久米のラインと尾張徳川家との関係の有無について | をアップしたあと、ラインが明石を通過することが気になりました。
明石には久米地名は無いようなのですが、中臣清麿と、播磨に繁衍する山部の関係 |で紹介したように、明石郡擬大領を務めた伊予来目部小楯の子孫がいたことが山宿祢(山部宿祢)の系図に記されています。
↑クリックすると、『諸系譜』第2冊の55コマ目が開きます。
試しに調べてみると、大蔵八幡町の稲爪神社境外の八幡神社がライン上に並ぶことが分かりました。
1,日尾八幡神社、愛媛県松山市南久米町2
33.81737374827569, 132.80624534244745
2,久米石清水八幡宮、香川県高松市東山崎町1098
34.311885512279524,134.0991612827235
3,八幡神社(稲爪神社境外攝社)、兵庫県明石市大蔵八幡町6−18
34.64540047610997, 135.00945623900824
4,京都市立伏見板橋小学校、京都府京都市伏見区下板橋町610
34.93883926536834, 135.76161698206252
5,真清田神社、愛知県一宮市真清田1丁目2−1
35.307449701163975, 136.80202867143177
6,八幡神社(東石清水八幡神社)、埼玉県本庄市児玉町児玉198
36.188869300135636, 139.13349594221822
グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入力して出来たのが、次の地図です。
稲爪神社 - Wikipedia の「由緒」から、一部引用します。
明石の史跡 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) の19コマ目に大蔵八幡神社についての記事がありますので、一部引用します。
大山祇神のお旅所が八幡神社だというのは、知識が少ない私にとって不思議な感じがしますので、久米八幡のラインの通過点であるため、八幡神社にしたのでは?と勘ぐってしまいます。
その理由は、天徳寺所蔵 「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」に、河野氏の25代目に「久米麿 来目部小楯 播磨大掾」を記されているからです。
※兵庫県の〝矢野神山〟と山部(久米)について | に、川岡勉 氏と田中弘道 氏の共著『天徳寺所蔵 「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について』で、系図があることを知ったことを書きましたが、pdfをダウンロード出来たページは今は無くなったようです。
「二 『伊予国造家 越智姓河野氏系譜』の諸特徴」に、次のことなどが書かれています。
〇本「系譜」は初代の天照国照彦天火明櫛中表侮日命から始まり、多くの「河野系図」が孝霊天皇一伊予王子一小千御子という系譜で始まっているのと顕著な違いがある
〇本「系譜」が最終的に、河野氏の有力庶流家である得能氏に収降する形でまとめられている
伊予温故録 続 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) の32コマから、徳能家歴世一覧の内容が紹介されていますが、「越智系図には異姓なる久味部小楯浮穴千継等を其血統に引入るは其の妄誕も亦甚しと謂ふべし」等、批判もされています。
けれど、久米氏を大伴氏と同族と見る宝賀寿男氏著『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の108~111ページは「中世大和の雄族であった越智氏」についてです。
「高市郡越智の地が古代の久米郷のすぐ西南も位置する」こと、天津石門別神社と在南神社が大和の越智氏によって祀られていることなどが書かれています。
グーグルマップによると、在南神社から久米寺まで歩いて行くと1時間4分ほどかかる4.6km程度の距離だということです。
グーグルマップで示されている道の中間点に、東漢氏と〝久米〟との関係について | 久米の子の部屋 (ameblo.jp) で紹介した新沢千塚が位置することも気になります。
「新沢千塚古墳群は大伴、久米氏の墓域で、そこには、東漢氏も葬られていることが、126号墳の埋葬品から考えられるということのようです。」と書きましたが、今は、高市郡の越智氏の先祖も眠っているのでは?と感じています。
「伊予国造家 越智姓野氏系譜」では、益躬は28代と記されています。
来目部小楯から数えて4代目の山部は、比治です。
比地郷(ひじごう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) から一部引用します。
「播磨国風土記」に比治(ひじ里)がみえる。地名は孝徳天皇の時代に揖保(いぼ)郡から宍禾(しさわ)郡を分立した際、山部比治が里長に任命されたことにちなむという。
(後略 引用終わり)
wikipediaによると、推古天皇の在位期間は593年1月15日―628年4月15日で、孝徳天皇は645年7月12日―654年11月24日だということです。
推古天皇の17年後に孝徳天皇の御代が始まるわけですから、そういう意味では、越智益躬も山部比治と同じく、伊予来目部小楯から数えて4代目の子孫であっても矛盾は無いことになります。
けれど、群書類従 第拾四輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) に収められている「豫章記」には「久米麿 来目部小楯 播磨大掾」」とは記されていません。298コマから一部コピペしておきます。
「久米丸」とあるだけで、来目部との関係については触れていません。
「豫章記」についての情報を探していて、西条歴史発掘 ~『予章記』の小千神話 (coocan.jp) を見付けました。
そして、「鉄人伝説」の項に新たな視点を頂きましたので、一部お借りします。
(前略)
仮に推古天皇の時代だとすれば、『日本書紀』推古11年7月、新羅征討のため当摩皇子(たぎまのみこ)が難波から船出して播磨の明石に着いたが、妻が亡くなったとして、そこから引き返している。播磨の明石というその場所からして、あるいは、益躬の鉄人伝説との関わりがあるのではないだろうか。だいたい征討に妻など連れて行くのがおかしい。実際は、すでに益躬の手勢により播磨での戦いが終結していたから、戻ったということではないのだろうか。その前には久米皇子が病いのため筑紫で薨去しているが、こちらは鉄人に敗れたのかもしれない…。
(後略 引用終わり)
久米皇子と当摩皇子の兄である聖徳太子(豊聡耳皇子)と山部との関係は、中臣清麿と、播磨に繁衍する山部の関係 |などで何回か見てきました。
明石の「鉄人伝説」に、久米皇子が関わっている可能性が私には感じられ、八幡神社(稲爪神社境外攝社)がラインの中に位置しているのも、偶然ではないと思えるようになりました。
ラインが偶然の産物でなければ、繋げることを望んだ人がいるはずなのです。
その人物が、金札宮がラインに入ることに気付いたおかげで絞られてきました。
そういえば、高市郡を根拠とした越智氏は、大和源氏(清和源氏頼親流)から出たとされるのだそうです。次あたりから書きたいと思っていることと、もしかすると、多少は繋がっているのかもしれません。