井坂幸太郎さんの小説は本屋大賞に何度もノミネートされて人気もあるのに、自分は読んでいなかった。
だから、いつか読んでみようと思っていた。
こんなに人気があるのだから、面白いはずだ、と思っていた。
そんな思いから、以前、読んでみようと思い立って「重力ピエロ」を読んだことがある。
すると、思い通りではなかった。
自分には、小説の中で書かれているうんちくが鼻についた。
ちょっと楽しめなかった。
自分は井坂ワールドに入れないと思った。
残念だけど、井坂ファンの仲間にはなれないと思った。
だって、有名な「重力ピエロ」を読んでみたんだから。
それで面白いと思えなかったら、井坂ワールドは自分には向いていないということになる。
だから、井坂幸太郎さんの小説は話題になっても自分は読まないだろうと思っていた。
それが、今回あるきっかけから、「ゴールデンスランバー」を読むことになった。
すると、これが面白い。
今頃、こんなこと言っていると、井坂ファンには笑われるだろうが、とにかく面白い。
すごく、というわけではないけれども、読んでいて終りはどういう終りからなのだろうか、というのが気になってしょうがなかった。
終わり方が良かった。
ある面悲惨だけれども、さわやかだった。
気持ちがよくなる終わり方で思わずもう一度読み直して、爽快感を再度味わった。
いろいろな伏線がつながって、最後は気分よく終わることができた。
久しぶりに、本を読み終わってうれしくなった。
この分だと、井坂ワールドに浸りそうだ。
明日が中学3年生の第2回学調テスト(静岡県統一学力調査)の実施日となる。
受験などでは過去の入試問題を何回も解くというのが必須になっているが、この学調テストも例外ではない。
過去問を何回も解いて、傾向をしっかりと体で覚えることが効率よい勉強法となる。
ただ、その過去問を解いて勉強していく方法がしっかりできていない生徒が多い。
また、それほど過去問を解くということを重視していない生徒も多い。
ただ、やみくもに勉強をしようとする傾向がある。
やはり、いちばん効果的な勉強方法は過去問を解くことだが、ただ解くだけでは勉強にならない。
過去問を解いて答え合わせをして、解答に書かれている解説をしっかり読んで、答だけでなくその答えに関係したことを覚えるようにしなければならない。
そして、解説に書かれていることで、まだ理解できていないようなことを参考書や教科書を読んで、もう一度しっかり理解しておくようにする。
このようにして過去問を何度も解いていくようにすると、テストに対して傾向に合わせた勉強ができることになる。
とにかく、明日の学調テストではつまらないミスなく、生徒たちが良い点を得ることを願っている。
忙しいと走り回って、いろいろな物を出して、仕事に使って、それを元に戻す時間がもったいないような気がして、ちゃんと戻しておかない時がある。
ちゃんと分けて戻さないで、後で時間ができた時に分けようと、一つにまとめてしまっておいたりする。
そうすると、その時はいいのだけれど、後が困ることになる。
あった所に戻っていないことになり、どこにあるのか探さなければならなくなる。
永久的に見つからない時もある。
探す時間だけが過ぎていく。
そんなことになってしまうことになる。
その時の忙しさに流されて、後のことを考えず楽をすると、このようなことになる。
だから、忙しく時間と競争しているような時こそ、落ち着いて元の場所に戻すことを意識させなければならない。
そのことは分かっているのだけれども、時間がないとあせる時はなかなか意識してもできないものである。
昔、ある原稿をコピーした。
それから、ちょっとした時間の後、その原稿をまたコピーしたくて、戻したはずの棚の中を探してもその原稿が見つからなくて困った。
ありそうな棚を探し回っても結局は原稿が見つからず、時間だけが過ぎてしまった。
仕方がないので、その原稿をコピーするのはあきらめて、他の原稿をコピーするしかないと思い、コピー機のフタを上げたら、探していた原稿がコピー機に置かれたままになっていた。
灯台もと暗し。
どんなに急いでいても、出した物は元の場所に戻す習慣をしっかりつけなければならない。
コピー機にあった原稿のことをしっかり記憶にとどめておかなければならない。
そのことは、忙しくあせっている時に思い出すように心がけている。
自転車ブームだそうだ。
かっこいい自転車に、かっこいい服を着て颯爽と走っていく。
気持ちいいだろう。
でも、自転車のマナーの悪さも目立ってきているという。
家人が力説した。
この前、信号が青になったので渡ろうとすると、目の前を車道を自転車が走っていって、とても恐い思いをした。
自動車は赤信号で止まっているのに、車道を走る自転車は赤信号無視で走っていく。
信号が青になっても、信号無視の自転車が走ってくる心配をしながら渡らなければならない。
車道を走る自転車はスピードも出ているので恐い。
自分はそんな経験していないし、自転車に乗るのも好きなので、どちらかというと自転車に乗っている人の味方だった。
昔は自分も週に1回は多摩湖まで、自転車で走っていった。
地元では、堤防をスピード全速で走っていった。
自転車でスピード出して走る楽しさも、遠出の楽しさも知っているつもりだ。
自転車乗りの人の気持ちも分かる。
自転車が好きで乗っている人は、信号もしっかり守って走っているはずだ。
信号無視をする人は、ほんの少しの自転車乗りだと思っていた。
でも、今朝いつもより1時間ほど早く家を出て、いつもとちょっと違う道を走ったら、会社に出勤する人で自転車通勤の人の多さに驚いた。
しかも、スピードを出して走っていて、その上多くの人たちが信号無視をしていた。
自動車は赤信号で止まっていても、その脇をスピードを出して赤なのに信号無視で走っていく。
それを見たら、車道を走る自転車は確かに危ないし、恐いという話には納得した。
自転車で走るならば、やはり交通法規は守らなければならないだろう。
昨日も書いた中学3年生の12月実施静岡県統一学力テストの国語について、平成20年度から詩、俳句・短歌の出題がされなくなった。
平成20年度より前までは、詩と俳句・短歌が交互に出題されていた。
詩が出題された次の年は、俳句・短歌が出題されるというパターンが続いていた。
それが平成20年度からは、物語文の文章読解が変わりに出題されるようになり、詩、俳句、短歌は出題されなくなった。
つまり、詩や俳句・短歌の勉強はテスト対策としてしなくてもよくなったことになる。
教科書には詩などは載っているが、だんだんと滅び行くものになりつつあるのかもしれない。
今の学生は詩集を読んだり、詩を書いたりする機会は少なくなっているだろう。
自分が学生の頃など、詩集を買って、読んで気に入った詩などは暗記して声に出してよんでみたりした。
そんなことは、今の学生には、あまりないことなのかもしれない。
書店に行っても、詩集はあまり置かれていないだろう。
「中原中也」「立原道造」「村野四郎」「谷川俊太郎」「田村隆一」など詩集を購入して読んでいた。
その中で、すごくは有名ではないだろうけど、気に入った詩人を思い出した。
「八木重吉」
なんか素直なやさしい言葉で作られた詩に心が洗われた。
さわやかになった。
そんなことを思い出した。
中学3年生の学力テスト対策として講習した平成20年度の英語の過去問の長文が方言について書かれていた。
講習後、生徒と方言について少し話をした。
富士市の方言では、やはり「ら」「だら」が筆頭にあげられるだろう。
「明日、行くら」…明日、行くよね 「そうだら」…そうだよね
こんな感じで、「ら」「だら」を語尾につけて、同意を求めるような時を中心に会話の多くに使われている。
そして、方言がそうであるように、周りでみんなが使っているので、方言だとは使っている者たちは思っていない。
学生達は特にそんな感じだ。
「…ら」、「…ら」と会話には多く使われている。
大学などに行って、初めて方言だと気づくことが多いだろう。
方言は愛すべきものと思うけれども、話す相手に通じなければ、会話は途切れることになる。
雰囲気で相手には何を話しているのか理解はしてもらえるけれど、学生のうちは愛嬌としてとらえてもらえるだろう。
けれども、社会人になったならば、ちょっと考えなければならない。
仕事の打ち合わせなどで、日本各地から集まってきた人たちと会話をする時には、やはり方言は遠慮しなければならないだろう。
今日、東名の入り口で急に過去の事故のワンシーンを思い出してしまった。
東名の下り東京の入り口はETCレーンが右に4つくらいあって、その左に普通のカードを取るETCではないレーンが並んでいる。
前からこれは危ないなと思っていた。
東名に入る時に、ETCではない自動車が追い越し車線を走ってくると、普通のレーンに行くためには、右から4車線くらい左に車線変更をしなければならない。
そのことを知らない車が追い越し車線を走ってくると、料金所の手前で急に4つも車線変更をして左によらなければならないわけだ。
非常に危険な状態になる。
自分もそのような車線変更の車に危険な思いをしたことがあるので、気をつけて走っていた。
そしてある時、その料金所のところを走っている時に、自分のすぐ目の前で、車線変更をしてきた乗用車とトラックが接触事故を起こした。
本当に自分のすぐ目の前で起こったので、映画のワンシーンを見るような事故だった。
あまりにショックだったので、記憶にインプットされてしまったのだろう。
東名のその料金所付近を走ると、時々事故のワンシーンが思い出されてしまう。
物事を覚えるのに五感をフルに使うとよいと言われる。
手を使って、目で見て、声を出して、耳で聞いて物事を覚えるようにする訳だ。
覚えるつもりがなくても、このパターンで記憶に残ってしまうことがある。
ある風景を見ると昔の経験したことが記憶として残っていたものが突然、頭の中に出てきたりする。
昔の音楽を聴いて、その音楽を聴いていた頃のことがよみがえってきたりする。
食べ物のにおいをかいで、その食べ物を思い出すのではなく、食べていたシーンを思い出したりする。
それらのことを考えると、記憶をさせるためのヒントがあるような感じがする。
記憶をさせるのに五感を使うとよいと言われるのにも納得させられる。
風景を見て過去のことを思い出すというのは、思い出す経験が自分にとって刺激的なことになっている場合が多いはずだ。
自分のことで考えてみると、今日ふと思い出してしまった事故シーンは刺激的だった。
記憶を上手く定着させて、効果的に使えたら便利になるだろう。
漫画「テルマエ・ロマエ」ヤマザキマリ著が面白い。
ちょっと「聖☆おにいさん」のにおいがする。
時代は二千年前のローマ帝国の時代。
主人公はルシウスという浴場の設計技師。
物語はルシウスが温泉に引き込まれて現在の日本にやって来て、日本の銭湯など風呂文化を体験する。
その後、来た時と同様にしてローマ時代に戻り、体験した風呂文化を参考にして浴場を設計し造っていく。
そして、その浴場がローマ人に受けて、ルシウスも有名になっていく物語。
現在の日本人のことをルシウスは平たい顔族として自分達ローマ人より下の種族と見下しているが、風呂文化の高さにローマ人としての誇りがつぶされていく。
主人公のルシウスが誠実で真面目一筋という感じも面白くしている。
主人公がローマ時代の浴場の設計技師なんて発想は自分には何億分の1ミリもない。
その点だけでも驚きなんだけれども、そこからこんなに物語が作られていくこともすごい。
3巻まで読んだけれども、2巻めが少しパワーが落ちていて、少しまずいかなと思ったけれども、3巻は1巻のように面白かった。
映画「一命」を観た。
映画「切腹」のリメイクということで、「切腹」は昔観た時に面白かったという感想を持った映画だ。
ただ、内容は仲代達也が最後の方で刀を振り回していた記憶しかない。
そこで、今回の「一命」を観てどんな内容だったのかも知ることができると思って映画を観た。
映画は普通かな、という感じ。
主役の市川海老蔵は歌舞伎役者だけあって、立ち居振る舞いがきりっとしている感じで、声もよく通って分かりやすく感じた。
でも、それだけかな。
まず、主人公達が貧困の中、日々を生きていくのがやっとという感じが見られない。
これが、いちばん映画の中に入っていけない要因となっている。
着物がぼろそうになっていて、障子が破けていても、その中の人間がやつれて生活に疲れている感じが出ていない。
あんた達、ただ貧しそうにしているだけで、本当は裕福なんでしょ。
と言いたくなってしまう。
それじゃあ、ダメだよね。
もっと、観客が助けてあげたいと思えるようではなければいけないと思う。
映像はきれいなんだけど、造った感じがもろに出てしまっている。
急に雰囲気出すために雪を降らせて、その雪が人の肩に落ちてこない。
ちょっとリアリティがなさすぎるかな。
昔、理科の天体の星の日周運動の時刻問題を解くのに基本的なことを覚えて、それを使って考えていけば解ける方法を教えた。
すると、生徒の一人が、それよりも、この時はこうなると暗記した方が分かりやすいと言ってきた。
つまり、暗記をして答が分かればよくて、どうしてそうなるのかは分からなくてよいと言うのだ。
その頃は、それでは応用が利かなくなってしまうので、まずいのではないかと思っていた。
ただ、原理を教えようとしても、生徒の方が分かりにくいと覚えようとしないということも分かってきた。
そこで、逆に暗記して答が導きやすくなるならば、それもありかと思うようになってきた。
これを暗記しておけば、問題が解けやすくなる。
そういうものは暗記するとよいということになる。
でも、ただ暗記するとよいと言っても、暗記もなかなかできないものでもある。
だから、暗記することにネーミングをした。
数学では、ブーメランの法則、バタフライの法則、カラスのくちばし、和ぶんの積、など塾以外で言ったら、何言ってんだと思われることばかり。
でも、生徒たちは、それで教えられるので普通にそれらを法則として覚えて問題を解いている。
ネーミングが悪いと言う生徒もいるけれど、頭には入りやすいようだ。
やっぱり、何にでも名前は必要だということを痛感している。