棱山泊 -67ページ目

寝室前に咲いたサザンカ

私の寝室の窓から見ると左手に、右手にが見えています。その間に、少し低く育っているのがサザンカ。ボチボチと花が咲いています。


 綺麗な花綸と探して写真に納めました。毎年、綺麗な花を咲かせるのですが。痛みが少ない綺麗な花びらを探すのは結構難しい。さらに、日陰となったのは致し方がないと。


 2枚目も似たような写真なのですが。気に入った写真です。当家では、ツバキの木も有るのですが。サザンカが咲くと、ツバキとの関係が勉強になります。今の季節に咲くのがサザンカ。年が明けて春先に咲くのがツバキ。その他、いろいろと違いはあるのですが、同じツバキ属なのに、なんでそんなに違うの?


 全体としては、綺麗な花は並ばないのですが。少し、全体像が分かる写真も撮ってみました。この塊の先に、私の寝室があります。


 今年のは、既に紅葉が始まっています。今年は、紅葉が始まると共に散り始めたというのが特徴。昨年刈り過ぎたのが弊害かは分かりませんが。それなりに、綺麗に紅葉していました。


 丁度、昨年末から正月に、一面に咲いたオキザリスを紹介しました。昨年は、気付かなかったのですが。この季節に咲き始めていました。1輪でも綺麗な花です。

薬に添付する文書は必要?

皆さんは、薬を買った時に添付されている文書を読んだことは有りますでしょうか。今まで10本以上続けている目薬を買ったのですが、毎回同じ資料が添付されています。という話なのですが、後半に少し面白い話があるかな。よろしければ、お付き合いください。


 5年ほど前から老眼対策に、同じ目薬を購入しています。この写真は、その目薬に付いてくるものです。本体と包装容器は当然必須ですが。添付文書と説明書は、全く必要ありません。何で付いてくるのでしょうか。紙という資源ごみの量産でしかありません。
 勿論、薬事法で添付が求められている事は承知しているのですが。省資源が求められている中、如何にもお役所仕事だと分かります。必要な方のみに要望に応じて発行すれば、相当な紙資源の無駄が省けるのですが。当然、この目薬だけではありませんから。


 少し脇道。私は、一通りの目薬メーカーの商品を検討して、「ロートアクティブVプレミアム」を選択しました。私が購入する時に検討した3つの目薬です。当然、実際に3種類共を購入して試しました。
 割引のクーポンが来るので、マツモトキヨシで買うことが多いのですが、買う度にサンテが良いと勧められます。サンテはコンドロイチン硫酸エステルナトリウムロートの5倍入っているのですが。ビタミンB6は入っていません。という事が、この添付文書で分かるのですが。選択した一番の理由は、使用感。ロートは、キャップを締めたり開けたりする時に、クリック感があり、安心して使える。しかし、サンテライオンクリック感が無いので何となく使い辛いというのが一番の選択の理由でした。有効成分の差は、殆どありません。

 さてさて、ここからが本題。病院から薬の処方を受けて薬を購入している方の話題となります。私、20年位前に高血圧症の診断を受けて、高血圧症の薬の処方を受けています。現在は、体重が正常値付近まで回復し、その当時と比較するまでもなく、ほぼ正常値まで改善したのですが。加齢のせいで投薬無しという訳にはいきません。
 多分、15年位前に気づいて、処方して頂く薬局に、薬情報は不要ですと資料発行を止めて頂いたのですが。実際は、私の依頼を受けて、印刷した資料を廃棄していただけだったということを聞いていました。

 今日発行された薬情報です。時々、変更はありましたが、20年間、殆ど、同じ情報がこういう紙として印刷されています。なんと無駄な事なのでしょうか。環境問題に詳しい私としては耐え難い。そこで、私は、無駄にしないように、受け取ってから、裏紙の印刷用紙に利用することにしました。でも、続きがあります。


 今日、この処方を受けた診察を受けてきました。前回まで3年間程見て頂いた医師が異動で居なくなりました。この病院は、掛かり付け制度は無いのですが、今までは決まった先生に見ていただいていました。仕方がないので、指定無しで、通っている病院で長いこと診療を続けている医師に見て頂きました。
 私は、逆流性食道炎の薬として、ネキシウムタケキャプという薬を利用しています。タケキャプは、比較的に最近開発された新薬。ネキシウムは、治療開始の近い頃から処方を受けています。タケキャブは、新薬で胃のペーハーが酸性で無くなるとか、少し問題があると分かったので、前の先生に相談して、タケキャブとネキシウムを併用しています。
 ネキシウム制酸効果の薬で長く利用しているのですが、半年前頃からなんだか変な副作用が出てきました。朝服用すると1時間程度、抑制するはずの胃酸が増える現象がありました。半年前頃から、1時間ではなく、一日中続くようになり、辛い日を何回か過ごしました。それが、タケキャブを使い始めた理由でした。

 今日、見て頂いた先生は、状況を聞くなり、複数の薬を利用するのはおかしいと指摘して来ました。前の先生と相談した結果でと説明したのですが、「前の先生は脳外科の先生。私は消化器の医師だ」と主張しました。朝飲んだら辛いと改めて説明したのですが、知らんと言うだけ。まあ、結果として、私の希望通りの処方はしてくれたのですが。
 処方された処方箋は、薬局に提出したので無いのですが、薬情報にその内容が記載されています。よく見てください。私が朝飲むと胃酸が出て辛いと説明したにも関わらず、朝飲めとの処方が出ていたのです。如何に、医者が患者に寄り添っていないかが良く分かる経験でした。

 私は、BME、つまりバイオメディカルエンジニアリング(生体医療工学)の修士なので、起きている事象がよく理解できます。医療崩壊というのは、言い過ぎだと思いますが。少なくても、佐世保の医療現場はこんなものだと理解した次第です。
 もう一つ添えておきます。今日見て頂いた医者は、診察時に機会的に、胸、背中の聴診お腹の触診を実施します。何のための診察かは、まったく考えていない様子。最近、長高齢で亡くなったこの病院の元理事長・院長も同じでした。時代遅れの医師がまだ居る病院です。比較的若い先生では見られない光景です。何だか、怖い話だと思いませんか。
 次回の診察では、絶対にこの医者は選択しません。

リスキリングの誤解

岸田総理の発言を受けて『岸田政権が1兆円支援のリスキリング、学ぶべきはDX事情ではなく「文系数学」』というニュース記事が早朝に流れました。信じがたい程の流行り言葉として、「リスキリング」という言葉が流れています。日本人は、この言葉の意味を本当に理解しているのだろうか。
岸田政権が1兆円支援のリスキリング、学ぶべきはDX事情ではなく「文系数学」

 

 この記事の中で、岸田総理は、「社員のスキルが向上する保障はない」と言っています。「スキルの向上」とは、日本語で言うスキルアップ。英語では、"upskilling"といいます。"reskilling"とは意味が違います。

 「リスキリング」が注目されたのは、2018年の世界経済フォーラムで「リスキリング革命Reskilling Revolution)」の必要性を訴えてられた事がきっかけとされています。その時の原文にこういう下りがあります。
For companies, reskilling and upskilling strategies will be critical if they are to find the talent they need and to contribute to socially responsible approaches to the future of work. 
 ここで重要なのは、"reskilling and upskilling strategies will be critical"。日本語に訳すと「スキルの再教育とスキルアップの戦略が重要」という意味です。"reskilling"と"upskilling"の両方が重要と言っています。"reskilling"と"upskilling"を混同していない。ここが重要だと思います。そして、より"reskilling"が重要だから、タイトルとしたのでしょう。

 岸田総理もこの記事の中で、「日本の経済がここまで弱くなった最大の理由は・・・」と述べられています。その事は何を意味するのか。今までのスキルの延長線上ではダメ。これからは、今までのスキルを捨てて、新たなスキルにチャレンジしないといけない。そういう意味で、単純なスキルアップでは無く、リ・スキリング、つまり「スキルの再構築」が必要だという事を理解しないといけないと思います。冒頭の発言からも、まだ日本では、そういう認識まで浸透されている感じがしません。
 なぜか、それは、外来語を安易に使うからです。ここでは、「スキルの再構築」という正しい日本語を使うべきだと思います。

平戸街道 江里峠駕籠立場跡

今回は、平戸街道という佐世保の史跡について、その一部を切り取って少し解説します。現代は、平戸街道が一般的なのですが、観光スペシャリストでは「平戸往還」という呼び方をします。この記事では、タイトルと変えて、平戸往還で説明していきます。

 まず、平戸往還の全容です。佐世保の歴史家の久村貞男さんが、タウン誌「Life」で特集して頂いたので、詳しいルートが分かりました。先に長崎街道。江戸時代に長崎奉行所から江戸に向かう道は、長崎街道と呼ばれています。現在の長崎市から東彼杵町を通って、福岡方面に向かいます。
 一方、平戸城の松浦藩主長崎奉行所勤番に向かうルートに使用したのが、平戸往還です。平戸城から平戸海峡を渡って、現在の佐世保市街地、早岐を通って東彼杵町まで。その先は、長崎街道に合流。今回は、その中で、図に赤丸で示した佐々町に有る江里峠駕籠立場跡に関する話題です。

 久村さんの説明で、一番実態が分からなかった場所がこの江里峠駕籠立場跡でした。何故だか、説明が曖昧で近くに存在するとしか説明がありませんでした。駕籠立場とは、「かごたてば」と読みます。立場は、宿場間で休憩を取る場所。場所によっては峠の茶屋とかがあります。駕籠立場は、客を乗せた駕籠がお客と一緒に休憩する場所だったのでしょう。平戸往還沿いで現在の佐々町の江里峠に有ったのが、江里峠駕籠立場です。

 実際に江里峠に行ってみたのですが。面白いことに、図で示した4本の道のすべてに、「平戸街道」の立て看板が立っていました。そして、なんだか、当然の様に「江里峠駕籠立場跡」の存在を示すものはありません。この地図は、Googleマップから取り出した地図なのですが、実際とは少し違った地図となっていました。

 少し粗い説明ですが、×の部分は道が細くて車は通れません。そして、赤いルートが正しい道でした。Gooleストリートビューもこの部分は、何故だかパスしていました。その道に入るとここも「平戸街道」の立て看板が立っていました。

 その道を進むと、ありました。久村さんも具体的に紹介していない。Googleマップも道を間違って表示している。実際に現場に行かないと分からない事実を大発見でした。

 地図で示した場所で江里峠駕籠立場が有った事を示す写真です。ここにも「平戸街道」の立て看板が立っていました。合計、平戸方面に3本、佐世保方面に2本の道に立て看板が立っていた事になります。

 現場に有った「江里峠駕籠立場跡」石碑の写真です。間違いなく、この場所に江里峠駕籠立場が有ったのですね。

 佐世保の各所で平戸往還が当時の道幅で残っている場所がいくつかあります。道幅は、精々1.5m程度。車も通れない様な道幅だったのでした。この江里峠でこの峠を越える道を整備していった経緯は、現場でいくつかの解説看板で説明されていました。上記の事を総合して、私が、国土地理院の地図を使って実際に平戸往還が通った道だろうと推測した図です。
 Wiki「平戸往還」では、参勤交代でも使ったと説明されていますが、江戸へは、唐津を通る道だったでしょう。でも、1600年代から、この道を使って平戸藩の藩主の大名行列が進んでいった道だと思うと感慨にふけってしまいます。
 今回は、全長60km近い平戸往還の中で、ほんの100m程度説明でした。機会があれば、別の場所もまた説明させて頂きます。なお、地図は、Googleマップと国土地理院の地図から引用させて頂きました。

何故か腰が痛い、佐世保事情

とんでもない事が分かりました。11月12日頃から徐々に腰が痛くなってきました。現在私は、朝起きると腹筋をしています。年齢を考えて定期的に始めたのは4年位前です。腕を足の方向に伸ばして4回。次が腰に当てて4回。胸、首周り、手を高く伸ばして、それぞれ4回。最後は、枕を持った手を伸ばして4回。
 11月13日は、問題なく腹筋を熟したのですが、翌日は、痛くて殆どできない。15日に少し改善して腰まで。16日は胸まで。17日となって、初めてすべてを熟すことができました。そこで思い出したことがあります。

 時々話に出しますが。私の家の裏山に、国の史跡に指定されている「泉福寺洞窟遺跡」が有ります。写真の右端で暗くなっているところが、その入口です。時期は、16,000年ほど前。後期石器時代、そうつまり、まだ土器が生まれていないはずの時代。世界最古級の土器である豆粒文土器が見つかった遺跡です。この見つかった豆粒文土器は、国の重要文化財に指定されているそうです。おっと、話がまた逸れてしまった
 問題の場所は、この石壁の左側の斜面です。

 起きた事の説明の為にその登り口の写真に説明を加えました。この坂道を登って左側に行くと、亡き義父が植物を育てていたがあります。夏が過ぎて、既に草茫々となって締まっていますが。帰郷後初めて、今年の春に草取りをして、登り易くしていました。
 11月12日の夕方ここに来て驚き、緑色の楕円を沢山書いている場所。ここに、し尿バキュームカーが使用するホースが置いてあったのです。まあ、お世話になっているので、文句は言いませんが、以前はこの写真の右手の斜面においてあったもの。担当が変わったのか、間違えてしまったのでしょう。会社に連絡すればなんとかなると思っていました。しかし、ここに来たついでなので、登ってみようということに。

 (a)、(b)、(c)は私が足をついた順番です。ホースに触れないようにと注意して。そして、(c)に足をついて、次の一歩と思った瞬間、顔に!!!大きな蜘蛛の巣が張ってあったのです。だから、慌てて戻ろうとしたのですが。指定の場所に足をつきながら慌てるとバランスが崩れます。
 果たして、私は赤い丸の部分に転倒してしまいました。その時点で転んだ認識はありますが、腰とか打った感じはしませんでした。だから、まさか腰痛に繋がるとは思いにもよりませんでした。
 業者の方に撤去をお願いしたのですが。泉福寺洞穴に続く遊歩道の入り口から一番奥のお宅まで、ホースを5本も繋いでいるそうです。100m以上はあります。だから、奥の方で使用するホースを置いていたとのこと。翌月曜日には、撤去して頂きました。
 坂道が多い佐世保市、まだまだ汲取式トイレが多い佐世保市。実際に山道を散歩していると、よく見かける光景です。そういう写真では紹介しませんが。佐世保事情として、エピソードと一緒に紹介しました。面白いでしょう!?!

雀島の夕日と軍艦島

軍艦島紀行第五弾。端島と夕日が重なる場所はありませんでしたが、かなり並んだ場所を見つけました。そして、最後に女神大橋の夜景までご覧ください。

 以下宿町の夫婦岩から3km弱。蚊焼町に入ってすぐの海岸。岳路海水浴場のちょっと手前なのですが。満潮の時に、島になるだろう雀島があります。そこから眺める夕日と端島。正直言って、こんな夕日を捉えたのは、初めてでした。
 雀島の手前は、満潮時に海面に沈むので、砂浜。靴に砂が入りながらの撮影でした。

 右手が雀島らしい。雄々しい姿と見るかは、あなた次第。私は、面白い風景と思って残しました。

 海面近くは、遠くに雲が張っている。まもなく日没。最後の夕日を見せてくれました。この夕日も初めて捉えた綺麗な映像でした。
 ここからは、佐世保に向かって一直線。とは言っても、長崎市内は平日の夕方。混んでいるに違いない。ということで、角力灘の海岸沿いを走ることにしました。簡単に言うと、戸町から福田町を通って琴海町まで海岸沿いから山越えの裏道です。

 その為には、女神大橋を通らないと遠回り。通行料100円は仕方がないのですが。その分、初めての女神大橋の夜景。4年前に昼間の写真は捉えたのですが、夜景は初めて。少々疲れ気味で、ピンボケが並ぶ中、なんとか写っていました。軍艦島紀行は終わり。

軍艦島(端島)

軍艦島紀行第四弾。いよいよ軍艦島です。正式名称は、「端島」です。

 端島に一番近い陸地は、恐竜博物館の海岸なのですが、その手前の古里漁港から海岸が弧を描いて、距離は変わらなくなります。そこで、古里漁港の堤防から撮影した端島です。残念ながら、太陽を背にした写真となってしまいましたが。軍艦らしい風景は楽しめたでしょうか。

 端島は、もっと大きな高島の隣です。写真は、左から、端島中の島高島と並びます。一番右に見えているのが伊王島です。この写真も逆光なのですが、手前に岩礁と合わせて少しは絵になってますでしょうか。

 この古里漁港に来る途中に、夫婦岩を見かけました。そろそろ夕日かなというタイミング。まずは、端島を入れて撮ってみました。

 夕日もなかなか感じが良い。ここまで日が落ちるのをここで結構待ちましたが、待った甲斐がありました。光の道がはっきりと見えています。

 最後、夫婦岩の夕日と端島を並べてみました。流石に端島は暗くなってしまいました。勿論、肉眼で見ると、もっと明るく見えているのですが。さて、ここから佐世保に戻るのですが。もうすぐ沈む夕日は、北に行くほどに端島に近づきます。もっと良い撮影スポットは無いか。もう少し頑張ってみました。続く。。。

初めての伊王島と伊王島大橋

軍艦島紀行第三弾。第二弾で伊王島は、「長崎港沖に飛び出した岬」と紹介しました。しかし、比較的最近まで船に乗らないといけない島でした。

 伊王島側から見た「伊王島大橋」です。分かりますか。本土側から伊王島に向かって、島に着く前に大きく曲がって、島に斜めに到着。なんとも曲線美が美しいのですが。残念ながら良い撮影ポイントがありませんでした。これでも、超広角レンズを使ってやっと撮影した写真です。

 1枚目の写真は、夕方が近づいて、日陰側なっています。だから、日が当たる側も撮ってみました。丁度、湾曲の部分が強調された写真となっています。2枚の写真を合わせて、伊王島大橋の形を想像ください。


 伊王島大橋といっても、本土と伊王島を結ぶ橋ではありません。本土側は、香焼町といって、本土から突き出た半島となっています。香焼も元々は、香焼島。丁度私が子供の頃に、長崎湾周辺の埋め立てに合わせて、半島化したようです。
 おっと、本題に戻りましょう。伊王島大橋を渡った先の島は、沖之島。そして、沖之島と伊王島は、幅が30m程度の瀬戸となっています。島同士が隣り合って、300m程度の瀬戸となる。両島は、3本の橋で結ばれています。
 この橋が何故、伊王島大橋というかは簡単。伊王島と沖之島を合わせて、伊王島町となっていました。つまり島の大橋ではなく、伊王島町の大橋だったのです。

 香焼から元々の本土に入ったところが深堀町。そこから真っ直ぐに進めば、2.5km程度で国道なのですが。すぐ右折して、軍艦島の方向に直行する道がありました。しばらくは、車のナビゲーションが嫌がっていたのですが、その内に希望のルートを示してくれました。それが何を意味するかは、次の国道までの道を2/3程度進んでところで分かりました。

 少しカーブした細い道。車が交われない狭い道が200m程度続いていました。そして、その中間辺りで対向車が。私は、固まった訳ではないのですが、相手が少しバックすれば交われる場所が有るのだろうか。そうだったら、バックしてくれるだろうと少し待ちました。
 果たして、動いてくれません。致し方がありません。100m程度をバックして、交わすことができました。若い女性運転手でした。しかし、この道を生活道路として使っているのだろうか。そうだとしたら、なんだか空恐ろしい世界です。同じレベルの運転手が真ん中で出会ったら、どうするのだろう?!? つづく。。。

初めての伊王島と伊王島灯台

軍艦島紀行第二弾。伊王島は、当然知っていましたが、初めて立ち寄りました。長崎駅付近から野母崎の突先までの丁度中間点です。その付け根は、香焼町。そこから大橋を通って伊王島に入ります。炭坑の島なのですが、そのあたりは詳しくありません。

 伊王島の突端まで来ると、伊王島灯台があります。長崎港に近づく船の明かりだったのですね。地形的に、本土から長崎港の入り口の沖に飛び出した岬。なんと、自然が便利なものを作ったかという感じがします。
 先日の長崎くんちの時期に、平山町の大名行列がニュース報道で盛んに報じられていました。この辺りの香焼とか土井首とか。殆ど来ていないにも関わらず、良く知っている地名が並びます。しかし、平山とは聞いたことがありませんでした。まさに、浦島太郎ですね。

 伊王島灯台に近づく道は、割と狭い道が続きます。近づくと、「駐車場はありません」という看板が出ていました。事前にGoogleマップで調べると、灯台の近くに仮説駐車場が有ると出ていました。半信半疑そのまま向かったのですが。
 5台程度が並んで止まれる駐車場がありました。手前に有るi+Land nagasakiの施設が関わる駐車場の様です。その施設のサイトを見て、少し説明を加えようと思ったのですが。そのサイトは、パソコンで見るととっても見難い。諦めました。

 灯台は、突端の高台に有るのですが。その先に伊王島展望台がありました。私の影が!ここから、角力灘から長崎湾の風景が広がるのですが。今回は紹介を省略します。

 灯台の手前にカフェがありました。セルフサービスの様なカフェなのですが。利用しなかったので、よく分かりません。そのカフェの灯台側にブランコが設置されていました。何となく、良い雰囲気ですか?

 もっと手前、駐車場を出たところに、「夕陽ケ丘展望台」があります。そこに、観光地に有る様な双眼望遠鏡がありました。普通なら、1分間100円かな?ここはタダでした。ここから見ると、手前の高島の先に軍艦島が見えていました。掲載した写真は、私のカメラで200mmのレンズで撮った写真です。右側に飛び出した部分が軍艦島です、まだ遠い。・・・続く。。。

初めての風頭公園

軍艦島紀行の始まり。夏のお盆の時に行けなかったので、長崎に有る祖先のお墓にお参りして来ました。軍艦島を中心の観光をして来ましたので、順次紹介致します。まずは、風頭公園です。

 何故、風頭公園なのかは、後半で説明します。風頭公園は、長崎市で一番の繁華街の浜の町と諏訪神社が有る町の間の山頂にあります。山頂となる風頭公園から長崎港を見下ろした写真です。長崎湾白く美しい女神大橋が映えます。午後で若干の逆光は、ご容赦ください。

 初めて訪れたのですが、ご覧の通りのガランとした公園でした。残念ながら、雑木が有り、岩屋山などの風景は見れませんでした。ここは、凧揚げで有名な場所なのです。ご覧の広場がまさに、凧揚げに最適と分かります。長崎では、「ハタ揚げ」と言うのですが。

 到着して駐車場が見つかりません。入り口の写真なのですが、これまた難解。この右側の道は、回転場所が無い行き止まりの細い道。曲がった道に入った後に気付きました。まあ、運転は慣れているので、細い曲がった道をバックで戻ってきました。
 帰宅後に調べたのですが。風頭公園は、駐車場が無いのです。長崎駅からバスで20分間と説明されていました。公園内に坂本龍馬の銅像が有るらしいのですが。路駐で慌てて撮影したので、そこまで気付きませんでした。

 風頭公園の入り口手前に有るのが、矢太樓です。39年振りに訪れました。勿論今回は、玄関の前までですが。

 その39年前に矢太樓から貰った記念品がこの額縁入の書道作品です。書道は興味ないのですが。落款を見てください。「八十翁 風頭山道人」と書いてあります。裏面には、矢太樓社長村木榮介の名前も記載されていました。
 この作品は、帰郷時の整理で廃棄してしまったのですが。村木榮介氏の事は、ネットで調べても出てきませんでした。廃棄の前に矢太樓に問い合わせしてみました。この作品の文字は、矢太樓のロゴである「」の文字とのことでした。戦後、何も無いところを切り開いて、建設したホテルだそうで。「無から有を作る」という意味だと教えてくれました。そう、私の記念の場所。それが、風頭山だったのです。続く。