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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

「なんだかおかしいぞ」と思ったので、覚え書きを残しておこう。


ニュースでは連日、菅総理の続投問題?責任問題?が伝えられている。


僕の記憶が確かならば、内閣不信任案が出たとき、大半のメディアの論調は、

「こんな大変な時期になんで内輪もめしているのか」という、どちらかといえば

総理擁護の論調だった。


しかし、菅首相の「震災対応に一定の目途がついたらうんぬん」という発言の後、

なぜかメディアの論調は一転して「いつまで総理の座に固執するのか」という

総理への厳しい弾劾が大勢となっている。


なんだかおかしい。


「内輪もめしている場合なのか」と言わしめた被災地の深刻な状況はあまり変化

していないと思われるのに、菅総理へのメディアの態度は180度ひっくり返っている。


やっぱりおかしい。


その一方、今夜のニュースでは、玄海原発の運転再開問題をめぐり、「政府として

早くエネルギー政策への統一見解を示すべきだ」と多くのメディアが主張している。


これもおかしい。


原発の今後の方向性を決めるということは、今後何十年間かの未来をどうしていくか

という重たい決断でもある。


一つの原発の運転再開を決めるために、原発全体の方向性を早く決めなければ

ならないという感覚はまともだと思う。原発全体の方向性が決まるまでは暫定的に

原発の運転を再開するといっても、原発は一回運転し始めてしまうと、安全に停止

するにはそれなりの時間を有する。したがって、運転再開は、原発全体の方向性が

定まってから、その方向性に連動してなされるべきだ、と僕は思う。


しかし、申し訳ないけれど僕は、原発の方向性を今の時期に菅内閣による判断で

決定して欲しくないと思う。近いうちに辞めることが確実な総理大臣の判断に、

数十年におよぶ国の未来を託していいのだろうか?僕にはそうは思えない。そもそも

民主党が政権を奪った選挙では、原子力政策は争点にすらなっていなかった。


だから、原発の今後の方向性については、削減、現状維持、増設を十分に検討する

時間を設け、最終的には、衆議院解散による総選挙を経て決めた方がいいと思う。

それまでは各地原発の運転再開については全部留保し続けた方がよい。


もし今後の原発の方向性についての政府統一見解を早めに決めるべきならば、

それは、解散総選挙を早くやるべきだということになる。さらにそれは、とりもなおさず、

菅内閣に被災地復興のための資金を捻出する法案を素早く成立させてもらい、法案が

成立したらすぐに解散総選挙をして、原発の方向性を国民に問うてもらうということになる。

(赤字国債発行法案が通らないまま解散総選挙になると、予算執行に必要なお金が

足りなくなる可能性がでてくる)


以上の意味で、辞めない菅総理を非難するのにも、早く原発の方向性を出してくれ

とだけ言うのにも、そうなんかなぁと首をかしげざるを得ない。

大切なのは、菅総理が辞めるか続けるかよりも、「被災地の復興を迅速的確にする」

ことだ。そのためには、まず足並みをそろえないといけない。

でも、原発の方向性を決めるときには、どうせ足並みは狂う。

だから原発の方向性の問題を「今すぐに」議論することは、あまり得策ではない。

この点についてはたいていのひとに同意してもらえるだろう。


復興のために菅総理がいいのか、別の人がいいのかを考えると、「誰がやっても

あまりかわらんのではないか」ということになる。どうせ解散総選挙になるなら菅総理の

続投でも別に悪くはないのではないかという意見も大いに「あり」だろう。少なくとも、

震災後の緊急対応では、完璧ではないにしろ十分な成果を菅総理は示したと思うし。

(東京電力や原子力安全保安院関係のごたごたは、菅総理だけの責任とは言えんし。)


菅総理を応援するわけではないけれど、菅総理を批判している人たちのその批判の

ロジックに、僕は納得できない。


総理や大臣が短期間にコポコポ変わっている現状が、明治維新前の幕府の人事や

第二次大戦中の内閣変遷を思い起こさせるので、僕は少し「危ない」と思っている。


(七夕追記)

菅総理のストレステスト実施指示で、経産大臣のメンツ丸つぶれというニュースが今朝

流れた。経産大臣のメンツなど、国の将来に比べたら小さいことだ。ストレステストの

実施は妥当だし、事故が起きていないヨーロッパがテストして、事故に見舞われた日本が

やらないというのはなんだか恥ずかしい。まずは菅首相、英断であるとおもう。むろん、

どうせやるなら、経産大臣のメンツをつぶさないようにやる方法もあったと思うので、

手法としては微妙だが、結論としては的を外してないと感じる次第である。どうだろうか。

先週の金曜日にすばらしい映画をみてきた。青山真治監督の『東京公園』。

京都駅近くの映画館で鑑賞したが、文字通り何回か「息をのんだ」。


これまでの青山監督の作品には、どこかしらに邪悪な暴力の姿が見え隠れていた。

しかし、この作品では「表向き」は邪悪なものがなくなっている。だから、これまで

青山監督の作品を見たことのない人にも気軽に見てもらえるし、是非これを機に

青山監督の作品に触れる人が増えてほしい。


念のため言っておくが、一応、今作にも、劇中劇として描かれるホラー映画のワン

シーンがある。しかし、それは「怖さ」よりも「笑い」の要素が強い。僕の見間違い

かもしれないが、このホラー劇中劇で哀れな最期をとげる中年のおじさんは、かの

黒沢清監督ではないだろうか?


そのほか、劇中でもっとも「くさくて恥ずかしいセリフ」をかの大作家である島田雅彦先生

に言わせてしまうというお茶目なキャスティングも、文学ファンにとっては面白い。

もちろん、映画ファンにとってもこの作品は過去の名作へのオマージュが満載で面白い。

分かりやすいところでは、俳優を画面中央に据えたバストショットのシークエンスとか、

バーカウンター越しのやりとりは、小津安二郎監督作品によく見られたカメラワークだ。


ただ、小津監督の生きていた時代と青山監督の生きていた時代では、人間の生活様式が

だいぶ変わってきている。小津監督の時代、日本人は畳の上に直に正座ですわっていた。

しかし、青山監督の描く現代、日本人はイスに座ったり、片膝を立てたりしている。

この変化がシーンの画面構成に如実な違いを生みだしていて面白い。


個人的には、コタツとイスをめぐる卓抜なシーンが、この作品の白眉であると感じた。

井口奈己監督の『犬猫』以来、久々にコタツの存在感がちゃんとしている映画だと思う。


コタツを挟む二人は、テーブルを囲むふたりよりも、妙に距離感が近い。逆に、一緒に

コタツに入れないのは、距離感が遠い。だからこそ、この映画では「死者」はコタツに

入らないのである。


イスは、栄倉奈々による三浦春馬への尋問シーンで現れる。実家に姉(小西真奈美)と

帰省してきた三浦春馬に対し、「なにもなかったの?」と栄倉奈々が問いただす。

三浦春馬はのらりくらりとはっきりしない答えをつづけ、コタツの上にある大福もちへを

食べようとイスから立ち上がる。ここでなんと、空いたイスを栄倉奈々が奪い取るのだ。

ここでの栄倉奈々の「ノソノソ」した演技には脱帽である。久々にしびれた。

なんで空いたイスを奪うかというと、尋問してほしいからである。栄倉奈々は、三浦春馬に

対して「なんで私がいろいろ質問するのかについて尋ねてほしい」のである。

むろん、おとぼけ中の三浦春馬は尋問せずに大福をむしゃむしゃ。このシーン、好きだ。


ショットだけではない。小津映画によく出てきた「暑いね~」「そうですね」的な、内容の乏しい

ダイアローグもこの作品では炸裂する。台詞に意味があるのは当然だし、カッコいい言葉は

映画の魅力の一つでもありうる。しかし、内容の薄いやりとりのほうが、俳優どうしの「間」が

感じられて緊張感が生まれる。「次の台詞がポンポン出てこない」ことによって、登場人物を

包み込む「間」が浮き上がってくるのだ。コタツにねころびながらの栄倉奈々と三浦春馬の

ダイアローグは、まさに「間」を捉えた名シーン。一度見てみて損はない。


ほかにも、だれしもが圧倒されるであろう小西真奈美の眼力も含め、見どころいっぱい。

是非、見に行ってみてください。


今回は、分析というには、だいぶ前のめりすぎる感想になってしまった。

一般的に、本当に好きなものについて冷静さを保ち続けるのは難しいようである。

したがって、『東京公園』は名作である、と私は言わねばならない。

空きコマの時間に、大学の図書館をうろうろしていたら、『吉田秀和全集』

というのを見つけた。はずかしながら、吉田秀和という名前を知らない僕は、

好奇心にかられてその一冊を手に取ってみた。


前表紙


解説によると、吉田秀和はものすごく有名な音楽評論家であるらしい。

大岡昇平や小林秀雄、中原中也などとの交流でも知られているとのこと。

全然、存じ上げませんでした。クラシック音楽評論については、歯が立ちそうに

ないので、「エセー」と題された第10巻の中の、P・クレー、中原中也など、

ちょっとは分かる人についての文章を拾い読んでみた。


いい。倦まず弛まず、すいすいと読みやすい文章がつづられている。

言葉遣いのシンプルさとは逆に、言われていることはなかなか手強い。


クレーの『忘れっぽい天使』についての吉田秀和の文章を引いてみよう。


「線が、純潔な線がひかれるにつれて、画面が表情を生んでくる。天使は、はじめに

あったのではない。これは、思いもかけない線の展開が呼びだした姿なのだ。

だからこそ、これは、《天使》であって、ほかのなにものでもないのである。

線が天使になったのである。ちょうど、彼の好んだモーツァルトの音楽におけるように。

これが、彼の芸術であった。彼の美しい言葉をかりれば、「芸術は、見えるものを再現

するのでなく、見えるようにする」行為なのである。」(全集10巻52頁)


見えるものを単に再現しようとするのではない。クレーが示してくれるのは、その一歩

手前。「何かが見えてくること」の再現だったのではないか、と僕なりに反応してみる。


中原中也についてもすてきな文章がのっていた。


「中原の喧嘩というものは、実際は、誰が相手というのでなくて、もっと広くて大きなもの

に向かっての表現なのだ。無限に対する「生」の主張の一つの形式。生きるとは、赤ん坊

であるか、無限を相手どって腕を振るか、どちらかでしかない。いや、中原の場合、この

二つは、しばしば同じでもあった。」(全集10巻86頁)


僕はもう赤ん坊にはもどれないから、無限を相手どって腕を振っているほうに入りそうだ。

文字通り神学を学んでいるのだから当然か。


しかし、いつの日か、無限を相手にするのではなく、自分が無限でもあるような、

そんな風なところを目指していたいと、僕は思う。むろん、そのようなところは、吉田のいう

「生」の範疇には含まれない。吉田の「どちらかでしかない」という断定は、すこぶる正確

なのだ。


久々に、ここちよい立ち読みができた。また時間が空いたときに図書館に行くことにしよう。

ゆっくりできる週末になったので、久々に相方さんと映画に行ってきた。

ずっと見られなかった『SP 野望編』である。


しかし、もう公開からだいぶ経っていたので、近場で上映していたのは、

阪急淡路駅近くの「淡路東宝」という映画館だけ。はじめて行く映画館なので、

ちょっとおそるおそる訪問。


淡路駅前商店街の中の一角に「淡路東宝」はあった。

かなり大きな建物で客席数はシネコンの1スクリーンよりも5割増しぐらい。

最近の映画館に比べると格段に天井も高く、開放感にあふれているところが

なかなか味わいのある映画館だ。


切符を買って階段をのぼると、休憩スペースでおじちゃんおばちゃんが

タバコをスパスパ。よくおくつろぎでらっしゃいました。タバコをたしなまない

相方さんと僕は、いそいそと劇場にはいってびっくり。観客がだれもいない…。

広い劇場のどまんなかに陣取った我々二人は、お水ときなこせんべいを

片手に、上映に挑む。上映開始直前になって、ぱらぱらとタバコ組が入場。


映画の方と言えば、脚本がよく練られていて、久々に最後まで楽しんで見れた。

『SP 野望編』の意味があんまりなかったような気がしたが、それは言うまい。

ドラマ時代の初期、病院テロのころのテンションが再び垣間見られたので

よしとしよう。


映画の中で「革命」がしきりにいわれていたが、「淡路東宝」という昔ながらの

映画館でこの作品をみたことで、ダークでまじめなはずのこの作品が、

滑稽な印象とともに鑑賞できたのは興味深い。


とりあえずは、政治批判の陳腐さを補って余りあるアイデア豊富なプロットと、

岡田くんたちSPのみなさんのアクションシーンにしびれた一本であった。


淡路東宝の次回上映作は『太平洋の奇跡』とのこと。ちょっと気になっている。

わたくしごとで恐縮ですが5/14(土)に神戸にて挙式してきました。

式前後のあれこれを覚え書きしておきたいと思います。


■5/4(水)

 東京より友人きたる。昼、大学同級生のお墓参りに行った後、そのまま一回目の大学時代に

 よく通っていた定食屋さんで飲み会。ひさびさにサークル部室に泊まって、始発で帰宅。

 結婚式関連の準備まったくできず。


■5/5(木)

 朝がえりで眠かったので、午前中はだらだらとすごす。午後は、祖母の弓道の昇段試験を

 見学に京都勧業会館に。初めて弓道の大会をみたけれど、それはそれは日本的でありました。


■5/6(金)

 大学へ。佐藤優『国家論』NHKブックスを読了して図書館に返却。かわりに小林敏明の

 『西田幾多郎の憂鬱』岩波書店を借りてみる。この日は一限から五限まで講義みっちり。

 結婚式の準備あまり進展せず。やや焦りはじめる。


■5/7(土)

 「そのままの髪型で式にでるのはいかがなものか」という相方さんからの異議申し立てがあり、

 人生初の美容院に行く。相方さん行きつけのところだったので一緒に入ったが、僕一人なら、

 絶対にはいれないであろうおしゃれな雰囲気のお店。初めての美容院で、初めてもみあげを

 徹底的に批判された。最終的に髪型がなんとなくそれっぽくしてくださったプロの技に感動。


■5/8(日)

 丸一日をプロフィール映像とエンドロールの作成に費やすも完成せず。写真ネタはそろうが、

 写真へのコメントが決まらない…。さすがに使う音楽は決まった。パソコンみっぱなしだったので

 立ちくらみがすごいことに。まだウェルカムボードできず・・・。


■5/9(月)

 日中は大学へ。大学図書館で丸山真男の『「文明論之概略」を読む』岩波新書を借りる。

 帰りに恵文堂で中島義道『観念的生活』を購入。帰宅後にウェルカムボードを相方さんと作成。

 日付変わって2時ぐらいに完成!


■5/10(火)

 空きコマの間に加藤忠史『双極性障害』医学書院を斜め読み。心も体であるという方向性は

 科学的知見を踏まえた当然の方向性だし、これからいわゆる精神分析学的な要素は医療現場

 から撤退していくのかなぁと痛感。帰宅後、席札うらのメッセージを書きだす。凝っていたら

 深夜までかかってしまった…。

 

■5/11(水)
 日中は大学。空きコマの間にウェルカムスピーチと最後の挨拶のスピーチのネタを考え始める。

 短くてもいいが、「へぇ~」といってもらえるようなワンポイントを入れたいのだが、中々アイデアが

 わかない…。帰宅後、ネタ探しに小林秀雄の「私の人生観」「信仰について」、パスカルの『パンセ』、

 カフカのアフォリズム集などを覗いてみるが・・・あまりピンとくる小ネタが見つからず万事休す。

 深夜までかかって映像のコメントをリバイス。ひぃ~。でもまずまずの出来栄えに満足。


■5/12(木)

 午前中、映像ファイルをDVDにやいたり、BGMもCDにやいたり。3限目だけ授業に出て、帰りに

 そのまま神戸の式場までもろもろの持ち込み。最終フィッティングした相方さんと合流して帰宅。

 やっと準備がひと段落したので、やや油断。


■5/13(金)

 大学がたまたま一日休みだったので、式直前のけじめとして、下鴨近くのよく通っていたラーメン屋

 さんに食べに行った。式前日ということで、ラーメンをたのんだらチャーシューメンにしてくれた!

 あざっす!!ひと月ぶりの一杯は至福の味。これからも食べに来たいと切に思う。

 夜、相方さんのお手紙作成に協力。いいのができたが、自らのスピーチを考える前に眠くなり寝た。


■5/14(土)

 いよいよ当日!午前中はみそぎを兼ねて近くのジムのサウナに。1時間みっちりつかって汗をかく。

 相方さんは普通に運動していた。すごい。午後、電車で会場へ。電車内でスピーチを練り続ける僕に

 相方さんが「いまごろ考えてるの?大丈夫?」と心配そう。大阪駅ぐらいでなんとかスピーチ完成。

 会場について着替え始めたら本番まであっという間だった。相方さんの着替えの間に必死にスピーチの

 暗誦。式では、「約束します」と言うべきところを「誓います」と言ってしまい失敗。あとはまずまず。

 たくさんの友人にかこまれてとてもうれしかった。披露宴ではスピーチをカミながらも最後まで言えて

 自分的には合格点。歌もまずまず好評でよかった…。披露宴後は三宮駅前で後輩たちと数曲叫んで

 大満足。あんまりご飯が食べれなかったので相方さんとコンビニおにぎりをほおばり、そのあと偶然

 相方さんの友人とばったり会ったので、三人で0時ごろまで飲んだ。夜は神戸のホテルに宿泊。


■5/15(日)

 朝七時に親からの電話で起こされ、いろんな授受をしたりで午前中終了。午後家に戻って、

 荷物を整理して、一息ついたらもう夕方。お風呂に入って、早めにねましたとさ。めでたしめでたし。


 相方さんと仲良く過ごしていこうと思います。