長らく、性売買に関して書いてきましたが、そろそろ議論の総括に入りたいと思います。
「判断保留」としてきましたが、どうやら論考の終着点と自分の立場が見えてきました。
但し、ここでの「性売買」は、性風俗店などの、本来売春防止法で取り締まるべき「管理売春」、女性が直接男性に性的サービスをする産業に限り、AVなどのポルノ、キャバクラなどの水商売はとりあえず除外、引き続き判断保留としたいと思います。
ただ、今後も例えとしてポルノや水商売を引くことはあると思いますので、その点ご理解いただければと思います。
まず結論から言いますと、今日から、いえ正確には昨日から、あたしは性売買反対派になりました。
元々若い時は反対でしたからね。
セックスワークの考え方はやっぱり馴染まなくて無理してたのです。
死刑賛成派から反対派になったことを自覚した日のような爽快な気分です。
こっちも元々若い時は反対でした。
子どもの時の直観というのはやはり間違っていません。「なんか変」「なんかおかしい」「なんか嫌だ」その気持ちを大切にしましょう。
それはさておき。
「ヨーロッパなどでは性売買合法とされている国もあるんだから、我が国でも認めたらいいじゃないか」
と主張する勢力(レッドアンブレラ)があります。事実上認められてるわけで、本来違法のソープランドや遊郭、違法すれすれのファッションヘルスやピンクサロンなどが堂々と営業してるわけですけども、これをきちんと合法にして、セックスワーカーを労働者として認めたらいい、という考え方ですね。
成程、西欧・北欧諸国はそうですね。西欧・北欧諸国の話は最後にちょっと触れて終わろうかと思っています。
しかし我が国を翻って見ますと、自分や家族の学費を払うために、奨学金を返済するために、家族を養うために、或いは、所謂「昼の仕事」の給料だけでは生活していけないから、女性が風俗で働いている、または個人売春(援助交際、パパ活)をしているという実情があるわけです。
西欧・北欧諸国でこういった実態があるとはあたしは聞いたことがありません。
そんな現状で合法化なんかしてはいけないと個人的には思います。
まず一度厳しく規制してその間に社会構造の不均衡を是正するべきです。
何年以内にGGP何位にするとか、最低賃金をいくら以上にするとか、学費は無償にするとか、奨学金は貸与制ではなく給付制にするとか、ちゃんと目標を立てればいいと思います。
女を売り買いしても儲からんとなったらいずれ産業は衰退します。
待遇が悪くなれば働き手もいなくなります。
「わたしたちの仕事を奪わないで下さい」
「台湾では性産業を禁止したために多くのセックスワーカーが路頭に迷ったり、心を病んだりした」
とセックスワーカーの職能団体でレッドアンブレラの方が言っていましたが、それって単に政府の失策ではないでしょうか。性産業を禁止しても、そこで働いてきた人たちがすぐ生活に困らないように、将来的にも別のキャリアや生計の手段を獲得できるように、きちんと補償すべきだったのです。
「性産業を禁止したらセックスワーカーが困るから禁止してはいけない」というのは、「麻薬を禁止したら麻薬の売人が困るから禁止してはいけない」と言っているようなものです。
このブログに「人身売買の禁止とセックスワーカーの権利擁護(アドボカシー)は過渡期には両立し得る」というコメントをしてくれた方がいました。
ペ…ペイレイプが正しいのかセックスワークが正しいのかわからなくなってきた…!! | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る (ameblo.jp)
アムネスティ・インターナショナルも確か両方掲げていたはずです。
繰り返しますが、今の日本の状況で性売買を肯定、合法化し、「立派な仕事」「誇りを持て」「前向きで素晴らしいこと」「誰でもやってる普通のこと」などと美化、正当化したら危ないのです。
「立派な仕事」という言い方もちょっと微妙なんですよねえ。
「そんなのは立派な仕事ではない」と言おうものならレッドアンブレラの論客にめちゃくちゃ叩かれてしまいます。
個人的には、どうも彼女たちは「性売買反対」の考えを「セックスワーカーへの職業差別」だと曲解、混同している節が見られるんですね。わざとなのか無意識なのかはわかりませんが。
その上で私的見解を展開してみたいと思います。ここからちょっと精神的なお話になりますよ。
「立派な仕事」というのが「立派に成り立つ職業」(「立派な犯罪」みたいな)という副詞的意味なのか、「内容が立派な、尊敬されるべき職業」という形容詞的意味なのかでもまた変わります。
あたしは現状どっちも否定します。
前者については部分否定、後者については全否定です。
ここでは後者に絞って話します。
以前、「自分の娘や姉妹が風俗嬢になる、AV女優になると言ったら絶対嫌だ」と言ったら、「じゃあおまえは自分の子どもが介護やゴミ収集の仕事をすると言っても反対するのか」「おまえは職業差別をする人でなしだ」みたいなことを言われた記憶があります。
いいえ。介護職やゴミ収集業、ドライバーなどは副詞的にはもちろん、形容詞的にも「立派な仕事」と思っています。寧ろ官僚や国会議員、大学教授なんて連中よりずっとずっと立派だと思っています。
自分の子どもがそれをしたいと言っても全く反対しないし嫌だと思いません。
しかし、「おっぱい募金」の出演者が「誇りを持って立たせていただきました」と言っているのを見るととてつもない違和を覚え、「この子が自分の娘や姉妹だったらあたしは絶対嫌だ」「自分の娘や姉妹には絶対にこんなパフォーマンスはさせたくない」と思いました。
おっぱい丸出しにして何が誇りなんでしょうか?
どんな誇りでしょうか?
「自分は女性として魅力がある」という誇りでしょうか?
「多くの男性を楽しませている」という誇りでしょうか?
「自分で働いてお金を稼いでいる」という誇りでしょうか?
何にせよ、女性が人前でおっぱい丸出しにさせられること、沢山の男性に触られることそれ自体は普通「辱め」といいます。
古くはレイプのことを「凌辱」といいました。
性売買はペイレイプ(凌辱)です。
支払いを受けて女性の誇りをズタズタにされる状況に置かれることです。
介護職、ゴミ収集、屎尿処理、世の中には汚物に触れる仕事も沢山あります。
でもその人たちは「辱めを受ける」ためにその仕事をしているのではありません。
それに対してセックスワーカーは「辱めを受ける」こと自体が仕事だってことを忘れない方がいいと思います。「誇りを持てないということを商品にする職業」なのです。
「そんなものが職業として認められるか」というのはそういうことであり、あたしが「おっぱい丸出しにして何が誇りだ」と言うのはそういう意味です。
「そんなものが職業として認められるか」というのは、「そんな『職業』に就いてるやつは人間のクズだ」ということではなく、「わたしはそんな『職業』を認めるような非人間的な社会に生きたくない」という意味です。
今までの話と重複する上に苛烈な表現が出てきますが、これまでの議論の総括のためにも、少し視点を変えて書いてみたいと思います。「性売買反対」の考え方とは要するにこういうことです。
【社会構造的下位者で被差別者の「殴られ屋」さんの話】
例えば在日コリアンが「クソチョンコ野郎」と書いた札をぶら下げて道端に立って、
「××円払えば誰でも私を殴れます。悪態をついても服を脱がせても唾や排泄物をかけてもいいです」
という商売をやってるとして、
「これが私の仕事なんです。誇りを持って立っています」
と言ったらおかしいと思わないでしょうか。
仮にあたしが非常に好戦的な人間で、暴力衝動を抑えられないくらい強く感じるとしても、金払って無抵抗な相手を殴りたいとは思わないと思いますが、世の中にはそんな人が沢山いるとしましょう。
で、本人または他の人が「他の在日の人がいじめられないように私(彼)がこの仕事をやっているんだ」「素晴らしい仕事だ」とか言ってたらおかしいと思いませんか。
逆でしょ。そんなもん見たら「在日はいじめてもいいのか」「いじめられても仕方がないのか」「それを商売にするのってありなのか」と思う人が特に若年層で出てくるし、「在日はいざとなったらその仕事しろよ」ということにもなります。
何より、それがあなたの家族や恋人、友だちだったら、いや全然知らない人でも、やめてほしいって思いませんか。
あたしだったら、もしその人が恋人や好きな人だったら、ひれ伏して、泣いて「お願いします、やめて下さい。生活に困っているんだったらお金を貸します。何か一緒に方法を探そう。その『商売』だけはやめて」と懇願します。
夫や恋人だったら「何が誇りや!」と横っ面ひっぱたくかも知れません。いや、だめだ。ひっぱたくのはよくない。
【終わり】
さて、「人としての誇り」と「職業としての誇り」というのはまた違う気がします。
「フロムヘル」という映画を観た時、
「主人公が売春婦を好きになる展開は無理がある」
と母が言ったので、
「彼女はこの時代のロンドンのスラムに生まれて、他に選択肢がなくてこの仕事をしていて、職業としての誇りは持ちようがなかったと思うけど、人としての誇りは持っていたような気がする」
「主人公はそこを好きになったんじゃないかな」
というようなことを思った、答えたことは覚えています。
曾て、自分が実際に体験した労働争議を高校の時から書いてる西洋風似非時代劇に置き換えた小説を書いたことがありますが、その作品にも売春婦が登場します。
小説、しかも自作の小説の登場人物の代弁をするなんてナンセンスかも知れませんが、彼女もそういう風に考えていたんじゃないかと思います。
彼女は自分で働いて子どもを育てていることには誇りを持っている、母親として、市民として、一個の人間としては誇りを持っていますが、男に性を売る職業に誇りを持っているわけではありませんし、特にそれが好きなわけでもないと思います。
本当になりたかったのは歌姫ですし。
何分現代日本の話ではないどころかこの世の話ですらないため、色々限界があるのですが、この小説の中で女性弁護士は彼女の仕事を「労働」と認め、主人公の一人である修道士は「あなたに罪があるとは思えない」と解釈できることを言っています。
しかし彼女自身はというと、「真面目に勤めてるんだから働いた分はちゃんと払ってほしい」と言っているだけで、「この仕事に誇りを持っている」とは一言も言っていないのです。あたしは言わせたくなかった。
あの姐ちゃん、あの小説の中で一番気に入っているのです。
娼婦と聖職者のやり取りもあの小説の中で一番気に入っています。
ナイツ(15) | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る (ameblo.jp)
ナイツ(16) | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る (ameblo.jp)
ちょっとインタビューしてみましょうか。
「セーヤーさん、誇りと喜びを持って仕事をしていますか?」
「そうだね、好きなお客さんも、楽しいと思う時もあるし、童貞の子の筆下ろししてやる時とか、一日に何人もお客さんが付いて沢山稼いだ時はちょっと誇らしいと感じることもあるよ。
でも、普段はあんまり楽しいとは感じないかな。仕事ってそんなもんだろ。正直、嫌な客も気持ち悪い客もいるしね(苦笑)。
仕事に誇りがあるかといったら、ないね。息子が大きくなってもこの仕事やってるのかな、どう説明しようかなと思ってるし、あたしには娘はいないけど、いたら絶対同じ仕事はさせたくないしね」
或いは、セーヤー姐さんくらい洞察力があれば、
「誇りなんてねえよww勉強できねえから体売ってんだよww勉強できりゃ体売らねえよww」
「誇りなんてねえよwwそれを売る仕事じゃんww」
と笑い飛ばすかも知れません。
さて、繰り返しますが、あたしは現状、性風俗店などでの直接的・管理的性売買には「明確に反対」「厳しい規制が必要」との立場を取ることにしました。
西欧・北欧諸国ほど市民社会や民主主義が成熟して、ジェンダー平等がそこそこ達成されて、女性が主体的に自分の生き方やキャリアを選択できる余地が充分に整って、ドメニカみたいな人が出てきてやっと、それも「職業」として認めても良いし、個々のセックスワーカーも「誇りがある」と言い得るんじゃないでしょうか。
ドメニカについてはこちらの最後から二項目参照
ペ…ペイレイプが正しいのかセックスワークが正しいのかわからなくなってきた…!! | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る (ameblo.jp)
アメリカなんかでも一流のポルノスターとかは誇りを持ってやってるかも知れない、と思う。何となく。
簡単に言えば「そんなもん職業として認めたら女が馬鹿にされるだろ」「女が馬鹿にされない社会にしてから職業として認めろ」ということです。
伊藤野枝だって、百年経っても日本の女性の地位が大して向上していないと知ることができたら、あんなに急進的なセックスワーク論は唱えなかったんじゃないでしょうか。
野枝の時代には「不同意性交」という概念もありませんでしたし。