「波多門部造」から想像される久米の歴史12

 

前回の(再投稿)「海神(綿積)族」と〝久米〟との関係について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) から引き続き、熊本県の「海神(綿積)族」について見ていきます。

 

宝賀寿男氏が書かれたとみられる「上古史の流れの概観試論」には、

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/joukosi-nagare.htm

海神族の特徴として、

「竜蛇などの動物」「竜王山などの地名」などが挙げられています。

 

 

熊本県菊池市龍門643 に座す神龍八大龍王神社の御由緒は、

境内案内では、次のように記されています。

 

神竜八大龍王様はこの宇宙最高の神であり、

今より約三百八十年前即ち天正三年(暦1575)旧五月六日世界の平和を祈念され

此の地に天下られる。其の以前約千五百年の長きに亘り身を修められ、王位四百五十年に及び通 して約弐千五百年の久しきに亘り神の道を経給う。

 

我が国に於て唯一ヶ所にて、その神力の尊きこと只感嘆の外なし御参詣の皆様には「おんめいきやしやにえいそわか」を唱え真心をだせよ、真ありてこそ神に通ずると申されてあります。世の一切の苦難・病難・願望・悩みごと・すべての人の幸を誘いていただけます。ここに世の光明を求むる人々のために記するものなり。

 

神龍八大龍王神社 | まにまに。 (ameblo.jp) から転載させて頂きました。

こちら↑のブログを拝読していると、

実際に参拝させて頂いているような気持ちになりますが、

〝久米〟について興味が無い方は、

今回の私の記事は特にお役に立てないと思います。

 

龍神への信仰に興味をお持ちだったり、

水の豊かさに心が洗われる思いをされる方には、

少しはお知らせ出来ることがあるかもしれません。

 

神龍八大龍王神社と同じく、

菊池市の泗水町豊水525に久米八幡宮が座しています。

 

久米八幡宮についてはレイライン? | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で、

龍を模したような謎の石積があることをご紹介しました。

 

神龍八大龍王神社が座す龍門という地名からは、

吉野の龍門寺で修行したという久米仙人の伝説が連想されます。

 

そこで、ポインターを付けた地図で見てみることにしました。

1、神龍八大龍王神社 熊本県菊池市龍門643 

2、久米八幡宮 菊池市の泗水町豊水525

 

 

地図の性能のため、ポインターが正確に付いているかどうか

確認できませんが、

神龍八大龍王神社と久米八幡宮を繋げた延長先は緑川河口で、

72556_1_八代海周辺の装飾古墳―発生と展開ー.pdf

風流島|宇土市デジタルミュージアム (uto.lg.jp) によると、

古代における肥後の玄関口といえるのだそうです。

 

 

神龍八大龍王神社は、竜門ダムの下流に位置しているのですが、

竜門ダムは、確かに龍の姿に見え、

龍が向かう先に久米八幡宮が座しているように見えます。

 

 

 

県北ガイド_11(pref.kumamoto.jp) によると、

「竜門ダムの堤体の下に「男龍」と「女龍」が住んでいたという言い伝えがある大きな淵があり、八大龍王神社はこの龍神を祀ったもの。」ということです。

 

 

幸せを呼ぶ龍伝説のふるさと&福蛇の袴 (plala.or.jp) というサイトが、

おそらく八大龍王神社のホームページだと思われますが、

禁無断複写転載放送と記されています。

 

なので、竜門ダム周辺の文化財等調査報告書(昭和483月 菊池市)から

転載された部分のみ、引用させて頂きます。

 

「龍王神は、天長三年(西824)に高知県の竜王岬に上陸なされしもご住所定まらず、延久元年(西1069)四国徳島県の東竜王山、西竜王山に御住居を構えられた。
 その後、日本の平和のため正和元年(西1312)に大阪生駒山の地に満一ヵ年居住され、その後再び徳島県に帰着されたのである。
 斯くてその後天正三年(西1575)6月、菊池のこの地にお移住になられ、現在に及ばれるものである。」とされているとのことです。

 

 

境内案内に記された御由緒に比べると、随分、具体的です。

 

そして、「徳島県の東竜王山、西竜王山に御住居を構えられた。」

と書かれていますが、

〝矢野神山〟と出雲のレイライン(?) | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で、

徳島県の東龍王山、西龍王山について見ましたので、

神龍八大龍王神社と久米との関係について推考してみることにした次第です。

 

龍王神が上陸なされた高知県の竜王岬について調べてみると、

私も行ったことがある場所でした。

 

太平洋を眺める龍王岬に鎮座する【海津見神社】(わたつみ じんじゃ) - じゃらん旅行記 (jalan.net) などで、

太平洋を眺める龍王岬に鎮座する海津見神社を拝見できますが、

坂本龍馬像が立つ桂浜の岬だったのですね。

 

 

次に、海津見神社を祀ったのは領主だろう、と思い調べたら、

浦戸城 - Wikipedia が見つかりました。

 

「概要

高知市南部、桂浜の北部丘陵の浦戸山(標高59m)上に築かれた中世の平山城跡で、土佐湾(太平洋)に面している。浦戸は高知平野の入り口に位置し、紀貫之の『土佐日記』にも浦戸の港として記載されるなど、古来より水運の拠点となる地であった。

 

古くより城砦があったとされるが、本格的には戦国時代に本山氏により築城されたと考えられている。(後略)」引用終わり

 

本山氏 - Wikipedia はというと、

「起源

本姓は八木氏で、西峰(大豊町西峰)を発祥地とした。八木氏は紀貫之の『土佐日記』に「やぎのやすのりという人あり この人国にかならずしもいひつかふるものにもあらざるなり これぞただはしきようにて 馬のはなむけしたる守からにやあらむ 国人の心のつねとして いまはとて見えずなるを 心あるものは はぢずになむ来ける これはものによりてほむるにしもあらず」と、八木康教が、土佐国司の任を終えた貫之が土佐を去る際に、特に利害関係もないのに自らの意志で訪れて送別に加わるなど、既に平安中期には有力な土佐国人としての姿を見せている。(後略)」引用終わり。

 

 

紀貫之が土佐守の任を終えたのは承平5年(935年) ということなので、

拙ブログで〝久米〟との関係を「波多門部造」の系図などで見てきた八木氏が、

「天長三年(西824)に高知県の竜王岬に上陸した龍王神」

を祀った可能性が出てきました。

 

では、何故、天長三年なのでしょうか。

「八木氏 天長三年」で検索しても出てこなかったので、

天長三年は空海上人が活躍している時期であることから、

「空海 八大龍王」で検索してみたら、

善女竜王 - Wikipedia が出てきました。

「伝承

824(天長元年)、時の帝、淳和天皇は長引く干ばつに対して興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海に対して祈雨の修法を命じた。守敏が7日間にわたって修法を行うも効果少なく、次に空海が当時大内裏に南接していた神泉苑にて修法を行うが1滴の降雨もない。調べると空海の名声を妬む守敏により国中の龍神が瓶に閉じ込められていた。しかしただ1体、善女龍王だけは守敏の手から逃れていたので天竺の無熱池(むねっち)から呼び寄せて国中に大雨を降らせたという。(後略)」

 

善女龍王は、

八大竜王の一尊、沙掲羅龍王の三女なのだそうです。

 

空海は、821年(弘仁12年)、祖国である讃岐の満濃池の再築を

嵯峨天皇の命令で行っています。

 

066 潅漑用水池堰堤に残る雑体書法|高野山入山 -エンサイクロメディア空海- (mikkyo21f.gr.jp) に、

「空海は満濃池につづいて、大和益田池の潅漑用水開発にもかかわった。おそらく監修指導を行ったのであろう。天長2年(825)9月にその碑文を書いている。」

と、碑文の内容が紹介されています。

 

また、空海の詩文を読む(その四)|北尾克三郎のページ -エンサイクロメディア空海- (mikkyo21f.gr.jp) は、

空海が記した『大和州益田池碑銘』の訳文を、

解説付きで読むことができますので、

拙ブログで見てきたことに関係する部分だけ選り抜き、繋げてみます。

 

池のある地域は34世紀初頭に朝鮮半島から渡来した阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする土木建築技術や製鉄・織物の技術をもった帰化系氏族集団の倭漢(やまとのあや)が集中して居住しているところであり、

すぐ近くの北東方向には久米寺(くめでら:空海はこの寺の塔の中で真言宗の根本経典の一つである『大日経』を発見したとされる)があり、鬼門の方角を鎮め、

(益田池の南方向を眺めると)稜線の松の緑の上には白い雲がゆったりとうごき、そのふもとを檜隈川(ひのくまがわ:今日の高取川)の水が激流となって(北へと)くだり、益田池へと流れ込む。

「おかげでこの益田池に貯水された水は、大和の国の六つの郡の灌漑用水路に引き込まれ益田池の、田畑を潤し、豊かに流れる。」とも書かれていますが、

飛鳥川と、益田池から流れ出る高取川に挟まれていた八木の地は、

特に恩恵を受けていた可能性を下の地図を見て感じます。

 

 

 

高取川 奈良県 大和川水系 - 川の名前を調べる地図 (longseller.org)

のページからコピーさせて頂きました。

 

 

「天長三年(西824)に高知県の竜王岬に上陸した龍王神」と

空海が関係しているのでは? と私が想像した理由に、

高知県室戸市室戸岬町にある御厨人窟(みくろど)で難行を積んだ際に、

「空海」の法名を得たと伝わっていることがあります。

 

空海の詩文を読む(その四)|北尾克三郎のページ -エンサイクロメディア空海- (mikkyo21f.gr.jp) では、『大和州益田池碑銘』において

「強がる虎が水面をたたくと、さざ波は大波となって夜空の銀河にまでそそぎ(それぐらいに豊富な水量をもち)、(たとえ)水神である龍が唸って(大雨を降らし、)堤が決壊するようなことになっても、水量は(堰堤の下を通したヒノキの巨木をくりぬいた導水管を開けば、水は池の外側に排水できるので)余裕をもって調整できる。」と、

空海が龍神の力を意識していることが分かります。

 

善女龍王の件と合わせて考えると、

龍神の立場を空海が守ったようにも見えます。

 

 

空海から影響を受けた八木氏の中心的な人物が、

土佐(高知県)に活躍の場所を移し、

龍王岬に龍王神を祀った

 

というのは私の想像に過ぎませんが、ありえそうな気もします。

 

 

 

海津見を信仰される方々は、

先祖の時代から何回も何回も津波の被害に遭われたのでしょう。

 

辛い思いを重ねながらも

海を守られていられる方々に心より感謝申し上げます