読書記録 2014前半(その2) | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

○小林秀雄『歴史について 対談集』文春文庫
小林の発言を咀嚼するだけの力はまだ僕にはないが、喉につっかえた言葉を記録することぐらいならできる。「歴史家は、そのままを見なければいけない。どうしてみんな宣長さんをそのまま見ないのか。宣長のまちがいを正したら宣長ではなくなってしまう。宣長は大変偉かったから間違った、そういうふうにみればいいんだ。じゃ、どう偉かったから、ああなったのか、ということを僕にうまく書ければ、あの人は間違わなかったことになるんだ」p.24。「中江藤樹が学問界の秀吉です。これも農夫から近江聖人になったのだからね、まったく徒手空拳の道をいったのです。学問も実力で根底から掴み直されたのだ。それがわが国の近世の学問の血脈なのです」p.38。「「歴史は鏡だという考えで十分だと思うのです。(中略)鏡には歴史の限界なぞが映るのではない。人の一生が映るのです。(中略)過去から取捨選択するから、過去は有効に生き返るのではない。あったがままが思い出されれば、それは生き返るのです」pp.90-91。「僕は、とにかく人を説得することをやめて二十五年くらいになるな。人を説得することは、絶望だよ。人をほめることが、道が開ける唯一の土台だ」p.210。


○オーウェル『オーウェル評論集』岩波文庫
面白かったのは「鯨の腹の中で」と「ナショナリズムについて」。読みながらずーっと、僕はオーウェルに違和感を感じていた。特に、オーウェルがチェスタトンを批判している点がしっくりこない。オーウェルは、自由な意見の表明を妨げるあらゆる力を批判する。「正統思想をかつぐ雰囲気は、散文にとってはつねに致命的であり、(中略)小説はプロテスタント的な形式の芸術だと言ってもいい。つまり自由な知性、自律的な個人から生まれるものなのである」(196頁)。でも、チェスタトンは、プロテスタントよりも自由なカトリックだったのではないか。僕にはそう思われるので、オーウェルの意見に素直にうなずけない。ただし、オーウェルが「作家にとって大事なのは「真理」を把握していることよりも感情が誠実であることではないか」(205頁)と述べるとき、僕はなんとなくオーウェルの気持が分かるような気がした。でも意地悪く言ってしまえば、チェスタトンだって、チェスタトンなりに感情に誠実だったのではないか。チェスタトンとオーウェルの最大の違いは、権力へのスタンスに現れる。チェスタトンならば、たとえ権力であろうと容赦せず、事柄に応じて批判し、肯定するだろう。しかし、オーウェルは「進歩も反動もペテンだ」(210頁)と分かってしまっているがゆえに、権力に抵抗せず、「ただそれを受け入れ、それに耐え、記録する」(211頁)ことが鋭敏な小説家が選ぶ道だと述べる。どちらにも一理あるとは思うけれど、僕はやはりチェスタトンの肩を持ちたい。チェスタトン的な方向にしか本物への探究心が感じられないからだ。オーウェル的な、確かなものがなにもない世界で静かに開き直るのも一つの生き方ではあり、そのような寄る辺なさは小説にとって格好の材料なのかもしれない。しかし、僕は、小説に於いて虚無的であろうとすることよりも、現実に於いて真理を捉えようとする生き方を好む。小説には良し悪しがあるが、真理にそんな区別はないからだ。


○夏目漱石『私の個人主義 ほか』中公クラシックス
漱石の講演をまとめたセレクション。とりわけ「文芸の哲学的基礎」が面白かった。気になった個所をメモしておく。「意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由がきいて、ある意識の連続を容易に実行できる―すなわち自己の理想を実現しやすい地位に立つ―人と言わねばならぬから、融通のきく人と申すのであります」p.36。「跛で結跏のできなかった大灯国師が臨終に、今日こそ、わが言うとおりになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります」p.51。「私はただ寝ているのではない、えらいことを考えようと思って寝て居るのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない」p.88。「ただ新しい思想か、深い思想か、広い思想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧ははじめてこの人のために至大な用をなすのであります」p.90。漱石の語り口は逃げ水のような魅力をもっている。


○林達夫『林達夫評論集』岩波文庫
「いわゆる剽窃」「歴史の暮方」「反語的精神」「三つの指輪の話」「デカルトのポリティーク」など名品が収録されている。林達夫は苦い時代を生きた人である。ゆえに林は同じく苦い時代を生きたデカルトが繰り出した苦肉の順応戦術に共感し、戦争翼賛の呪術的な政治の命令的言葉に懐疑を抱きつつ、「一つのことを欲しながら、それと正反対のことをなしうる」自由な反語的精神に至る。「私思うに、現代のような逆説的時代には、真の誠実は絶対に誠実らしさの風貌は取り得ない。現代のモラリストは、事の勢い上、不可避的にイモラリストとなる」122頁。行為論的にはオーウェルと林は似ているのだが、林の行為の背後には敵の役割を自ら演じる「絶望の戦術」p.135がある。だから僕はやはりオーウェルよりも林の肩をもちたい。林が早々に絶望を決め込んだ時代の状況は、今日でもびっくりするほど変わっていない気がする。しかし、自由な反語的精神の地下水脈は、こっそりと現在まで受け継がれていると僕は信じている。

「三つの指輪の話」のレッシング論も出色である。宗教多元主義というしょうもない議論の下らなさを理解するには、この小論だけで十分であろう。本当の宗教とは、自らの教条の正統性を主張するのではない。むしろ、真の宗教とは、もともと偽物からはじまり、それを各人が自分自身の信仰によって本物にしていくところに顕れる、というレッシング(そしておそらく林達夫もそうだが)の主張は、卓見である。宗教多元主義なんぞ、小林秀雄流に黙殺しておけばよいのである。


○竹田篤司『物語「京都学派」』中公文庫
下村寅太郎の教え子である著者が綴る「京都学派」の評伝。下村寅太郎は久保(土井)虎賀寿にかなり辛い。下村は、かの「近代の超克」座談会で「機械をつくった精神」をめぐって小林秀雄ともやりあっている。僕は土井の無頼な業績も好きだし、教祖小林の考えにも敬意をはらう者であるから、正直、下村寅太郎という思索者には若干距離を感じる。だからかもしれないが、下村に甘い本書の評価軸には終始違和感があった。とはいえ、本書は「京都学派」の人間くさい一面を描き出すことに成功していて、週刊誌的な興味を満たしてくれる。思想的に一番ガツンと来たのが今西錦司による高坂正顕、高山岩男、鈴木成高らへの批判の個所だったが、「京都学派」が主役の本としては若干さみしい気もする。


○中井久夫『西洋精神医学背景史』みすず書房
あまりの中井先生の博識に、もはやびびります。面白いというような安易な感想すら抱けないような緊密さがある。歴史をみる眼は、病歴をみる眼と同質なのだということをこれでもかと痛感させられた。20世紀思想史に対する「具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムの下に数多くの矛盾を含む業績を残した19世紀の不死身巨人族」に対する「鋭利ながら細身にすぎる剣をもつ20世紀知性」の格闘という評価(96頁)。「精神科医が最も即物的とみなしがちな外科学に哲学があり、精神医学が薬物をメスのごとくに用いたのは笑って済まされない歴史の皮肉である」(147頁)。「定式化された精神医学史には登場しない型の、謙抑な精神科医が西欧には少なからず存在し、彼らはしばしばすぐれた治療者である。その“表芸”は脳波学であり、神経学であったりする」(168頁)。「おそらく、新しい問題は、精神科医と患者の距離の―遠さでなく―近さから発生するであろう」(169頁)。挙げればきりがないが、「医学を歴史として学ぶ視点」の意義を学んだ。


○竹内敏晴『ことばが劈(ひら)かれるとき』ちくま文庫
「つんざく」を「ひらく」と読ませる感覚がこの本がいかなる書物なのかを示している。コミュニケーションというものをその生成から考え直すために、声や言葉を失った所から始め直す試み。「われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力―それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。そして、それを他者が見、それが他者にうつってゆくとき、例えば連帯とか、共闘というようなことも、そのいとぐちが劈いていきうるのではないでしょうか」(29頁)。哲学者鈴木亨の「響存的世界」を個人的には連想した。響きを通して相手に触れるような声のありかたを求めて、僕も僕なりに迷っていこう。


○むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書
古本屋でみつけて、立ち読み始めたら止められず、そのまま読み終えてから買った。すごい本である。むのさんについては、名前だけは知っていた。真に不屈の人である。だれか偉い人の意見を引用することもなく、自分の体験した出来事をひたすら捉え直し、考え直し、発信している。むのさんの言葉のすごいところは、思想のような理屈っぽさと無縁の、もっと率直な思いであることだ。「ジャーナリズムとは何か。ジャーナリズムの「ジャーナル」とは、日記とか航海日誌とか、商人の当座帳とか、毎日起こることを書くことです。それをずっと続けていくのが新聞。それは何のためかというと、理由は簡単で、いいことは増やす、悪いことは二度と起こらないようにする。ただ、それだけのことなんです。(中略)新聞も「商品」になってしまいました。たから、ニュースではなくてトピックスになっている」(86頁)。むのさんの発言すべてにそのまま賛成ではないけれど(特に宗教への評価とか)、むのさんの真剣さに、人として頭が下がった。むのたけじさんと竹内敏晴さんが二人とも若い時期に魯迅の本を読んでいる共通点をもつということも知った。魯迅についても読んでみたいと思わせていただいた。「国際」と名のついたものは人間の生活を全然変えていないp.133という指摘も突き刺さった。


○西原克成『生物は重力が進化させた』ブルーバックス
小著ゆえの論証の粗さはあるけれど、アイデアとしては非常に説得力があるし、面白く読んだ。重力、電力、運動など、生活様式が生命を変化させていくこと、生活様式が変わらない限り獲得形質は次世代にも伝わることなど、うなずかされる。上陸するまえの生命が免疫寛容だったという指摘にもなるほど。日光のサルの骨格が直立歩行型に変化してきていること、悲運の生物学者カンメラーの実験についても興味深かった。今西錦司の「進化とは、同じ形態をもち、同じ機能を果たすことによって生きている同種の個体が、長年月のうちに同じように変化することである、といってもべつに不都合はなさそう」(『ダーウィン論』中公新書,p.165)という言葉を、実験科学の立場から解釈しなおしている試みといえるかもしれない。


○兼本浩祐『心はどこまで脳なのだろうか』医学書院
フロイト、アンリ・エー、ダマシオ、ヒュー・ジャクソン、エーデルマン、ヤスパースなどの大御所の仕事が咀嚼されてわかりやすい見通しが提示されている。西洋医学の徴候に基づく診断が、身体の官能性を暴力的に剥奪しているという指摘にはハッとさせられた。残念ながら、この本のメインテーマであるクオリアとか心脳問題については、真剣に考えるに値する問題とは思えないので身が入らないのだが、本書の着実な記述は興味をもって読めた。でも、正直言ってしまえば、心が全部脳で説明されようと、やはり心には脳で説明できない部分があるとなっても、僕はどっちでも構わない。この問題がどちらに転ぼうと、私は厳然と存在する。この時の私の在り方は、現象として在るのとはちょいと違うのではないかというのが大事なポイントである。宮沢賢治の言うような「私という現象」は、あったとしても私にしか顕れない、その意味で出来事にはならない。さらに言えば、西田哲学的には私は現象ではなく、むしろ現象が起こる場所である。僕はこの西田の洞察にいまだにからめとられている。故に、いい本だと思うけれど、僕には少し遠かった。