〔再投稿〕イクメイリヒコイサチ(垂仁天皇)と久米氏とを結ぶもの | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) の続きです。


 

前回、前田晴人氏の説の、豪族久米氏がイクメイリヒコイサチ(垂仁天皇)の原像で、その子であるホムツワケの伝記の全ては、応神・仁徳・履中の3天皇に関する事績として分割記載されるという説を紹介しました。

 

もし、前田晴人氏の説が的を射ているとすれば、応神天皇である八幡神の中に久米氏の要素があると解釈し、そのことを顕そうとした人たちもいたのかも・・・?と想像してしまいました。

 

以前、私は、久米と石清水八幡宮の関係 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) に次のように書きました。

 
(前略)

八幡神と久米との間には、どうも強い繋がりがあるようです。

 

その繋がりを裏付けてくれるかもしれない人物に、

橘良基がいます。

 

国家第二の宗廟と崇められる京都の石清水八幡宮の本殿は、

宣旨を承けた橘良基が建立しています。

 

清貧であった橘良基の葬儀は、

在原行平から贈られた絹布により、ようやく行われたと伝わりますが、

お墓は、京都伏見の久米村に座していた金札宮にありました。

(後略 転載終わり)

レイライン? | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) に載せた地図では、日尾八幡神社(別名:久米八幡宮)と、久米石清水八幡宮と、久米(児玉)氏が守った東石清水八幡神社は、綺麗なラインで繋がるものの、石清水八幡宮は少し外れていることが気になっていました。

そこで、今回は、石清水八幡宮だけではなく、金札宮の元の鎮座地とみられる場所も調べてみました。

金札宮のホームページの金札宮 | 所在ご案内 (kinsatsugu.jp) によると、「板橋小学校はかつて金札宮のあった場所といわれて」いるのだそうです。

 

金札宮 - Wikipedia の「歴史」には、

750年に創建。はじめは伏見九郷中の久米村に鎮座していた。境内社の久米寺が1355年に西方寺に名称が変わり、豊臣秀吉の城下町造成により、外堀の西方久米町の辺りに移転されたのをきっかけに金札宮は伏見城中に移された。江戸時代になり、1615年に鷹匠町に喜運寺を創建するに伴い、その鎮守社となるため現在地の鷹匠町に移転された。明治元年に神仏分離により独立。

(引用終わり)

と書かれており、板橋小学校については何故か触れていないのですが。

 

 

これだけでも、直線状に並んでいることが分かりますが、グーグルマップで知ることができた経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入力して出来たのが、次の地図です。

 

1,日尾八幡神社、愛媛県松山市南久米町2 

33.81737374827569, 132.80624534244745

2,久米石清水八幡宮、香川県高松市東山崎町1098 34.311885512279524,134.0991612827235

3,石清水八幡宮、 京都府八幡市八幡高坊30

34.879458156563174, 135.70005382668407

4,京都市立伏見板橋小学校、京都府京都市伏見区下板橋町610 

34.93883926536834, 135.76161698206252

5,真清田神社、愛知県一宮市真清田1丁目2−1

35.307449701163975, 136.80202867143177

6,八幡神社(東石清水八幡神社)、埼玉県本庄市児玉町児玉198

36.188869300135636, 139.13349594221822


 

の真清田神社は、八幡神社ではありません。

失われていた久米舞楽譜が発見したのは河村秀根で、真清田神社の神職家のえぼし箱の中だったということを、天加具山と天山とのラインと久米の子ら | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) で紹介しました。

 

もし、上のラインが単なる偶然ではなく、八幡神と久米との関係を示すものであったとすれば、久米舞楽譜の発見にも八幡神社がかかわっていたような気がして、検索してみました。

そこで見付かった玄米和尚(遊歩)の「つるぎ日記」: 201012(way-nifty.com) から引用させて頂きます。

(前略)

実はこの当時の真清田神社の楽舞を担当していたのが

私の母方の祖先の片山清九郎。

片山家は名古屋の片山八幡宮(徳川美術館側)から出た家で

江戸時代の真清田神社の楽舞の正の担当者、片山清九郎は

名古屋東照宮の宮司吉見幸和から楽舞を学んでいたそうです。

河村秀根は吉見幸和の弟子で、幸和から楽舞を学んでいましたので

我が母方のご先祖と河村秀根は同門であったわけです。

(後略 引用終わり)

愛知県小牧市村中408に鎮座する片山八幡社もあるのですね。


片山清九郎について検索しても残念ながら他に見付からなかったので、名古屋の片山八幡宮をグーグルマップで見てみました。

すると、来目氏(久米氏)が神官を務めてきた氷上姉子神社の元宮と、南北の関係であることが分かりました。

グーグルマップでは、氷上姉子神社の元宮を「元宮(熱田神宮末社)」と表記しています。

クリックして表示される東経は、

片山八幡神社      136.92935110849814

元宮(熱田神宮末社) 136.92831312441518   となっています。

これだけでしたら偶然なのかもしれませんが、由緒 | 片山八幡神社 (fc2.com) を拝読し、(旧社名を『大曽根八幡社』と云う。大曽根の地名の源なり。)と記されていることから、高志国(越国)と久米との関係について | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) にも引用した宝賀寿男氏の次の考察を思い出しました。

(前略)

曽祢連 (曽根連)・曽祢造も同様に久米部族の出とみられ、二五物部のなかには二田物部・久米物部などの久米部族が混入している可能性が高い。

 曽祢連は、『姓氏録』の左京・右京・和泉の神別にあげて、物部同族で饒速日命後裔という系譜を称した。池上曽根遺跡の近隣、和泉国和泉郡の曽根神社(大阪府泉大津市曽根町)あたりの起源で、二田物部・二田造と同族であって、本来は久米氏族だとみられる。佐伯有清博士は、大和国宇陀郡の曽爾村(現在も奈良県の村名)に地名に基づくとするのが妥当かとしており、この説も傾聴できる。『和名抄』に「宇陀郡漆部郷」として見える地がこれにあたり、門部が祖神の手力男命を祀門僕神社(曽爾村今井)も産土神としてあるから、久米氏族との関連が十分に窺える。

(後略)

宝賀氏著『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の139ページからの引用でした。


曽根 - Wikipedia には、「河川氾濫があった場所、またその結果自然堤防が形成された場所などを指す一般名詞。イヌシデの別名『ソネ』に由来。」と書かれています。

 

久米宿祢の系図に記された伊牟多乃造と小竹子乃造 | 久米の子の部屋  (ameblo.jp) で考えたことですが、「尾張氷上祝供奉」の八甕命の孫である小竹子乃造の名前は、治水の役割を示しているのかもしれません。

 

戦禍により荒廃していた片山八幡神社を復興したのは、尾張二代藩主徳川光友卿なのだそうです。そして、尾張徳川家初代である徳川義直の母の実家が、石清水八幡宮の祀官家であることを知りました。

 

(もし、尾張徳川家が久米と何か関係があれば、ラインの中に座す真清田神社の神職家の烏帽子箱の中から、久米舞楽譜の発見されたのは偶然ではないと思えるのかも)と考え検索してみると、竹中友里代氏が雑誌「京都府立大学学術報告」で発表した「近世石清水八幡宮における吉田神道の受容と社務家」のpdfが見付かりましたので、一部引用します。

    はじめに

近世石清水八幡宮の社務職は、一六〇〇(慶長五年)徳川家康社務廻職状によって、田中・新善法寺・善法寺・檀の四家が将軍代替わりごと、あるいは、社務検校の逝去によって、順次に従って交替して勤めることとなる。

(中略)

一、田中要清の生い立ち

 先ず、田中要清が八幡ではなく遠く尾張で成長した経緯から述べよう。尾張藩祖徳川義直の生母である相應院 (一五七六~一六四二)は、八幡の志水宗清の女というが、「社務家田中祠官家系図」等によると長清嫡女の女、或いは長清の女とされる。田中教清没後には、田中本家の相続人がいなくなり、東竹甲清の息男である長清は、東竹家を去 って田中家を襲った。このため東竹家は中絶した。甲清の女・龍雲院 加月妙慶 (?~一六〇八) は、長清の妹であり、志水宗清の室となり忠宗・相應院をもうけるが、東竹が中絶したことにより系図には長清の女と記すとある。いずれにせよ相應院は田中本家・東竹家双方ともに深い縁故で結ばれていた。

 長清の跡を継いだ秀清の後継は敬清であり、寛永九年(一六三二)社務検校に補任された敬清には、後室に善法寺舜清の女(正受院)があった。敬清は、病身により田中家嗣子に善法寺家から幸清の次男召清を迎える。ところが寛永十四年敬清と後室正受院とのあいだに実子(幼名久米丸、久米松とも)が誕生する。後の田中要清である。

田中家正統をめぐって正受院と召清との確執が生じる。寛永十七年敬清逝去によって、ついに正受院は久米丸と共に尾張に下向し、相應院との縁故を頼って歎願に及ぶ。正受院と久米丸は、尾張藩祖源敬公徳川義直と二代光友の膝下に留め置かれ、久米丸の養育と勤学の大恩を受けることとなる。

 尾張家からの田中家相続の裁定を受けると同時に、要清は吉田神道に入門し、神道伝授するよう命ぜられる。「神祇宝典」を編纂し、神道に造詣が深い徳川義直及び二代光友の意向によるものである。田中家正統第二十一代田中要清は、万治四年三月二十五歳にして八幡に帰り、田中本家に入る。

(後略 引用終わり)

 

やっと授かった実子に、田中本家を継がせることが出来ないかもしれないという状況で付けた幼名には、可能な限り良いものをという願いが込められているでしょうし、子供も親の願いを知ろうとするでしょう。

それが「久米」ということは、やはり、八幡と「久米」にはラインが出来てしまうほどの繋がりがあるのでは? と空想してしまいました。

 

それはともかく、田中要清は、近世石清水八幡宮で中絶していた放生会・初卯御神楽・御国忌を再輿したそうです。御神楽再輿の成功が、河村秀根による久米舞楽譜の発見に繋がるような気がするのですが、これもまた想像を膨らませすぎでしょうか。

 

私の想像を越えていたことに、かつて金札宮のあった場所だという板橋小学校は、尾張藩の屋敷跡だったことがあります。

京都市立伏見板橋小学校 - Wikipedia に、

「沿革」の項に「1872年(明治5)11- 旧尾張藩邸跡に伏水第二校として開校」とあります。

 

(これで、尾張徳川家と久米とに関係があるといえるだろうから、ラインの中に座す真清田神社の神職家の烏帽子箱の中から、久米舞楽譜の発見されたのは偶然ではないと思える)と安堵したのも束の間、京都市立伏見板橋小学校がある伏見区下板橋町を、昔久米村だった地名として記すものを見ていないのに気付きました。

 

たとえば、鷹匠町(たかじようちよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp) には、次のように書かれています。

御駕籠町(おかご)町・紺屋(こんや)町などとともに、伏見城下町以前は久米(くめ)村で、御香宮(ごこうぐう)を中心とする丘陵地の石井村に対し、低湿地で金札宮(きんさつぐう)を中心とした村落。豊臣秀吉の城下町造成によって久米村の住民や金札宮は立退きを命じられ、堀外の西郊久米町の辺りに移転させられた。その後金札宮は鷹匠町に遷座して、再び伏見の中心的位置を占めるに至った。

(後略 引用終わり)

 

このままではブログにアップ出来ないと思い、国立国会図書館デジタルで金札宮を検索したのですが、冒頭に「神社の由緒はどうして、こう不明確なのであろうか」とある京のやしろ - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) が見付かったりする状況です。

 

けれど、金札宮について関心をお持ちの方へご紹介したい記述にも出会えましたので、次回あたりにアップする予定です。