今回は、

東漢氏と〝久米〟との関係について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)

の続きです。

 

《お詫び》

先に「八腹という人物について」というタイトルでアップしていましたが、

一部内容を変更し、再アップ致しました。

 

『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条に

「乃勅遣臣八腹氏」という記載があるのですが、この人物が、

ヤマトタケルに建稲種命の水死を報告した久米八腹と同じかどうか見ていきます。

 

 

『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条の読み下し文は、

文忌寸馬養 (fc2.com) に見つけることができましたので、

引用させて頂きます。

 

(以下引用)

右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麿ら表を上りて言さく、「臣らは、本是れ後漢霊帝の曾孫阿智王の後なり。漢の祚、魏に遷れるとき、阿智王、神牛の教に因りて、出でて帯方に行きて忽ち宝帯の瑞を得たり。その像宮城に似たり。爰に国邑を建ててその人庶を育ふ。後、父兄を召して告げて曰はく、「吾聞かくは、『東国に聖主有り』ときく。何ぞ帰従はざらむ。若し久しく此の処に居まば、恐るらくは覆滅せられむ」といへり。即ち母弟廷興徳と七姓の民を携れて、化に帰ひて来朝せり。是れ則ち誉田天皇の天下治めしし御世なり。是に阿智王奏して請ひて曰はく、「臣が旧居は帯方に在り。人民の男女皆才藝有り。近者、百済・高麗の間に寓めり。心に猶豫を懐きて未だ去就を知らず。伏して願はくは、天恩、使を遣して、追召さしめたまへ」といへり。乃ち勅して、臣八腹氏を遣して、分頭して発遣せしむ。その人の男女、落を挙りて使に随ひて尽く来たりて、永く公民と為り。年を積み代を累ねて今に至れり。今諸国に在る漢人も亦是れその後なり。臣苅田麻呂ら、先祖の王族を失ひて、下人の卑姓を蒙れり。望み請はくは、忌寸を改めて宿禰の姓を蒙り賜はらむことを。伏して願はくは、天恩矜察して、儻し聖聴を垂れたまはば、所謂寒灰更煖になり、枯樹復栄るならむ。臣苅田麻呂ら、至望の誠に勝へず、輙ち表を奉りて聞す」とまうす。

 

詔して、これを許したまふ。坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口等の忌寸十姓一十六人に姓宿禰を賜ふ。

(引用終わり)

 

簡単にいえば、

坂上苅田麻呂 - Wikipedia に書かれているように、

「一族は後漢の霊帝の子孫であるにもかかわらず卑姓を帯びていることを理由に改姓を上表し許され、一族の1116名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓する(嫡流の坂上氏は大宿禰)。」という内容です。

 

 

坂上苅田麻呂の上表について、理解しやすく伝えてくれるものに、

穴織宮伊居神社(大阪府池田市綾羽町2丁目4-5)の栞があります。

 

穴織宮伊居太神社 (norichan.jp) に全文載せて下さっていますので、

「八腹氏」が関わる部分だけを引用させて頂きます。

 

(前略)

阿知使主は当時の日本の文化程度が非常に低いのを見て

『帯方という国には男女共に才芸の優れたものが多く、

最近では高麗、百済(北朝鮮)の辺りを流浪し、不安な毎日を送っています。

これらのものたちを使いを出して日本に呼び寄せていただきたい。』と

天皇に懇願したので、

天皇は早速八腹氏に命じて迎えにやられ、

連れ帰って日本の国民にされた(日本に今残る漢氏の先祖である)。

(後略)

 

 ※読みやすくするために、改行させて頂きました。

 

 

応神天皇から帯方へと派遣された「八腹」に該当しそうな人物が、

久米八腹以外にいないのか調べてみると、

米餅搗大使主 - Wikipedia

「子:八腹木事臣(大宅朝臣祖)」とありました。

 

「(米餅搗大使主の)父は三韓征伐や忍熊王討伐に参加し、両面宿儺を平定したとされる難波根子建振熊命。

応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承がある。」ともありますので、

八腹木事臣は応神天皇に朝鮮半島に派遣されるのに相応しい人物なのでしょう。

 

(これで、「乃勅遣臣八腹氏」が久米八腹である可能性は低くなった)

と思ったのですが、

米餅搗大使主の子孫の中に、大和国の久米臣がいるとのこと。

 

新撰姓氏録 (eonet.ne.jp) に、

「久米臣 柿本同祖天足彦国忍人命五世孫大難波命の後 大和国皇別」

「柿本朝臣 大春日朝臣同祖、天足彦国押人命の後 大和国皇別」

「布留宿祢 柿本朝臣同祖、米餅搗大使主の後 大和国皇別」

といった記載があり、

大難波命」の解説は 武振熊 - Wikipedia にあります。

「考証」の項によると、

「(前略)富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)の大宮司家(富士氏)系図では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では曾祖父を彦国葺、祖父を大口納、父を大難波宿禰とし、『新撰姓氏録』真野臣条に見える「難波宿禰」の位置に大難波宿禰と難波根子建振熊の2代をあてる。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。(後略)」ということです。

 

 

大和国の久米について、

宝賀寿男氏著『大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門 (古代氏族の研究)

135ページに、

久米氏族は大和国高市郡の久米の地では早い時期に消えた模様であり、久米舞には大伴・佐伯両 氏が関与したが、久米氏の関与が見えない。その跡の地には和旺臣系や蘇我臣の支族が入って、居地の名に因り共に異なる系統の久米臣を出した。 」とあります。

米餅搗大使主は、和旺氏の祖なのだそうです。

 

142ページには、

大和では中世・戦国期の国人をあげる『国民郷士記』に天津久米命の後裔という久米氏が見えるから、在地では戦国期まで血脈が細々と続いていたようである。」と記されています。

大和では、

高市郡以外の場所に天津久米命の後裔は暮らしていたということなのでしょうか。

 

和旺臣系の久米臣と、天津久米命の後裔は、

全く関係が無いかのように書かれていますが、

なにがしかの繋がりがあるような気が私はするのです。

 

 

武振熊 - Wikipedia には、

「(前略)また籠神社(京都府宮津市)に伝わる「海部氏系図」では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に「健振熊宿禰」という名称が存在し、その分注では品田天皇(応神天皇)の時に健振熊宿禰が「海部直」を賜り国造として仕えた旨が記載されている。武振熊の名が系譜に持ち出された理由は詳らかでないが、この武振熊の記載の存在から、4世紀末のヤマト王権中枢の変遷(佐紀から河内への移動)やその頃の丹後勢力の衰退を伴う内乱に海部氏が関与した可能性が指摘される。(後略)」とあり、

 

氷上姉子神社 - Wikipedia には、

「(前略)氷上姉子神社の神職について、『熱田宮縁記』では海部氏とし、これを尾張氏同族とする。一方で系図によれば、日本武尊従者の来目長が神主となり以後は来目氏(久米氏)が担ったが、九世孫の時に海部氏から養子が入って海部直(海部氏)に改姓、のち長昌の代(鎌倉時代後期頃)で久米氏に復姓したとする。(後略)」と記されています。

 

「来目長」という表記は、

「尾張氷上祝供奉」と書き添えられた八甕命の子孫が記された

久米宿祢の系図には見えません。

 

 

 

けれど、『久米一族の系譜(義光流と異流の諸氏族)』今泉宏 発行 日本系譜出版会 | 』には、次のように記されています。(以下、転載)

 

尾張国

 当国の久米氏は『熱田縁記』『熱田宮旧記』『尾張志』などに由緒の事があるので、再録するが、久米直姓の後裔ではないかといわれている。

 來目長(社家、元祖)

 天津大來目(元祖)

 久米直七拳脛(大來目十世

 久米八甕(日本武尊が東征の時、久米直七挙脛は膳夫と為って従う。古事記・景行段)

 久米直七拳脛(右者と父子、あるいは兄弟とも)

 來目長(氷上宮社務元祖)

 常見(海部姓十五世)

 乎幾與(尾張姓に改める)

 長昌(三十一世、旧姓來目にもどる)

 吉長(四十二世)

 清長(これより四代吉長を称す、以上旧記)

 右の一族は來目(久米) ―海部―尾張—來目姓へと変っているが、その辺の事情は『尾張志』に詳しい。

 來目直氏は氷上神社の祠官である。景行天皇の御宇に天津天來目命の十世、來目直七拳脛は日本武尊に仕える。その子久米八の裔、來目長ははじめて水上社務をあずかる。その霊を祭って長社という。その末裔常見の代に海部姓に改めたが、その後長昌の代に再び來目姓になり、以後連綿と続いている、とある。

(転載終わり)

 

[2021/04/29 追記]
太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第二巻の久米の項に、
『熱田宮旧記』について
『久米一族の系譜(義光流と異流の諸氏族)』とは
異なる記載がありましたので、
次回、記事に致します。    追記終わり

 

 

[2021/05/01 追記]

アップしました。

追記終わり。


 

これらのことから、

「氷上姉子神社の神職の久米氏に養子に入ったのは、

籠神社の海部氏」と思ってしまうのですが、

直接的に書かれたものは、今まで見たことがありません。

 

 

また、宝賀寿男氏は、

『国宝「海部氏系図」への疑問』wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/amabe/amabe-k1.htm で、

「海部氏が尾張連支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張連の始祖たる高倉下(天香語山命)を書き込まない本系図は、いったいどこに意味があるのだろうか。」

と述べられています。

 

 

ただ、籠神社と久米の繋がりは強いものであっただろうと、

神龍八大龍王神社の伝承から推察する八木氏との繋がり | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)  にも載せた下の地図からも感じています。

 

 

1、八木神社(新潟県三条市大字北五百川37)

2、新潟県柏崎市久米

3、久米田神社(福井県坂井市丸岡町上 久米田1-1)

4、籠神社(京都府宮津市大垣小字諸岡86

でポインターを付けています。

 

2021/07/18 追記】

「いつもNAVI 」などでは、

久米田神社は福井県坂井市丸岡町上久米田1−1 」とありますが、

久米田神社(福井県坂井市)の企業詳細 - 全国法人リスト (houjin.jp) には、

「福井県坂井市丸岡町下久米田11番地 」と記載されていますので、

修正致します。(追記終わり)

 

 

珍彦命の子孫である八木氏と尾張連、

そしては和旺氏は、宝賀氏が作成された系図によると、

同族ということになります。

 

足立倫行氏著『血脈の日本古代史』には、

宝賀寿男氏が作成した系図(神武王統、息長氏一族、神功皇后の関連

一部に推定を含む)が掲載されています。

 

そのうちの<神武王統―神武から崇神まで>を転載させて頂きます。

 

 

 

 

青い線と文字は私が書き加えたものです。

 「尾張連、掃部連祖」は、

<神武王統―神武から崇神まで>の系図①の方には

高倉下命に添え書きされていましたので、

宝賀氏のお考えを私が理解しやすくするために足しました。

 

『和邇氏族概観 』は、

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/wani1g.htm で読むことができます。

 

 

籠神社 は、

伊勢神宮に奉られる天照大神、豊受大神がこの地から伊勢に移されたという故事から元伊勢と呼ばれる古社です。

 

伊勢神宮は、

『中臣氏族概観』

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/nakatomig.htm によると、

大宮司家大中臣朝臣姓の 一門(御食子流) が、

祭主家二門(国子流) が務めていますが、

御食子と国子の母である那爾毛古娘 は、伊予来目部小楯 の孫です。

そして、 久米直七拳脛の子孫なのです。

 

 

久米の血縁の大まかなものは、こちら↓に載せてあります。

 

 

 

御食子と国子は、何かを母から受け継いでいるはずなのです。

それが、もしかすると、

他の中臣の家とは大きく違ってしまう一因になったのでは?

というようなことを想像しています。