やや前になるが、とある国の首相が、ある会合で市民から
「○○的○○権については納得してませんから」と言われ、
「見解の相違です」と切り返したと報じられた。
会合後の記者会見で、この某国首相は、
「丁寧に分かりやすく説明を続けることで必ず理解してもらえる」
「歴史の検証に耐える自信をもっている」とおっしゃったとのこと。
率直に耳を疑う。
そもそも政治とは何か。
K泉首相以降、「政治力」は集団心理学的な側面を強くした。
そのためだろうか、知識でも思考力でもなく、押したり引いたりの
いわゆる駆け引きのうまさ(脅かしと宥めの切り替えのうまさ)を
政治力と感じている人が多いのでないだろうか。
しかし、そうした駆け引きは、前提として政治的な目標を的確に
設定できる能力があって初めて活きる技術である。
織田信長は、目標が明確だったが、駆け引きでは強引だった。
豊臣秀吉は、目標は頓珍漢だったが、駆け引きはうまかった。
ふたりの戦国武将をみれば、片手落ちが悲劇を招くことは
容易に見て取れる。
駆け引きとしての政治力はもちろんあるに越したことはない。
だが、適切なビジョンを描けるかという点が抜け落ちれば悲劇だ。
では、適切なビジョンはどう描くのか。
しばしば政治のビジョンは「理想と現実のギャップを埋める」ことで
描くと思われているのではないだろうか。僕はそうは思わない。
理想と現実は対立しあう二項ではない。
理想が複数存在するということが現実なのではないか。
僕にとっては、政治とは、理想と別の理想の間のギャップを現実に
落とし込むための営みの事を指す。
ゆえに、「政治」というふるまいが可能であるためには、少なくとも、
自分の考える「理想」を持っておかねばならない。僕的には。
仮にこの世界に理想が一つしかなければ、その理想を実現するための
努力を着々と積み重ねていけばよい。某国首相のように。
しかし、それは本質的に政治ではないし、政治とも呼べない。
むしろ悪しき意味で、宗教的とでも形容すべきか。
異なる理想をもつ人々が一緒に暮らしていることを理解し、
理解しようとし、異なる理想をどう折り合いをつけていくかを
考えるのが、政治家にとって必須の知的作業ではないか。
だから、僕は政治家にとって、複数の理想を理解する能力が
不可欠だと思うのである。
まさしく、福澤諭吉が「一身にして二生を経る」といったように。
異なる理想の存在を認めようとも、理解しようともせず、ただ
相手を自分の理想の方に取り込もうとする某国首相の言葉からは、
残念だが、上にあげた政治家にとって必須の能力を感じ取れない。
某国首相は自信に満ちた言葉をよく語るけれども、僕からみれば、
彼にはこの能力が不足し、恐らく「薄氷を踏む」感覚が分からない。
だから、言葉は勢いよく弾むが、その背後にためらいが見えない。
より厳しくいえば、自立する個人を信じないという意味において、
某国首相は近代以前の発想をしている、と僕は思う。
日本でいうなら、明治政府初期の発想をしている気がするのだ。
近代以前の発想をもつ某国首相が、近代の産物である「国家」に
とてもこだわっているのはなぜなのか。面白い問題ではある。
それはさておき、そもそも現在の日本の政治家で、複数の理想を
理解しようとしている人々はどれくらいいるのだろうか。たしかに、
○○的○○権のときには、与党を構成する2つの政党の間で文言を
めぐる交渉があったようである。
しかし、これは理想の異なる他人同士の陣取りゲームにすぎない。
相手の掲げる理想を理解し、自分の理想と比較し、自分一人の中で、
あーでもない、こーでもないと思索を重ねる姿からは程遠い、とぼくは思う。
僕の抱く危惧は日に日に大きくなっている。
国が豊かになり、強くなることは歓迎すべきことかもしれない。
しかし、豊かさや強さが最「優先」される国は、気持ちが悪い。
「歓迎すべき」と「優先すべき」という評価軸は異なっている。
この微妙なところを某国首相はどう感じているのだろか。
とはいえ、僕がすごい政治家だと思うのは福沢諭吉や中江兆民や
吉田茂であり、すごい政治学者だとおもうのは丸山真男であるから、
比較される某国首相には酷かもしれない。
しかし、この面子レベルの人々が続々出てきてくれなければ、忽ち
ダメになってしまうというのがグローバル世界における国家であろう。
企業だけでななく、政治の世界も自転車操業化しているからだ。
ちなみに、僕の個人的な感覚になってしまうが、
福沢諭吉や中江兆民は政治哲学者としては1流だが、形而上学者
としてはイマイチ。丸山真男は思想史家としても政治哲学者としても
ピカイチだが、本居宣長論の読みの深さでは小林秀雄に及ばない。
そんな小林秀雄にかかると、「政治というものは虫が好かない」となり、
「私たちの常識は、(中略)政治のイデオロギーによる自己主張を憎んで
いるはずである。政治は、わたしたちの衣食住の管理や合理化に関する
実務と技術の道に立ち還るべきだと思います」(「政治と文学」末尾)と、
しごくまっとうではあるが、そこまで回帰できる人が稀な地点に至る。
吉田茂は、自分の本心とは違う選択をとれる知性(勇気ではない!)と
あらゆる政治選択を暫定的なものと捉えていた点がすごいと思うが、
吉田的知性は「追い込まれたとき」にのみ参考になるのであって、
追い込まれてすらいない現在の情勢では、参照するとかえって危険だ。
そんな風に、どんなに凄い人でも、完璧というわけにはいかない。
だとしても、「政治家」を名乗る以上、踏まえておかねばならないことが
あるのではないか。
僕は辛口すぎるだろうか。夏の暑さがそうさせているのかもしれない。
敗戦が冬だったらどんな戦後になっただろうと考えたりするこの頃である。
【8/22 とある○○的○○権をめぐるN○K特番視聴後の追記】
血を流すかどうかという問題の前に、どう額に汗を流すかを考えよう。
日本が自分で自分のことを守りきれない国で何が問題なのか?
他の国々が守ってくれるなら、それに甘えるのも「あり」ではないか?
日本が「一人前の国」でなくとも、そんなに悪くはではないか。
そもそも「一人前の国」を満たす基準とは?
もしもアメリカみたいな国を一人前と考えているなら、おかしくないか?
アメリカみたいな国は地球上に一つしかない。アメリカは普通ではない。
むしろ、地球上には一人前ではない国のほうが圧倒的に多い。
自分の国だけでどうにも始末がつけれなくなったから、国際連盟やら
国際連合やらが作られたのではなかったか?
もし国際連合が機能不全になっているならば、国際連合に頼らない
方法を探るのもいいが、国際連合の機能を再び取り戻すために何を
したらよいかを考えるのも大切では? 国際連盟とは別の仕方で
国際秩序を維持できる方法を考えることも重要かもしれない。
日本が、所謂一人前の国でなくとも、考えようによっては悪くないのでは?
隣の火事の消火を助けてもよいが、逃げて生き延びてもよいのでは?
「腰ぬけ」と言われる?それがどうした?国家の「腰」とはなんぞや?
「積極的平和主義」ですか。うまいこと言いますね。しかし、この国は
「原子力の平和利用」について言葉の呪力を思い知った、はずだ。
言葉の耳触りの良さは、深刻に警戒しなければならない。
「勇ましく生きない」生き方も、やりよう次第で十分に勇ましくなるし、
「ひりひりとしたスリルを求めない」生き方も、ある意味スリリングだ。
日本が大国であった時代は結構短い。
いや、そもそも「日本」はかつて国家名ですらなく、地名だった。
もっとさかのぼれば、地名というよりも、方角を指す言葉だった。
そこまでさかのぼろうとおもえば、立ち返ることが日本にはできる。
何かがあったとき、立ち返る日本の原点は、おそらく「小さい」。
【2014年11月4日補足】
最近、安倍首相は、逆説的な政治家なのではないか?と感じることが
多くなっている。その説明はまた機会を改めて書くことにして。
この元記事で僕が記した「政治家としての資質」は、首相だけでなく、
市民の側にも必要だということは言うまでもない。
民主主義と国民主権は、政治家でない人にも政治的判断力を求める。
ルターの万人司祭論、荻生徂徠の万人役人論はまだ生きている。