結局、毎日腹が減りますよね?これって大切なことです

 

毎日寝るし、寝るとなったら、異性ともそんな感じにもなるでしょう

 

今回はよく聞く三大欲について

 

以前にも書いておりますが、欲がないと、欲って消滅させられません

要は、それをどのようにして自己実現して、得るのか、かなえること、その源です

それができないから、欲はどんどん膨らみ、どんどん増え続け、やがては処理できないようなことにまでなったり・・・

 

結論、今回の話としては『毎日やってることですよ』という話です

自覚につながればよし、よくわかんなくてもよし、兎にも角にもちょいと観て見て

 

 

 3つの欲は基本のキ

みたいなものです

結局、生まれ出でた時から、これは必ずやってきているわけです

 

3つとは『食欲・睡眠・性欲』と言われています

性欲は流石に生まれてすぐとは言いませんが、その内醸成されていくものです

性欲も徐々に芽生えるが故に、異性としての興味も持ち始めます

要は、コミュニケーションの質が向上します

なくてもいいんだけど、なかったら、深みがない

 

睡眠はどうか?

毎日寝ずに動き続けられますか?眠たくなりますよね?

たまに睡眠は必要ないとか、はたまた、睡眠はなくてはならないとか、言います

睡眠はいくら粘ろうとも、自動で切れます

つまり、気絶しますので、勝手に寝ます。つまり、どうやっても叶えられていくのです

眠るのは大切なことですし、熟睡できることは非常に健康にも良い、との話もあります

いや、何より気持ちがいいです。なんたって『仮死状態』ですから。毎日毎日死ぬ練習をしているんです。

死ぬのが怖い、というかもしれませんが、みなさん、毎日気持ちいいなぁ、と感じてます。死ぬってのはそうゆうことです

 

食欲は?

毎日食らい、飲み、生きるわけです。もう何年もやってきていることです

美味いものを食べて、飲めることって最高です

そして、毎日行うことです

とにかく腹が減る、水分が減ると、活動は緩やかに鈍くなり、動けなくなります

だから、食べたい、という欲があって初めて食べることに繋がり、その糧を得ています

切っては切れないし、そして、あらゆる人とのコミュニケーションにおいて、必ず食事というのがあります

メシ行こうぜ、とか、呑みに行こうぜ!とか、どこどこで美味いラーメン屋が・・・とか

共通し、共有できて、なんなら国も関係なかったりするのがこの食欲であります

 

 

 大雑把にいうと

食欲は特に必要なものではないか?ということです

 

性欲は別になくてもいいわけです

何人もの偉人で、童貞や処女だっているわけですから、あってもいいけど、別に、みたいなものです

 

じゃあ睡眠は?

いよいよキツくなったら、自然と落ちます

なくてもいいとかではなくて、そうなるものです

で、これに関しては個人的なもので、共有を図るようなことはなく、気持ちよさ、あとはその日の整理をして、忘れる、ということでもあります

 

食欲は?

ないと1日やり過ごすのも大変です

寝て誤魔化すのもありますが、結局寝るのも体力を消費しますから、腹は減る一方です

というか、コミュニケーションをとる上でも、生命をつなぐにしても、幸せを感じるにしても、食欲は必ずついてまわります

第二次世界大戦時の本や映画などでもありますが、とにかく食料を探し回って、とにかく口に入れようとする、口にできるものはなんでも入れる、とか、あるいは少ない糧秣を分け合い、なんとかその日を生き延びる、とか悲惨な描写もあります

寝るより、性的なことより、何より極めて生きるということに直結しています

そのくらい重要かつ、欲の原動力ともなっています

 

であるからこそ、食というのは欲を達成するサイクル、プロセスを自覚し、己が何を食いたいか?どういうものを食ったらとにかく幸せだろうか?ということを、毎日毎日やっているわけで、もっというと、己の表現をしている、とも言えます

 

まぁ賛否はあるかもしれませんが、私はこう思うし、結局は食欲を達成できれば、睡眠もより充実するし、性欲も結局、デートやらなんやらで、達成しうるのではないか?とも言えます

別々ではなくて、つながってんですわ、という話

あとは、達成できるからこそ、欲望が増えて増えて仕方ない、みたいなことも実はないんですよね

きちんと落ち着く、というか、それでまわります

食って寝て、やって幸せなら、他になんか入りますかって話です

究極だと思います

 

最近、食べるのが、無駄な作業であり、粉でいい、みたいなのをどっかで見ました

悪いけど、どうやらその人とは友達にもなれそうにはないです

体だけ活かせればそれでいい、なんて人とどっか行きたい!と思うでしょうか?

 

 毎日やっていること

です。

結局普段やってはいますが、これってとんでもなくすげぇことであります

 

より美味いものを自分で工夫して料理ができるようになると、もう外で飯を高い金を出して食うこともなくなるわけです

むしろ自分が誰かに提供できるわけであります

 

バーベキューとかその際たるものであると思います

最高でしょう。ただ外で肉とか焼いて、酒飲んでワイワイやるだけで、とんでもなく面白いではないですか

 

それは置いといて・・・

毎日の中で、そのプロセスとサイクルは、実現しています

自分で叶えています、毎日毎日

誰かや、仏や神様が叶えてるんじゃないです

 

実はこうゆうことが『己が神仏』ということです

自分で叶えちゃってんじゃん、と

だったら他のこともやれんじゃねーの?となるわけです

 

だからその原動力が『欲』です

パッとしない方には『Want(〜したい)』ということです

しなきゃいけない、すべき、やらないと何々が・・・ではない

己がやりたい!とすることを『やった』から『何を得たか?』であって『また今度はこうしたい!』ということが、スンゲェ大事なことなんです

それって全てに同じです

でもそれは無自覚に毎日毎日やっていることなんです

 

だから『あんたは偉い!』ということです

 

あと、またこのやりたい、と、やらなきゃ、については記事としましょう

 

 

 終わりに

 

あなたは、私も含めて、毎日毎日、何かを叶えて、得ています

そして、3つの欲は皆誰であっても叶えています

 

性欲も、睡眠も、食欲も叶えた時どうでしょうか?

ほとんどの人は『気持ちがいい』『幸せ』『楽しい』という感覚を得るかと思われます

 

そうです

かなえるということは『幸せ』そのものを得て、さらに追求して行ってるわけです

 

不幸になりたいなら、そのサイクルを断てばいいだけです

簡単でしょ?

幸せになりたいなら、回して回して回しまくることです

簡単でしょ?

 

と、いうことで今日もまた、仲間と酒をたらふく呑んできます

ではまた!

 

 

あれもしたい、これもしたい、もっとしたいもっともっとしたい〜、なんて歌詞ありましたよね

歌詞合ってますかね?


どうも、久しぶりに書きますよ


人生は短い、光陰矢の如し、ともいいますが、一瞬なのです

と、いえるのも、地球や宇宙が誕生して何年経ってるでしょうか?もう途方もない昔のことです

で、今ここにいて、それをみるとほんの一瞬なのです、人生とは

あらゆる万物も、そのスケールで測ってみると、一瞬です


テーマにありますように今回は実行・実践についてです

結論

『やらなきゃなんにも変わらない、得られない』ということです


やりたい、を『やった』にし、それによって何か得られること、がとっても、というか超絶重要なんですわ


煩悩の話


煩悩とはよくいいますし、聞きます。エッチな事ばかり、あれが欲しい、これが欲しい、あれしたいこれしたい、あれ食いたいしあれが飲みたい、など、人の欲は尽きることはありません。

人だけじゃない。他の種も欲があります。


これが煩悩であって、あるいは迷いだとか、悩み、だとかいいます


なんでこんなのあるんですか?と問いたくなったことはないですか?

無欲にして、何にもしない、無心無念の境地、というのが素晴らしいでしょうか?

欲って何なんでしょう?


はっきりいいますと、欲がないと、欲を無くすことはできません


は?


と、なるでしょうが、本当のことです

だって偉人先人は、そのことを語り継いでいますし、なにより、普段から、それ、やってますから


無心でなにも思わず何もせずにいたらいいでしょうか?と先程の質問

そのままいたら、なんもせず死にます

だってメシも水も飲まなきゃ身体がダメになりますから


じゃあ普段どうしてますか?という話


普段を思い出しましょう。なんなら今日でもいい。

朝起きて、トイレあるいは水を飲む、あるいは洗面する、などのこと

トイレにいきたい、水を飲もう、顔洗って歯を磨きたい、なんてことも思いもしないで、そうしたいからそうするわけです。

だから、用を足したり、水を飲んだり、顔洗ったりすることを『実現・達成』できるわけです

ようは自分で自分の欲・願望を『叶える』わけです

だから結果として例えば用を足せば『すっきりした』とか『潤った』とか『綺麗になった』という成果を得られるわけです

得られたから、また次にしたいことをするわけです


だから普段から、そのような自己実現をしているわけです

それをしなかったらどうでしょうか?

例えばトイレしたいのに、行かなかったら…ぶちまけてしまいます。


そうです。

つまり、感じて思って、その気になったら、それを『実行・実践』しないとその成果の果実は得られません

それは万事万象全てです


買い物だってそうでしょ?買いたいものを、いつまでも買わないと、いずれなくなったり、モヤモヤして悩んだり、不機嫌になったり、我慢したり…

だから、それを買う!という覚悟があって、それを買うアクションがあるから、それを得られるわけです


つまり、アクションなくて、それは実現はできないのです

わかっとるわい、という方には、次の項でお会いしましょう


では、何故悩むのか?


普段の生活でのことはわかっとるわい、ということですが、仕事や家事、家族や付き合いなど、ソーシャルな、開かれていくと、とかくそれができなくなる。悩み苦しむ。そして、だんだん嫌になり、だんだん腹も立つし、だんだんと自分も嫌になり、やけになる


これなんでですかね?ということですが、これも同じで、自分のやりたい、としたことを叶えられないからです

できない、ということもあるでしょう。やれないこともあるでしょう。


でも、やってないから実現できない、ということに変わりはない。だから何にも変わらないから、何かのせいにする、俺は、私は、こんなにやろうとしてるのに…と合理化しようとする


でも、その実はなんにもやってないのです

言い訳しても、行動しない限りは、実現はありません。

だから、その欲は増えに増え、やがて怒りに変わり、殺意にも変わりおぞましくなる。

その欲は、人か、何かか、己を殺して奪ってしまうほどに増幅するわけです


じゃあ、どうするのか?

やはり、それを実行して『無くす』ことです

達成した時、その欲は何かに変貌します

それは少しでもいい、できる範囲で、何があるか?何ができるか?今、己が最大限にできて、叶えられることは何か?どうなるだろうか?何が得られるだろうか?


自問自答することです

何より、己を動かすのは、己しかいません

その原動力は、心に感じた欲です。それを如何に、どうやって、何ができるのか?と問うことです


壁を、少しでも穿てば、やがては崩れ、乗り越えられるでしょう。でも、なんにもしないと、いつまでたっても壁は越えられない。壁も越えられようにするから、超えられるわけです。

これ、武術にあっては『功夫』といいます。日本だと『工夫』ですね。

なんやかんやと、いろんなやり方指南書や、動画などありますが、実は、この功夫や工夫、要は自問自答して、仮説して検証して、の繰り返し、ぶん回すことに尽きるのです

いやマジで。


不幸より、幸せでしょ。

だったら、それをどう叶えるか、です


では、何故悩むのか?その2

それでも悩むのは、多くはやはり『成功・失敗』だと思います

とにかく失敗を恐れて、無難で、やりたくもないことや、義理でやらなきゃならないから、というように、己の本心から離れていくようなことをしがちです。

だから、本当の私がわからない、とか、何かポカーンとする時だってあるわけです


ここで真実をお話しますと…

『成功も失敗も同じ』です


要はどっちも『実行しないとわからない』ことです


だから、成功しても失敗しても、実は同じ成果です。

だから、それをもって次に何をするか?何ができるか、どうする事ができるのか?という大きな成果を得られます。

とんでもない宝です。

これが『経験』です。

『体感』は『経験』となります。


ちょっと逸れるかもですが、いまだに飲酒運転や犯罪は無くなりませんよね?

これってなぜかというと、根本は『善悪』や『幸不幸』の事がわからないから、だと云えます

だから、それはもうやってみないとわからないんだと思います

犯罪に当たる事が、どれだけ人様にとって不幸か、幸福か?善いことか悪いことか?さらに己にはどうなるのか?

この自問自答、感じて思うことができない、考えられないのなら、やってみてどうなるか、しかないでしょう

それでどうなるか、結果を得てみたらいい

それでもって、わかった時点でもう既に遅い、という場合は多々あるとは思いますが、そうまでしてもやらなきゃわからないなら、仕方ないでしょう


それだけ、今、自問自答して何をしてどうなるか?どうなりたいのか?ということってむっちゃすごいことなんですわ


話を戻しまして…


だから、成功にこしたことはないけど、失敗しても問題ない、それをもって、次にどうすりゃいいか?であるわけです


試験や学歴、検定検査などを検して評することがやたら多くなりましたが、これは己自身で感じたことではありません。単なるデータでしかないし、それでもって自分はだめだ、ということには絶対ならない。

それ以外にたくさん色んなやりたいこと、やれることってごまんとあります。遺してくれた先人達に感謝です。


点数が高い、よく指示を聞いて仕事ができる、成績がいい、いい子だいい子だ…


まぁ、総じて

『やかましい』

と言っちまいましょう


そこでもうひとつ

『己を決めるのは、己自身なんじゃボケナス!』

と歌舞伎ましょう

まぁそこまでいわずとも、その心意気、今風にいえば『マインドセット』でしょうかね


誰が何と言おうと、己は己。己を運ぶのも己。

人や何かに与えることもできるのも、己、です

全部、己、自分自身がやってることです

だから、我々は実は超最高なんです

が、それに自覚がなく、自らを傷つけてしまい、しまいには、人も何かも傷つけてなくし、孤立する


こんなん、幸せか?って話です

何しにこの世に来たのかって?

幸福で楽しむために来たんじゃい!って話です


その一歩、そのひとつ踏み込みことは、勇気がいるかもしれない

しかし、その一歩踏み込めば、二歩、三歩と変化していきます

何回も乗り越えてきたではないですか。

学校に初めて行く時、社会に初めて出る時、彼・彼女に想いを伝える時、いくつもあったことと思います


斬られてしまえ、と覚悟して前に出ないと、実は斬られず、引くと実は刀に斬られます

何故かって?引くと空間を与えます。だから、いつまでも振り回せるんですが、入ってこられて尚且つ密着されますと、あら不思議!全く刀はクソの役にも立ちません。

これと同じです。なんでも同じ。


実践、実行、これなくば、いつまでも斬られ続けてしまいます


私も私自身に言い聞かせ、自問自答しつつ、皆様も、実は、最高なんだから、もっと最高でいこうぜ!何故なら、その心で感じて、思う自問自答ができて、それを実行にうつして、得られる事ができるんですから。これってとんでもねぇことですよ。

霊長類、といわれるのもよくわかります。

あらゆる動物の長であるその心意気を示そうではありませんか。


ということで。


できることでいい。

それがやがて大きな流転となります。


多少の無茶はいいけど、無理はしないように。私も含めて、止まらず励みましょう


それではまたね👋








息を止めて、ずっとそのままでいて下さい


と、言ったら死んでまうわドアホ!


と、なります


テーマのとおり、思考停止とは、それと同じ事です

まぁ思考停止でも、なんでも表現はいいんですが、要は、止まったら終わる、ということです


終わるのは何がそうさせるのか?

己、です。これより他にはありません


結論、止まれば生きてても死んでるのと同じ、ということです

これゆえに、だったらどうすりゃいいのか?

と、いうことですが、主体的に己が実践行動していくほかになんにもありません


と、いうことでこんな感じで展開していきますよ


 PDCAサイクル

とは、聴いた事もあるかと思います

Plan、Do、Check、Action

です

結論、これがぶん回ってるからこそ、その目的やあるいは、やらんとせんことが成されるという循環を表します


行動までの過程と、行動してまたこのサイクルを繰り返しているわけです

で、この行動のアクションというのが、とってもなかなか難しいようで、出来ない人が多い

で、あるから煩悩となり、悟らんとする追い求めるものが、なかなか得られないのであります


車輪は、ボコボコでしょうか?千切れてますか?

円いですよね

止まってるけどいつでも動き出せますし、加速すればどこまでもいけます

これと同じです

いつでも動けるが、動かなかったらそこにいて朽ち果てるだけ、なのです


諸行無常、即ち何にもしなくても、変化し、やがて消えて、やがてまた顕れることを言ってますが、何もせずに、できないから、やってもしかたないから、そう言われたからやるしかない、と己のしたいことをやらずに、年老いてやっぱりやっときゃよかった、といっても戻りはしないのです


時の変化もまた、円の如く周り、止まることがありません


後悔するより、やってみて何か掴めることってのは、とんでもねぇほどすごいことなんです

『実践・実行の話』でも書いてるので、良かったら観てくださいな


 では、やり方ってあるん?

なんだか壮大な感じはするけど、なんとなくわかった、として、ではそのぶん回すのってどうすんの?


と、なるわけですが、それは


・本

・動画

・セミナーや教室へ通ってみる


などありますが、一番はやはり、この人すげぇーなという人の真似をする、です

経験を体感して経験する、これほど素晴らしく手っ取り早いことはないんです


と、いうのが師弟とか、自分のマスターを持つ、ということです


そして、それらは己が自覚した時、全て消えてなくなります

要は、はなっからやり方というのは、存在してるようでいて、存在しません

が、技術やあるものを通して、己の主体を自覚することです

それが、サイクルをぶん回すこととなります

要は行動して初めて何かを叶えてそれが消え失せ、また叶えるために、どうしてどうやって、ならこうやってああやって、やってみて、やった結果こうなった、だから今度は…となるわけです


要はやんないと、なんにもならない、ということです

その過程をいうわけです


 で、どうやればいいの?

と、まぁこうなります


道に入る、とか入道する、とか聞いたことあるかもしれないし、ないかもしれませんが、要は、これやりたい!ということをやってみることです


叶えられるのは己です。それ以外ありません

実は神仏に祈ってますが、神仏は己のことです

わかりやすくいうと、心意気、アイデンティティ、ということですね

ここに神仏があります。

だってなんだって叶えられるんですから


こんなんだったら、突っ立ってぼーっとしてる暇なんてないわけです

だから励め励め、止まらず努めよ、と仏陀も言うわけです


さっさとしないと、人生は短い。

夜も惜しいほどに楽しく生きて、遺して、あーよかったよかったといって命を終えることがどんなに素敵なことでしょうか

80や100歳まで生きるとは言ってませんよ?

明日、いや今日、今日の次の瞬間に死ぬかもしれません。でもいつまで生きてるかもわからないです


そんなものいちいち考えて止まってたらもったいない

死の恐怖をぶっ飛ばして、生きることで何ができるか?

死があるとわかるから、生きてるうちに何かをやって、それは何か、こんどはそれを伝えて教えて遺して、また学んで…ということが、死生観ということでもあります


止まってる暇はないです

暇というものが無くなります


ちゅーか、今『楽しいですか?』と問われた時、楽しいと即答できますか?

これは大変重要なことです


 何よりあんたが…

主人公です


あなたのストーリーですから、あなた以外の人は皆幻です

仲間いれば嫌な敵もいて、一度二度、負けてはどうしたらいいか?と自問自答し、技を鍛え、装備を整え、回復薬多めにして、やっとこさその敵を倒し、壁をこえる、RPGそのものです


他の誰でもないあなたがあなた自身であること、己であること

己の心意気をこれでもか!というほどに開放してみせること、是が超絶重要で、幸せなことです


だから、例えば『勉強しなさい!』なんてのはもう今の世の中むっちゃくちゃ多い

やったことのない世代のおっさんやおばはんが、自分の子どもに、それを強いるわけで


やりもしなくて、できもしなかったことを、やりなさい!なんてよく言えたもんです。あえて、賞賛を贈ります。

あなたは、いいところの〇〇学校に行って、良い医者になりなさい、とか、公務員になりなさい、とか、肩書きを、とか、英才教育は、とか


まぁ待て待て


俺は、お前じゃねぇ

決めんのは俺だ

テメェがやりたきゃ、テメェ自身でやれ


と、いえたら心意気あります

だから反抗期ってのはムッチャクチャ大事なんです


気づいてますか?親のつもりがクソ上司やクソ上官になっていることに

自覚がなかったら実に悲しいことです


ちゃんと自覚し、それに気づければ賢い人です

気づかず、それが良い、と思い込むならただのクズで、いつまでたっても輪廻転生しようとも、クズはクズ。救いようはありません。さようなら。


しかしながら、最近は反抗期すらない子も多いと聴きます

三島由紀夫の嘆きが聴こえてきます


 サーカスの象


有名かもしれないですが、サーカスの象を例にします


象は大きく力もある

勇敢でありながら、父母性もあり、賢い動物です


が、人に小さい時に飼育され、サーカスで見せ物となりました

殴られ、ムチで叩かれ、それができるまでメシも食えない

調教され、お前は〇〇だ!といわんばかりに毎日毎日調教されて、サーカスの芸を覚え込みます

見せ物は大成功。さらなる芸を習得させるため、何度もまた無理矢理練習、調教されます


やりたくもないのに。

逃げればいい、お前は象だからそんなクサリなんてぶち抜けるだろ?

そんなことしたら、またぶたれてしまうから、できない

こうやって、ずっとやりたくもないことをずっとやって、最終的には後悔して死ぬ


という感じです

私なりの言葉で綴りました


こうはなってはないですか?

いつのまにかこうなっとらんでしょうか?


今幸せで、楽しいって言えますか?

言えないなら、己を見つめ直して、出発しましょう


涙溢れても、立ち向かって行こうぜ 

ひたすらセイヤソイヤ戦うんだ 

自分をもっと、心をもっと

全部全部研ぎ澄まして

BABYMETALより抜粋(歌詞ちょっと間違えるかも)


敵はいません

敵は己、それだけです

思考の思とは、思うこと、思わないと考える事もできず、行動にもならない

では、思うとはなにか?感じなかったら思う事もできない

では、感じるとは何か?

己の心にあります。自覚しましょう


 ​おわり


なんだか説法臭いですが、でも大切な事です


私なりの言葉で、伝え遺していけるように、誰が観ても観なくても、昔の人が日記や建造物などで文化歴史を遺したように、できることで、遺していきたい、という感じです


とかいいながら、私自身にも問い聴かせるという感じで書いてます


またこんな感じで書いていきます

観てくれた方、ありがとうございます


それでは






どうもどうも、おはこんばんにちは

 

活動や行動とはなかなか勇気のいることです

それがなんであれ、です

勇気もいればヨイショも必要です

 

が、実践しないことにはなんにもつかむことってできないです

経験って智慧なんですよ、実は

 

ということで、伝統武術の消滅危機をなんとか回避できないものか、と、心意を志すものと、師匠の提唱する『武楽』を元に交流・練習・呑み食いを元に集い、愛媛は松山(師匠)から最東端は私のいる千葉にて、師匠を招聘、心意練拳の志が集い晴れて『CULB XINYI(in CHIBA)』を開催した次第であります

また、さまざまな環境や人々の助けや学びあって成せたのです。いやほんとに感謝ですよ

  今回のCULB XINYIの目的

名古屋に兄弟子もおり、今までは名古屋にて3〜4度ほど開催した実績があります

 

今回は東京に師匠が用事があったとのことで、それに合わせて企画

一から企画しました

 

まずはなんといっても『目的』『目標』の設定です

方針とも言えますが、これがないと、会自体有耶無耶になります

軍事における戦略においても、これがないと話になりません

方針、方向を定め、決定し、一つにまとめるから、各自の自己位置や何をする必要があるか、というプロセスとなるのです

 

・・・と、これは置いといて、今回は東京に所在する、心意を練習する方の招集に成功し、私の千葉同好会、師匠、といことで『交流し、コミュニケーションを育み、繋がること』を大きな目的とし、目標については『各人のニーズを達成すること』かつエンドステートとして『交流を深め、コミュニケーションを通じて、目標を達成し、満足した状態』ということを打ち出しました

  コミュニケーション炸裂

集まる人はそれぞれ共通するのは『武術』でありますが、その他は初めて会う方もいますし、もちろん師匠もです

仕事も環境も家庭も何もかも違います

まさに無から有へと広がっていくわけです

 

と、いうことで練習、の前に自己紹介し、話を交えつつ、練習しつつ、楽しんで行いました

自己紹介ってスンゲェ大事です

何してる人で、どこの人で、どんな人か、その人との共通点や、人となりの雰囲気でわかってきます

主体的に参加者たちは、目的にもあるように交流し、それぞれの心の雄叫びを炸裂させていました

ふれあいってやつです

ふれあうのは、発しないとふれあうことはできません、もとい、コミュニケーションです

 

ライブ感、とはよく聴きますが、まさにそれで、やってみないと何にもわからないし、その中、プロセスにおいて、色んな人の行動行為が観えます

それが本質です、練習に限ったことではなく、その表れ、体現こそ、です

まさにそれにこそ、武術の本質も一挙に現れるわけですから、あら不思議、という感じです

  今回の大きな達成

練習、もさりながら、交流し、楽しみ、また相見えたい、という接点、繋がりができたことは非常に大きな達成です

この接点、伝達や繋がり、などということは、武術において非常に重要です

 

なぜか?

伝えないと、伝わることはないからです

練習自体は、各人のニーズを達成した上で、己で育むものであります

 

その後の宴会も、大いに盛り上がりましたとさ

次の日若干酒が残りましたが

大変素晴らしい1日でありました

 

また、個人的に計画策定、作成も学びになりました

企画や計画や準備などは、大変なんだけど、走り出すと、楽しいのです

仕事でやってんじゃなくて、己の心意気が表現されていく様、プロセスがとっても楽しい

仕事は命じられてやってますからねぇ・・・

無から表れていくのが楽しいんですよ

 

今後も機会があればまたCULB XINYI開催したいと思います

 

  そんなわけで・・・

 

と、いうことで、こんな活動してます&しました、の表明と軌跡を書いたのでありました

 

ではまた!!

 

 

毎度、お久しぶりです

 

私ってご存知の通り、武術を実践しておりまして、同好会も開催しております

 

少数精鋭、とは聴こえはいいですが、かなりの少人数です

 

今回は、消えゆく伝統武術に関して、こんなことしてます、と曝け出そうと思っております

これによって、人を集めよう、などとは思ってはおりません

ただ、そんな活動しているおっさんがいるんだなぁ、くらいで構いませんので、どうぞよろしく

  伝統武術の『伝統』

実践している武術は伝統武術でありまして、要は師匠から弟子に、またその弟子は師匠となり、また弟子に伝承し、教えつなぐものであります

教え伝えていく、と言うのは簡単なようですが、実は糸電話のようなもので、当初あったものは、実は、全く違うものになって伝わっている、と言うことは全く珍しくないのです

 

何百年と伝わり継承するとは、非常に素晴らしく、しかし、かなり難しいものがあります

名を冠するだけなら簡単なはなしですが、それに伴って顕になるのは、実践、体現できるかどうかです

つまり、主体的であり、自己開示、自己実現できる、ということでもあります

 

要は早い話が『やって見せてください』と言われて、少しでもごねたり、迷いがあるなら伝承者としては適ではないのです

というか、そんなの聴く前にやってのけてる、くらいならもう申し分ないでしょう

本質、唯一無二が、あからさまに顕になるわけです

結果、ともいえますが、出たものが結果です

かつ、それが見極める本質ともなります

要は美辞麗句語るよりは、やってみせるのがその人の全てがわかるからです

百聞は一見にしかず、とはよくいったものです

 

即ち、何にも出ないのであれば、それが結果となります

  簡単そうで難しい『伝承』

また、その道というのは、武術に限らずあらゆるものは、自己完結に陥らず、仮説し、検証し、実践し、また仮説する、の連続で、変化し、とどまることがない、いわゆる『功夫(ごんぶー・クンフー)』日本では『工夫』ということが極めて重要です

それなくば、体現や表現などはできません

 

要は、実践・経験なくば体現・表現なし、ということです

 

ここで改めて言いますと、私の実践しているのは、中国武術でありますが、私は日本人で、師匠ももれなく日本人です

伝承とは言いますが、国をも超越しているわけでありまして、これってすごいことなんです

 

伝承することが簡単なようで難しい、とは書きましたが、それに加えて文化や環境、言語も違うとなれば、かなりヨイショが必要です

目的、目標、志、愛やコミュニケーション、それらがなければ、到底できるものではありません

 

師匠から、そのまた師匠のまた師匠の噺を聴き、それを体現し、また学び、楽しむことは大変味わい深く、素晴らしいことです

守護霊っているんだなぁ、と思う時もあります

文化やその当時の歴史なども体感的に感じられます

  なんやかんやゆうてますけど・・・

兎にも角にも、楽しく面白いのであります

これって実は、極意でもあります

楽しくないものって続きませんし、やりません

どうやればいいのか、ではこうしてみるか、少し前と違ったから、こうやってみようか、などということ

楽しむ、とは実はもうすでに、悟りへと入りかけているところであります

なんだってそうでしょ?

 

  だけども・・・

しかし、伝統武術は現代においては消滅危機にあります

簡単な噺、伝承者が少なく、また、そもそも武術というものは現代社会ではなんの役にも立ちません

暴力でいう武術であれば、全くクソの役にも立ちません

 

それでもなんでやるのか?

『楽しい』からです

あっさりしすぎでしょうか?

でもそう言えるものがパッと今でますか?

 

しかしながら、武術や他の伝統と言われるものは、習得に非常に時間がかかります

早くても3年、遅くて死ぬまで

要は、自覚自得しないと、どうしてもものにならないわけでありまして、言葉や、何かを資格を与えたら終わり、ということではないのです

まさに『命を懸ける』ということ、もう一つ言えば『命懸けて楽しめる』ということです

これがなくては、なかなかできるものではありません

 

要は『余裕』がないとできません

焦ってやるものではありませんし、金もないのに出来やしませんし、そもそも身体が悪いとなかなかできるものではありません

 

わかりやすいのが『武士』です

今でいう公務員のようなもので、彼らには時間も金も問題なく、そういったことに費やすことができたわけです

詩やその他の芸事もよくやっていた、と

 

仕事がとんでもなく忙しいなら、そちらの方が大事です

  『道楽』あります?

でありますから『道楽』と銘打っているわけでもあります

ではありますが、やはりなかなか武術やりたい、という方は少なくなってきております

教えている人はそれでも割と多いのですが、なんとも言えません

体系や根拠がはっきりしないとか、やってください、といって表現できるのは・・・なんとも言えないです

系統性かつブランディングってのはとっても大事です

ビジネスだと、それないとなかなか売れないのと同じでもあります。あとその証拠です。

口でそれをいっても何にもならないのです・・・

 

   Mission!『消滅を回避せよ!』

ということで『CULB XINYI』なるものを発動し、開催しました

というか、だいぶ前からやってはいるのですが、各地に散らばる心意を練拳するものを召集、師匠を招聘し、共に交流し、練習し、盛大にあらゆることについてディスカッションしたり、とコミュニケーションの場としても集まっております

私は千葉に現在いますので、先日企画し、目的、目標、各人のニーズを達成し、大変意義深い会となりました

 

ということで、次回のネタとします

 

とりあえず、伝統武術やってて、今こんな感じで、こんなことやってんだなぁ、というのがある程度の人の伝われば、幸いです

少しでもこの素晴らしさが伝われば、ありがたい

活動してます、大きくはないですが、静かに熱くその火は燃えております

 

ではまた次回〜!!

お楽しみに!!

まいど、お久しぶりな感じですかね

罷り通りますよ〜


死生、とは必ず付き纏うものです

と、いうかあらゆるものは循環し、輪廻します

時間もそうだし、天候もそうだし、一年も一日も、朝があれば夜になってまたまわる…

まぁ現象を言葉にしとるわけで、その実は皆同じなわけです


要は、変化するわけでして、止まるものなんかないわけですね

『諸行無常』

はたまた『栄枯盛衰』

など、そのものを表す表現はあります。

本質、同じことです

ぼーっとしてても時間は過ぎていく

確実に死へのタイムリミットは近づいていきます


実に『暇だなぁ』ってことってないんですよ


死ぬのって『年老いて』死ぬとか思ってません?

それを『固定観念』とか『とらわれ』『常識』とかというわけで

今この1秒後に死ぬことだってありますし、明日かそのまたもう少し先かもしれない

予期せぬ死の宣告に、のたうちまわる人もいますが、死ぬなんてことはいつだってあるわけです


まぁ要は何が言いたいかといいますと

『覚悟』と『後悔するな』ということです


『幸せ』を適えるのは己のみ。

覚悟も同じ。ってかなんでも。


死ぬ前に

『あぁ〜あれをやっときゃよかったなぁ』

は、通用しません

死ぬ前に後悔したって戻りません。だって進んでんだから。


時代が〜、とか、親が〜、とか、会社が、なんやが〜…とかって『言い訳』しとりゃしませんかいの?

言い訳ってなるのは全て『やってない・やれなかったことの理由付け、合理化』です


昔のように、お家柄とか、嫁姑だとか、国のために…とかいう時代って大きく変わってます

個人が『発信』できる時代です。

個人事業者とか、会社企業なんてわりとあっさりできてしまうくらいお手軽さです

SNSやブログ、YouTubeなどの筆頭ですよね

己のこれだ!という欲の表現ができるのです


ってくらい今は表現が開放されてるような時代です

もちろん私の道楽である武術もその表現、体現そのものです

伝統武術を遺し、ニーズに合う人に合えばなおよし、生き様を刻む、そのようなものです

デジタル媒体にても今は遺すこともできます

わかる人がわかればいい。だから遺るし、伝わるのです、ってことでやってます


で、噺の元に戻りますと、要は『ちゃっちゃとやらんといつまでも悟らんで』ということ

もうちょい云うと『あっちゅう間に死ぬんだからやりたいことを適えて幸せであれ』ということ


死生というのがあるのわかってんだから、それを越えて、己がやりたいこと、心を開放して、それをやらんと『この世に何しに来たんや?』となるわけです

元々極楽浄土であって、何でもやれるんです、実践して行動すれば

それをやらずに悶々として、文句言ったり憎んだり、はたまた人に迷惑危害をかける馬鹿タレもいる


幸せってのは、苦も楽もぶち飛ばして、これをやるんだ!ということを実現し、かなえていく過程、その道が楽しいなぁ、あるいは達成することを感じることであります

めっちゃ簡単で毎日やっとんですわ実は

ご飯食べるでしょ。腹が減って、うまいメシに酒も呑んで『あぁ…幸せ』って欲を適える

幸せでしょ。こうゆうことです


それと同じで、己の心からやりたいということをやれるのは、幸せなんです

それは『己自身』が決めることです

残念ながら人が決めてくれることなんてありません


『あんたが主人公』なんですから


そして、光陰矢の如し、なんてこともいいます

そのくらい年月や時間ってのは早く過ぎるもんだ、ということです

死ぬ間際にあれやりたいこれやりたいって、何度もいうけど、できません


『いやー最高だ』あるいは死ぬ間際に『最高だった!あばよ!』

と、言えますかってこと

言う時間もないほどスパッと死ぬこともあるでしょうが、大丈夫

さっさと悟って幸せな状態のままでいるなら、素晴らしい

要は『いつ死んでも構わん』というやつ


『我が生涯に、一片の悔い無し』

って、ラオウの放った遺言ですが、やっぱカッコいいですし、生き様そのものです


己で欲を持って欲を適え、欲を断つわけで、暇なことなんて一つもありません

死や生なんてすっ飛んで置いてけぼりにするほど熱く、静かに燃え上がり、龍の如く駆け抜けるんです


だから、人の文句や罵詈雑言、誹謗中傷とか、暴力など振るう暇なんてないんです

悟った者は、そんな事やってる暇ありません

せっせとかなえて、他の人に影響与えて、幸せにしています


くだらぬ言い合い、喧嘩などして時間や健康、できる事など全て棒に振って置いてけぼりになりたいならそうすりゃいい

平等に死は訪れる

地獄って自分で堕ちていくの知ってますか?

まぁいいけど

死んでくれて嬉しいなぁ!って悪い方で言われるより、死んじゃったけどなんかすげぇ楽しかったよなぁ…といわれて感動し、感謝されるのがよっぽど良いでしょ

まぁ死ねば全てから解放されるから、わかりませんが。


もう輪廻転生する必要もないくらいに幸せで楽しんだなぁ!ということが大切です

素直に、心を開いて、やりたいことをかなえていって、何か誰かを少しでも影響し、遺せたらこんな幸せなこたぁねぇわけです

ニーズに適えるのは己、そうするから周りも適うのです

唯一無二ってやつですね


なんにもねぇよ…ってんなら、武術やってみてもいいでしょう

いつでも来たらいいし、嫌ならやめりゃいいですし


お待ちしてますよ


とりあえず、小さなことでもいいから、やってみましょう

小さな変化はまた徐々に大きく変化していきます


ってな感じで、この辺で

一切衆生、皆幸せであれ!



まいど!やってまいりましたよみなさん

 

いつの間にか新年を迎えておりますが、年末にしっかりとフェードアウトして、そのまま新年が到来してもフェードアウトしています

 

しょっぱな、まさかの正月特番が軒並み無くなるってこと今までなかったです

大きな災害や事件が起きており、なんだか自粛しろ!的なSNSでの醜い争いまでみたり。

 

なんだかすぐ自粛退職辞任ってのが多いですが・・・

したところで、何にも変わらないわけで

万で一を潰すのって、いじめと変わりません

 

まぁ、いわゆる『文句』でしかないわけで

 

まぁそんなにいうなら、実際にいくか、見なきゃいいだけの話なんですが、おせっかいなのか、なんなのか・・・まぁほっときゃいいです

 

で、そんなのをある程度ぶっ飛ばせるか分かりませんが、マインドの話です

 

結局のところ、心意気だという話でありまして、覚悟のススメってことです

これ実際にアニソンであるの知ってますでしょうか?

なんのアニメだったか忘れましたが、とにかく熱い歌だったことと思います

今回の災害などのことも踏まえまして、ちょっと書こうかなと思いまして

まさに武術と大いに関係があります

 

何がわかるか?

 

  • 普段から腹を斬ることができる
  • ゆるがなくなる
  • 真の備えということを理解できる
  • 自分以外の誰か、たとえば家族そのもののマインドセットで一つになる

え?

 

どうゆうことかわからなくてもいい!

 

まぁとりあえず行ってみましょう〜

 

 

覚悟のすゝめ 

 

 

普段なんとなく暮らしています

いえや何かが落ちてくるとか、何かとんでもないことが起こるんではないか?

とビクビクしながら生活している人ってあんまりいないでしょう

そんな感じもしないし、なんというか逆に死ににいってるような運転する人や、付き合い方してる人もいます

 

覚悟っていつするの?って思うことはないでしょうか?

今回の災害や事件、これまでの事件事故でも同じですけど、こうゆうのが起きる時って、来ることは当然わかりゃしません

備えが大切だとして、最近だと防災士だとか、防災に関する情報、ハザードマップなんて駅や不動産会社などでもありますし、田舎に帰ってテレビ見ると、カメラでずっと危険箇所を写すチャンネルなんてものがありました

さらには、トラウマになりそうな緊急地震速報がスマホから流れてきます

 

ということでさまざまな働きかけというか、先見的な対策対処の手を講じています

東日本の教訓は、命を懸けて今に生きています

 

映像を見る限りではありますが、耐震構造の素晴らしさなのか、全く微動だにしてない家もありました

震源近くの映像ではなかったのかもしれませんからなんとも言えませんが

 

しかし、それでも起きるのは何故か?

簡単です

わからないからです。これだけです。未来は未だ来てないということですから、要はわからないものはわかるはずがありません

 

シュミレーションをいくらやってもその通り来ることは残念ながらありません

対処対応とは『後手』即ち『後の後』です

起きた後にやることですので、これは反撃と同じです

 

事前にわかるのであれば、自衛隊や警察災害対処部隊や消防その他、防災に関わるいろいろや、訓練もろともの備えという物理的なものは必要がありません

 

即ち、起こったその瞬間とその後についての備えをめっちゃやってるわけです

 

要は『どうしようもない』わけです

じゃあこの辺で終わりますか・・・というわけではないのです!

 

ただ一つ、その恐怖や不安、それらに勇気を以て立ち向かい、唯一の先手、切り拓く太刀が皆にあります

 

それが【覚悟】じゃ!!!

っちゅうわけです

 

 

死生観=覚悟 

 

死ぬのは怖いでしょうか?

でも人間なら誰しも、いや、犬猫に至っても、あらゆる自然のものは死んでは生まれを繰り返して今に至ります

 

実は死あって生があるのであって、ただ生き続けることはできないのであります

不老不死とはよく言いますが、実はこれ死んでるのと同じなわけです

なんの変化も生じないってことは、死んで無くなるのと同じなわけです

 

そして葬式や、幼いみぎりに体験したであろう爺様や婆様や、育てた犬猫などが天に召された時、何をしたか?

 

決別です

ありがとう、と後悔の懺悔をし、泣いて泣きつかれるまで泣き腫らし、別れを告げて、決別するのです

そこにも一つ覚悟があるわけです

この人や、可愛がっていた犬や某の分、その分存分に生きてやりたいことをやろうと、覚悟するわけです

 

仏教や武士道、などに言えば、身も心も捨ててしまえ、とか無になるとか、あるいはとある坊さんは【災害に遭いたくなくば、災害に遭え、死にたくなくば、死んでしまえ】などというのもあります

 

兼ねてより、亡き身と思えばこそ(ちょっと違うかも)

 

と辞世の句を詠んで槍で突き刺されて死んだ坊さんもいます

 

要は、覚悟あればこそ、立ち向かえるのだと

また、覚悟とははなから身を捨てておけばいい、というのをあらゆる教えやそれらの中にあるわけです

最たるものは、武士道に曰く【武士道とは死ぬこととみつけたり】であります

 

実際本当に肉体を失えとはいっておらんわけで、死んだつもりで生きてみれば覚悟や悟りが垣間見える、という話です

それが各種修行の過程であるわけです

 

かなり端折ってはいますがこんな感じです

もっと詳しく知りたい方はぜひ自覚して悟ってください

 

 

普段からの覚悟 

 

 

要は最近でいう【マインドセット】というのでもあろうかと思います

 

なんでもいいんですが、車に乗って運転するとか、散歩行くときであるとか、風呂入る時とか、なんでもです

好きなあの子に告白する、の方がわかりやすいでしょうか?

覚悟するはずです。

覚悟のない輩が健全な付き合いができるとは思えません。

あんたが好きだから、添い遂げてくれないか?と心から申し開く、まさに覚悟です

当たって砕けろ、とはまさにその通りともいえます

もとい、武術とも相違ないのですが、これはまた今度。

 

この時の覚悟、この時の覚悟、というのがあるわけです

 

これが元で武術家というのは臆病ともありますが、臆病とは勇気でもあります、即ち一体であり、それが覚悟です

 

要は、死んだりなんかあっても構わん!大いに参る!!

と落とし前と言いますか、なんのわだかまりもなく吹き飛ばすことが大切です。潔よさとも言えましょう

真剣とも言えましょう

だから前に出られるのです、だって何にもないから

それはまさしく心意気そのものです

益荒男とか、不動とか猛々しさすら感じますが、美しくすらあります

 

武術よろしくなんにでもいえます

 

んなめんどくさいことできるかい!!!ドアホ!!

 

というならそこでおしまい。お疲れ様でした

実際言われた方がいるそうです。

 

したくないならしなくていいけど、なんかあって助けてください、は、ないよ、って話ですわ

 

 

かといって・・・ 

 

 

囚われるわけにはいきません

それこそ本当にめんどいわい、ということ

 

だからその時その時、ここぞというところで覚悟するわけです

マインドセットしちゃうわけです

 

自覚の問題ですので、それは自分でどうにかすることが肝要です

人が知ったこっちゃないわけです

助けてといってその辺の人がすぐ助けてくれるわけではないのと同じです

 

その辺も覚悟、マインドセットなわけですが

 

 

家族だってなんだって 

 

 

マインドセットがあれば覚悟します

というか、時代小説とか、武士の出てるようなドラマ、映画とかみたらわかると思いますが、最近見たのでは浅田次郎のお腹召ませ、など

 

要は、なんかあってすぐ腹切ることになるけども、奥方様にその娘や息子はなんにも悲しむこともなく、覚悟はできております、という感じで、当の本人は『えぇ・・・』みたな話などがあるんですが、そこまで行かずとも、覚悟とは家族一丸でも可能です

 

殉職自衛官の妻の遺族の手紙を見る機会がありまして、そこでも健気で、夫に何があってもその覚悟で、最後にはやはり、皆様のおかげで日本の防衛が成り立っています、ありがとうございます、と結ばれていました

 

素晴らしいと思います

 

未曾有の災害や事件があろうとも、このように、泣き辛いながらも覚悟で立ち上がり、進むことができる人がいるわけです

だから、危険なことも顧みずに笑っていけるわけでもあり、それは最大の愛、かつ支えであります

 

イチャイチャしてるのが愛だというなら、それでどうぞいってらっしゃい

 

 

 

覚悟の養成 

 

なんて方法はないです

実践と経験です

自覚です

 

武術はそれが口訣でもありますし、体現しますし、武術で養うのは心意気そのものです

その道を行けば、何か追い求めるものがあるかもしれませんが、方法はありません

 

自覚です

 

武術でなくとも、あらゆる技術や文化伝統歴史にあります

自己研鑽し、学び、楽しみ、工夫もとい功夫をつむことです

 

功夫はカンフーとは云いますが、アクションやアクション映画のことではないので悪しからず

 

 

感想とか、なんかあったらコメントなど 

 

朦朧としながら書いていますので、なんしか誤字脱字や表現の違いなどがあるやもしれませぬ

 

ご指摘御指南などあれば、頂戴いただきたく思います

 

皆が師匠です

 

よろしくお願いします

 

それではまた!

 

まいど!

おひさしゅうございます。私です。

関西にも在住しており、そもそも四国にいたのもありますが、私実は関西弁が主流な感じでして。

 

まいど!とか、『何してまんの?』とか、軽快な挨拶の中に、コミュニケーションが絡んでいるのが、関西のあいさつです。

例えば、儲かりまっか?ぼちぼちでんなぁ〜とかは今はもはや死語に近い感は否めませんが、こうゆうやり取りって実はすごく大切です。

なんでって?

 

おもろいからやないかい!

 

何を隠そう、コミュニケーションとは面白さ、楽しさです

笑いを必死に取るのではないですが、面白くて自然と笑ったり喜んだりすることが大切です

 

この素直で、かつ、純粋無垢な心から表現として素直に通って出ていくこと、これが誠に肝要なのであります

 

面白くて、楽しくコミュニケーションできるのは『簡単』かつ『容易』、誰でもわかって、心で感じること、です

複雑に考えるようなことではなく、多大な情報量を叩きつけるのではなく、ふれあえる容易さ、とでも言えばいいでしょうか。

たとえていうなら『老若男女皆わかる』あるいは『子ども老人でも共通してわかる』というような感じです

 

面白くない話、例えば学校や講義の時間、机に伏せて寝てたそこのあなた、観えていますよ。

でもこれはその通りです。

要は、心から聴く姿勢、つまり傾聴とは心より顕れます。

つまり、心からつまらん、必要ないと感じれば、そのまま寝たりするわけです。

 

で、先生方はこのように言います

『真面目に聞け!!』と

実はどっちもどっちなんですよね

聴く方もそうなんですが、聴かせる方もただラジオみたいに言ってるだけだと、実は教えることになってないんですよね

まさに機械的で、心意気を感じません。

教育とは言いますが、あんまり教育ではないのが今の学校という感じです。

単なる義務で、卒業して肩書き得るのにいく、では学校というのは全く学校ではないわけで。

なんか、部活しにいく、みたいな感じありますけど、それってどうなん?て毎回思うけど・・・

 

まぁそりゃ置いといて。

 

話がうまいとか、話が聴きたくて仕方ないような人って、大抵どうしているか?

 

私の感覚で恐縮ですが、やはり、聴きます逆に

例えば『これはどう思う?』とか『どう感じる?』とか

合ってても合ってなくても、なんでもいい

全てに『面白いね』とか『それはいいなぁ!!』とか

要は、心と思いが通い合う、ということです

つまり、距離はあるが、距離がない。

早い話、ふれあい、です

 

私の職場は現代では信じられないくらい固くて古臭い職場ですが、例えば、プレゼンでパワーポイントを使用します

 

このプレゼンの資料が文字でびっしりです

まぁ、読みにくいし、同じこと何回も書いてるかと思えば、それいるの?みたいなことまで

結局内容はほんの少しのことでして、オチとしては『結局何の話?』とか『結局あの件はどうなってんの?』的なことで、実はあんまり意味は成していなかったりします

本人はものすごいやり切った感があるようですが・・・

 

要は、どれだけすごかろうと、伝わってないとあかんわけです

紙で図を書いてささっと話た方が、よっぽど簡易に、しかしかなり明確に伝わることもあります

 

文字量とか、表現が横文字系のいわゆる意識高い系の伝え方よろしく、ちょっとすかしたのも、本人はニンマリですが

他からしたら別の人種と話してるような、そんな感じです

なんなら英語できないけど、国外の人となんとかコミュニケーション取り合えるくらいの方が、よっぽど伝わる気もするくらいのものです

みんなルー大柴よろしく、ちょっとカッコつけたいのかもしれませんが、伝わらんかったら、理解も遠のくわけです

その自我が、本懐から余計に遠のかせる、これこそ『愚か』で『邪』です

 

で、じゃあどうすんねん?ときたところで、元に戻るわけです

そう、『子どもも爺さん婆さんも、同じようにわかる』ような伝え方です

やり方や技術ではなく、その心です

専心したとき、それは道となりましょう。

 

固くて難しい言葉や表現ではなく、簡易でわかりやすく伝えることです

もとい、これは何をさすかといえば『己の気づき』であります

つまり、わかってないと簡単に小さくまとめることなど出来やしないのであります。実は。

 

つまり、本質的、とも言えます。

一言で顕す、ということでもあります

しかも、即答で。

これはきわめて大切です。

つまりなどなく、水の流れのごとく出てくること、これが非常に大切です。

 

で、大切なのは知らないわからないことはそのまま言えることです

これがなかなか言えない人多いんですが、全てを捨てることです

カッコつけない。

かっこよさとは、カッコよくしないから、顕れてみえるものです

まぁカッコよさはどうでもいいんですが。

 

複雑はすなわち簡単、簡単は複雑です

複雑は複雑、ではいつまで経ってもわかりませんし、簡単は簡単、ではいつまで経っても進みません

簡単と複雑は2つであってひとつなわけです。

 

で、もっと言えば難解な話で合っても、本質を見抜いてしまえば、それでいいわけです。

要は、こうゆうことですか?と

それが会話や表現、もとい、コミュニケーションの循環ともなります

考えるんではなくて、感じることです。

無にして心から聴くこと、まさに傾聴、至誠は姿勢です

 

で、さらに言えば『嘘も方便』とも言いますようにつまるところ『譬え話』をするということです

もっとも足るのは『自覚を促す』これにあります

かの仏陀もこのように譬え話で説いています

つまり『教えず、教える』ということであるわけです

『あ!なるほど!そうゆうことか!』ってな時、けっこう嬉しかったりするでしょ?あれです。

 

まぁこうゆうこともあり、意外にも、私の話は面白い、なんてことも言われたりします。

皆が皆ではありませんし、決して多くではありませんが、そう感じて言葉に出して伝えてくれる人もいるわけです。

 

誰でもわかるでしょう?

『ありがとう』というのは誰にだって通じてかつ、幸せな心になります

こうゆうふうに伝え、分かち合うことは、とっても素敵なことであります

 

ありがとうとか、その表現を疑心に取ってしまうのなら・・・少し休んだほうがいいのかもしれません

徹底的に離れて断ち切り捨てることは、とっても大切です

 

ということで、こんな感じでフェードアウトしていきます

また、気が向いたら書きたいと思います

いい酒を買ったので、呑みます。

それではまた。

 

 

 

 

色々昔書いてたブログ内容を観てると、まぁなんというか口が悪いというか、なんというか、けっこう語気強い感じしますし、適当な事書いてんなぁとか、若いなぁとか、書く事なかったんだろうなぁとか…色々感じ思うところがありまして。


まぁそれも消さずに『変化』として観るとまた、あぁなるほど、となるところもあるわけでありまして。

あんまり観なくていいけど、観たい人は…。

晒すって事も大切です。嘘とか隠す事がないというのは、大変素晴らしいことです。

と、いうか本音は消すのめんどくさいだけですが。


…まぁ、今は特にそういったデジタル媒体、クラウドデータ云々、書き残したり、何か表現したものは遺して観ることのできるようになってきています。


大昔だと、絵や書簡や本などですが、どうやっても朽ちてきたりしますから、大変貴重になります。

まぁみんなが観て学べるというのは同じなんですが、手軽さがやっぱりちゃうわけで、それも変化なわけです。


要は本質は変わらず、しかし周りは変化する、ということです。


こうゆうことは武術武道においてはもちろん、仏教宗教、まぁ簡単に何にだってあてはまります。

極めて大切なことです。


変化を感じることは日常です。気温や雰囲気、体調に、例えば髪が伸びるとか、爪が伸びるとか、伸びたら切って短くなるとか…e.t.c


とにかく何にでも当てはまります。

ちょっとした変化を感じることって、武術においても非常に大切なんですね、実は。

己の感覚であったり、日常普段で、なんか今日は雰囲気がおかしいとか、いわゆる…殺気!なにやつ!

というのもそうゆうことです。

でも感じようとしてるなら、何にも感じません。

感じ取る、感得する、みたいなことの方ですね。


変化する、つまり、見えるものとか、聞こえるとか、存在するもの全ては、変化し、変形し、壊れてまた顕れて、の繰り返しである、ということです。


それゆえに、本質とか、いわゆる心意気だとか、魂とか、そういったものがまた非常に大切になります。

中心とか中道とか、それらがあって、変化となる、とか、そんな感じです。

まあここでは割愛。


いわゆる『陰陽五行』とか『両儀陰陽四象八卦』とか、そんな感じです。

体現と体感、気づくこと、工夫を重ねて、また分かる、みたいな。

これだって変化していってるでしょってことです。

でも、志とか、修養する心、心意気などそれらは固く合わさり、砕けない、みたいなことで。


まぁピンとくればピンと来るし、来なければ来ないでいいです。

感じるということがとても大切だよって話です。


今ここにあるということも、例えば今の職場も、入った当初は全くそんなつもりもないけど、気づけば今の場所にいてとか、酒も呑まなかったのに、今ではものすごく呑んだり、それでいて幸せだと常々感じることができたり。

変化してんなぁ…と。


でも、志というか、心意気というのは、武術と師匠に会ったあの時、スパークが走った時から変わらずというか。

それをもって、あらゆる変化、工夫、気づき、学び、それらが今の今まであるわけで。


大変面白いわけであります。


とにかくぼーっとしてみると、ハッと何か変わったことに気づくかもしれません。


あと『ゆうてた事が変わるやんけー!』というのは非常に嫌がる人もいますが、それも変化です。

当然変わります。変わらない事がないので。

変わることもあれば、その心変わらず、ということもあります。


要は、そうあってもなにがあろうと、決断実践のみなわけです。

止まれば、何にも顕れたり動きません。

この道を、行けばわかるさ…というやつです。


まぁ色々書きましたが、実はこれだ!これなんだ!

みたいなのがないと、いわゆる入道というか、その道に入るというか、こうゆう感じの事があんまりわからないわけで。

また今度書けたら書いてみようかなと。


本日は、こんなところで。

体調が実は悪く、こうしちゃいられない、さっさと寝ないとって感じなのであります。

とはいえ、改善していってるのは、感じます。

まぁこれも変化を観じ、感ずるということで。


ということでこの辺で。

さらば。



学んでいれば、あるいは、仕事してれば、なんにつけても、教える立場に転換します

私は武術を教えてますが、当然仕事でも教える立場になることだってあります

仕事でなくとも、なんにしても、伝えて遺すとか、伝えて感じてもらう、とかってのは、大切というか、コミュニケーションの真髄ともいえましょう。


ここにて教学ということがありますが、これは中国武術ではまさにこれをいうわけで、教学とは読んで字の如くです。

教えて学ぶわけです。教わる方も教える方も。


 驚愕の教学


まさに教学は驚愕なわけです。


教えるからって、もう教わることはないってことはありえません。

変化悟りは絶えずあります。

無常だとか、輪廻だとか申しますが、要は定点で止まってるようなことって、存在しません。

この辺は仏法や哲学の話となるので、ちょいと置いておきますが、要は存在するものは、存在しない、つまり、変化し続けるから、そもそも無い、ということです。


教学の話に戻りますと、私も師匠から

『よし、もうお前教えてみろ』と、ある時ふと言われたわけでありまして。

それから、アプリなどを駆使して、同好会やってますと、ちょくちょく宣伝し、なんとか今までやっとるわけであります


人は非常に少ないです。手で数えられるくらいしかこれまで集まってませんが、そうゆうもんです。

と、いうか人の数はどうでもいい。

志とか、覚悟というか、その決断実践によって来たのが大切です。

そのあといてもいなくてもどうでもいい。

来るもの拒まず去るもの追わず、まさに本人の心意気にお任せしとるわけですね。

宣伝文もそんな感じで書いてます。

が、まぁ全然来ませんわ。まぁ全然いいんだけど。


まぁだからゆえに『同好会』と銘を打ってるわけでもありまして。

同好会というか、クラブ活動というか、そんな感じです。


 ​教えて学び、教わって学ぶ


そんなこんなで、教え始めたもの、教授許可出てだいたい4年か5年くらいだったかなぁ…と思います。

仕事がとても忙しい時期で、それどころではなかったのもややありますが。


教えてみるとあら不思議。

自分でも思ってもないことが、するする出るではないですか。

やってみて、ものすごい衝撃に駆られることもあります。

あぁ、まだこれはわかってないなぁ、ということもありましたし、要はやらんとわからんことがたくさん気づけたわけです。


そして、教えることの大切なことは『教えない』ということです。

手取り足取り具体的に教えるのって、ダメとはいわんが、ダメです。


早い話、自覚しないでしょってことです。

結局、己で悟らないと、何にもならない。

昔なら、師の動きを盗めとか、観て盗めとか、真似てみろ、とかそんな感じの事聞いたことないでしょうか?

いうなれば、それです。

伝統といわれる武術なりなんなりの伝達方法は、まさにそれです。

つまり、言葉や言動とか、それらを超越します。

むちゃくちゃ大袈裟にいうと『超能力』的な事といえましょう。


師匠もそうでしたし、師匠の師匠、そのまた師匠もそうだったわけでありまして。

だからゆえに、自覚するから、極めて深い気づきを得て、顕れることに直結する、わかりやすくいうと、神に残る、神経を鍛える、みたいな感じをいうとわかりやすいでしょうか。


で、そうゆうことで、教えるが教えないわけで、色々やってると『こんな感じ』とか『なんとなく』とか『そうじゃなくて、こう』とか『〇〇が〇〇の如く』とか、そんな感じになるわけで。


感覚に鋭敏というか、言葉がわからなくても体現を通してピンと来るとか、そんなこともあり、非常に奥深い魅力があります。

教えながら、またさらに悟るわけです。

教えられる方はどう感じてどう思ってるか知りませんが、凝りも飽きもせず来てるほんの数人は、少なくとも楽しいのではないかなぁー…とは思います。


 ​まったりやりながら、一瞬の気づき


わからせてやる、とか、理解を強要するとか、具体的に掘り下げて解説しまくる、とか、必ずできるようにする、とか、今の現代社会では特に『タイパ』なんていいますが、その全く別の次元のところに伝統武術はあります。


別に長い時間をかけてやっとできるもんだ!というわけではありません。

悟れば極めて一瞬です。

それがわからないから、気づいたら死んでた、みたいなのが多いわけですが、長い時間をかけて悟り続ける、つまり、工夫を積み重ねることです。

短い時間では、感覚に任せて、ハッとするとか、つまり、考えすぎたり、ややこしく複雑にしない、というようなことが大切です。

それが積み重なるから、長い時間をかけて気づき続けていく、みたいなことになります。

悟るから、悟り続ける、みたいなこと。


 ​自己完結は『伝言ゲーム』


恐ろしいのが自己解釈、自己完結してしまうとそこで終わるわけで、これが元でいわゆる、亜流が発生します。

つまり、伝言ゲームの如く、全く別物のこととなって流布されていくわけです。

これがきちんとできないと、伝えたことと全く別のことになるわけでして。

武術界隈なんて極めてその影響が甚だしい感があります。

間違ってるとか合ってる、のは置いといて別のものとなってることにほとんど気づかない、ということがまずいわけです。


伝言ゲーム知ってますか?

若い子はもうそんなもんやらないかなぁ…

あれできちんと最後まで合ってることってほとんどないわけです。

単なるちょっとした遊びですら、そのような事を垣間見るわけですから、当然他でも同じようなことにもなるわけで。

針に糸を何本も綺麗に通し続けるほどに実は難しかったりするわけですな。


だから昔は一子相伝とか、家に生まれる者にしか教えず外伝しなかったわけであります。

もしくは、師が認めた者。契約でもあります。


言い換えると、師匠とのコミュニケーションは、師匠もしくは、己が朽ちて死ぬまで続くとも言えます。

それほど惚れ込むような、心意気は、まさに秘伝というか、あるいは極意ともいえます。


 ​師そのものに惚れ込んでみる


こんな話もありまして。

某日本武術をやってる方がいまして、その方にはたくさんの弟子がいました。

いろんな弟子がいる中で、本当にセンスもなんにもないし、なにをやってもとにかく覚えも悪く、鈍臭い。

が、とにかく熱心で、とにかく私のところに来てあれやこれや、または身の回りのこととか気遣ったり、とにかくその心意気はとにかくあると。

出来は悪いとしても、やってる内にハッとすることがあれば途端にわかるもんです。

だから、その方に継いでもらおうと思います。


というような事を聴いたことがあります。原文ままとはいえませんが、確かこんな感じだったような。

まさに上記の通りで、結局は、伝え伝わるもんですから、いくら『技術』はできようと『技術』だけできてもなんのことはないわけです。

熱心だからといって、熱心なのがいい、とか悪い、とかのことでもありません。

聴いた話ですのでなんともいえませんが、その過程の中にその師と弟子の感得するところがあったのだと拝します。


コミュニケーションも然り、心意気とは内から外、外から内、つまり、心からの表現でもあります。


言葉や頭や知識や情報だけでは、実は何にもわかりません。

なんにつけても、心の奥底より顕れ、心の奥底で感じ取り、学び、伝わり、理解し、繋がり、気づくわけです。


教学だけではないですが、要は心というか、その摩訶不思議さ、奥深さ、魅力などを、武術というアプローチで体現し、深い気づきを得て、いい年したおっさん達がやって遊んでるわけです。

それは単に武術やってる時間だけの話では無く、いつ如何なる、日常において、ということです。


限定的にやったところでなんの事にはなりません。

これはなんだって同じです。


 ​己で育むこと、自覚すること


教えてて何度も言うことの一つに、ここでしこたまやったって、なんのことにもならない、だから持ち帰って自分で育んで下さい、と。

ここでやるんは、ただの動き。

あとは適当に色んなことくっちゃべってるだけ。

自覚しないと、単に時間とここまで来た交通費の浪費でしかない、と。

その過程にこそ、極めて深い魅力、奥深さ、気づきがある。ここに楽しむわけである、と。


よくもまぁ、こんな偉そうにいってるもんですが…

でもこんな感じです。大切なことです。


習いを外れるとか、捨てるとか、武術武道のむかーしの本などにもありますが、こうゆうことです。

気づけば、それらが剥がれ落ちるわけですね。

いつまでも教わった言葉やなんやに引っ張られてると、なかなか。

自覚するのはまさに、ちょっと簡単に言い換えてみると

『やったことを、やらなくていいようにどうするか』または

『練習してることを練習しないでいいようにどうするか』

『訓練も訓練せんでいいように訓練するのが訓練』

というような感じの事です。


メモ帳や資料いつまでも見ながら例えば、運転やなんやかんやしないでしょ?ってことです


ちなみに、話変わって、学校や会社のような教える、とはまたちょいと違って、学校会社などは教えるというより

『訓練』『教練』

のが近いですね。

だから、教える、ということにおいては、組織と個人では同じであって、ちょっとちゃいますことをとりあえず残しつつここでフェードアウト…。


 ​読んでくれてありがとう


なんだかちょっと面白く、楽しいなと思ってもらえたら、それ幸いです。

気になる方はイイネを飛び越えて、なんかメッセージでもくれたらいいかなぁと思います。

まぁ、全てお任せします。


ではまた今度。

よろピコ。