前回の記事の中で、
〝矢野の神山〟と久米は、
少なからず関係があるのでは?という仮説を立ててみました。
阿波の芝原八幡神社の周辺 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp)
徳島県で〝矢野神山〟と呼ばれているのは気延山です。
前回ご紹介した天石門別八倉比売神社は、
はじめは気延山の山頂に座していたということで、
1、気延山(徳島県徳島市国府町と名西郡石井町との境
経緯度34.059944, 134.460167)
2、天石門別八倉比売神社(徳島県徳島市国府町矢野531
経緯度34.055781,134.464958)
3、天岩戸別神社 (徳島県名東郡佐那河内村上字牛子屋
経緯度33.974139,134.422361)
4、上一之宮大粟神社 (徳島県名西郡神山町神領西上角330
経緯度33.970699,134.367047)
でポインターを付けたデジタルマップを作ってみました。
1の気延山と3の天岩戸別神社を繋ぐ直線が、
東龍王山と二秀峰も通過しています。
天岩戸別神社は天岩戸別神社 – Wikipediaに、
「(前略)祭神の天手力男神は先代旧事本紀よると『佐那県に坐す』と記されており、佐那河内村の古地名である佐那県を指しているという説がある。(後略)」と記されています。
天手力男神と天石門別神は異名同神で
大伴と久米の先祖とみられています。
2の天石門別八倉比売神社と
4の神山町に座す上一之宮大粟神社を繋ぐ直線は、
西龍王山を通過しています。
祭神の大宜都比売命 (おおげつひめのみこと)は
「またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。」
と記されています。
どうやら、今回のラインも偶然では無いようです。
上一之宮大粟神社が座す神山町神領には銅山があります。
前回ご紹介した愛媛県大洲市の出石寺が立つ山の北側も、
古くから銅を産出していたそうです。
四国で一番有名な〝矢野神山〟は、
「宇佐神宮は、当矢野神山八幡宮より御奉遷した」との由緒を持つ
総鎮守八幡神社(愛媛県八幡浜市矢野神山510番地
経緯度33.458124,132.426981)でしょう。
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム (yahoofs.jp)
によると、
「八幡浜市周辺から佐田岬半島にかけての三波川系結晶片岩のなかには出石・金山・今出・大峯・成安・高浦などの含銅硫化鉄鉱床が分布していて、明治以来、四国の主要産地の一つとなっていた。」ということです。
(かつて球磨郡久米郷久米村という地名があったことから、
久米の発祥地のひとつとして考えられている熊本に〝矢野〟の地名あれば、
久米との関連性が強いといえるかも)と思い調べると、
「(前略)我が天草もこの折一国に数えられ、神魂命十三世孫建島松命(たけしままつのみやこ)が、初代天草国造として遙々下向されている。
即ち、一行の屯した公署の在所としては、大宅島(公島・あほやけしま)の略称だといわれる大矢野島のうち、それも柳浦辺かと推せられ(後略)」
と記されています。
『先代旧事本紀』巻10に収められる「国造本紀」において、
神魂命系の国造のうち、
大伯、阿武、吉備中県、淡道は久米直の系図に記されているため、
天草国造も同族と見られています。
銅鉾埋納坑に柱穴や建物跡が伴う例は、徳島市の矢野遺跡と島根県の荒神谷遺跡のみだそうです。
島根県には、イザナミノミコトが埋葬されたと伝わる比婆山があり、
そこには比婆山久米神社が座しています。
国産み・神産みをイザナギノミコトと行っていたイザナミノミコトは
火の神カグツチを産んだために火傷を負って亡くなりますが、
カグツチを先祖と記す大伴氏の系図があります。
島根県の古くからの歴史を伝える出雲大社と
どのような関係であるかを位置で感じるために、
1、荒神谷遺跡(島根県出雲市斐川町神庭 経緯度35.3765, 132.852417)
2、比婆山久米神社(島根県安来市伯太町横屋844-1
経緯度35.315333, 133.242917)
3、出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195
経緯度35.402056, 132.685444)
でポインターを付けたデジタルマップを制作しました。
ポインターの先端を繋ぐ見事な直線(レイライン?)です。
島根半島には銅山が多いそうです。
出雲市にも矢野遺跡がありますが、
「矢野遺跡をはじめ、出雲平野の遺跡は縄文時代晩期から弥生時代に出現するものが多く、それ以前の状況はあまり判っていない。」とのことです。
出雲市大社町には鷺浦銅山があり、
鵜峠浦 - 島根半島四十二浦巡り (42ura.jp) には、
「港辺りから南の山を眺めて西側のやや低い山を西龍と言い、その西側一帯が元鷺銅山である。石見銀山より遥か昔に銅が掘られていたとのことですが、出雲地方にたくさん出土した銅剣や銅鐸の銅はここで掘られたものではないかと言われています。」と記されています。
阿波と同じく出雲でも、
西龍が銅山の近くに存在するのですね。
今回の記事を書くためのインターネット検索で、
『渡来技術を自前のものに
全国大会特別講演 「古代の日本人の技術」
同志社大学教授 森 浩一』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1994/117/6/117_6_369/_pdf
を見つけました。
とても分かりやすく、
平成9年の講演のため、データーが古くなったものもあるのかもしれませんが、
「縄文人は閉鎖的ではなく,ものすごく広域に動いているんです。」
と話されたり、私には大変面白かったです。