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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

年が明けて早々にフランスの銃撃事件があり、「めでたい」気分があまりしない。世界ではいろいろ吃驚すべき現象が散見されているが、僕にできることは目の前の勉学をきちんと積み上げること、自分の周囲になにかしら柔和なものを届けようとしてみることぐらいしかない。今年はいつもよりも「地道さ」を意識しながら歩いていきたいと思う。


新年早々、とある先輩から「吉田松陰の言葉に猛烈に感動したんだけれど、君はどう評価する?」と問い合わせが入った。大河ドラマの影響だろうか。吉田松陰については本ブログでも以前記事に取り上げたが、今回先輩宛に送ったメール文面が、我ながらポイントを凝縮したものになったので、記録として残しておきたい。


(以下メール文面の転載)


吉田松陰についていくつか本に目を通してみました。残念ながら、僕にとって松陰はあまり高く評価できる思想家ではありません。そう感じたポイントをまとめてみました。

1.「自己」を捨てる
山鹿兵学を教授する家の跡継ぎだった吉田松陰は、叔父から、読書の途中に目をこすってもいけないと厳しく学問を仕込まれています。学問は藩(あるいは天皇)という「公」に役立つために行うのであり、目をこするという私事を勉強中にしてはならないというわけです。「体は私であり、心は公である」という松陰の言葉にあるように、思想の出発点において既に、彼は自分を捨て、藩に仕えることを第一に置いています。松陰の最期には、 「自己」というものにとらわれない、死を乗り越えた人の美しさがあります。しかし、それは松陰が学問の結果、考えに考え抜いてやっとたどり着いた究極の思想的境地ではなく、むしろ学問を始めた時にすでに躾けを通して叩き込まれた前提にすぎなかったような気がします。つまり、松陰が「自己を捨てる」と言う場合、「自己は無である」という洞察ではなくて、「自己は藩のために捨てなければならない」という武士道が根底にあると思われるのです。その意味で、松陰が武士道の見事な体現者であるとは思いますが、決して武士道を超える思想的な何かを、吉田松陰から学びとるのは難しいような気がします。

2.死のありかた
松陰の最期は立派だったと思うのですが、じたばたしないで死ぬということは、そんなにすごいことなのか?と思います。幕末よりすこし前の時代に活躍した本居宣長という国学者は、「潔く死ぬ」という武士道の考え方は禅宗という中国からの外来思想に汚染された感覚だと言っています。宣長流にいえば、死ぬのが怖いのが人間として当然の感情なのだから、その怖さに直面するほうが自然なのであり、なんらかの思想を利用して怖さを紛らわすのは不自然だということになります。私自身は「どう死にたいか」を考えることも大切だと思う一方で、「死ぬ時と場所に応じた死に方で、精一杯死んでみるしかないのでなかろうか」と思ってしまう、その意味ではヴィジョンをもたない軟弱者です。だからこそ、個人的に高潔な松陰よりも、ふてぶてしい宣長のファンでありたいのです。

3.松陰が追い求めたもの
松陰の書いている文章からは、彼が「正義」を追い求めていたことが伝わってきます。僕は、「正義」よりは「真実」を求める思想家の方を高く評価します。正義は形而下の世界の話ですが、真実は形而上の世界の話だからです。正義が破れたときには悲壮になります。一方、真実は気付かれようと気付かれまいと厳然とありつづけるだけですから、破れようもなく、悲壮にはなりません。松陰の最期に悲壮さが感じられるのは、やはり松陰が「正義」を求めた人だからであり、その悲壮さは、特攻隊で亡くなっていった人たちとあまり変わらん種類のものではないかと思います。一言でいえば、松陰は政治思想家ではありますが、形而上学者ではないといったところでしょうか。

4.説得について
松陰は最期まで、「真心をこめて説明すれば相手は自分の分かってくれるはずである」と考えていました。幕府の役人を説得できなかったのは、自分の徳が足りなかったからだと『留魂録』に書いてます。なんと素晴らしい人なんだろうと感じますが、その一方で、形而上学では、自分の考えを相手に説得しようとは思わないのではないかと僕は思います。ソクラテスは自分の主張を通すのではなく、相手の主張の問題点をただひたすら突っつき続けました。荘子なら「僕は自由にこう考えてますので、あなたもどうぞご自由に」となると思います。

5.松陰とイエスの比較
松陰とイエスの生涯を比較してみると、外的勢力の存在や、革命への志向、刑死など結構似ている点が多いことに気づかされます。その意味で、松陰は明治以降の日本にとって預言者あるいは教祖のような役割を果たしたのかもしれません。イエスの場合は、その生涯をパウロが形而上学的に意味づけたために革命は起こりませんでした。一方、松陰の場合、彼の死は明治維新という血を流す革命の引き金になりました。この差はどこからくるかというと、やはり松陰に形而上学が無かったか らだと思うのです。

以上、だらだらと松陰について批判的に述べました。ただ、私も、松陰の思想を形而上学としては高くは評価できない一方で、松陰の真っ直ぐで短い生涯に感動してしまうのも事実です。なぜ松陰に惹かれてしまうのかはよく分かりません。松陰が素晴らしい人であることは間違いないですが、思想家としてみるならば、やはり武士道的な人間論を超えたなにかを見せてほしかったなと思います。

(以上、転載おわり)


吉田松陰は、たくさんの後世に名を残す門下生を育てたという意味で、秀でた教師でもあった。しかし、僕は、国際的に活躍する仕方で世界に打って出る以外にも、世界と戦う方法はあると思うし、学問などしていなくても自力で考え続けることはできるとも思う。松陰のような教え方によって、かえって可能性を閉ざされる能力もあるのではないか、ついついそんな風に穿ってしまうのだ。


「悲愴」なものへの警戒を持ち続けている僕とって、吉田松陰という人は、魅力的である一方で、警戒心を解けない人でもある。

週末にゆっくりと足を運べるのも今年が最後かもしれない。そう思って、今秋はいろいろと見に行ってみた。


■補陀洛山海住山寺

まずは「海住山寺」という不思議な名前のお寺。京都南部というか殆ど奈良の山中に存する。近くには「浄瑠璃寺(九体寺)」や「岩船寺」「笠置寺」などがあり、そちらのほうが有名かもしれない。


「海住山寺」には鎌倉時代に建てられた国宝五重塔が現存するが、木造の美しい十一面観音像も有名。今年はたまたま特別公開の時期が紅葉と重なったとの情報を聴きつけ、相方さんと二人、いそいそと出かけてみた。


「海住山寺」はJR加茂駅から徒歩50分ぐらい。しんどければタクシーで門前まで行くことができる。昼過ぎに加茂駅に到着したため、あまり時間の余裕がなく、往路はタクシーを選択。約1200円。車のなかからだが、木津川の美しさに瞠目した。


境内に入ってみると、パラパラと拝観者の姿があった。しかし、京都市中の人ごみに比べれば、圧倒的に静かである。お客さんが少ないので、二体ある十一面観音像をじっくり拝観。どうやら仏像の表情と、能の面になにかしら共通点があるのでは?という意見で、相方さんと合意した。少なくとも、仏像の表情は、西洋イコンのような明確な表情をとっていないことに特徴があると言えそうな気がする。


五重塔は一番下の層の内部が公開されており、塔の内部の仏像、仏画を観ることができた。800年前の彩色が残っており、仏教に賭ける人々の思いの強さが伝わってくる。


海住山寺

紅葉はこれからという感じであったが、緑と赤の共演はなかなかに趣がある。復路は二人で歩いてみた。すれちがう小学生に挨拶されて、あわてて挨拶を返したり、橋の上から木津川を眺めたり、和菓子屋さんでおやつを買ったりしていたら、あっという間に加茂駅まで戻っていた。


■小塩山十輪寺

別の週に訪問したのは「十輪寺」。もともとの予定では善峯寺を目指そうとしていたのだが、自転車で坂を上がるのに疲れ、一休みしようと思っていたところに、「なりひら寺」という案内板が眼に入ってきたので、ふらりと立ち寄ってみた次第。在原業平が隠棲したと伝えられるお寺とのことである。
十輪寺

門をくぐると、面白いデザインの本堂が目に入ってくる。神社の鳥居を擬した正面、中国風の曲線的な屋根のラインが眼を楽しませてくれる。なぜか本堂内に太平洋戦争当時、宮崎で行われた陸海軍合同軍事演習記念写真が飾ってあり、この古の寺院が近代をどうくぐりぬけてきたのか、気になってきた。拝観を終え、自転車のところにもどると、雨がぱらつきはじめたので、善峯さんには後日を期することにして、帰途についた。


■粟生光明寺

「十輪寺」からの帰り際によったのが「光明寺」。こちらは紅葉で有名なためか臨時バス駐車場ができており、シーズン真っ盛りな印象。とはいえ、午後遅い時間帯だったため、それほど混雑もなく、ゆったりと拝観できた。
光明時

個人的には柳宗悦『南無阿弥陀仏』を読んで以来、粟生光明寺については、もみじよりも、法然の高弟証空さんを祖とする浄土宗西山派の本山というイメージが強い。浄土宗についてはもっと勉強したいと思うのだが、なかなか時間が…。光明寺は三回目だが、いつ来ても門をくぐったところのなだらかな石段ともみじの組合わせに眼を奪われる。


■栂尾高山寺

別の週に訪れたのは、「高山寺」。僕は何度か来たことがあるが秋は初めて。相方さんはそもそも初めて。以前来た時には明恵上人って??という感じであったが、今回はバッチリ河合隼雄『明恵 夢を生きる』をカバンに忍ばせている。京都駅から臨時直行バスで40分。案外はやく到着できた。さすがに観光客も多く、山が活気を帯びている。

高山寺

久々の高山寺で印象に残ったのは、境内の樹木の多さ。杉の樹に覆われて、境内の境界がはっきりしない。森を切り開いて伽藍が置かれているのではなく、文字通り森の中に伽藍が収まっている点に惹かれた。


明恵上人が住まれていた国宝「石水院」も拝観。掛け軸(「国宝 明恵上人樹上座禅像)をじっくり鑑賞した。すると、明恵上人の上方に、樹枝と岩によって、人の顔のように見える部分があることを発見。これは「夢」を意味しているのか?と相方さんと話し合った。


明恵上人と言えば、「華厳」。鈴木大拙、井筒俊彦、司馬遼太郎らによると、華厳哲学は、「理論」仏教の中心にあるらしい。華厳哲学が、このような木々に囲まれた空間で育まれたことを心にとめておこう。


■高雄山神護寺

高山寺から神護寺までは、徒歩でも20分ぐらい。清滝川ぞいを進むとすぐに到着。石段が多く、お年寄りにはしんどそう。


「神護寺」という名前には、仏教が国家を鎮護する役割をになうようになったというニオイが漂う。宗教と政治が絡むと、どうも美としてはワンランク大味/下品になってしまうような気がしてならない。高山寺で木々と木漏れ日に包まれた空間を堪能してからだと、神護寺の境内は、強力な思想によって山林が切り開かれたようにみえてしまう。


いかつい伽藍の見学はそこそこにして、恒例のかわらけ投げを楽しんだ。

神護寺
実は、神護寺の中では山門が一番好きだったりするので、帰り際にじっくり山門を眺めた後、石段下の休憩処「硯石亭」で昼食。相方さんと二人で「もみじそば」をいただいた。紅葉にはなぜかお蕎麦が似合う。


■妙心寺塔頭「天球院」

バスで高雄を後にし、禅宗の古刹妙心寺へ。印象としては相国寺と伽藍配置、建築様式がよく似ているが、塔頭の多さは大徳寺に似ているだろうか。たまたま通りかかった天球院に入ってみることにした。まったく事前の知識がなかったのだが、門から漂ってくる雰囲気の上品さにひかれたからかもしれない。方丈に入ると圧倒的な障壁画が迎えてくれた。狩野山楽・山雪父子の描く、樹、岩、鳥、雲が畳みかけてくる。あまりにすごすぎて、こういう絵に囲まれた部屋ではリラックスできないのではないか?などとヘソをまげて鑑賞した。襖絵を堪能したあとは、奥の小さな庭に。鮮やかな紅葉の赤が映えていた。
天球院


■妙心寺塔頭「退蔵院」

天球院を後にし、久松真一先生がおられた「春光院」、西田幾多郎先生の墓所がある「霊雲院」の玄関を覗いた。さらにぽちぽち歩いて到達したのは、「退蔵院」。美しいもみじが彩る庭園は見事。庭園の入口の門には、向かい合った鯰の彫り込みがあって面白かった。

退蔵院

高山寺⇒神護寺⇒妙心寺と一日で巡ると、自然と人為のバランスが時代背景とともに変遷してきたことがみえてくる。もみじ以外の面でも、いろいろと楽しめた旅となった。



毎朝、最寄駅から大学まで片道40分を歩いている。暇だからである。

クモ

ふと上を見上げてみると、電線の間に巧みな網を張り巡らす輩に遭遇。

思わずパシャリ。

くもが背景なのか、クモが背景なのかは曖昧。不思議な共演となった。


いつごろからクモが電線の間に巣をはるようになったのかよく知らないが、

電信柱ができてからであることは、間違いない。

空中に張られた網目の方が、獲物が良く取れるのだろうか。

クモの生活スタイルは確かに変化しているようだ。


人間は、どう変わり、どう変わらないのだろうか。

身体と精神、それぞれに、観察し、考えておくべきことはたくさんありそうだ。


そんなことはさておき。


こぴっと風邪を引いたので、野口晴哉『風邪の効用』ちくま文庫を読んでみた。


めちゃくちゃ面白い。「風邪で出た熱は無理に下げないほうが良い」という

現代の医学が最近になって生理学を駆使して到達した知見を、野口さんは

1960年代に、身体の観察、身体の運動だけから導き出しておられる。


風邪を引くという現象は、医学だけでなく、人類学的にも、身体論的にも、

捉える事が出来るのだということを痛感させられた。


また、「風邪」をうまく経過させることで、体質を良い方向に変えるという発想は、

自然科学よりもさらに先に到達したレベルに届いていると感じた。


顕微鏡や、試薬を駆使した実験でしかわからない事はあるだろう。

たしかに、説明の緻密さでは自然科学はずば抜けている。


でも、人間の観察、知覚、思考は、ずばっと真相にたどり着くことがある。

自然科学にはない種類の精密さを人間はもっているのではないか。


医学には分かってないことがたくさんある。

まだ発見されていない病気もあるだろう。

なぜ効果を示すのか分からない治療もたくさんある。

自然科学は多くを知っている。しかし、世界の現象は常にその上を行く。

分からない事に直面したとき、文献に立ちかえることは重要だが、もし、

文献すらなかったとき、患者さんにも僕にもまだ観察や感覚という武器が

あることを忘れないようにしよう。


そんなことを感じていると、不思議なことに野口晴哉『整体入門』の

古本をブックオフで発見。


探していると、見つかるものなのである。


グランド・シャルトルーズ修道院の日々に密着したドキュメンタリーを観た。


脚本もなく、俳優もいない。音も光もそのまま。全く「演劇的要素」はない。

人の手が入っているのは編集作業だけである。


祈り、聖書を読み、働く。その繰り返しの日々が淡々と描かれている。


修道院会にもいろんな会派があるので、その生活はかなり会派ごとに

違っているのだろう。


僕が中学・高校をすごしたミッション・スクールでは修道士の先生が

英語や倫理の授業を担当されていた。


また、年に一回、週末を学校のすぐ近くの修道院で泊まり込みながら

修道生活を体験する「練成会」というイベントがあった。

日曜日には近くのカトリック教会のミサに行ったり、夜は祈りの修養を

した経験は今思うと、とても貴重だった。


ちなみに、僕はこのミッション・スクールに入ってすぐ、キリスト教には

カトリックとプロテスタントがあるということを思い知らされる経験をした。


そんなことはさておき。


この作品の修道士さんの生活をみていると、なぜこの人たちが修道院に

来たのかという点が良く分からない。修道士へのインタヴューもない。

だから、修道という厳しい門をくぐらねばならなかった修道士さんたちの

背景は分からないままである。


修道士の表情が一人ずつクローズアップされるシーンがあるのだが、

高齢の方ほど表情が峻厳だったのが印象的だった。若い修道士には

どこか朗らかな柔和さが感じられた。厳しさは楽しくもあるのだろう。


おそらく、修道生活に入るということは、いくつかある中から選んだ道

ではなくて、そうせざるをえないような何らかの必然性を帯びた選択

なのだろう。いわゆる召命である。


西田幾多郎は、哲学の根底には悲哀がなければならないと言った。

悲哀は哲学の結果なのか、原因なのかは判然とはしない。しかし、

滝澤克己ならば、その悲哀を神の恵みが裏打ちしているところを

直覚しなければならないと言うだろう。そこまで至れば、因果はたやすく

逆転する。


S・ヴェイユは、存在しない神に祈ると言った。

僕自身は、神に祈ることよりも、神に祈るとはどういうことなのかを

考え続けることで、祈りの代わりにしてもらいたいねぇ~と思うような

軟弱者である。


でも、その軟弱さが、この僕の必然である。


軟弱ゆえに、上映中に束の間まどろんでしまい、横で目をがっつり

見開いていた相方さんから肘鉄砲を頂戴したことも明記しておく。


先日、ぼけーっと戦国時代を扱う番組を見ていてあることに気がついた。


例えば、武田信玄の勢力範囲はどんどん拡大していくわけだが、

その際、「○○の合戦後、武田領は信濃国に及んだ」等と説明される。

つまり、その地域を納める領主が変わっても、国名は変わらない。


そうか。旧国名は、あらゆる意味で地名だったのだなと納得した。

地名であるがゆえに、たとえ領主が変わっても国名は変わらない。


そこで思いをはせるのは、近代ヨーロッパである。

たぶん、アルザス・ロレーヌ地方は、フランス、ドイツに挟まれ、

文字通り国名がコロコロと変わったのではないか? 

第二次大戦後、沖縄や奄美大島がアメリカから日本に返還された時も、

その地域の人々にとっては、国名が変わったのである。


近代国家の国名は、土地とのリンクが切れている。

その点が画期的だったのではないか。


そう考えてみると、西郷隆盛がなぜ征韓論を唱えたのか

腑に落ちるような気がしてきた。


西郷さんは近代国家というものをあまり分かっていなかったのではないか?

おそらく、朝鮮半島に出兵して占領するということを、戦国時代の感覚で

西郷さんは捉えていたのではなかったか?


戊辰戦争で西郷さんは旧庄内藩に対し、非常に寛容な態度を示したことで

知られる。西郷さん不在のまま、熾烈を極めた会津戦争とは対照的である。


たぶん、西郷さんは、自ら朝鮮に足を運び、かの地の指導者と話をすれば、

庄内藩と同じように、李朝の理解を得られると考えていたのだろう。


しかし、時代の渦の中で、他国に出兵して占領するということは、そのまま

「国名が変わること」に変わってしまっていた。その重大さを、西郷さんは

あんまり理解していなかったのではないか、そんな風に想像してみるのである。


日本は、政権は変わっても、国名は変わったことがない。

第二次大戦の敗戦後も、なんとなく「日本国」は残ったままだし、

明治維新の廃藩置県後も、「旧国名」は地名としてなんとなく残っている。

国名なんて変わるはずがない、地名と同じようなものだと思っている日本人は

案外多いのではないだろうか。


しかし、現代社会では、戦争をするということは、国名が変わることと直結する。

国名が変わってしまうことの重大さを、日本人はどれだけ想起できるだろうか。

あの西郷さんですら、おそらくできていなかったのだ。

自信のある日本人は、そう多くはあるまい。

僕も、今年ニュースになったクリミア半島、スコットランドの問題について、

その深刻さをイマイチ理解できていない気がする。


でも、その深刻さを理解したいなという思いもある一方で、

国名は地名と同じように、滅多やたらと変わるもんではないという感覚も、

なんとも呑気で捨てがたい。


なんだかんだいって、近代国家のことをあんまり分かってなさそうな

西郷さんの感覚のほうが、近代国家という制度が疲労してきている現代には

一つのヒントになるのかもしれない。