前回の明石を通過する久米八幡のラインから気付いたこと | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で、奈良の高市郡の越智氏が祀っている天津石門別神社と在南神社をグーグルマップで確認し、在南神社と久米寺を結ぶ道の中間点に、新沢千塚が位置することも気になると書きました。
すると、地元の方である天地悠久様が、越智氏の本拠地であった貝吹山城、大伴氏の鳥坂神社の存在、まだ天地悠久様が記事にされていないお考えなどをコメント欄からお知らせ下さいました。
そこで、まずグーグルマップで見てから、分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入力してみました。
※天太玉命神社が上の方で隠れてしまっていますので、地図を下にスライドしてみて下さい。
1,天太玉命神社、奈良県橿原市忌部町153
34.50737017228296, 135.77320783434257
2,忌部山、奈良県橿原市光陽町
34.486484800052, 135.77041029022618
3,天津石門別神社、奈良県高市郡高取町越智85−1
34.464552625514074, 135.7671983450333
4,有南神社、奈良県高市郡 高取町越智634
34.4614477366662, 135.76722516713767
5,貝吹山城跡、 奈良県高市郡高取町与楽
34.46895323167944, 135.7823759600279
6,益田岩船、 奈良県橿原市白橿町8丁目20−1
34.47058073377353, 135.78866607543827
7,飛鳥寺、 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
34.47860389941495, 135.82021421787965
8,久米御縣神社、 奈良県橿原市久米町786
34.483280130359674, 135.79008664039426
9,鳥坂神社、 奈良県橿原市鳥屋町17−1
34.47990300388439, 135.78415350170008
10、飛鳥坐神社、 奈良県高市郡明日香村飛鳥708
34.479716173213454, 135.82272970231526
気になる場所をグーグルマップで眺めていたときに、2,忌部山―8,久米御縣神社を繋ぐラインの延長線と、3,天津石門別神社―5,貝吹山城跡―6,益田岩船の延長線が7,飛鳥寺に向かっているように見えたのですが、地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入力してみると、ポインターの先端より少し北をラインが通っていることが分かり、違う場所に向かっているように感じました。
奈良は歴史的に重要な場所がたくさんありますので、グーグルマップを拡大して飛鳥寺周辺を拡大して見付けたのが飛鳥坐神社です。
歴史について素人の私が、これら10箇所についての説明を適切にするのは無理なことですので、天地悠久様の飛鳥坐神社についての記事をリブログさせて頂き、適宜、リンクを貼らせて頂く形を取りたいと思います。
どういう訳か、1,天太玉命神社―10、飛鳥坐神社の距離と、4,有南神社―10、飛鳥坐神社の距離とが同じです。
そして、9,鳥坂神社と10、飛鳥坐神社の北緯が大変近いことに気付きました。
鳥坂神社 34.47990300388439
飛鳥坐神社34.479716173213454
もしかしたら、計測する場所によっては同じになるかもしれません。
鳥坂神社 (engishiki.org) に「奈良県史」からの引用文らしきものが載っているのですが、国立国会図書館デジタルコレクションに「奈良県史」を見付けることができませんでした。
大和志料 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) はログインせずに読むことが出来ます。
鳥坂神社については218コマから書かれています。
「奈良県史」の方から少しだけ引用します。
(前略)
『日本書紀』神武天皇の2年に天皇が大伴氏の祖道臣命の功を賞されて宅地を賜って築坂邑に居らしめたとあるが、道臣命はこの地に神符をつくって自らの二祖紳である高皇産霊神とその子の天押日命父子を祀ったのがはじめだという。
(後略 引用終わり)
飛鳥坐神社は、飛鳥坐神社 (engishiki.org) に、次のように書かれていますので、鳥坂神社と東西に並ぶ理由は、飛鳥坐神社の遷座以前にあると感じました。
【鎮座地】元来は賀美郷甘南備山に鎭座していた
天長6年(829)3月に現在地へ遷
このページには住所として「北緯34度28分46秒,東経135度49分21秒」と書かれていますので、「北緯34度28分」で調べると、GA035 孝元天皇御陵【道標】 (kyoto.lg.jp) が見付かりました。
グーグルマップで見てみると、孝元天皇 劔池嶋上陵から飛鳥坐神社、鳥坂神社への直線距離が同じであることが分かりました。
そして、孝元天皇 劔池嶋上陵の正確に東南と言えそうな位置に、マラ石があります。
いわゆる陽石ですね。
飛鳥坐神社でも、多くの陰陽石が見られるそうです。
鳥坂神社には陰陽石が無いようですが、徳島県阿波市市場町市場の意味とは? | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) でご紹介したように、日本最大の石棒である北沢大石棒が立つ地と大伴神社と、久米路峡が、東南の方向に、ほぼ直線状に並んでいます。
けれど、北沢大石棒―大伴神社―不動堂遺跡が、より綺麗なラインになっています。
ご自分で定規などをあててご確認ください。
不動堂遺跡 - Wikipedia によると、不動堂遺跡は縄文時代中期の集落遺跡であり国の史跡に指定されているということです。
北沢大石棒 - Wikipedia によると、北沢大石棒は縄文時代中期後半に製作されているとのことですし、不動堂遺跡の南東の方角にあることから、何か関係があるように感じています。
そして、大伴氏の先祖は、陰陽石への信仰心を強く持っていたようにも。
大伴神社の鎮座地は長野県佐久市望月233ですが、宝賀寿男氏の「備中と信濃の小見山氏の系譜」http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/komiyama1.htmの中の「3 信濃の大伴神社と滋野姓諸氏」には、次のように書かれています。
「望月」の名の由来は、平安前期(貞観七年、八六五年)に、朝廷が八月二九日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月の日(=八月十五日。望月)に改めたことに因るとされる。
このことについて、望月牧(もちづきのまき)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) から一部引用します。
(前略)
「駒牽」の行事の期日は、「三代実録」貞観七年(八六五)一二月一九日条に「是日、制、信濃国勅旨牧御馬、元八月廿九日貢之、今定十五日」とあり、満月の日とされていた。
(後略 引用終わり)
貞観七年といえば、大伴系の系譜『古屋家家譜』について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) に書いたように、大伴氏の系譜研究で重要視される『古屋家家譜』を伝える甲斐国一之宮浅間神社が、現社地に遷座したと伝えられる年です。
何か関係があるような気がして検索して見付けたのが、「文献からみた貞観噴火 大隅 清陽 」というpdfです。
19コマ目から一部引用します。
(前略)
『日本三代実録』貞観7年12月20日条に、さらに甲斐国に対して、山梨郡にも、八代郡と同様に浅間明神を祀らせるという簡単な記事があります。ただ、先ほど申し上げました『延喜式』の神名帳では、山梨郡には浅間神社はありません。だから、これは官社にはならなかった。『日本三代実録』にも官社になったとは書かれておりません。では、この神社は今のどの神社かという話なのですが、これについても諸説があります。一般的には、笛吹市一之宮の一宮さん、一宮浅間神社であろうと言われています。
(後略 引用終わり)
「三代実録」における望月牧の「駒牽」の行事の期日は、貞観七年(八六五)一二月一九日条ですから、甲斐国一之宮浅間神社については、その翌日の記事ということになります。
国史大系 第4巻 日本三代実録 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) の104コマの最後の行と105コマの最初の二行を貼り合わせました。
保護期間満了ということですので、ログインなしで閲覧可能です。
八代郡祀らせる浅間明神を、大隅清陽氏は「富士河口湖町の河口の地にある河口浅間神社であるとする説が有力でして、私も現状ではこれがいちばん有力なのではないかと思います。」と16コマ目で語っています。
これらの三社が直線状に並んでいることは、以前にも確認しました。
1,大伴神社、 長野県佐久市望月233
36.266608401070144, 138.36013432051791
2,甲斐国一宮 浅間神社、 山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684
35.647732175584416, 138.6975595673552
3,河口淺間神社、 山梨県南都留郡富士河口湖町河口1
35.53100115417117, 138.77502444591298
もう少しマーカーの先で繋がってくれないと、明らかに意図されたラインだとは言いにくいのですが、富士山の噴火による煙のために天体観測が難しかったなどの理由があったような気がしています。
そして、このラインが出来た理由を、清和天皇の意向だったのだろうか?と現在の私は想像しています。
それから、「久米八幡のライン」などと私が呼んでいるものは、清和天皇が興道名継のルーツに興味を持った結果、作られたのだろうと。
興道宿祢は、久米直と同祖であることが、波多門部造の系図に載っています。
↑クリックすると見ることが出来ます。
久米舞と久米氏滅亡説 | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で書いたことですが、清和天皇が貞観18年11月29日に退位した10日前に、興道名継が亡くなっています。
興道名継 - Wikipedia の「経歴」から一部引用します。
(前略)
清和朝に入り、貞観2年(860年)内位の従五位下に叙せられて医博士を、翌貞観3年(861年)からは内薬正を兼ねている。貞観12年(870年)次侍従に任ぜられ、のち典薬頭に至る。(引用終わり)
次に、「官歴」の項から一部引用します。
(前略)
貞観2年(860年) 正月16日:兼駿河介。2月14日:医博士。11月16日:従五位下(内位)
貞観3年(861年) 2月25日:兼内薬正、侍医駿河介如故
貞観5年(863年) 4月21日:兼駿河介
貞観11年(869年) 正月13日:兼能登介
(後略 引用終わり)
富士山の噴火の第1報は、「噴火の第1報は、駿河国司によって、貞観6年5月25日の駿河国司によって都にもたらされたと伝わります。(参考pdf「延暦・貞観の富士山噴火 ―古代の富士山の溶岩流と火山灰災害- 杉本 悠樹(富士河口湖町教育委員会) 」)
もしかすると、この「駿河国司」とは、「駿河介」であった興道名継を指すのでしょうか・・・?
すっかり話が飛鳥から逸れてしまいましたが、もともと今回は、清和天皇の意向で「久米八幡のライン」が作られたのだろと私が思う理由をご紹介するつもりでした。
けれど、根拠が弱いことを自覚しつつ記事をアップする準備をしていました。
天地悠久様のご教示のおかげで、史実と繋がってホッとしています。
最後に話を飛鳥に戻しますが、グーグルマップで知ったマラ石と飛鳥坐神社の「むすひの神石」の東経は、次のようになります。
マラ石 135.8248039554566
むすひの神石 135.82278827538235
グーグルマップで見ていると、南北に並んでいるようには見えなかったのですが、置かれた当時には、正確に配置したと考えられていたのでしょうか。
「飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得 木庭元晴」という論文のpdfを見付けましたので、読みこむと答えが得られるのかもしれませんが、私には難しいと思いますので、今はメモしておくだけにします。
ただ、2コマ目からの「1.2 百済僧観勒と書生による観測に基づく暦作成の開始」に興味あることが書かれていましたので、一部引用します。
天の北極信仰を示す飛鳥寺の成立は六世紀末であり僧観勒(かんろく)渡来以前である。仏法受容と天の北極信仰は連動している。六世紀末の飛鳥寺遺構の中心軸は正しく天の北極を示しており,百済からの暦博士によって天の北極が決定されていたと考えて良い。その暦博士は,欽明天皇十五(554)年に渡来した前述の固徳王保孫(ことくおうほうそん)かその後継者の可能性が高い。
日本書紀推古十(602)年には次の記述がある。「冬十月 百濟僧觀勒來之。仍貢曆本及天文地理書 䮒遁甲方術之書也。是時 選書生三四人 以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳習曆法。大友村主高聰學天文遁甲。山背臣日立學方術。皆學以成業」(坂本ほか,1995: 457)つまり,百済の僧観勒(かんろく)が来て,暦本と天文地理書,並びに遁甲方術の書を献上した。そして書生三,四名を選び観勒の下で学ばせた。玉陳は暦法を習い,大友村主高聰は天文遁甲を,山背臣日立は方術を学んだ。皆よく理解した,とある。国内での暦博士の養成が始まったと考えて良いだろう。
(後略 引用終わり)
大友村主高聰は、大伴村主高聡とも記されます。そのことについて、大友黒主 - Wikipedia から一部引用します。
(前略)
大友村主氏は諸蕃(渡来人の子孫)で、『続日本後紀』では「後漢献帝苗裔也」とある。
(中略)
また、古記録に大伴黒主と表記されることが多いが、古代豪族の大伴氏(大伴連)は淳和天皇(大伴親王)の忌諱のために、黒主の時代には既に「伴氏」に改姓していることから、大友村主と大伴連は関係がないとされる。
(後略 引用終わり)
東漢氏など渡来人と大伴氏との関係について以前書きましたので、私は、大友村主氏と大伴氏には婚姻関係があったのでは?と想像しています。
望月における良馬の飼育も、↑で書いたことと繋がっているような気がします。
繋がっているといえば、「飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得 木庭元晴」の5コマ目の「1.4 残された暦から推定できる推古朝の暦数 1.4.1 『日本三代実録』掲載の推古朝暦術評価」には、『日本三代実録』清和天皇貞観三(861)年六月一六日の記事(巻五671‒678)が紹介されています。
大春日真野麻呂 - Wikipedia に書かれていることを抜き出すと、清和天皇の即位された貞観元年(859年)に、宣明暦が渤海使・烏孝慎により日本にもたらされていて、貞観4年(862年)正月に宣明暦への改暦が行われているとのことです。
今回は、最初のグーグルマップで見た忌部との関係に触れることが出来ませんでしたが、次回あたりに書くつもりです。