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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
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生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

2月4日に東京富士美術館にて開催されていた東山魁夷展に行きました。

1月2日から3月4日まで開催されていました。

 

 

昨年の10月ぐらいに急に東山魁夷の絵画をみたいという気持ちが湧き上がりました。

調べてみると東京国立美術館で作品が展示されていることが分かりました。

 

行きたいと思ったのですが都合が悪くなりこの展覧会には行けませんでした。

その時に、この東京富士美術館にて1月から3月末まで東山魁夷展があることを知りました。

絶対に行きたいと思っていました。

 

日本の画家の中では東山魁夷は大好きな作家の一人です。

そのきっかけは大学時代に行った東山魁夷展での衝撃にあります。

入場するのにも、とても混んでいました。

 

その美術展で最後に見た大きな絵画に特に感動しました。

何という名前の作品かは覚えていませんが、大きな森林の絵でモヤがかかっていました。

そのモヤが動いて見えるのです。

 

まるで実際に自分がその実物の森林を見ているような感覚になりました。

絵が生きている。

そんな感覚に体が震えました。

 

それから東山魁夷が大好きになりました。

 

そんな生きているような絵ですから、本物を見ないとなかなかそんな感動は得ることができません。

そこで東山魁夷展などがあるとできるだけ見に行きたいなと思っています。

 

今回の東京富士美術館の東山魁夷展は長野県信濃美術館東山魁夷館が改装のために一時休館することになり所蔵の作品をこちらの東京富士美術館で展示したそうです。

 

 東山魁夷の絵では色が好きです。

何色と言っていいのかわからないのですが、あの 深い青緑の色が好きです。

心が落ち着きます。

 

展覧会のポスターにもなっている「緑響く」について東山魁夷が述べています。

 

「一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った。

―そんな空想が私の心の中に浮かんだ。

私はその時、なんとなくモーツァルトのピアノ協奏曲第二楽章の旋律が響いているのを感じた。」

 

「緑響く」

 

古今東西、画家と音楽はシンクロしているようです。

絵を見て音楽が、音楽を聞いて絵が浮かぶようです。

 

今回の美術展では「静唱」が心に残りました。

作品名のように絵を見ていると 、早朝の霧深い木立の中に心が洗われるような音楽が響いてくるようです。

 

「静唱」

 

どの作品もそうですが、図録などを購入して見てみると残念ながら微細な色の変化が表現されていません。

ですから残念ながら感動も図録からは得ることができません。

 

だから美術展に行って本物の絵を見るしかないのです。

 

 

新中学1年生は今まで小学校で最上級生だったのが、新学年では学校の最下級生になってしまいます。

 

その点を上手く気持ちの切り替えができるかどうかも新しい学校生活に順応できるかに関係してきます。

周囲の者はその辺のことも気にかけておく必要があります。

 

勉強面では中学1年生に関しては、小学生の時には勉強ができる人できない人が漠然としていたところを定期テストが実施されることにより、はっきりします。

 

その時に注意しなければならないのが、小学生の時に自分は中位くらいだろうと思っていた人が中学生になったからと気持ちを入れ替えてがんばってテスト勉強をした結果、上位になった場合です。

 

上位になったから、次もがんばって上位を目指して勉強しようと思うならばとても良いことです。

 

ですけれども、自分は上位なのだと安心してしまい、次回には前回のような意気込みではテスト勉強をしなくなってしまう人がいます。

 

この場合、次回のテストにおいて中位くらいになっても、それが自分の実力なのだと納得してその次もがんばってテスト勉強をしなくなってしまう傾向があります。

 

最初は中学生になったからと気分一新がんばって勉強したのですけれども、そのがんばりを持続するのは大変なことだと思ってしまうわけです。

 

上位に行く力はあるのだけれども、そのための勉強は嫌だということになります。

 

それが実力だと言えば、そういうことになりますが、ちょっともったいない気持ちになります。

 

ですから、中学1年生においては、第1回目のテストも大切ですが、2回目のテストに注目しておくべきです。

 

そして、2回目のテストは1回目のテスト以上にテスト勉強をして、1回目よりも良いテスト結果にすることを目標とするべきです。

 

新高校1年生に関しては、入試に合格して高校に入学してきた生徒の集まりですので、大半が自分と同レベルの学力を持った生徒と考えてよいことになります。

 

つまり、小学生からスライドして中学生になった新中学1年生と違って、新高校1年生は学力においてはスタートラインがほぼ同じと考えられます。

 

このことは、高校生になってからの勉強によって上位になったり、下位になったりするということを意味します。

 

つまり、高校生になってからの勉強が重要になります。

そのことは十分分かっているのですが、現状では意気込みはあるのですが、実行がともなわないのが実状です。

 

高校生になると中学生の時よりも自主性が重んじられますので、自分のやる気次第で勉強するかしないかが決まってきます。

その結果、自分からはなかなか勉強できないのが現状となります。

 

その中で、勉強することができれば中学の時よりも成績は上がりやすくなります。

 

過去に高校生になっても当塾に通っていたA高校にギリギリで入学できたとされる生徒に夏休みに成績を聞いたことがあります。

 

その時の答えは、入学した時は確かに下位の方だったけれども、今は中位だという返事を聞いてびっくりした経験があります。

 

この生徒は自分が下位の方で入学しているという認識を持っていたので、高校の勉強をしっかりやった結果がそのまま成績に表れたのだと思います。

 

その逆にB高校も入れるレベルの生徒が受験勉強をしたくないからと言って、一つランクを落としてC高校に入学した生徒がいます。

 

この生徒は高校に入った時は上位でしたが、夏休みを過ぎた頃には中の下位になってしまっていました。

 

勉強したくないからと言ってランクを下げて高校に入っても、高校に入ってからも勉強しないと、実力はあっても成績は残念ながら下がっていってしまいます。

 

つまり、高校の成績は高校に入ってからの勉強量に比例することを自覚しておくべきです。

 

 

 

3/25(日)に小石川後楽園に桜を見に行きました。

午後1時ちょっと前に入園して、午後2時45分頃に退園しました。

 

入園の時にはそれほど並ばなかったけれども、退園する頃に入園するために並んでいる人達を見てびっくり。

門の外の歩道を折れ曲がって長蛇の列。

 

園に入ってすぐの桜はちょうど見頃で、多くの人が写真を撮っていました。

奇麗さが豪華なので、みんな写真を撮らずにはいられなくなります。

網膜に焼き付けるより、やっぱりカメラということになってしまいます。

 

 

 

 

園内をぐるりとまわると結構歩くことになります。

運動不足解消になります。効果がありそうです。

 

園内を巡る途中にある円月橋には感嘆。

橋と橋が水面に映る形を合わせて見ると、ちょうど満月のように見えることから円月橋と名付けられたそうです。

 

円月橋

 

粋です。

人類みんな粋が好きなようで、外国の人が熱心に円月橋の写真を撮っていました。

 

このように水面に映る姿まで含めて美しさとしているのは絵画などではよく見られます。

 

浮世絵では逆さ富士が有名です。

代表的なものでは葛飾北斎の富嶽三十六景「甲州三坂水面」。

 

富嶽三十六景「甲州三坂水面」

 

これは実際の富士は夏の富士で水面に映っているのは冬の富士になっている。

水面に映っている富士の位置も真下ではなく、極端に斜め下になっている。

 

どうしてそうなっているのかは分からない。

けれども、そのためなのかとても美しい。

 

自然と建築物の融和では、奈良の猿沢池に映る興福寺が美しいらしい。

でも、きっと注意して見れば身近にきっとそんな美しさはあるのだろう。

 

必要なのはそんな美しさを見出す心かな…。

 

 

本日3/12(月)中学3年生のお別れ会を行いました。

今回は欠席者もなく、全員参加となり、大いに盛り上がりました。
前半はビンゴゲーム、後半はトランプゲームの大富豪を行いました。

ここ数年、トランプゲームの大富豪で盛り上がる傾向が見られます。
今年も盛り上がってみんな楽しそうで、こちらも嬉しく思いました。

振り返ってみると、毎年このお別れ会はやっているのですが、生徒のノリが違います。
ある年などはトランプゲームをするよりもゲームをやっている方がいい、という生徒がいたりして、少し寂しい思いをした覚えがあります。

でも、ここ数年はトランプゲームに 結構みんな熱中します。
生徒が少し変わってきているのかもしれません。

そんなことを感じました。
 

 

最近、結末のある小説ばかりを読んでいた。

それに気づかせたのが、カズオ・イシグロだった。
 「遠い山なみの光」を読んだ後、放り出されて 彷徨う自分がいた。
 
この感じは昔感じたものだ。

この突き放された感じをもっと味わいたくて、本棚から村上春樹の本を取り出してきた。

そして、「風の歌を聴け」を読んで、今「1973年のピンボール」が終わろうとしている。
次は「羊をめぐる冒険」だ 。

深海2017(東京上野の国立科学博物館特別展)に最終日10/1(日)に行ってきました。

自分は深海魚にそれほど興味があるわけではなかったのですが、その盛況ぶりには驚きました。

非常に混んでいるということは事前に知っていましたので、当日は開館前に早めに行って並んでいました。
そのため通常通り入館できました。

出る頃は整理券が配られていて2時間以上の待ちになっていたようです。


館内では、当然、水族館のように深海魚が泳いでいるということはありません。
深海魚の映像を鑑賞することになります。

そこが物足りなさを感じてしまうのは深海魚にあまり興味がないからでしょう。

宇宙と同様に深海も未知の世界であることを知りました。

宇宙と同じように深海にもロマンがあり、人々が追い求めてしまう何かがあるわけです。

 

混んでました

 

 

 

映画「関ケ原」を観ました。


映画が終わった後、席を立つと前の方で「何が何だか分からなかった。」
と連れの人に言っているのが聞こえた。

 

これがこの映画の感想のすべてなのかもしれない。

 

司馬遼太郎の原作を読んでいる人、読んでいない人、
ともに不満が残る映画だったのではないのか。

 

現在、NHKテレビで放送している土曜時代ドラマ「悦ちゃん」においての
パパママソングがチチハハソングに替えられたのと同じ気持ち。
ドラマを観ていない人には分からないことだけれど。

 

原作を読んでいる側の自分は、こうまで原作と違うなら、それなりに面白くして、と願った。

話の進行は原作と同じようにするので、話の断片断片をつなぎ合わせた感じになってしまって、何が何だか分からない。

 

関ケ原の戦いについて歴史認識をあらかじめ持っている人なら良いのかもしれない。
でも、そんな人ばかりではない。

 

旗印でどこの軍なのかなんて分からない。
今、西軍、東軍のどちらが勝っている状態なのか画面やセリフでなんて分からない。

 

それが普通じゃないのかな。
でも、そんな人には画面を観ていて何が何だか分からない。
となってしまうのではないのか。

 

原作を読んだ人には、あの話をこんなふうにしてしまったんだ。
と思うかもしれない。

 

そもそも長い話を2時間半くらいにまとめるのだから、人、場面を絞って、描くのが良いのではないだろうか。
そこところを集中させて描くようにしないと感動が生まれにくい。

映画を観る時、登場人物に感情移入できると感動しやすい。
今回はあまりにどれも表面的になっていいるので感情移入できない。

原作を変えるとしても、そんな解釈の仕方があったのか、
と観る側が感心するような変え方をしないとならない。

歴史の授業で記録映画を観ているのとは違うので、映画はある程度史実に沿って、後は自由な解釈で面白く作ってくれればよいと思う。

面白くするためには、戦闘ものでは登場人物の死にざまの描き方が重要になる。

登場人物の死に臨む姿勢をはっきり表わさなければならない。
このシーンはやはり必要だと思っている。

本当はそんな死に方ではないと言われても、その人物の人となりを表す死に方が必要だ。
生から死への区切りをしっかり表すことにより、人物の生き方が分かる。
そんな死のシーンがこの映画は少ない。

映画に期待していたので、原作まで先に読んで臨んだのに。

映画「桜田門外ノ変」は面白かったので、観た後に原作もすぐに読んでみた。
どちらも面白かった。

そのくらいのレベルはいくと思っていたのに、今回はそのようにはいかなかったようだ。

残念。

 

 

映画 「関ケ原」を観るために原作を読みました。

今回は原作を 読んでおいた方がより映画が楽しめるのではないかと思ったからです。

 

司馬遼太郎の歴史小説はいつも書かれていることが本当にあったのだろうと思ってしまう。

 

まるでタイムマシンでその時代に行って、空の上から出来事を見ていたのではないかと思ってしまう。

人間の心情も同様に心の中を覗ける顕微鏡の様なもので見たかのように書かれている。

 

びっくりだ。

 

小説「関ケ原」は文庫本で上中下1500ページ以上あり、これを2時間半くらいの映画にするわけだ。

 

脚本がよほどしっかりしていないと、取りとめのない映画になってしまう恐れがある。

原作は1500ページのうち最後の200ページが関ケ原の戦いになっている。

そこを中心に上手く映像化してもらいたいと願う。

 

個人的には原作を読むと大谷吉継の最後は感動的なので、上手く演出して映画でも盛り上げてもらいたい。

 

テレビの CM で愛がとか言っているので映画がちょっと変な恋愛ものになってしまっていないか心配している。

 

初芽の 描き方がどうなるのかがポイントとなる。

変な方向に行っていなければいいのだけれど。

 

とにかく期待して映画を観に行こうと思っている。

 

鉛筆の持ち方が悪い場合は矯正した方が良いと言われます。

 

正しい持ち方の方が字を書くのに適しているからそう言われているはずです。
しかも、勉強の出来不出来にも関係しているのではないかと思われます。

 

最近は持ち方でも鉛筆に力が入っていない持ち方が気になります。
5本の指が関節で曲がっていないで、まっすぐの状態で鉛筆を持ちます。

 

手のひらが自分の顔の方に向いていてよく見える状態です。
そんな状態で鉛筆を軽く持ちます。

 

鉛筆をただそえるという感じです。

そんな持ち方で字を書こうとするのですから、力が入っていません。
筆圧がありません。

そんな状態で字を書くのですから、字もきれいには書けません。
字も薄く、よく言うところのミミズの這ったような字になります。

そんな字ですから、字を書いた本人も自分の書いた字が読めなかったりします。
そうすると学力にも影響してきます。

ですから、早めに時の持ち方は矯正しておくべきです。
昔から、こうした方がよい。
と言われているようなことの中に経験則から学んだ正しいこともあるものです。