今回は、前回の 

八腹という名前から見る和旺氏と久米の関係 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)[2021/04/29 追記]でお知らせしましたように、

太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第二巻「久米」の項における

熱田宮旧記』に関する記事をご紹介致します。

 

 

が、その前に、

熱田宮旧記 (あつたぐうきゅうき)- 貴重和本デジタルライブラリー (aichi-pref-library.jp)  のPDF37コマから、

氷上社家について書かれているのを見ることが出来ますので、お知らせ致します。

 

インターネット上には公開されていないと思い込んでいましたし、

とても読みやすい文字で記されていますので、

37コマに「氷上社家 來目長稻系」とあるのを見つけ、

感動しながら読み始めたのですが、直ぐに驚くことがありました。

 

天槵津大來目」ではなく、「津大來目」と記されています。

 

ではなく、になっているのです。

 

内容の説明に「巻頭の『平秋家蔵』は『千秋家蔵』の誤り」とあるように、

出だしから書き間違えていますので、単なるミスなのかもしれません。

 

 

そう思いながらも気になったので調べてみると、

久米御県神社 (engishiki.org) の「久米御縣神社三座 神社覈録」には、

「祭神天穂津大來目命歟」と記されています。

 

『神社覈録』は、国立国会図書館デジタルコレクションでも見ることが出来ますが、

それでは「天槵津大來目」となっています。

 

 

 

けれど、

本地垂迹資料便覧 (dti.ne.jp) という

霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口)についてのページの

「『三国名勝図会』巻之三十四 西御在所霧島六所権現社」には、

天子明神社 本社の末にて、本社の西一里許にあり。 田口村に属す。 祭神蛭児命、天忍日命、天穂津大来目命の三坐なり。」とあり、

国立国会図書館デジタルコレクションで確認したところ、

確かに「天穂津大来目命」と記されています。

 

 

 

ということで、単に槵を穂と間違えたのではなく、

誰かが何かを意図して「天穂津大来目」と伝えたのかもしれないので、

拙ブログに書き残しておきます。

 

 

熱田宮旧記』は、

太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第二巻でも読むことが出来ます。

 

こちらでは「天津大來目」と記されています。

 

手元に『姓氏家系大辞典』第二巻の9版の久米の項だけのコピーがありますので、

尾張の久米氏 の部分だけを活字にしてみました。(以下、転載)

 

 

尾張の久米氏

熱田縁記に「尾張氏の祖・稲種公の傔從・久米八腹」なるもの見ゆ。第二項の七掬脛 の族人か。

氷上姉子 神社預久米氏は此の後にして、熱田宮旧記に

「來目、社家、來目長 図(元祖)

津大來目 (天孫降臨の時、先駈と云々)。

久米直七拳 (大來目十世)

久米八甕日本武尊 ・東征の時、久米直七拳 ・ 恒に膳夫と為り、以って從ひ仕へ奉る。 古事記に見えたり。久米直七拳は久米八甕と父子とも云ひ、或ひは兄弟と云 ふ)。

來目長 (氷上宮の社務元組也。これに依り、霊社を祭り、長社と號す)

常見 (海部姓十五世)。

乎幾與(尾張姓に改む)

長昌(三十一世、旧姓來目に復す)

吉長 (四十二世)

清長 (四十二世清長より四代吉長と名乗る)

來目長 。」と載せ、

 

又 尾張志に

「來目直氏。氷上神社の祠官也。

景行天皇の御宇、天津天來目命の十世 來目直七挙脛、日本武尊に仕へまつり、 其の子久米八甕が裔來目長・はじめて 氷上社務にあづかりたり。

其の霊を祭りて長社といへり。

此の長が末裔・常見の代に、海部姓に改めたるを、

其の孫乎幾與 、又尾張姓に改む。

其の後、長昌の代 に、來目姓に復したり。

已後、連綿相承 して今に至れり、」と見ゆ。

 

又海東郡津島村久米齊宮、又知多郡大高村久米氏を率げ、

中世吉清なる者、氷上姉子神社の社務職たり。

「文明九年、來目 宮内海部直宗長」と奥書ある氷上社々務 職來目氏系譜に

「天津大來目十世の孫 來目長之を久米氏の祖とす。

宮簀媛命に仕ふ。

九世の孫刀縫に至り嗣なし、

海部 直多與志連の孫常見を、養女に配し、家を継がしむ。

之より海部姓となる。

常見 四世の孫望世・嗣なし、尾張宿祢乎己志 の子乎幾與を養ひて子となし、

其の四世 公雄云々」と見ゆ。(転載終わり)

 

読みやすくするために、改行させて頂きました。

古い字が多くて難しいうえに、

私が間違って読み取っている可能性もありますので、

ご自分で確認されることをお勧め致します。

 

 

『姓氏家系大辞典』は、

前回ご紹介した『久米一族の系譜(義光流と異流の諸氏族) 今泉宏 発行 日本系譜出版会  よりも、

熱田宮旧記 (あつたぐうきゅうき)- 貴重和本デジタルライブラリー (aichi-pref-library.jp)  の内容に近く書き写されているような印象があります。

 

たとえば、『久米一族の系譜(義光流と異流の諸氏族)』の方は、

久米直七拳脛が2人存在していたかのような書き方になっています。

 

 

上でご紹介した

熱田宮旧記 (あつたぐうきゅうき)- 貴重和本デジタルライブラリー (aichi-pref-library.jp)  のPDF37コマでは、

このようになっています。

 

 

 

もしかしたら、写本が幾つかあって、それを忠実に

『久米一族の系譜(義光流と異流の諸氏族)』は記録したのかもしれません。

 

 

話が少し逸れますが、

古事記をそのまま読む《30》 (himiko-y.com)

《火上姉子と美夜受比売》と題する興味深い考察がありますので、

転載させて頂きます。

 ※氷上姉子神社は、『延喜式』神名帳には「火上姉子神社」と見えているとのこと。

 

(以下転載)

 「あねこ」の「こ」は親愛を表す接尾語で、「卑弥呼」(ひめ+こ)に通じると見られる。卑弥呼と同様に一般名詞「あね」に「こ」をつけた俗称で呼ばれていたものが、 固有名詞になっていったのだろう。 記〔712〕では美夜受比売自身が「尾張国造之祖」だから、「ひかみあねこ」はもともと古代の女性首長とされた。 それが書紀〔720〕では「尾張氏之女」に格下げとなり、国造本紀〔9世紀〕では小止与命が初代国造となって名前が消える。

 ただ、「みやずひめ」と「ひかみあねこ」は、本当に同一人物であろうか。 みやずひめの由来を推定すると、熱田の宮の前の中州=「みやす(宮洲)」に因んだかも知れない。だから、「ひかみ邑のあねこ」に対して「あつた邑のみやずひめ」という、ローカルな神がそれぞれ祀られていたと考えることもできる。

 しかし、「あねこ」に地名「ひかみ」がつくことが注目される。名前に出身地をつけるのは、広い範囲の崇拝者によると考えられる。 だから、火上姉子は「尾張国造之祖」美夜受比売と同一人物としてであったと考えた方が、やはり自然である。 古代には、女王が氏族を統率することは一般的であったとも考えられている。

 草薙の剣の伝説には、一般的に族長が宝剣を祭るところに原型があったのかも知れない。そして、火上氏族が大切に祭っていた剣を、 拠点を熱田に移るときに剣を持って行った。そして愛智郡ないし尾張国全体の支配権を得て、首長墓として白鳥古墳や断夫山古墳が熱田の地に残されたという筋書きが考えられる。

(転載終わり)

 

 

拝読し、「ひかみあねこ」の重要性を強く感じたのですが、

何故、久米八甕の子孫が氷上社務にあづかったのか、

という疑問も増してきました。

 

単純に考えると、

宮簀媛命(みやすひめのみこと/みやずひめのみこと)から厚い信頼を受けていた、

ということになるのでしょうが。

 

そして、どこかの時点で、尾張国造と來目は婚姻関係を結んだのかも、と、

來目海部→尾張→來目の流れを見ながら想像しています。

 

 

次回は、「久米宿祢の系図」について見る予定です。