大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

お知らせ

更新情報


2022年9月22日,財務省と日本銀行によって,円安の進行に対する為替介入を実施することが発表されました。

日本の政府・中央銀行による為替介入は約10年ぶりで,円安に対する介入としては24年ぶりとなります。

今回は過去に行われた為替介入のうち,最も有名な為替介入であるプラザ合意を取り上げます。



プラザ合意は,1985年にニューヨークのプラザホテルで先進5カ国によって決定された,ドル高是正のために為替介入を行うことを決めた合意である。


背景


アメリカ合衆国の経済は1970年代から不振になっていたが,1980年代になると財政収支と貿易収支の両方が赤字となる「双子の赤字」の状態に陥り,世界最大の債務国に転落した。


当時は,アメリカの産業が低迷する一方で日本や西欧諸国の輸出が伸びており,しかもアメリカからの輸出にとって不利なドル高の状態が続いたため,アメリカの貿易赤字が拡大を続けていた。


このように貿易赤字に苦しんでいたアメリカは,1980年代半ば頃になると,貿易収支を改善するためにドル高の是正を求めるようになった。


経緯


1985年9月,アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで,G5と呼ばれる米・英・仏・西独・日の先進5カ国の蔵相・中央銀行総裁会議が開催され,この為替をめぐる問題について議論が行われた。


この会議では,貿易の不均衡の是正のために為替を調整する必要があり,そのために各国が協調するということについて合意がなされた。


そしてこの合意を受けて,ドル高を是正するために5カ国が協調してドル安に誘導するための為替介入を実施することが決まった。


結果


広州 地図

プラザ合意の結果として,円などの通貨に対して急速なドル安が進行することになった。ドル/円レートについてみると,プラザ合意直前には1ドル約240円であったのが,2年あまりたった1987年末までには約120円に到達するなど急激な円高ドル安が進んだ。


この結果,アメリカはドル安のために貿易収支の面で有利になって1988年頃から貿易赤字が減少に向かったが,それでも依然として双子の赤字の状況は続いた。


一方,日本は急激な円高のために一時的に円高不況に陥ったが,円高を利用して欧米や東南アジアなどへの海外投資を拡大していった。


このプラザ合意は,為替相場の急激な変動による弊害ももたらしたが,各国の協調のもとに為替を調整しようとする初の試みであり,為替政策のうえで画期的な出来事となった。



第一次世界大戦後の1919~1923年のドイツでは,物価が異常に高騰する歴史的なハイパーインフレーションが起こった。


背景


1914年からの第一次世界大戦でドイツは敗戦し,1919年にはドイツ帝国にかわってヴァイマル共和国が成立し,また戦勝国との間でヴェルサイユ条約が締結された。


このヴェルサイユ条約によってドイツはフランスなどに対する賠償義務が課されたが,1921年のロンドン会議でその金額は1320億金マルクという当時のドイツの支払い能力をはるかに超える巨額なものに定められた。


1923年には賠償金の支払いの遅れを理由として,フランスがベルギーを誘ってドイツ西部のルール地帯を占領するルール占領が起こったが,これに対してドイツはフランスへの協力を拒んでルールの生産活動を停止する「消極的抵抗」と呼ばれる対応を行った。


インフレ


ドイツではすでに大戦中から戦費のために通貨の発行が増加してインフレが起こっていたが,それは他の参戦国と比べて激しいものではなかった。


しかし,戦後になると,ドイツ政府は賠償金の支払いのために国債を大量に発行して中央銀行に引き受けさせたが,これは通貨を際限なく増刷することになり,インフレが進行していった。


さらに,1923年には,ルール占領に対する消極的抵抗のために通貨の発行量が激増してインフレが激化し,ついには大戦直前を基準として1兆倍という天文学的なインフレ率に到達し,史上空前のハイパーインフレーションとなった。


広州 地図

このハイパーインフレーションの結果,主に給与所得者や年金生活者などの定額収入で暮らす人々は実質収入が激減して日常生活にも困窮するようになり,また預金などの定額の資産はほぼ無価値になって消失した。


一方で,生産手段を保有する資本家や輸出を行う貿易商などは莫大な利益を獲得し,また借金を負っていた者はそれが帳消しになるなど,インフレによる受益者も存在した。


このように,インフレは,多くのドイツ市民に経済的な打撃を与えるとともに,不公正な富の再分配をもたらすことになった。


収束


1924年にドイツ首相となったシュトレーゼマンは,ルール占領に対する消極的抵抗の中止を命じるとともに,レンテンマルクという新通貨の発行を宣言した。レンテンマルクは,土地からの収益を担保とする通貨で,発行量が制限されているため価値が保証されていた。


このレンテンマルクの導入の結果,インフレはたちまち沈静化していき,見事に収束することになった。この成功は「レンテンマルクの奇跡」とも呼ばれる。


この後,アメリカの仲介で成立したドーズ案によって賠償問題の調整がはかられ,フランスがルール地方から撤兵するなど事態は改善に向かい,ドイツは戦後の経済的・外交的な危機をひとまず脱却することができた。


その後


このようにして歴史的なドイツのハイパーインフレーションは収まることになった。そして,戦後の危機を乗り越えて経済回復や国際協調が軌道に乗り,ドイツは平和や安定へと向かったように思われた。


しかし,このインフレが多くの国民にもたらした経済的な打撃や不公正は消えることなく残った。ドイツの人々の心の中には,政治や社会に対する不信や反感が蓄積されていき,そのような負の感情は後のヴァイマル共和国の崩壊やナチス政権の成立の要因にもなった。


広州 地図

広州コワンチョウ)は,中国南部・広東省の都市である。


総論


広州は中国南部・広東省の海港都市で,珠江下流のデルタ地帯に位置し,南シナ海とつながっている。


中国南部沿岸という海上交易の要地にあって,古くから港が発達し,海上貿易で栄えた。


秦・漢


広州の地は,古代の秦や漢の時代に中国の支配下に入った。


紀元前3世紀末,秦の始皇帝は広東地方を征服して,現在の広州の地を中心として南海郡を設置した。


その後まもなく秦が滅亡すると,現地で長官をつとめていた趙佗が自立して南越という国を建国し,広州を都とする。


しかし,前2世紀に前漢の武帝が南越を征服し,改めてここに南海郡を設置した。


こうして広州の地は中国の支配下に入り,中国南部,華南の中心都市となった。


唐・宋


唐や宋の時代には,東南アジアやインド方面との南海貿易がさかんになるのにともなって,広州は中国最大の貿易港へと発展した。


アラビア人などのムスリム商人がさかんに来航し,西方の香辛料や象牙などの物産が輸入され,中国の絹や陶磁器などの商品が輸出された。


貿易の活発化を背景に,広州には中国で初めて市舶司という海外貿易を管理する役所が設置され,また蕃坊と呼ばれる外国人の居留地も生まれた。


明・清


南宋から元の時代は福建省の泉州に繁栄が奪われたことで一時衰えるが,明・清の時代に広州は再び海上貿易の中心に返り咲く。


明の時代,海禁政策のもとでも広州は朝貢貿易で栄え,16世紀からはポルトガルを初めとするヨーロッパ諸国も来航して賑わうようになった。


清代には,西洋諸国との貿易が許される唯一の港とされ,公行広東十三行)と呼ばれる商人組合によって貿易が行われた。


19世紀にアヘン戦争後の南京条約で広州も含む五港の開港が決まると,西洋諸国との唯一の貿易港としての地位は失ったものの,中国南部の主要都市であり続けた。


中華民国


海外からの知識や情報が流入した広州は,新しい思想や運動の中心地にもなり,中華民国時代には革命運動の主要な拠点にもなった。


1910年代後半から孫文は軍閥に対抗するために広州で広東軍政府を建てたが,さらに1925年には国民党がここを拠点として広州国民政府を樹立した。


また,1927年には,共産党による蜂起が起こって広州コミューンと呼ばれる独自の政府が一時つくられている。


中華人民共和国


中華人民共和国の成立後も広州は主要な貿易港であったが,1970年代末から鄧小平による改革開放政策が推進された結果,さらに飛躍的な発展を遂げていった。


広州は中国における最大の貿易港となっていたが,さらに経済技術開発区に指定されて外国の資本・技術が導入され,機械やITなどの先進的な産業も発達していった。


現在の広州は上海北京に次ぐ中国第3の大都市になっており,近くの香港深圳とも結びついて中国南部における巨大な経済圏を構成している。


古くから海港都市として栄えてきた広州は,中国の政策や外国の進出に揺さぶられながらもその経済的な重要性を維持し,現代にもまた繁栄を取り戻している。