国立国会図書館所蔵の『諸系譜』第2冊に

ヤマトタケルノミコトの東征にお供した七拳脛命(七掬脛)から始まる

「久米宿祢」と題された系図があります。

諸系譜. 第2冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)の42コマからで、

下の画像は43コマ目の左ページです。


 

草書で書かれたものを正しく読む自信は全くないのですが、

古代氏族研究会公認HP「古樹紀之房間」の

『大伴氏族と久米氏族』と題するページに 

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm

「久米宿祢(松岡-尾張国山田郡松岡より起り、美濃国不破郡・近江・肥後に遷。秋山-尾張人。阪田、日野-近江人。久米、清渕、黒川-肥後人)」

と書かれていますので、

参考にして眺めてみました。

 

すると、いくつか引っかかることが出てきましたので、

ご紹介致します。

 

まず、「清渕」という姓です。

インターネットで検索しても出てきません。

 

ところが、久米清渕という人物ならば見つかりました。

 

肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳【て】の部 (yahoofs.jp) に、

「寺本八左衛門川村猪右衛門と討果候記録-久米清渕著」と記されています。

 

「久米宿祢」の系図も、肥後細川藩の久米清渕によって記されたのでしょうか。

 

(これは、読める箇所だけでも読むべきかも)と思い、母に見てもらいました。

母は、主婦の嗜み程度で草書も習っていましたが、

歴史にはあまり興味がないので、予備知識はありません。

左側下の方に

「兼泰 松岡左近九郎 

住也日国八代郡空地

是久米清渕等の祖也 」と書いてあるようですが、

もちろん、間違っているかもしれません。

〝日国〟は肥国の美称のようなものなのでしょうか?

〝空地〟は、あき地の意味で捉えて良いのでしょうか?

 

2021/03/16 追記】

ひろっぷ様が、

源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・ | ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり      先祖について (ameblo.jp) で、

林兼明氏著『神に関する古語の研究』をご紹介されていますが、

その中には、次のような文章があります。(以下引用)

 

「肥国」の「肥」は「日」の借字なり。

 

 

 

「久士比」は「奇し日(くしび)」の義なり。

 

 

 

かくてこの「肥国」(日の国)の名は、いみじくも天日の祖国、日神の本国なる

 

「日本(ひのもと)」の起源となれり。

 

 

 

この件の詳細は国号の「ひのもと」の条に考証せり。  

 

 (引用、追記終わり)

 

 

松岡左近九郎の祖父の説明に「候征西府」と書かれていることから、

南朝の征西大将軍・懐良親王に仕えて九州に入ったことが分かります。

 

南朝は敗れていることから想像すると、

何もかも失った状態から、

八代郡に定住したことが想像されます。

 

 

他にも手がかりが無いかと「松岡 肥後 八代郡」で検索すると、

琉球大学学術リポジトリ

『肥後国八代郡高田手永松岡家文書について』

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/44666/1/No7p003.pdf

が見つかりました。

 

松岡家の由緒に

(前略)松岡家の歴史は、中世の南北朝の動乱期まで遡ることができる。有名な後醍醐天皇は、延元3(1338)、その皇子懐良親王に北朝の勢力下にあった九州制覇を命じた。松岡家の初代当主長明は、この時に懐良親王の供として越前国松岡(現福井県永平寺町)から肥後国八代に移り、ここに置かれたといわれる征西府のそばに居住するようになったという。(後略)」

と記されています。

 

久米宿祢の流れの松岡家と、八代郡に住んだ理由は同じですが、

「松岡家当主一覧」には〝長〟を通字とした諱が並び、

久米宿祢の家系図とは異なっています。

 

なので、まったく久米とは関係ない家である可能性が高いのですが、

(現福井県永平寺町)が引っ掛かりました。

ここは、拙ブログに記した↓

大久米ノ命を葬祀する久米田神社の近くなのです。

 

ポインターの先が示すのが久米田神社の位置です。

福井県坂井市丸岡町上久米田1-1 経緯度36.11531699    136.30900118

【2021/01/12 追記】

引用元の住所の記載が〝下久米田〟になっていましたので、

修正し、下の地図も貼り直しました。

 

2021/07/18 追記】

「いつもNAVI 」などでは、

久米田神社は福井県坂井市丸岡町上久米田1−1 」とありますが、

久米田神社(福井県坂井市)の企業詳細 - 全国法人リスト (houjin.jp) には、

「福井県坂井市丸岡町下久米田11番地 」と記載されていますので、

訂正致します。(追記終わり)

 


 

久米田神社の南西に「松岡」の文字が見えますね。

 

勿論、これだけでは、久米と関係あると断言は出来ません。

 

次に引っかかったのは、

松岡家が芝原八幡宮を創建していることです。

 

芝原八幡は徳島県徳島市国府町芝原字宮ノ本にも座しており、

ここは、久米安芸守義広の城があったところと伝っています。

 

宝賀寿男氏が会長を務める、古代氏族研究会公認HP『古樹紀之房間』の

『大野九郎兵衛の出自と杏葉紋(試論)』には、

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/miyosi/miyosi2.htm

「(前略)阿波の名東郡芝原の久米一族は、三好長慶の同族で、伊予国喜多郡久米荘に起ったと伝えるから、古代久味国造の末流とみられる(後略)」

と記されています。

 

琉球大学学術リポジトリ

『熊本藩在御家人のライフサイクル : 松岡忠九郎を事例に』には、

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/44665/1/No7p037.pdf

「芝原神社は松岡因幡守長景が創建した神社である(【史料 10】参照)。芝原神社には八幡神が祀られており、八幡神は武神として崇敬されている。明和6(1769)、忠九郎は宝殿の再建を行い、武運長久・五穀豊穣・安隠息災を祈願している。地域一帯の住民の安全、成就などを願って神社を再建したのである。これ以降、芝原神社は地元の人から松岡神社と呼ばれ、豊原地区の信仰の対象となっていった。」と記され、

松岡因幡守長景は慶長9(1604)豊原村に居住したことが

前出の『肥後国八代郡高田手永松岡家文書について』で分かります。

これは、阿波の芝原城主・久米安芸守義広の戦死から半世紀たっています。

 

慶長9年当時の肥後熊本藩主は加藤清正で、

清正は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれ、

愛知郡には日置神社や、

久米宿祢の先祖の八甕命が神官となった氷上姉子神社などが座しています。

 

日置氏は、こちら↓にも書きましたが、

レイラインに深く関わっているようです。

 

 

そこで、

1、芝原八幡宮(熊本県八代市豊原下町3343 

経緯度32.48934071,130.62098615,16

2、芝原城(徳島県徳島市国府町芝原字宮ノ本 

経緯度34.092694, 134.463944

3、氷上姉子神社(愛知県名古屋市緑区大高町火上山1-3

35.061461, 136.930264

でポインターを付けたデジタルマップを作ってみました。

直線で繋がっている、と言えると思います。

 

この久米のラインを作るために、

熊本県八代の芝原八幡宮が座す地が定められたような気がしています。