『吉田秀和全集10 エセー』 -P・クレー/中原中也について- | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

空きコマの時間に、大学の図書館をうろうろしていたら、『吉田秀和全集』

というのを見つけた。はずかしながら、吉田秀和という名前を知らない僕は、

好奇心にかられてその一冊を手に取ってみた。


前表紙


解説によると、吉田秀和はものすごく有名な音楽評論家であるらしい。

大岡昇平や小林秀雄、中原中也などとの交流でも知られているとのこと。

全然、存じ上げませんでした。クラシック音楽評論については、歯が立ちそうに

ないので、「エセー」と題された第10巻の中の、P・クレー、中原中也など、

ちょっとは分かる人についての文章を拾い読んでみた。


いい。倦まず弛まず、すいすいと読みやすい文章がつづられている。

言葉遣いのシンプルさとは逆に、言われていることはなかなか手強い。


クレーの『忘れっぽい天使』についての吉田秀和の文章を引いてみよう。


「線が、純潔な線がひかれるにつれて、画面が表情を生んでくる。天使は、はじめに

あったのではない。これは、思いもかけない線の展開が呼びだした姿なのだ。

だからこそ、これは、《天使》であって、ほかのなにものでもないのである。

線が天使になったのである。ちょうど、彼の好んだモーツァルトの音楽におけるように。

これが、彼の芸術であった。彼の美しい言葉をかりれば、「芸術は、見えるものを再現

するのでなく、見えるようにする」行為なのである。」(全集10巻52頁)


見えるものを単に再現しようとするのではない。クレーが示してくれるのは、その一歩

手前。「何かが見えてくること」の再現だったのではないか、と僕なりに反応してみる。


中原中也についてもすてきな文章がのっていた。


「中原の喧嘩というものは、実際は、誰が相手というのでなくて、もっと広くて大きなもの

に向かっての表現なのだ。無限に対する「生」の主張の一つの形式。生きるとは、赤ん坊

であるか、無限を相手どって腕を振るか、どちらかでしかない。いや、中原の場合、この

二つは、しばしば同じでもあった。」(全集10巻86頁)


僕はもう赤ん坊にはもどれないから、無限を相手どって腕を振っているほうに入りそうだ。

文字通り神学を学んでいるのだから当然か。


しかし、いつの日か、無限を相手にするのではなく、自分が無限でもあるような、

そんな風なところを目指していたいと、僕は思う。むろん、そのようなところは、吉田のいう

「生」の範疇には含まれない。吉田の「どちらかでしかない」という断定は、すこぶる正確

なのだ。


久々に、ここちよい立ち読みができた。また時間が空いたときに図書館に行くことにしよう。