前回の飛鳥坐神社の鎮座地を起点にして学んだこと | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) を書いたことで、天地悠久様から、忌部山から久米御縣神社を伸ばしたライン上に当たるものについてのお問い合わせがありました。

そこで調べてみると、孝元天皇 劔池嶋上陵と繋っていることが分かりました。

 

 

何故か、「久米御縣神社」と「孝元天皇 劔池嶋上陵」が表示されていませんが、知ることが出来た経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入力すると、下のようなラインが見えてきました。

 

1,鳥坂神社、 奈良県橿原市鳥屋町17−1

34.47990300388439, 135.78415350170008

2,孝元天皇 劔池嶋上陵、〒634-0045 奈良県橿原市石川町 

34.48113243119384, 135.8032903158412

3,飛鳥坐神社、 奈良県高市郡明日香村飛鳥708

34.479716173213454, 135.82272970231526

4,マラ石、〒634-0121 奈良県高市郡明日香村祝戸1922

34.463203888734675, 135.82480364379623

5,忌部山、奈良県橿原市光陽町

34.486484800052, 135.77041029022618

6,久米御縣神社、 奈良県橿原市久米町786

34.483280130359674, 135.79008664039426

 

 

ちょうど、「久米」を連想してしまう名前の孝元天皇の身近な女性について調べていたところでしたので、私の想像の傍証になってくれるかもと思ったのですが、ポインターの先で繋がっていることが気になりました。

 

何故かというと、久米御縣神社が創建された時期には、まだ、綺麗なラインが引ける技術が日本に入っていなかったのでは?と感じたからなのですが、自分は久米御縣神社についての知識を持っていないことから、国立国会図書館デジタルで調べてみました。

 

すると、久米御縣神社は、橿原の遠祖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 122コマに、益田池開墾に際して移された旨が記されています。

(前略)

これは、人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁十三年(紀元千四百八十二年)に、農民の憂ひを救はんと、廣大な池を掘らしめられて、其の池の名は稻田を潤益するに足るといふ義をとり、益田池と稱せられたのでありますが、此の益田池開墾に際して、古への久米部落を南部の丘に移されたものと考へられます。久米川の西の方、松山の丘陵を俗に千塚と稱して、古墳累々として存するのは、往古に於ける久米部の氏族の墳墓かと思はれます。大字久米部落の氏神である久米御縣神社は、矢張り其の時移されたもので、今は久米寺に隣接して御鎮座になつてゐます。延喜式神名帳に、「久米御縣神三座」とあります。祭神は久米直の祖先の神魂命(かむたまのみこと)と大久米命と頭槌剣靈(かぶつちのつるぎのみたま)とを御祀りしたのが、此の神社の創始でありますが、今では道臣命(みちのおみのみこと)となつてゐるのは、鳥坂神社と同じく、其の質を失ったものであります。

(後略 引用終わり)

 

益田池は、神龍八大龍王神社と久米との関係についての推考 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) で少し書きましたが、空海が関わっていますので、何かを意図して忌部山―久米御縣神社―孝元天皇劔池嶋上陵と直線状に並ぶように久米御縣神社を移動させたということもありえそうな気がします。

 

けれど、引用文の最後に、「祭神は久米直の祖先の神魂命と大久米命と頭槌剣靈とを御祀りしたのが、此の神社の創始でありますが、今では道臣命となつてゐる」とあることに驚きました。


 

約3年前に『熱田宮旧記』の中の久米氏について | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) を書いたときに参考にした久米御県神社 (engishiki.org) には、次のように書かれています。

 

【祭神】高皇産霊命 大来目命 天櫛根命
「五郡神社記」『大和志料』神皇産霊神

 

なので、『橿原の遠祖』において、高皇産霊命ではなく、神皇産霊神と同神と言われている神魂命を祭神としていることについては初見ではなかったのですが、大伴氏の祖である道臣命を祀ったことが久米御縣神社の創始であると書かれていることに驚いたのです。

 

以前から度々引用している宝賀寿男氏著『大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門 (古代氏族の研究)』に載っている「大伴氏一族の系図(試案)」などによって、道臣命が大久米命と異名同人であるという説には馴染みがあるのですが。

 

そこで、昭15年に出版されている『橿原の遠祖』より前に著わされた書籍を探してみたところ、昭和9年発行の近畿名蹟全書 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) が見付かりましたので、28コマからの「久米御縣神社」の項を引用します。

久米寺の西南の傍にある小祠なれど、頗る古い社であつて、延喜式神名帳に記され、神皇産尊、大來目命、頭槌劍霊を祀りたる三座であるとされてゐるが、天神者と稱へられ、轉じて菅原天満宮などゝ誤られてゐる。

天孫瓊々杵尊が高天ヶ原に降臨し給ふや、天忍日命は來目部を率ゐて護衛し、其の子孫は禁衛の任に當り、日臣命即ち後の道臣命は神武天皇の東征に随行し、常に頭槌劍を佩びて、賊徒を掃倒して勲功顕著であった、されば神武天皇は、宅地を畝傍山の西南に賜ひ、其の後綏靖天皇の時に、道臣命の子の味耳命を、久米の縣主として、此の地に居らしめ、久米氏の祖となし、命は其の祖及び頭槌の寶剣を、此の處に祀りたるより、當社は起つてゐるとの説がある。

別項に記すところの、鳥坂神社には、大伴氏の祖神即ち久米部の祖神なりといふ神を、祀られてゐるが、當社即ち久米御縣神社にも、同様に祀られてゐるといふ。

当社は始め久米村の川邊に、祀られたるものにて、昔時は此處にあらずして、久米寺建立後に、其の鎮守として他より此處へ、遷されたものであるか、將た又當社は他の神社であつたのか、久米川の辺にありし久米御縣神社の名のみが、當社へ遷されたか不明である、今では當社を以て延喜式内の久米社としてゐる。

(後略 引用終わり)

 

著者の辰馬六郎氏は、近畿名蹟全書 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) の9コマで、専門の学者ではないが自ら実地を踏査したことを書かれています。

けれど、久米御縣神社の神職や氏子から聞いた話なのか、何かの本に書かれていることなのか、「久米御縣神社」の項を読むだけでは分かりません。

 

なので、神皇産霊神を祀る旨を記しているという『五郡神社記』『大和志料』を国立国会図書館デジタルで探したところ、両方見付けることが出来ました。

遠回りしてしまいましたが、漢文調で書かれているところが多く、歴史にたいする知識が少ない私にとっては、かえって良かったように思います。


『大和志料』の著者の齋藤清澄氏は、古事記・日本書紀に造詣深く、明治137月大和国大和神社に招かれて神職となり、県知事の委嘱をうけて大和史料の編纂に従事したことが、斎藤美澄 (soutairoku.com) テキスト / 大正時代 (adeac.jp) に書かれています。

 

国立国会図書館デジタルでは、出版時期が異なる3つの『大和志料』を見付けることが出来ました。

大和志料  下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 大正3年出版。

202コマに「久米」の項。217218コマに「久米御縣神社」

 

大和志料 下巻 改訂版 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 昭和21年出版

116コマに「久米」の項。134135コマに「久米御縣神社」

 

大和志料 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 1970出版

208コマに「久米」の項。223,224コマに「久米御縣神社」

 

大正3年出版の「久米」の項と「久米御縣神社」とをプリントアウトして他の版と比べてみましたが、基本的には同じでした。けれど、改訂版には、註と、()しての書き加えがありましたので、保護期間が満了している改訂版の画像に赤枠と緑枠を付けてみました。

 


 

 

昭和21年の時点、明細帳には、現在の久米御縣神社で示されている祭神と同じく、「高皇産霊命 大来目命 天櫛根命」と記されているのですね。

 

大和国大和神社神職が県知事の委嘱をうけて編纂した書物に記載されていることが、明細帳とは異なっている理由を調べたのですが、よく分かりません。

 

それだけでなく、「祭神は久米直の祖先の神魂命(かむたまのみこと)と大久米命と頭槌剣靈(かぶつちのつるぎのみたま)とを御祀りしたのが、此の神社の創始であります」とする『橿原の遠祖』の著者の菟田茂丸氏は、書籍『橿原の遠祖』のご紹介 – 橿原神宮 (kashiharajingu.or.jp) によると、

大正7年~昭和6年の12年間と昭和12年~昭和17年の4年間の計16年間宮司を務め、橿原神宮の発展のために貢献しました。」

とのことです。かなりの発言力を持っていたような気がするのですが。


 

とりあえず、神社明細帳(じんじやめいさいちよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) から一部引用します。

神社明細帳(じんじやめいさいちよう)

千葉県庁編

原本 千葉県文書館

解説 明治政府の神社政策の一環で府県の社寺課に備えるものとされた明細帳。記載様式は明治一二年内務省より定められ、大正二年には新たな通達があるが、千葉県では明治二七年・大正二年のほか昭和一四年など数次にわたる加除修正が施されている。同じく千葉県文書館に寺院明細帳が所蔵され、明治三二年・大正四年・昭和一五年などの加除修正がある。

(引用終わり)

 

余談ですが、社寺局 - Wikipedia の「歴代局長」の項に

 
・(心得)久米金弥:1897年(明治30年)513- 830
久米金弥:1897年(明治30年)830- 1898年(明治31年)1024

とあります。

久米邦武氏と関わりはあったのでしょうか。


 

神皇産霊神を祀る旨を記しているもう一つの書『五郡神社記(和州五郡神社神名帳大略注解)』は、『神祇全書』におさめられています。

神祇全書 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 315コマ

神祇全書 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 316コマ

 

漢文調ですし、どのように紹介しようかと試案していたところ姓氏家系大辞典 第2- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 173コマ(2158ページ)の「6久米縣主」を見付けましたので引用します。※読みやすくするために、改行しました。

延喜式、大和國高市郡に「久米御縣神社三座」あり。

大和志に「久米村にあり、今天神と稱す」と見ゆ。

蓋し此の地方は、久米部條に見ゆる如く、神武天皇朝、久米部を置きし地なるが、此の趾を久米御縣とあるを見れば、當時、久米縣と云ひ、久米氏其の主なりしか。

而して、後に高市郡に併合せられしならん。

當社の事、五郡神社記に

「久米御縣坐神社は、久米郷久米村川透に在り、社家は久米直。

説に日ふ、久米御縣社三座、第一は神皇産霊尊、第二は天櫛津大來自命(神皇産霊尊の子也)、第三は大來目頭槌剣神也。

神武天皇・大久目の武部を畝傍山の以西川辺の地に居らしめ、其の地を号けて、來目郷と云ふ。

綏靖天皇の御世に及び、男味耳命に勅して、來目縣主と定む。

此の時に當り、味耳命・幣倉を来目に造り、先づ御祖の彦神を祭り奉る。

爰に到り、先考(道臣命を謂ふ)武部の帶ぶる所の頭槌の剣を之に祭りて、神と爲す。

日本書紀、新撰姓氏錄、本系帳等に載せたり」と見ゆ、信じ難きも、参考の爲に掲ぐるのみ。

(引用終わり)

 

宝賀寿男氏も信じていないようで、『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の55ページには、次のように書かれています。

(前略)

大伴・久米両氏共通の先祖で、その子の世代に二系統に分かれる祖が味耳命であって、この者が まさに久米氏の祖として『姓氏録』左京神別・久米直の記事に見えている。味耳命は、大伴氏のほうの系図では「大日命」に対応しており、崇神前代の人々のなかで唯一「大」が冠される者であって、『古屋家家譜』でもこの者から譜註記事が始まる。これが、前掲のように孝昭天皇朝のことであった。なお、味耳命については、『和州五郡神社神名帳』では巻四に社家久米直の伝説として、綏靖 朝の人で大来目武部の子とすることを伝えるが、同書は後世の偽書であり、記事は信頼するに当たらない。道臣命の子に「味日命」が大伴氏の系図に見えて、この味日命と味耳命とが混同された可能性もあろう。

(後略 引用終わり)

 

そして、五郡神社記を書いたとされる「宮道君」の人物についての詳細と、五郡神社記が書かれた時代が室町時代とする... | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp) の「回答プロセス」の項には、次のように書かれています。

『大和志料 下巻』奈良県教育会編纂

p416「牟佐坐神社」「社職」に「宮道君」の記載あり。「永享文安の際禰宜(ねぎ)散位正六位上宮道述之(のぶゆき)あり、即ち、五郡神社記の作者なり」と記載されている。(「永享」1429年から1441年まで「文安」1444年から1449年まで=室町時代)

しかし、『姓氏家系大辞典 第3巻』p5943『宮道』の「3 大和の宮道君」では、上記の記述が引用されているが、最後に(恐らくは非か。)と書かれている。

両資料ともしっかりした資料であるので、説の対立の可能性がある。

(引用終わり)

 

本当に偽書であるならば、記事の全てが信用できないのかもしれませんが、『神祇全書』の同じページに、牟佐神社、大伴神社、久米神社の項が並んであることが私は気になりました。

 

おまけに、姓氏家系大辞典 第3- 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 942コマ(p5943)を見ると、『宮道』の項の右側には、阿波国の久米である「宮任」について書かれています。

 


 

これは偶然だと思ったのですが、畝傍山(頂上広場)、久米御縣神社、牟佐坐神社が直線状に並んでいます。

興味を持たれた方は、定規などで確かめてみて下さい。

 

『大和志料』の著者が神職を務めた大和国大和神社と、鳥坂神社との位置も見てみましたが、石上神宮と直線状に並んでいます。

p l
 

石上神宮といえば物部氏の総氏神ですが、『大和志料』では「大來目武部」の「武部」に「モノノベ」とルビを振っています。これは、『神祇全書』におさめられている『五郡神社記(和州五郡神社神名帳大略注解)』には見られません。

このことには、何か意味があるのでしょうか。

 

畝傍山―久米御縣神社―牟佐坐神社のラインからは高市 許梅(たけち の こめ)を連想してしまいました。

河俣神社 (engishiki.org) から、【日本書紀】の項をお借りします。

天武天皇元年7月条に、壬申の乱(672年)において大伴吹負を中心とする大海人皇子軍が飛鳥古京を制したころ、 高市縣主(たけちのあがたぬし許梅 こめ)が急に言葉が喋れなくなり、三日の後に神憑かりになって、「吾は高市社(たけちのやしろ)に居る、名は事代主神。又、牟狭社(むさのやしろ。式内大社、牟佐坐神社。橿原市見瀬町)に居る、名は生霊神(いくたまのかみ)なり」「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと、神武天皇)の陵(みささぎ)に馬及び種々(くさぐさ)の兵器(つはもの)を奉れ」「吾は皇御孫命(すめみまのみこと)の前後(みさきあと)に立ちて、不破に送り奉りて還りき。今且(また)官軍(みいくさ)の中に立ちて守護(まも)りまつる」「西道(にしのみち)より軍衆(いくさびと)将に至りなむとす。宜しく慎むべし」と言って目覚めた、という記事がある

(引用終わり)

 

高市縣主(たけちのあがたぬし)許梅(こめ)は、もしかしたら、久米の女性の血を引く人物なのでは?と妄想してしまいました。

実は、拙稿の最初の方で書いた「久米」を連想してしまう孝元天皇の身近な女性名前とは、「こめ」なのです。

 

『五郡神社記』などを国立国会図書館デジタルで見つけたことを記事にしてアップしておかないと、この女性たちのことを書けないと思ったのですが、おかげで、高市縣主許梅と出会うことが出来ました。

 

今回、橿原市史. 本編 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) の「各説1」のpdfを見付けましたので、メモしておきます。

牟佐坐神社76コマ、烏坂神社 83コマ、久米御縣神社99コマです。

市史/橿原市公式ホームページ (city.kashihara.nara.jp) からもダウンロードできます。