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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

最近、休みのたびにお寺や神社に行ってみたくなる。


まずは、円通寺。再び遊びにきた母親を交え、家族三人で。

地下鉄を北山駅でおり、徒歩で北上する。深泥池という何とも

怖い名前の池を通り過ぎ、博愛会病院の脇をすりぬけると、

岩倉の自動車学校が目に入ってくる。すこし坂をのぼるが、

大した長さではない。30分ほどあるいて円通寺に到着した。


円通寺

比叡山を借景とした庭が有名な円通寺。幡枝離宮とも呼ばれ、

後水尾上皇が山荘とされていたらしい。まだ9月ということで、

紅葉には早く、お客さんもまばら。ゆったりと景色、風音を堪能

することができた。


帰りは、幡枝八幡宮、針神社に寄り道をしてから、叡山電鉄に。

鞍馬・貴船帰りの人がたくさんだったのにびっくり。


お次は、別の日になるのだが、相方さんと二人で、京都の西を

散策。阪急松尾大社駅で降りて、まずは松尾大社に参拝。


松尾大社


宝物館の「男神像」「女神像」は歴史の教科書でおなじみだが、

お寺の○○観音像などにくらべると、ネーミングが・・・

また、なぜだか、現代作庭家による庭を拝観することができるのだが、

これまた古社と新庭の微妙なマッチングが面白い。


松尾大社をあとにして、月読神社、鈴虫寺をザクッと拝観。

鈴虫寺は、ちょうどシーズンらしく、すごい数の観光客で…。


鈴虫寺をでて、「竹の寺 地蔵院」を目指す。

細川家ゆかりのお寺ということだが、急に人影がまばらに。

風が竹を鳴らす音、虫の声以外は本当に静かなお寺に到着。


地蔵院

庭は撮影禁止なのだが、床の間に細川ガラシャの肖像画が

飾ってあり、仏教のお寺で、キリシタンのガラシャさんに見つめ

られるという不思議な経験をすることができた。


相方さんと二人で、しばらく庭を見ながらぼけーっとしていた。

竹の緑、苔の緑、竹の匂い、苔の匂いが何とも優しかった。


時折、音が聴こえなくなり、しばしば、光が感じられなくなった。

僕はどこにいたのだろうか。なにを感じていたのだろうか。


帰り際、門をでると、急に五感が「ぶわっ」と働きだした。

やや前になるが、とある国の首相が、ある会合で市民から

「○○的○○権については納得してませんから」と言われ、

「見解の相違です」と切り返したと報じられた。


会合後の記者会見で、この某国首相は、

「丁寧に分かりやすく説明を続けることで必ず理解してもらえる」

「歴史の検証に耐える自信をもっている」とおっしゃったとのこと。


率直に耳を疑う。


そもそも政治とは何か。

K泉首相以降、「政治力」は集団心理学的な側面を強くした。

そのためだろうか、知識でも思考力でもなく、押したり引いたりの

いわゆる駆け引きのうまさ(脅かしと宥めの切り替えのうまさ)を

政治力と感じている人が多いのでないだろうか。


しかし、そうした駆け引きは、前提として政治的な目標を的確に

設定できる能力があって初めて活きる技術である。


織田信長は、目標が明確だったが、駆け引きでは強引だった。

豊臣秀吉は、目標は頓珍漢だったが、駆け引きはうまかった。


ふたりの戦国武将をみれば、片手落ちが悲劇を招くことは

容易に見て取れる。


駆け引きとしての政治力はもちろんあるに越したことはない。

だが、適切なビジョンを描けるかという点が抜け落ちれば悲劇だ。


では、適切なビジョンはどう描くのか。


しばしば政治のビジョンは「理想と現実のギャップを埋める」ことで

描くと思われているのではないだろうか。僕はそうは思わない。


理想と現実は対立しあう二項ではない。

理想が複数存在するということが現実なのではないか。


僕にとっては、政治とは、理想と別の理想の間のギャップを現実に

落とし込むための営みの事を指す。

ゆえに、「政治」というふるまいが可能であるためには、少なくとも、

自分の考える「理想」を持っておかねばならない。僕的には。


仮にこの世界に理想が一つしかなければ、その理想を実現するための

努力を着々と積み重ねていけばよい。某国首相のように。

しかし、それは本質的に政治ではないし、政治とも呼べない。

むしろ悪しき意味で、宗教的とでも形容すべきか。


異なる理想をもつ人々が一緒に暮らしていることを理解し、

理解しようとし、異なる理想をどう折り合いをつけていくかを

考えるのが、政治家にとって必須の知的作業ではないか。


だから、僕は政治家にとって、複数の理想を理解する能力が

不可欠だと思うのである。

まさしく、福澤諭吉が「一身にして二生を経る」といったように。


異なる理想の存在を認めようとも、理解しようともせず、ただ

相手を自分の理想の方に取り込もうとする某国首相の言葉からは、

残念だが、上にあげた政治家にとって必須の能力を感じ取れない。


某国首相は自信に満ちた言葉をよく語るけれども、僕からみれば、

彼にはこの能力が不足し、恐らく「薄氷を踏む」感覚が分からない。

だから、言葉は勢いよく弾むが、その背後にためらいが見えない。


より厳しくいえば、自立する個人を信じないという意味において、

某国首相は近代以前の発想をしている、と僕は思う。

日本でいうなら、明治政府初期の発想をしている気がするのだ。


近代以前の発想をもつ某国首相が、近代の産物である「国家」に

とてもこだわっているのはなぜなのか。面白い問題ではある。


それはさておき、そもそも現在の日本の政治家で、複数の理想を

理解しようとしている人々はどれくらいいるのだろうか。たしかに、

○○的○○権のときには、与党を構成する2つの政党の間で文言を

めぐる交渉があったようである。


しかし、これは理想の異なる他人同士の陣取りゲームにすぎない。

相手の掲げる理想を理解し、自分の理想と比較し、自分一人の中で、

あーでもない、こーでもないと思索を重ねる姿からは程遠い、とぼくは思う。


僕の抱く危惧は日に日に大きくなっている。


国が豊かになり、強くなることは歓迎すべきことかもしれない。

しかし、豊かさや強さが最「優先」される国は、気持ちが悪い。

「歓迎すべき」と「優先すべき」という評価軸は異なっている。

この微妙なところを某国首相はどう感じているのだろか。


とはいえ、僕がすごい政治家だと思うのは福沢諭吉や中江兆民や

吉田茂であり、すごい政治学者だとおもうのは丸山真男であるから、

比較される某国首相には酷かもしれない。


しかし、この面子レベルの人々が続々出てきてくれなければ、忽ち

ダメになってしまうというのがグローバル世界における国家であろう。

企業だけでななく、政治の世界も自転車操業化しているからだ。


ちなみに、僕の個人的な感覚になってしまうが、

福沢諭吉や中江兆民は政治哲学者としては1流だが、形而上学者

としてはイマイチ。丸山真男は思想史家としても政治哲学者としても

ピカイチだが、本居宣長論の読みの深さでは小林秀雄に及ばない。


そんな小林秀雄にかかると、「政治というものは虫が好かない」となり、

「私たちの常識は、(中略)政治のイデオロギーによる自己主張を憎んで

いるはずである。政治は、わたしたちの衣食住の管理や合理化に関する

実務と技術の道に立ち還るべきだと思います」(「政治と文学」末尾)と、

しごくまっとうではあるが、そこまで回帰できる人が稀な地点に至る。


吉田茂は、自分の本心とは違う選択をとれる知性(勇気ではない!)と

あらゆる政治選択を暫定的なものと捉えていた点がすごいと思うが、

吉田的知性は「追い込まれたとき」にのみ参考になるのであって、

追い込まれてすらいない現在の情勢では、参照するとかえって危険だ。


そんな風に、どんなに凄い人でも、完璧というわけにはいかない。

だとしても、「政治家」を名乗る以上、踏まえておかねばならないことが

あるのではないか。


僕は辛口すぎるだろうか。夏の暑さがそうさせているのかもしれない。

敗戦が冬だったらどんな戦後になっただろうと考えたりするこの頃である。


【8/22 とある○○的○○権をめぐるN○K特番視聴後の追記】


血を流すかどうかという問題の前に、どう額に汗を流すかを考えよう。

日本が自分で自分のことを守りきれない国で何が問題なのか?

他の国々が守ってくれるなら、それに甘えるのも「あり」ではないか?

日本が「一人前の国」でなくとも、そんなに悪くはではないか。


そもそも「一人前の国」を満たす基準とは?

もしもアメリカみたいな国を一人前と考えているなら、おかしくないか?

アメリカみたいな国は地球上に一つしかない。アメリカは普通ではない。

むしろ、地球上には一人前ではない国のほうが圧倒的に多い。

自分の国だけでどうにも始末がつけれなくなったから、国際連盟やら

国際連合やらが作られたのではなかったか?

もし国際連合が機能不全になっているならば、国際連合に頼らない

方法を探るのもいいが、国際連合の機能を再び取り戻すために何を

したらよいかを考えるのも大切では? 国際連盟とは別の仕方で

国際秩序を維持できる方法を考えることも重要かもしれない。


日本が、所謂一人前の国でなくとも、考えようによっては悪くないのでは?

隣の火事の消火を助けてもよいが、逃げて生き延びてもよいのでは?

「腰ぬけ」と言われる?それがどうした?国家の「腰」とはなんぞや?


「積極的平和主義」ですか。うまいこと言いますね。しかし、この国は

「原子力の平和利用」について言葉の呪力を思い知った、はずだ。

言葉の耳触りの良さは、深刻に警戒しなければならない。


「勇ましく生きない」生き方も、やりよう次第で十分に勇ましくなるし、

「ひりひりとしたスリルを求めない」生き方も、ある意味スリリングだ。


日本が大国であった時代は結構短い。

いや、そもそも「日本」はかつて国家名ですらなく、地名だった。

もっとさかのぼれば、地名というよりも、方角を指す言葉だった。


そこまでさかのぼろうとおもえば、立ち返ることが日本にはできる。

何かがあったとき、立ち返る日本の原点は、おそらく「小さい」。


【2014年11月4日補足】

最近、安倍首相は、逆説的な政治家なのではないか?と感じることが

多くなっている。その説明はまた機会を改めて書くことにして。


この元記事で僕が記した「政治家としての資質」は、首相だけでなく、

市民の側にも必要だということは言うまでもない。


民主主義と国民主権は、政治家でない人にも政治的判断力を求める。

ルターの万人司祭論、荻生徂徠の万人役人論はまだ生きている。

○小林秀雄『歴史について 対談集』文春文庫
小林の発言を咀嚼するだけの力はまだ僕にはないが、喉につっかえた言葉を記録することぐらいならできる。「歴史家は、そのままを見なければいけない。どうしてみんな宣長さんをそのまま見ないのか。宣長のまちがいを正したら宣長ではなくなってしまう。宣長は大変偉かったから間違った、そういうふうにみればいいんだ。じゃ、どう偉かったから、ああなったのか、ということを僕にうまく書ければ、あの人は間違わなかったことになるんだ」p.24。「中江藤樹が学問界の秀吉です。これも農夫から近江聖人になったのだからね、まったく徒手空拳の道をいったのです。学問も実力で根底から掴み直されたのだ。それがわが国の近世の学問の血脈なのです」p.38。「「歴史は鏡だという考えで十分だと思うのです。(中略)鏡には歴史の限界なぞが映るのではない。人の一生が映るのです。(中略)過去から取捨選択するから、過去は有効に生き返るのではない。あったがままが思い出されれば、それは生き返るのです」pp.90-91。「僕は、とにかく人を説得することをやめて二十五年くらいになるな。人を説得することは、絶望だよ。人をほめることが、道が開ける唯一の土台だ」p.210。


○オーウェル『オーウェル評論集』岩波文庫
面白かったのは「鯨の腹の中で」と「ナショナリズムについて」。読みながらずーっと、僕はオーウェルに違和感を感じていた。特に、オーウェルがチェスタトンを批判している点がしっくりこない。オーウェルは、自由な意見の表明を妨げるあらゆる力を批判する。「正統思想をかつぐ雰囲気は、散文にとってはつねに致命的であり、(中略)小説はプロテスタント的な形式の芸術だと言ってもいい。つまり自由な知性、自律的な個人から生まれるものなのである」(196頁)。でも、チェスタトンは、プロテスタントよりも自由なカトリックだったのではないか。僕にはそう思われるので、オーウェルの意見に素直にうなずけない。ただし、オーウェルが「作家にとって大事なのは「真理」を把握していることよりも感情が誠実であることではないか」(205頁)と述べるとき、僕はなんとなくオーウェルの気持が分かるような気がした。でも意地悪く言ってしまえば、チェスタトンだって、チェスタトンなりに感情に誠実だったのではないか。チェスタトンとオーウェルの最大の違いは、権力へのスタンスに現れる。チェスタトンならば、たとえ権力であろうと容赦せず、事柄に応じて批判し、肯定するだろう。しかし、オーウェルは「進歩も反動もペテンだ」(210頁)と分かってしまっているがゆえに、権力に抵抗せず、「ただそれを受け入れ、それに耐え、記録する」(211頁)ことが鋭敏な小説家が選ぶ道だと述べる。どちらにも一理あるとは思うけれど、僕はやはりチェスタトンの肩を持ちたい。チェスタトン的な方向にしか本物への探究心が感じられないからだ。オーウェル的な、確かなものがなにもない世界で静かに開き直るのも一つの生き方ではあり、そのような寄る辺なさは小説にとって格好の材料なのかもしれない。しかし、僕は、小説に於いて虚無的であろうとすることよりも、現実に於いて真理を捉えようとする生き方を好む。小説には良し悪しがあるが、真理にそんな区別はないからだ。


○夏目漱石『私の個人主義 ほか』中公クラシックス
漱石の講演をまとめたセレクション。とりわけ「文芸の哲学的基礎」が面白かった。気になった個所をメモしておく。「意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由がきいて、ある意識の連続を容易に実行できる―すなわち自己の理想を実現しやすい地位に立つ―人と言わねばならぬから、融通のきく人と申すのであります」p.36。「跛で結跏のできなかった大灯国師が臨終に、今日こそ、わが言うとおりになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります」p.51。「私はただ寝ているのではない、えらいことを考えようと思って寝て居るのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない」p.88。「ただ新しい思想か、深い思想か、広い思想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧ははじめてこの人のために至大な用をなすのであります」p.90。漱石の語り口は逃げ水のような魅力をもっている。


○林達夫『林達夫評論集』岩波文庫
「いわゆる剽窃」「歴史の暮方」「反語的精神」「三つの指輪の話」「デカルトのポリティーク」など名品が収録されている。林達夫は苦い時代を生きた人である。ゆえに林は同じく苦い時代を生きたデカルトが繰り出した苦肉の順応戦術に共感し、戦争翼賛の呪術的な政治の命令的言葉に懐疑を抱きつつ、「一つのことを欲しながら、それと正反対のことをなしうる」自由な反語的精神に至る。「私思うに、現代のような逆説的時代には、真の誠実は絶対に誠実らしさの風貌は取り得ない。現代のモラリストは、事の勢い上、不可避的にイモラリストとなる」122頁。行為論的にはオーウェルと林は似ているのだが、林の行為の背後には敵の役割を自ら演じる「絶望の戦術」p.135がある。だから僕はやはりオーウェルよりも林の肩をもちたい。林が早々に絶望を決め込んだ時代の状況は、今日でもびっくりするほど変わっていない気がする。しかし、自由な反語的精神の地下水脈は、こっそりと現在まで受け継がれていると僕は信じている。

「三つの指輪の話」のレッシング論も出色である。宗教多元主義というしょうもない議論の下らなさを理解するには、この小論だけで十分であろう。本当の宗教とは、自らの教条の正統性を主張するのではない。むしろ、真の宗教とは、もともと偽物からはじまり、それを各人が自分自身の信仰によって本物にしていくところに顕れる、というレッシング(そしておそらく林達夫もそうだが)の主張は、卓見である。宗教多元主義なんぞ、小林秀雄流に黙殺しておけばよいのである。


○竹田篤司『物語「京都学派」』中公文庫
下村寅太郎の教え子である著者が綴る「京都学派」の評伝。下村寅太郎は久保(土井)虎賀寿にかなり辛い。下村は、かの「近代の超克」座談会で「機械をつくった精神」をめぐって小林秀雄ともやりあっている。僕は土井の無頼な業績も好きだし、教祖小林の考えにも敬意をはらう者であるから、正直、下村寅太郎という思索者には若干距離を感じる。だからかもしれないが、下村に甘い本書の評価軸には終始違和感があった。とはいえ、本書は「京都学派」の人間くさい一面を描き出すことに成功していて、週刊誌的な興味を満たしてくれる。思想的に一番ガツンと来たのが今西錦司による高坂正顕、高山岩男、鈴木成高らへの批判の個所だったが、「京都学派」が主役の本としては若干さみしい気もする。


○中井久夫『西洋精神医学背景史』みすず書房
あまりの中井先生の博識に、もはやびびります。面白いというような安易な感想すら抱けないような緊密さがある。歴史をみる眼は、病歴をみる眼と同質なのだということをこれでもかと痛感させられた。20世紀思想史に対する「具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムの下に数多くの矛盾を含む業績を残した19世紀の不死身巨人族」に対する「鋭利ながら細身にすぎる剣をもつ20世紀知性」の格闘という評価(96頁)。「精神科医が最も即物的とみなしがちな外科学に哲学があり、精神医学が薬物をメスのごとくに用いたのは笑って済まされない歴史の皮肉である」(147頁)。「定式化された精神医学史には登場しない型の、謙抑な精神科医が西欧には少なからず存在し、彼らはしばしばすぐれた治療者である。その“表芸”は脳波学であり、神経学であったりする」(168頁)。「おそらく、新しい問題は、精神科医と患者の距離の―遠さでなく―近さから発生するであろう」(169頁)。挙げればきりがないが、「医学を歴史として学ぶ視点」の意義を学んだ。


○竹内敏晴『ことばが劈(ひら)かれるとき』ちくま文庫
「つんざく」を「ひらく」と読ませる感覚がこの本がいかなる書物なのかを示している。コミュニケーションというものをその生成から考え直すために、声や言葉を失った所から始め直す試み。「われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力―それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。そして、それを他者が見、それが他者にうつってゆくとき、例えば連帯とか、共闘というようなことも、そのいとぐちが劈いていきうるのではないでしょうか」(29頁)。哲学者鈴木亨の「響存的世界」を個人的には連想した。響きを通して相手に触れるような声のありかたを求めて、僕も僕なりに迷っていこう。


○むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書
古本屋でみつけて、立ち読み始めたら止められず、そのまま読み終えてから買った。すごい本である。むのさんについては、名前だけは知っていた。真に不屈の人である。だれか偉い人の意見を引用することもなく、自分の体験した出来事をひたすら捉え直し、考え直し、発信している。むのさんの言葉のすごいところは、思想のような理屈っぽさと無縁の、もっと率直な思いであることだ。「ジャーナリズムとは何か。ジャーナリズムの「ジャーナル」とは、日記とか航海日誌とか、商人の当座帳とか、毎日起こることを書くことです。それをずっと続けていくのが新聞。それは何のためかというと、理由は簡単で、いいことは増やす、悪いことは二度と起こらないようにする。ただ、それだけのことなんです。(中略)新聞も「商品」になってしまいました。たから、ニュースではなくてトピックスになっている」(86頁)。むのさんの発言すべてにそのまま賛成ではないけれど(特に宗教への評価とか)、むのさんの真剣さに、人として頭が下がった。むのたけじさんと竹内敏晴さんが二人とも若い時期に魯迅の本を読んでいる共通点をもつということも知った。魯迅についても読んでみたいと思わせていただいた。「国際」と名のついたものは人間の生活を全然変えていないp.133という指摘も突き刺さった。


○西原克成『生物は重力が進化させた』ブルーバックス
小著ゆえの論証の粗さはあるけれど、アイデアとしては非常に説得力があるし、面白く読んだ。重力、電力、運動など、生活様式が生命を変化させていくこと、生活様式が変わらない限り獲得形質は次世代にも伝わることなど、うなずかされる。上陸するまえの生命が免疫寛容だったという指摘にもなるほど。日光のサルの骨格が直立歩行型に変化してきていること、悲運の生物学者カンメラーの実験についても興味深かった。今西錦司の「進化とは、同じ形態をもち、同じ機能を果たすことによって生きている同種の個体が、長年月のうちに同じように変化することである、といってもべつに不都合はなさそう」(『ダーウィン論』中公新書,p.165)という言葉を、実験科学の立場から解釈しなおしている試みといえるかもしれない。


○兼本浩祐『心はどこまで脳なのだろうか』医学書院
フロイト、アンリ・エー、ダマシオ、ヒュー・ジャクソン、エーデルマン、ヤスパースなどの大御所の仕事が咀嚼されてわかりやすい見通しが提示されている。西洋医学の徴候に基づく診断が、身体の官能性を暴力的に剥奪しているという指摘にはハッとさせられた。残念ながら、この本のメインテーマであるクオリアとか心脳問題については、真剣に考えるに値する問題とは思えないので身が入らないのだが、本書の着実な記述は興味をもって読めた。でも、正直言ってしまえば、心が全部脳で説明されようと、やはり心には脳で説明できない部分があるとなっても、僕はどっちでも構わない。この問題がどちらに転ぼうと、私は厳然と存在する。この時の私の在り方は、現象として在るのとはちょいと違うのではないかというのが大事なポイントである。宮沢賢治の言うような「私という現象」は、あったとしても私にしか顕れない、その意味で出来事にはならない。さらに言えば、西田哲学的には私は現象ではなく、むしろ現象が起こる場所である。僕はこの西田の洞察にいまだにからめとられている。故に、いい本だと思うけれど、僕には少し遠かった。

○浜田晋『心をたがやす』岩波現代文庫
「精神科医という生業は、私流に言えばしょせん闇屋にすぎない。闇屋は人の目をはばかる。しかし闇屋がなければ戦後の日本は立ち行かなかった」。プロローグに打ちのめされた。松沢病院の怪物医師列伝も興味深いが、何よりも確立した治療法がなかった手さぐり時代の精神医療の姿を伝える記述が胸を打つ。いろんな精神療法を試行錯誤せざるを得なかった医師たち、療法の変更に苦しむ患者さんを支えていた技師さん・掃除のおじさん・看護婦さんたちの姿、貴重な回想である。


○神田橋條治『医学部講義』創元社
「脳を病んだ人が精神科に来て、心を病んだ人は刑務所に行く」「プラセボ効果を高めるのが医師の力量」をはじめ、箴言に満ちた講義録。あふれるインスピレーションが、少しずつ精神や身体という曖昧なものを明確にしていく過程が記録されている。現代の医学部では膨大な知識の習得が第一義であるが、昔の医学部では、分かっていることが少なかったがゆえに観察力・思考力の鍛錬が重視された。あらためて知識だけでなく、感覚を磨くことの大切さを痛感した一冊。何度でも立ち返るべき医療の基地。


○原田憲一『精神症状の把握と理解』中山書店
精神症状を表す用語には四字熟語が多く、学生にはわかりにくい。診療所実習の前に少しでも具体的なイメージを得ようと手にした一冊。叙述は平易でリズムよく読めるのだが、所々に散りばめられた著者の洞察を含め、内容の質が高すぎてまだ消化しきれていない印象。実習後にもう一度読みなおそう。


○安保徹『未来免疫学』インターメディカル社
気圧、白血球分画、自律神経系を関連付ける発想を学んだ一冊。一般向けの書物であるが、積み重なった知識で凝り固まった医学に風穴をあけるような爽快さがあって楽しめた。


○金子光晴『絶望の精神史』講談社学術文庫
「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが僕は、むしろ絶望してほしいのだ。(中略)しいて言えば、今日の日本の繁栄などに、目をくらまされてほしくないのだ。そして、できるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、すこしでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は、破滅的なのだ」pp.189-190。自信にあふれた明治、その反動として日本嫌悪が生じる大正、人々が勘定高くなった昭和を通して、様々な絶望の様子を記録する詩人の視点は現代においてなお斬新である。個人的には、本文中に先祖の名前が出てきたとき、しばらく震えが止まらなかった。


○河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫
いつもながら河合先生の本は面白い。とくに隠れキリシタンの天地創造神話改変についてのくだり、神話と現実の対比の個所が興味深かった。だが、河合先生の本を読むたびに思うのだが、人は「物語」だけを生きるのだろうか?「刹那」を生きる一面も人間は持っている、僕にはそう思われるのだが。


○瀧川一廣『「こころ」の本質を考える』ちくま新書
統合失調症、自閉症、不登校は、それぞれに別々の「こころ」があるのではない。発達論からみれば、疾患を超えて共通な「こころ」が見いだせるし、同時に「こころ」のバリエーションとしてそれぞれの疾患を一続きの病態として捉えなおせないか、という試み。自閉症は「自立できすぎる、他者への依存が足りない」病態だという指摘にはっとさせられた。疾患の概念史というアプローチがあることにも気付かせていただいた。


○スピノザ『神学・政治論』岩波文庫
率直に言って、スピノザは本居宣長よりも若干面白味に欠ける思想家だったと分かった一作。たしかに聖書を読むには理性ではなく敬虔をもってせよという主張は瞠目すべき意義を持っている。しかし、それはスピノザの場合、宣長のような積極的な主張ではなく、哲学の領域を神学から守るためになされた受動的な発言のように僕には読めた。

例えばスピノザは、パウロ書簡の信仰義認論とヤコブの手紙の行為義認論を材料にして、「使徒たちは宗教そのものに於てこそ一致してゐるがその諸基礎に関しては極めて違った意見を持ってゐることを我我は見出す」(岩波文庫下巻90頁)と述べる。スピノザがここで言う「宗教そのもの」は「隣人愛という道徳律」だと僕は読んだ。この読みでよいならば、僕はスピノザの主張には納得できない。隣人愛は諸基礎から導かれる結果ではなく、むしろ、隣人愛のほうが行為義認や信仰義認を導くための根拠だと僕は思うからだ。だから僕的には、パウロとヤコブは諸基礎に於いて異なるのではなく、同じ隣人愛を基礎とし、その表現が行為義認や信仰義認という見た目の違う現れ方をしたことになる。ちなみに僕的には、ピスティス(信仰、真実、信実、まことなどとも訳せる)は精神/身体という二元論を超越している。だから、信仰義認は精神面、行為義認は身体面と理解してはならない。信仰義認も行為義認も同じピスティスに根ざしている。精確に言表するのは厄介ではあるが、パウロもヤコブも、「行為が必然的に伴う真実」を信仰(ピスティス)と表現しているのだ。やや突飛な連想だが、西田幾多郎の「行為的直観」とはおそらくこのあたりの機微を指しているのではないかと僕は考えている。

とはいえ、「信仰は真理をよりも敬虔を要求する」(岩波文庫下巻141頁)というスピノザの主張は傾聴すべき論点を含んでいる。たしかに、聖書の様なテキストの場合、読んでから受け入れるかどうかを決めるというスタンスよりも、読み始める前から受け入れておいて、読みながらテキストの意味を考えるスタンスほうが、読み取れる内容が深くなる。だが、僕的には「信仰は”始めのうち”真理をよりも敬虔を要求する」と言い直したい。信仰のギリシャ語ピスティスが真理とも訳されることを学んだ僕には、信仰と真理を遠ざけるスピノザの意見をそのまま見過ごすことはできない。自由を愛する哲学者は、論理的に考える自由を賛美していたが、論理という不自由に激しくからめとられていたのではないだろうか。

前半期の臨床実習が一区切り。短い夏休みに突入した。

暇なので、久々に地元の書店に行ってみたところ、びっくりした。

「病気にならない○○の習慣」、「医者に殺されないなんちゃら」など,

医療・健康に関する本がうずたかく積まれていたのだ。


まぁ、病気になりたくないという気持ちは誰にでもあるだろうし、

この手の本が売れるのも尤もな話かもしれない。

「病を避けてどう健康に過ごすか」という問題への関心は

相変わらず高いようである。


最近、祖父母の家にいくと、祖父が「終活」の話題を出したりする。

お墓や葬式、相続の準備を生前からしておくということらしい。

「どう死ぬか」という問題へも注目が高まっているようだ。


しかし、素朴に思うのだが、

「どうしたら病気にならずにすむか」と「どう死ぬか」だけでは、

重要な部分が抜け落ちたままであるような気がする。


それは、「病を抱えた時にどう生きるか」という点である。


人は必ず死ぬ。そして、死因のほとんどは病死なのである。

たいていの人が病気になる。病気という形にならなくとも、老化は進行する。

もちろん、病気になれば自然の力か病院で治してもらえばよい。

治る病気であれば。


問題は治らない病気である。実習で特に感じたのは認知症について。


現時点で、アルツハイマー型も、前頭側頭型も、血管性も、レビー小体型も

進行を遅らせる薬はあるが、現時点で、根治できる病気ではない。

(正常圧水頭症や甲状腺機能低下症など、治療可能な疾患は別である。)

よく、「認知症にはなりたくない」という声を聞く。

○○を食べると認知症になりにくいとか、運動、活動の維持が大切など、

さまざまな認知症予防についての情報は多い。


しかし、認知症になってしまうときは、なってしまう。

なってしまったら、認知症をもって生きていかねばならない。


病に直面してから、「生きる」ことの厳しい側面に思いをはせる人は多い。

しかし、自分が死ぬこと、自分が病にかかること、これはほとんど確実に

自分に訪れるであろう不可避的な現象である。


ならば、死ぬ前から、病にかかる前から、そうなったときのことを

あらかじめ考えておくのも面白いのではなかろうか。


「どうしたら健康にいきていられるか」という点に粉骨砕身するのもよい。

しかし、「健康であるためだけに生きる」のではあまりにも虚しい。

「生きてどうしたいか、あるいはどうしたくないか」ぐらいは、イメージを

持っておきたい、と僕は思う。

むろん、「そんなことは考えないようにしておこう」という考え方もある。


身体が病の状態にあっても、こころが健康であることは可能だ。

逆に、こころが病気であっても、身体の健康を保つことは可能だ。


身体とこころの矛盾的自己同一は、病気と向き合うという観点からすると、

非常に有力な戦略である。健康な部分をすこしでも保ち続けられれば、

快復という未だに解明し尽くされない不思議な治癒過程が動き始める。


身体を「現実」、こころを「言葉」と言い換えても同様である。

ただし、快復とは「元通りの状態に復帰すること」よりも広い意味を持つ。

「治癒した状態」を定義するのは医療者ではなく、患者自身である。

「生老病死」を四苦と喝破したブッダの洞察の鋭さに

医学生5年目にして、ようやく思い当たるようになってきた。


イエスもそうだが、古代の宗教者には現代の名医でもかなわないような

治療者としてずばぬけて優れた一面がある。


本物の叡智は古びない。夏休みも古典と向き合いたいものだ。