自然災害と「応天門の変」の関係についての考察(2)

 

応天門の変が起きた本当の理由は自然災害にあるのでは?と、私が疑う理由に、

紀夏井までが連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった、

ということがあります。

 

紀夏井は、「貞観7年(865年)には肥後守に任じ、ここでも領民に慕われた。」ということですが、西暦864867年に阿蘇山貞観噴火が起きています。

 

噴火で受けた被害からの救済と復興は重要な任務だったでしょうし、

領民にとって思いやりがある方法をとり成果があがったからこそ慕われ、

その評判は朝廷にも伝わっていたはずです。

 

それなのに、何故、

貞観8年(866年)の応天門の変の際、

首謀者の一人である紀豊城が異母弟であるという理由くらいで

流刑になったのでしょうか?

 

応天門の変 - Wikipedia にも書かれているように、

伴氏・紀氏の有力官人を排斥することが藤原良房の目的だったのかもしれません。

 

けれど、

処罰された中での一番の大物である伴善男が流されたのは伊豆ですから、

土佐とは黒潮で繋がっています。

操船が巧みな人々を味方に付ければ、連絡をとりあうことは可能だったはずです。

朝廷の目が届かない所で何か企てないか、

藤原良房は不安にならなかったのでしょうか。

 

この点については、

前回の自然災害と「応天門の変」の関係についての考察(1) | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) に追記した伊藤益氏著 『大伴家持の国家観 ―白鳳皇権政治への憧慣―』6 (2).pdf  12コマにあるように、

「家持の時代には、すで に大伴氏は皇室の支柱としての力を失っていた。いかに家持や 大伴氏の氏人たちが皇室の「内兵」たらんと欲しようとも、もはや大伴氏には軍事的伴造としての実質がともなわなかった」ために、

遠流によって息の根を止めることが出来ると判断した、ような気はします。

 

また、「伊豆と土佐が黒潮で繋がっている」とは思わないほうが、一般的でしょう。

 

けれど、

挽地 康彦 氏著『黒潮の遍歴者 : 近世伊豆諸島における漂流、流刑 、死霊祭祀の民族誌 現代人間紀要−見本Ah24★ (core.ac.uk)  にも書かれていますが、

土佐出身の「ジョンマン」こと中浜万次郎は、

乗り込んだ漁船が難破し、伊豆諸島に漂着しています。

 

 

そして、伊豆諸島に位置する神津島に座す阿波命神社と、

土佐国二宮と称される朝倉神社の主祭神とは、同じと見られています。

 

神津島村商工会のホームページjinnjya of New Site 2 (kozu-shokokai.or.jp)

阿波命神社の項には、次のように記されています。

(前略)

 江戸後期の国学者、平田篤胤の「古史伝」の伊豆白浜に鎮座する伊古奈比羊神社の項に、「事代主神はまた三島神社に座す、此の神の后に伊古奈比羊神と申す、また本后を阿波命神と申す、また阿羽羽(アハハ)命の神と言う、また阿波神と言う、また天津羽羽(アマツハハ)神という。

 この神は天石門別神の娘で、産みし子は五柱に坐す、その一柱の名は物忌奈神と申す、この神は伊豆の国に坐す神也」とあります。

 「続日本後記」の仁明紀の巻九、承和七年(八四〇年)の九月二十三日の条で、承和五年(八三八年)七月五日の神津島の噴火の記録の条の中に、「阿波神は三島大社の本后なり、五子相い生まる」とありますが、五柱の神は何処にお祀りしているのでしょうか。

(後略 引用終わり)

 

 

朝倉神社については朝倉神社 [高知県]-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com) に、

「天津羽羽神は古代より此処に鎮座するという国内でも稀な古社であり、後の世の遷座や分霊などではなく、極めて深い由緒を持ち、『土佐国風土記』や『日本書紀』などの古典にも載せられ、また『延喜式』神名帳にも国幣として登載された式内社であります。」

「『土佐国風土記(逸文)』によれば、天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子にとされ、朝倉郷の開拓神であると伝えられており、元々はこの神のみを奉斎したと考えられているそうです。」と書かれています。

 

 

天津羽羽神が産みし子の一柱である物忌奈神を祀る物忌奈命神社では、

八月二日に「かつお釣り神事」が若者たちにより奉納されているとのこと。

 

『高知カツオ県民会議のこれまでとこれから』L-A2.pdf (sustainableseafoodnow.com)

に「● 県内の縄文時代の遺跡である、中村貝塚からカツオの骨が出土  ● 奈良時代や平安時代には、土佐から朝廷に 献上(延喜式等) 」と記され、神津島と土佐との繋がりが感じられます。

 

ただし、中村貝塚は高知県西部にあり、朝倉神社は中部に立っていますし、

朝倉神社とカツオ漁との関係は不明です。

 

 

また、伴善男が流されたのは伊豆諸島ではなく伊豆半島ですので、

ジョンマンたちの漂流や、天津羽羽神だけなら、

伴善男と紀夏井が黒潮で繋がっていた、などとは申しません。

 

伴善男は、

死罪とされていたのが罪一等を許されたわりには待遇が良く、

流刑地は名湯で知られる静岡県伊豆市吉奈 でした。

 

<再発見!伊豆学講座>吉奈温泉 文人墨客ら湯治者多く:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp) によると、

「平安時代、勢力を固めていた藤原氏との権力抗争に敗れた伴(ともの)善男は、応天門の変で応天門を焼いた罪で吉奈に流された。伴善男は別称善名(よしな)善雄といい、吉奈の地名のもととなったという。当地に善名寺があるのも、その菩提(ぼだい)寺となったためという。善名寺に平安時代の仏餉鉢(ぶっしょうばち)があるのがその証拠となっている。」ということです。

 

富士山も見えて、新鮮な魚介類を食べることが出来る地です。

朝廷の争いから離れて余生を楽しむには最適でしょう。

 

紀夏井も、家族と会えない辛さはあったにせよ、

比較的自由に活動出来ていたようです。

 

 

土佐と伊豆の繋がりは、

大瀬神社(静岡県沼津市西浦江梨大瀬329)にも伝わっています。

 

大瀬海浜商業組合・大瀬神社 (osezaki.jp) には、

「創建時期は、白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して『琵琶島(びわじま)』と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われています。」とありますが、

冒頭には「駿河湾漁民の信仰の象徴である大瀬神社は、海の守護神として知られています。
船を新造する時には、必ずこの神社に参詣し、海上の安全を祈願したと言われています。」と記されています。

 

 

 

大瀬神社は、大瀬神社 (沼津市) (genbu.net) によると、

「現在は、式内社・引手力命神社として主張しているようで、

境内案内にも引手力命神社であると記載されている。」ということです。

 

 

ZENRINの地図にも「引手力命神社」と記載されています。

 

 

引手力命神社 - Wikipedia 「祭神」の項には、

「引手力命(ひきたぢからのみこと)

全国の主な式内社とされる神社でこの名前の神を祀るものは他に見られない。これを古事記や日本書紀にも登場する天手力雄(男)命に比定する説もあるが、一般に天手力雄(男)命が山の神とされているのに対して引手力命は海の守護の神であり、必ずしも定かではない。」とありますが、

私は、大伴氏の祖神である天手力雄を隠している可能性を感じています。

 

その理由は、

大伴氏 - Wikipedia の「平安時代中期以降」の項に、

「伊豆伴氏・・・平安時代後期に伊豆掾を歴任。伊豆権守(掾か?)・伴為房の娘は北条時政の母とされる。伴善男が伊豆国への配流後に儲けたとされる伴善魚に繋げる系図がある。」とあり、

大伴氏が伊豆に根を張ったことが分かるからです。

 

けれど、罪人として流されたからには、目立つのを控える必要があるのでしょう。

 

また、「駿河湾漁民の信仰の象徴」が大伴氏の祖神であるというのは、

駿河には大勢の帰化人がいたことから、

朝廷や幕府にとって穏やかでない状況だと思われます。

 

そして、特定の氏族が信仰する神でない方が、

駿河湾漁民の信仰の対象になりやすかったことでしょう。

 

 

『駿河湾の和船』7_04.pdf (shida.or.jp) には、

「駿河では、天智天皇二年(六六三)に出 陣した、百済救援のための日本軍の船が造 られました。日本軍は、朝鮮の白村江(はくすきのえ)で新羅・唐の連合軍と戦い大敗しましたが、この時の救援部隊の船団の将軍が廬原君臣(いほはらのきみおみ)と あることから軍団の船もかつて廬原国があ った清水市で建造されたことが推定されま す。当時の清水には朝鮮からたくさんの帰化人が移り住み、これらの人々が伝えた技術で駿河の造船が進歩を遂げたと考えられています。」

とあります。

 

漁民が誇りを持って生活するためには、良い船が必要です。

 

駿河に造船の優れた技術があったのなら難しくなかったのだろうと思いますが、

どうやら木材が不足していたようです。

 

松尾光氏著『山部と山守部』report2_03_yamabe.pdf (manyo.jp) 17コマから引用いたします。

(前略)

また斉明天皇元年九月条には命令による達成状況が不明で、また天平宝字三年九月壬午条のはたしかに全国で行なわれたようであるが、厳命にも拘わらず、じっさ いに建造されたのは三九四艘のみであった。『肥前国風土記』のは、 渡し船ていどであって、大船ではない。それらを除くと、ようする に外航にたえられるような大船の建造は、安芸国に下命されることがほとんどであった。のこりは東で近江・駿河、西で丹波・播磨・ 備中・周防のみであり、すくなくとも畿内地方には大船の建造史料 が見あたらない。

畿内地方で、いつから船材が確保できなくなったのか。それは不明であるが、推古天皇二十六年是年条で安芸国に下命していること からすれば、摂津・難波から出帆させる船であろうのに、すでにそのときには畿内での建造など考えられなかったのである。これは船大工・造船技術の欠如などでなく、船材の枯渇が原因だったとみるのが穏当である。

遣隋使船・遣唐使船はいかに外航用の大船といっても、その数は知れている。せいぜい二~四艘のことにすぎない。これがために材木の不足をきたし、山林保護や船材確保の手段を講じていったなど とは思わない。おそらくは四世紀末以来の朝鮮半島へのたびかさなる軍事進出、高句麗との平壌での会戦と敗北、百済・加羅への軍事援助と新羅との国境線をめぐる戦いのなかで、多くの軍船を建造するとともにまたその多くを消耗してきたのであろう。

(後略 引用終わり)


 

木材といえば、応天門の変 - Wikipedia によると、

87日に行われた善男に対する鞫問では善男は無罪を主張した。また、陰陽寮が応天門の火災は山陵が穢されたことにあると勘申を行い、14日になって実際に山陵を点検したところ山陵に人が立ち入って木々が伐採された跡が見つかったため、18日には応天門の火災は山陵を穢されたことに対する譴責と判断されて陵守の処分の方針が決定された。」とのことで、

木材の不足が招く深刻な事態は、伴善男にとっても他人事ではなかったはずです。


 

そして、伴善男に限らず、

木材の不足が原因となり、軍事を掌る氏族の大伴氏の力が衰えたと言えそうだ、と

田中正日子氏著『古代における自然の開発と信仰について』13[2.3]r1-r23 (1).pdf 12~14コマから思うに至りましたので、内容を掻い摘んでみます。

 

平城遷都のために必要な木材を確保するために

諸山の木を伐ることが禁じられていたが、

盛んに土木工事を行った斉明天皇は、材が「朽ち爛るる」状態で失 敗を重ねて人々の批判をうけている。

また六六三年の錦江下流での唐水軍との戦闘では、「旧唐書」に「其舟四百想を焚く、 煙と婚天に 漲り、海水皆赤し」という惨敗で、貴重な船を大量に失っている。 それは村人たちが「髄細相反れり」とか、「群って 西に向ひて巨坂を飛び輸ゆ」る異様さを、敗北を告げる神の予知とうけとめるしか納得のしようのない、信じがたい権力 者たちの敗戦であった。

斉明天皇は朝倉橋茂庭宮に崩 じたが、奇怪な伝承で『日本書紀」に語られている。

行宮の用材に朝倉神社の神木を伐ったので祟りがあったとか、喪列をのぞきみようとして大きな笠をつけた鬼があらわれ たので、人々は怪しんだと伝えている。

 

 

斉明天皇が崩 じた朝倉橋茂庭宮について、

朝倉橘広庭宮 - Wikipedia から引用します。

朝倉橘広庭宮の所在地は現在の福岡県朝倉市の地とされるが、具体的な場所は特定されていない。朝倉市大字須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられている。山田の恵蘇八幡宮にも「木の丸御所の地」の碑文がある。


高知県高知市朝倉丙にある朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている。また同社では、社殿背後に立つ「赤鬼山」が『日本書紀』に記述のある「鬼が天皇の喪の儀式を覗いていた山」であると伝えられる。

引用終わり。


 

天手力雄(男)と異名同神とみられる天石門別神の娘である天津羽羽神を

主祭神として祀る朝倉神社に、

斉明天皇が木を切った話が伝わっているのです。

常識的に考えれば、朝倉橘広庭宮は、朝鮮半島に近い福岡県朝倉市にあったと思われますので、高知市の方に話が伝わった理由が気になります。


まだ続きがあるのですが、容量を越えてしまい投稿できなかったので、

駿河湾における舟木氏と大伴氏との関わり | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) に続きます。