前回の記事を書くことによって、古代久味国造の末流とみられる久米安芸守義広の居城が、肥後―阿波―尾張を繋ぐ久米のレイラインの中にあるらしいことに気付きました。

 

 

ただし、まだ、仮説の段階です。

 

仮説に信憑性を持たせるためには、久米安芸守義広の居城があったとされる地(芝原八幡神社)が、どのような意味を持つ場所なのかの説明が必要だと思いますので、下に地図を載せてみます。


 

ポインターの先が示すのは、

1、矢野遺跡(徳島県徳島市国府町矢野 経緯度34.0614 134.4731) 

2、芝原城(徳島県徳島市国府町芝原 経緯度34.092694, 134.463944

3、天石門別八倉比売神社(徳島県徳島市国府町矢野531 経緯度34.055781,134.464958

 

矢野遺跡は矢野遺跡 - Wikipedia によると、

「縄文時代から中世にかけての、非常に大きな遺跡で、特に弥生時代は徳島県内の中心的な役割を果たした集落であった。」ということで、

日本列島に早くから入っていたとみられる久米が居そうな地です。

 

芝原城と天石門別八倉比売神社との東経が近いですね。

地図で見ると、ほぼ南北に位置しています。

 

天石門別神は、大伴と久米の先祖ですので、この位置に居城していた久米義広には、天石門別神の子孫であるという自覚があったのかもしれません。

 

そして、ここは、久米の集中地なのです。

 

西側に見える石井町は、久米さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!! (myoji-yurai.net)

によると〝久米さんの比率が多い市区町村〟の1番とのことです。

 

石井町に建つ学童寺には、空海が、7歳から15歳まで書道や密教などを学んだと伝わっています。

空海と奈良の久米寺との関係は、ここから始まっていたのでしょうか。

 

 

芝原城跡の南側には、「桜間」の地名が見えます。

桜間池は、扶木和歌集之懐中抄に

「鏡とも見るべきものを春来ればちりのみかかる桜間の池」

と詠まれていますが、江戸時代には正確な場所が分からなくなっていました。

 

その場所の捜索を命じられた人物が出張したのが芝原村で、近郷の庄屋に桜間池の伝承を聞いたそうです。

 

桜間の大石海上運搬等の大変な苦労が、

『由岐町における古文書、石造文化財について』

http://cache.yahoofs.jp/search/pcache?c=27cGocp2Sx8J&u=https%3A%2F%2Flibrary.bunmori.tokushima.jp%2Fdigital%2F...%2F40%2F4020.html&p=%E6%A1%9C%E9%96%93%20%E9%98%BF%E6%B3%A2%20%E8%8A%9D%E5%8E%9F

に詳しく書かれています。

 

芝原城跡の北西には「龍王」の地名があり、

その先には、日本三大暴れ川の1つとして数えられる吉野川が流れています。

 

ここは、川の恩恵に浴しながらも災いと闘う能力が必要な場所で、

久米が多いのは、その治水能力のためで、

国府を守るために派遣されていた、という可能性もありそうです。

 

なぜ、こんな風に考えるかというと、阿波には「久米」の地名が無いのです。

地名に久米と付いている場所は、大抵、久米が活動したり、なにがしかの権利を持っていた場所です。

 

もし、阿波の開発に久米が関わり権利も持っていたとしたら、

久米が連想できる地名で残っているかもしれない―、

そんなことを念頭に置きながら

天石門別八倉比売神社についての記事を幾つか拝読し、

「矢野」の地名と久米を繋げるかもしれない内容と出会いました。

 

『天石門別八倉比賣大神御本記』について書かれた

天石門別 八倉比売神社 [徳島県]-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)から引用させて頂きます。

 

(前略)

最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。

 

よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。

 

そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。

(後略 引用終わり)

 

(※誤訳に注意してください。)というブログ主さんの言葉が添えられています。

 

『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容は、

偽書とする説が一般的であるようです。

けれど、「矢乃野」と、大伴と久米の先祖神・天石門別、

そして、矢野の地名を結びつけ、

後世に伝えようとした人たちがいたことは事実なのです。

 

 

久米は他でも「矢野」という地名と縁があり、

日尾八幡神社(愛媛県松山市鷹子町894)の由緒には

「伊予比売命(いよひめのみこと)は伊予比古命(いよひこのみこと)とともに伊予国の地神として、また部族久米部の祖神として、久米郡神戸郷矢野神山(現在の平井町小屋峠)に祭られていたが、豪雨の大洪水により社殿が流されたので、矢野神山より下手の平井谷明神鼻に新たに社殿を遷座し奉った。」

と記されています。

 

同じく愛媛県の大洲市阿蔵甲1844に座す大洲領総鎮守八幡宮は、

八幡神社(阿蔵) « 愛媛県神社庁 (yahoofs.jp) によると

「天平年中(8世紀)喜多の郡矢野郷の矢野の神山(出石寺山)に鎮座されていたのを、鎌倉時代守護職梶原景時が現在の地に奉遷し喜多一郡を敷地と定め、150貫の土地を献じました。」ということです。

 

由緒・歴史|大洲領総鎮守 八幡神社 (ozu8man.or.jp)の中には、何故か「久米」の文字は無いのですが、

ブログ | 大洲領総鎮守 八幡神社 (yahoofs.jp)2015924日の記事には、

「お陰様で立派な表参道が完成いたしました。当社総代さん、久米地区の皆さんのお力でほぼ自分たちの手で完成させることができました。」

と記されています。

 

出石寺山は、出石山 – Wikipediaによって

金山出石寺が立つ出石山のことを指すことが分かりましたので

山頂の経緯度33.535147, 132.465256をポインターの1、

大洲領総鎮守八幡宮の33.515096, 132.537152を2で

デジタルマップを作ってみました。

すると、間に高山寺山の山頂が綺麗に入っています。

 

 

高山寺山には、

通称「高山メンヒル」、地元では「石仏」とよばれる巨大な立石が立っています。

||| 高山ニシノミヤ巨石遺跡 --- 巨石巡礼 ||| (itscom.net)

に詳しく書かれているのですが、案内板には

「昔藩令によって久米喜幸橋の石材に用いようと運び出し 翌日橋をかけようとしたところ この巨石が夜のうちに元の位置に坐っていた」

という伝承が記されているとのこと。

 

 

話があちこちしてしまいましたが、

次回は、「矢野の神山」に拘ってみたいと思います。