Current Biologyに掲載されたこの研究は、伽耶連邦の古代韓国人が現在の韓国人よりも多様であることを示しました。DNA抽出とバイオインフォマティクス分析に使用された8つの古代の骨格は、伽耶連合の象徴的な葬儀施設である大成洞古墳とユハリ貝塚から来ました。韓国の金海にある両方の遺跡。

とあります。

 

Current Biology韓国金海三国時代の北東アジア・縄文関連遺伝子構造:現在の生物学 (cell.com) の公開日は、2022621日となっています。有料ですし、素人の自分には読んでも理解できないことが多いだろうと思い、こちらは読んでいません。

 

 

韓国の金海(キメ)については、拙ブログの前回の記事でも少し触れましたが、香川県丸亀市飯山町東坂元の地名である「久米氏」を「きみょうじ」と読むのは、金海から帰国した久米が居住した名残ではないか―と私は妄想しています。

 

 

 

 

この妄想は、「久米」について気になることをインターネットを使って手当たり次第に調べていたときに、検索結果の中に金海金氏 - Wikipedia があったことから始まりました。

 

何故か、何度も引っかかってくるので、次第に気になるようになったのです。

 

けれど、最近は全く引っ掛かりません。ブログを始めた2年前にも試したのですが、ダメでした。

 

今でも検索結果の中に出てきてくれるものに、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社があります。

 

大久米命の子孫である「阿加志毘古命 押志岐毘古命」を検索していて見付けたのですが、はじめは、阿良加志比古と阿加志毘古は似ているだけで同じ名前だとは思いませんでした。

 

けれど、久麻と久米も似ていますので、どうも気になります。

 

それに、久麻加夫都阿良加志比古神社の鎮座地は、久目(くめ)部の後裔が勧請したと伝える久目神社と同じく能登半島です。

久目=久米であることを、小久米神社の存在からも感じます。

 

そして、久麻加夫都阿良加志比古神社の紋は、「蛇の目」です。

 

 

こちら↓は、久麻加夫都阿良加志比古神社で行われるお熊甲祭のお世話役をされている方のブログです。

 

「蛇の目」が先頭を進む画像が載っています。

 

注連縄の起源とされる尻久米縄(しりくめなわ)は、蛇が交尾している形を象ったものだという説がありますので、「蛇の目」と「久目」にも、もしかしたら、繋がりがあるのかもしれません。

 

ちなみに、拙ブログの記事は、古代の久米氏は縄文人としての要素が強い氏族だという説に基づいて書いています。

 

 

本当に久麻加夫都阿良加志比古神社と久米との間に繋がりがあるとすれば、久米に朝鮮との繋がりがあることになりそうです。

 

久麻加夫都阿良加志比古神社 (genbu.net) から、「久麻加夫都阿良加志比古神社の由緒」をお借りします。

 

当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。

御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。

この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、三~四世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。

都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」二年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、四~六世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。

毎年九月二十日に行われます例祭は一名を『二十日祭り』とも言い、昭和五十六年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

祭りは二十日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする六日の「しらい」から始まり、十九日夕刻からの「奉幣迎え」、翌二十日早朝から氏子十九の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻十時三十分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平安を祈念する「祭典」を始めます。

高さ二十m余りの真紅の大枠旗三十数基と金色に輝く二十基の神輿。

華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。

摂社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており神仏混淆の名残をとどめています。

境内にある校倉造りの『宝物殿』には弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。

-『平成祭データ』-

 

ツヌガアラシトが日本に現れたときの御間城天皇とは崇神天皇のことで、御世のことを、『福井県史』通史編1 原始・古代 (fukui.lg.jp) によると、「瑞籬朝」といったとのこと。

 

阿加志毘古命も、吉備中県国造に定められたのが瑞籬朝との記載があります。

 

もしも、ツヌガアラシトと阿加志毘古命とが近い関係にあるとしたら、吉備にツヌガアラシトの痕跡があるはずだと思い検索し、ツヌガアラシトと同一人物との説があるアメノヒボコの妻・阿加流比売神を祀る姫社(ひめこそ)神社が、岡山県総社市福谷に座していることが分かりました。

 

 

阿加流比売神と阿加志毘古命の名前が似ているだけなら偶然かもしれませんが、姫社神社の真東に久米の地名がありますので、何かの繋がりもありそうです。

 

また、『福井県史』通史編1 原始・古代 (fukui.lg.jp) では、越前国旧敦賀郡を支配した角鹿国造について考察されていますので、一部引用します。

 

(前略)

 

 「国造本紀」は地理上の配列順とは異なり、角鹿国造を四国造の一番最後に置き、「志賀高穴穂朝御代、吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造」とある。

 角鹿国造の任命を成務朝とするこの伝承について、史実とはとれないとする説もあり、吉備臣とのかかわりがつけられている伝承も同様である(『敦賀市史』通史編上)。しかしこれらが史実でないとすれば、何故にそれが「国造本紀」に記されたかを考えなければならない。

 

(後略 引用終わり)

 

続いて、【敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/氣比神宮】一般社団法人 敦賀観光協会 (turuga.org) の角鹿神社の項を引用します。

「日本書記」には崇神朝の出来事として、朝鮮半島の大加羅国の貴人で、額に角があったというツヌガアラシト(別名:ウシキアリシチカンキ)の来敦が描かれています。ツヌガアラシトは地名の由来ともされ、敦賀が大陸との交流の要地であったことを象徴的に物語っています。角鹿神社はこのツヌガアラシトを祭神とし、ツヌガアラシトは地域首長である角鹿国造家の祖ともされている。後に角鹿氏の社家が、京都に在住する大宮司に代わって気比社の社務を担ったことから同社は政所神(まんどころのかみ)とも呼ばれました。

 

(引用終わり)

 

ツヌガアラシトの別名であるウシキアリシチカンキは、于斯岐阿利叱智干岐と書きます。

 

阿加志毘古命の兄弟として記される押志岐毘古命の読みが「オ(ウ)シキ」だとすると、于斯岐阿利叱智干岐は、押志岐毘古命と阿加志毘古命の名前を足したもののように思えてきます。

 

そして、二人の父親の名前は、彦久米宇志命です。宇志は「ウシ」と読めます。

 

彦久米宇志命、阿加志毘古命、押志岐毘古命を記載した系図は、こちら↓をクリックすると見ることが出来ます。

 

 

次に、いつものように、地図で見てみます。

 

1,久麻加夫都阿良加志比古神社 石川県七尾市中島町宮前ホ部68−1−1

2、久米田神社 福井県坂井市丸岡町下久米田1−1

3、氣比神宮 福井県敦賀市曙町11−68

でマーカーを付けています。

 

 

少し、久米田神社がラインから離れています。

 

久麻加夫都阿良加志比古神社は、久麻加夫都阿良加志比古神社 (genbu.net) によると、

「初め、祭神は西岸村瀬嵐に漂着され、後に熊木村上町高瀬の森に鎮座し、さらに現在地に遷座したという。」ことですので、そのことが関係しているのかもしれません。

 

 

このラインを更に伸ばすと、久米田寺(大阪府岸和田市池尻町934)と繋がるだけでなく、博通法師が「久米の若子」を詠んだ地と伝わる「三穂の石室」にも向かいます。

<  l

 

 

「三穂の石室」について、由良薫氏の論文「万葉集と洞窟―『三穂の石室』(和歌山・美浜町)を検分」 から引用します。

※インターネットで検索すると、pdfが見付かります。

 

                 3. 石室の所在地

「三穂の石室」の所在地について、若干の異説はあるものの、古来万葉研究者の間では、和歌山県美浜町三尾にある洞窟であるという見方でほぼ定着している。地元では「久米の石室(くめのいわや)」と呼んでいる。「うしろそのあな」とも伝えられている

(後略)

 

5-3. 太陽神の若子

博通法師を久米氏の末裔ではなかろうかとして、歌を祖先への鎮魂と見る地元歴史家の見解もある。「久米氏は紀氏の配下で、紀伊水道沿岸に水軍力・軍事力を有する氏族としてその勢力を拡げていたものと思われる。そのような観点からすれば現・美浜町三尾は、古代の海人族・久米氏の拠点集落の一つではなかったろうか」(御坊文化財研究会「あかね」第 33 号 万葉集「三穂の石室の久米の若子」考 神島明彦)としたうえで、洞窟は海人族の出産場所とする神話が多く、三穂の石室は久米氏の女性たちの出産場所であった可能性がある。また、久米を「コメ」につながるとみて、「久米の若子」は特定の人を指すのではなく、稲穂の姿を持つ永遠の若子、太陽神の若子、と見るのが相当、というのである。
 
(引用終わり)

 

 

由良薫氏の論文から思い出したのが、都市文化研究第18号 – UCRC (osaka-cu.ac.jp)  からダウンロードできる岡田高志氏著「太陽の弓箭(ゆみや)―『出雲國風土記』,「佐太の大神(さだのおほかみ)」伝承の基層―」です。

 

論文は、次のように締めくくられています。

佐太の大神は、日の出の際に太陽の弓箭が貫くという窟の地形より生み出された太陽の子であり,あわせて田の豊穣を司る海の神の血筋を受けた穀霊でもあった。その伝承の痕跡が『出雲國風土記』加賀の神埼をめぐる記述の基層に読み取れるのではないかというのが本稿の結論である。

 

論文の5コマ目では、阿加流比売神の母が、虹の如く輝いた太陽にさされたことによって身籠ったことなどが紹介されています。

 

 とりわけ,佐太の大神伝承を考えるにあたって注目されるのは,島根半島と日本海を隔てた,朝鮮半島に伝わる神話である。ここにも日光感精の要素が見られ,日本に伝わっていた痕跡が残る。『古事記』中巻,応神天皇の世に記される新羅の王子 天日矛の伝説がそれである。

 

(後略 引用終わり)

 

 

冒頭で紹介しました古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明! - ナゾロジー (nazology.net) の2ページ目には、次のことが書かれています。

 

このうち、縄文人の遺伝子を多く受け継いでいるのは、古墳の主であると推測される男性「AKG 10203」であり、銅製の遺物や矢筒と一緒に埋葬されていました。

 

 

朝鮮半島に、矢筒とともに埋葬されるような縄文人の遺伝子を多く受け継ぐ高貴な人々がいたのなら、佐太の大神や阿加流比売神の父親も縄文人の神だった可能性がありそうですが、どうなんでしょうか。