自然災害と「応天門の変」の関係についての考察(7)

 

前回の空海と土佐の材木について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) では、

空海が室戸で修行した延暦16年(797年)に、

土佐への太政官道のコースが変更されていることに注目しました。

 

そして、空海は、土佐が大量の木材の産地となりえると考えていたのではないか、

ということなどを書きました。

 

木材が不足するようになった要因として、

斉明天皇が盛んに土木工事を行ったことが考えられていることを駿河湾と土佐との繋がりについて  | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) でご紹介したのですが、

讃岐佐伯氏に生まれた空海がとった行動の一部には、斉明天皇に関係することが本当にあるのかもしれない、と思わせてくれる論文を、

学内学術論文|図書館について | 高野山大学 図書館サイト (koyasan-u.ac.jp) 

に、見付けることが出来ました。

 

木下密運氏著「佐伯氏と阿刀氏の接点() ―空海生誕の歴史的背景― 」

esotericbuddhism51_kinoshita1.pdf (koyasan-u.ac.jp)  12コマ目から引用致します。(以下、引用)

 

さらに讃岐だけではなく、隣の伊予国にも七郡にわたって、一~四ヶ所の庄倉が置かれている。こうした庄倉がどのような性格のものであったかについては、松原弘宣の研究がある。

松原は、四・五世紀における内王権の瀬戸内海交通の主ルートが摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であるとし、その左証として、斉明天皇が西征の折二ヵ月強のあいだ道後平野に滞在するなど、まだその当時政情不安定な北九州を睨んでの前線基地的役割を果たしていたとしている。

その道後平野に播踞していたのが久米直氏で、畿内王権と結びつき、久米国造として大王近侍氏族へと発展させたのが伊予来目部小楯であった。この伊予来目部小楯に山部連の姓が賜姓され、久米直と山部連に同族関係が形成され、これが法隆寺との関係に発展してゆく。

法隆寺の所在地である大和国平群郡夜摩郷=山部郷、法隆寺最大の所領が存在する播磨国西部に山部氏が播踞する など、法隆寺との密接な関係が指摘され、寺に献納された「命過幡」に寄進者としての山部連氏が見え、伊予久米郡の久米氏 = 山部連—大和国夜摩郷—法隆寺という一連の繋がりが認められる。

また松原氏は、法隆寺が讃岐・伊予国に集中的に庄倉を設置しえたのは、大伴氏の影響によると論じておられる。 伊予国で大きな勢力を占めた久米氏と大伴氏は同族とされ、讃岐の鵜足郡、多度郡における大伴氏の分布、また佐伯部の佐伯直氏は大伴氏と同族であると主張し結論として法隆寺庄倉の設置には大伴氏が重要な役割を果たしたとされている。

(後略 引用終わり)

 

661年に崩御した斉明天皇と、797年頃の空海の行動との因果関係なんて、

そんなに簡単に見付かるはずが無いと覚悟していたのですが、

一気に久米まで繋がってしまったので驚きました。

 

木下密運氏は、

古刹・光堂千手寺住職や奈良大学非常勤講師などを務めておられたそうです。

 

空海と久米氏の直接的な繋がりについては論文中に無かったようですが、

空海が唐へ渡る前に橿原市の久米寺で大日経を感得し、

大同二年(807)、唐より帰国し、

初めて大日経を説き真言密教を宣布したのも久米寺と伝えられていること、

そして、

空海廟に入って大師号を得たことを観賢が報告した際に、

のび放題になっていた空海の御髪をあたった剃刀を

観賢自身がお守りしたのが讃岐の観賢山久米寺だということを、

木下密運氏は念頭に置かれていたのではないでしょうか。

 

 

空海の一族が大伴氏と同族であると主張したことについては、30コマ目にも

讃岐におかれた佐伯郡の伴造として佐伯直の姓を授けられた豪族が、中央で佐伯郡を統括していた大伴氏の同族であった佐伯連氏と擬制的な同族関係を

結ぶことによって、自らを大伴氏の子孫と称するに至ったもの」等書かれていますが、

どうやら、播磨でも同様な関係が結ばれていたようです。

 

福島 好和 氏著「播磨国の佐伯直氏について」451-01 (2).pdf 14コマから引用します。

(以下、引用 前略)

姫路市勝原区丁・柳ヶ瀬遺跡から墨書で「大伴」と書かれた須恵器や土師器が発見されたことが報告されているが、これらは「伴」と書かれた土器を加えると10点余りになるという。この遺跡の場所は、『播磨国風土記』にみえる揖保郡大家里大田村与富等の遺称地と思われるが、須恵器や土師器は奈良時代のものと考えられているので、この時期に大伴氏とかかわりのある者が居住していたことは明らかである。

揖保郡と大伴氏の関係については、聖徳太子が推古天皇から与えらた揖保郡内の水田の司に同天皇十七年(六〇九) 任じられたという大部屋栖野古連公の名が想起されるが、この記事を載せる『日本霊異記』の性格からみて確実な根拠にはならない。しかし、天平勝宝五年(七五三)から同七年にかけて、赤穂郡坂越郷聖生山付近の葦原墾田の開発に関わった播磨守大伴宿禰(おそらく、犬養という人物であろう)や、延暦七年(七八八)に同所と関わりのあ る少掾大伴宿禰国守らとの関係が推定される。また、中央における大伴氏は佐伯氏と同族関係にあるから、揖保郡においても両氏が同族意識で結ばれていたのではないだろうか。このような推測が妥当であるなら、「大伴」の墨書土 器が出土した地域は、奈良時代以降においても佐伯直氏らの勢力範囲であったと考えられる。

(後略 引用終わり)

 

空海の父方の佐伯直氏は、播磨の支流と見られています。

 

伊予来目部小楯は、播磨国司(針間国宰)であったことが伝わっていますが、

「山宿祢系図」で、播磨大目の磐麻呂の後が長く播磨に住んだことが分かります。

 

 

元の系図は、こちら↓をクリックすると見ることが出来ます。

 

 

『播磨国風土記』には、

「揖保郡を分けて宍禾郡とするとき山部比治の努力が大きかった。その功によって山部比治は里長となり里の名を『比治里』と名付けたとあり、

同じ郡の安師里も、山部三馬が里長であったので元々は「山守里」といったことが記載されています。

 

(山部比治は、揖保郡で発言力を持っていたのだろうか?)と

兵庫県の〝矢野神山〟と山部(久米)について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) を書きながら思っていましたので、少し何かが見えたような気がします。

 

山部比治と同じ時代に生きた人物に鎌足がいて、

鎌足の母が大伴氏で、父方の祖母が山部氏であることから、

当時は、“久米”も政治の中心の近くにいたことが想像されます。

 

そして、白村江の戦に向かう船が、木材の不足により、

適材適所で作られていなかったことに“久米の子ら”が大きな後悔を抱えていて、

空海にも伝わっていたような気がします。

 

 

上の系図は、天然痘と馬と大伴氏そして藤原道長 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で、大伴氏と他氏との血脈を理解しやすくするために制作したものです。

参考にした資料が「試案」であったり、 私の理解不足があったりで、

歴史上重要な縁組であっても省いたりしていますので、

正確なものではありません。