「波多門部造」から想像される久米の歴史5
前回の聖武天皇と久米の関係 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で、
藤原百川の外祖父である久米奈保麻呂が、
宝賀寿男氏のご研究で「系統不明」とされていることをご紹介しました。
久米直 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト (kokugakuin.ac.jp) によると、
「(前略)8世紀にみられる久米連は、神亀元年(724)に久米奈保麻呂が久米連を賜ったことに始まる。同時に賜姓された氏族はいずれも渡来系であり、『新撰姓氏録』河内諸蕃に佐々良連の始祖として「久米都彦」とあることから、百済系渡来氏族の可能性が指摘されている。(後略)」のだそうです。
神亀元年といえば、
聖武天皇が皇位を継がれた年ですが、
聖武天皇と久米の関係 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)
で調べた事柄と何か関係するのでしょうか。
『新撰姓氏録』については、
新撰姓氏録|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 (japanknowledge.com) に
佐伯有清氏による3つの解説が載っていますので、
一番短いものを以下に引用させて頂きます。
古代日本の氏族の系譜書。30巻と目録1巻。815年(弘仁6)7月に成立。本書の編纂は,799年(延暦18)12月の本系帳の提出命令に端を発し,諸氏族が提出した本系帳にもとづいて万多(まんだ)親王らがまとめあげた。収録氏族の数は,京畿内の1182氏。皇別(天皇家から分かれた氏族),神別(神々から分かれた氏族),諸蕃(渡来系の氏族)に分類し,当時の氏族の優劣にもとづいて配列されている。本書編纂の意図は出自の明確化と冒名冒蔭の防止にあった。古代史料として重要。現存は抄録本で《群書類従》,佐伯有清《新撰姓氏録の研究本文篇》に所収されている。 (引用終わり)
『新撰姓氏録』の編纂は、
桓武天皇の治世である799年(延暦18)に、
本系帳の提出命令に端を発したということなのですね。
菅澤庸子氏著の「『新撰姓氏録』における姓意識と渡来系氏族」によると
0030_058_018.pdf (kyoto-wu.ac.jp)
「(前略)天武天皇の時に『古事記』『日本書紀』の編纂事業の基礎がはじまり、仲麻呂政権時に『 続日本紀』の編纂が完成を目しておこなわれ、桓武天皇の時に『続日本紀』が完成し、嵯峨天皇の時に『日本後紀』の編纂が進んでいたこと 完成は仁明朝の承和七年)を鑑みるに、それぞれの時期に歴史書の編纂を行っていたというのも、ひとつの時代が幕をとじ現在あらたな時代を構築しようとしている時代意識を有していたことの現れとみることができよう。(後略)」とのことです。
菅澤氏は、「(前略)彼らの奏上の内容の真偽は別として、大化前代に朝鮮に帰化した日本人の例は『日本書紀』に幾つかみとめられる。そして神亀元年(七二四)年二月四日の詔によって官職を有する渡来系氏族にカバネ秩序組み入れを目した賜姓がなされた際に、吉田連の祖の吉宜らと同じ日付で賜姓された物部用善、久米奈保麻呂らは、明らかな朝鮮帰化の日系氏族帰国者と思われる。彼らは他の百済減亡時の亡命渡来人とともに、官職により供奉をしてきた「韓人ども」(『続日本紀』神亀元年二月四日条詔)として、詔でその貢献を賞されて賜姓された。」
とも書かれています。
桓武天皇の母・高野新笠は、高野新笠 - Wikipedia によると、
「父方の和氏は『続日本紀』では百済武寧王の子孫とされている」ということですが、
武寧王 - Wikipedia によると、
「桓武天皇の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、武寧王の没年(523年)および純陁太子の没年(513年?)と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため、疑問視する学説もある」とのことです。
それはともかく、私にとって気になるのは
桓武天皇の諱が「山部」で、皇太子とされた影には、
藤原百川(母は久米若女)による擁立があったとされることです。
桓武天皇 - Wikipedia (yahoofs.jp) には、次のように書かれています。
当時の皇子女の諱は乳母の氏名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される(佐伯、『新撰姓氏録の研究』)(引用終わり)
桓武天皇は私が調べた範囲では、藤原の血が入っていないようです。
ということは、山部の血が入っていない可能性も高そうです。
だからこそ、「山部」を乳母にしたということなのでしょうか?
※上に貼った系図は、
系図 (asahi-net.or.jp) を基にして、
天皇家と久米と大伴の関係 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) にも紹介した
宝賀寿男氏の著書とウィキペディアからコピペさせて頂いて制作したものです。
天皇家と、久米若女と藤原宇合の子孫との関係を見るのが主な目的なので、
他の氏族との縁組は、歴史的には重要であっても
スペースと私の能力の都合により省略しています。
間違いに気づいたりした場合には修正していく予定です。
嵯峨天皇の乳母・太秦公忌寸浜刀自女の場合は、
彼女の出身地である伊予国神野郡から
賀美能(神野)親王と命名がされたそうです。
嵯峨天皇の異母兄には伊予親王(母は藤原吉子)もいますので、
桓武天皇が自分の諱・山部と縁が深い伊予に拘っていることが想像されます。
桓武天皇と藤原旅子との間に生まれた
淳和天皇の諱は大伴です。
旅子の息子が大伴だなんて、
大伴旅人を連想してしまいますよね。
こちら↓では興味深い仮説を立てていらっしゃいます。
以下、一部を引用させて頂きます。
大伴氏筆頭の家持の父、大納言・従二位という政府高官「大伴“旅”人」と偶然にも似ている名前を持った無位の「藤原“旅”子」が、大納言の息子で中納言・従三位の大伴家持が冤罪で処分された直後に、その家持と同格の従三位まで昇格し、天皇の夫人に任ぜられ、そして生まれた皇子が「大伴親王」であったのです。
私には偶然とは思えません・・・。(中略)
大伴親王が大伴氏と関係があるか否かにかかわらず天皇が一氏族にそこまで気を遣う必要があったはずはない、と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、ヒステリックなまでにタタリに怯え続けた桓武天皇だからこそ、私は“規格外”と考えております。桓武天皇の心を“忌の際(いまわのきわ)”に至るまで苦しませたのは何であったでしょうか。桓武天皇が断末魔最後に残した遺言が大伴家持らを復権させることであったことは無視するわけにいかないと思います。(後略 引用終わり)
桓武天皇の亡くなった年に留学から帰国した空海を、
大伴氏(大伴連)の後裔とする系図が存在しています。
もしかしたら、このことも何か関係しているのでしょうか。