大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

INFORMATION

このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

このブログのほかに,世界の文化史を紹介するサイト「世界の文化史のミュージアム」と,洋書や洋楽から英語の語句を紹介するブログ「洋書と洋楽で学ぶ英単語・英熟語 from the word GO」も運営していますので,よろしければそちらもご覧ください。

お知らせ

更新情報


テーマ:

東京大学2017年第2問(3)(b)の過去問題と,東大世界史講師(管理人)が作成した解答解説です。

- 解く際の注意 -

問題を解く前に解答が目に入るのを防ぐために,問題と解答の間に空白を大きくとってあります。解き終わったら,下へスクロールして解答を見て答え合わせを行い,また解説を読んで知識を補充してください。

不必要に問題の全文を掲載することは避けて,解答するのに直接的に必要な範囲でのみ問題文を引用するか,または趣旨を損なわないかたちで文章の変更や単純化をしています。全文を確認したい人は,WEB上に公開されている各大学の入試問題データや市販の過去問題集などで確認してください。

問題

アメリカ合衆国では,南北戦争を経て奴隷制が廃止されたが,その後も南部諸州ではアフリカ系住民に対する差別的な待遇が続いた。その内容を1行(30字)以内で記しなさい。また,その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称と,そのときの大統領の名前を記しなさい。












解答

「投票権の制限や隔離が行われ,KKKなどによる迫害もあった。」

公民権法

ジョンソン

解説

南北戦争後の黒人差別

南北戦争の直後のアメリカでは,共和党の主導によって憲法修正による奴隷制の廃止や黒人の公民権の保障が規定されるなど改革が推進された。しかし,まもなく改革は後退して南部の白人が主導権を取り戻し,従来の白人による支配や黒人への差別が復活していくことになった。

南部諸州では,黒人取締法とも呼ばれる黒人を差別する法が制定されて,黒人の投票権が実質的に剥奪されたり,公共施設や公共機関における隔離が行われたりするなど,差別的な対応が行われた。そのほか,KKKクー・クラックス・クラン)のような白人至上主義に立って黒人を迫害する結社も生まれ,黒人に対する脅迫や暴力などの迫害が行われた。経済的な面でも,黒人に対する土地の分与はなされなかったために,多くはシェアクロッパーの地位に置かれて,経済的に弱い状況が続いた。

公民権運動と公民権法

第二次世界大戦後のアメリカでは人種差別に反対する動きが強まり,そのなかで1950年代からは黒人への差別を撤廃して平等な権利の保障を求める公民権運動が起こり,さらに60年代になると高揚していった。この公民権運動は50年代から各地でさまざまなかたちで展開され,60年代前半にはキング牧師などを指導者として運動はその頂点へと達した。

こうした公民権運動の高まりを前に,ケネディ大統領は公民権の保障を定める法律の制定に着手したが1963年に暗殺され,これを受けて昇格したジョンソン大統領のもとで1964年に公民権法が制定された。この公民権法によって,黒人の差別が明確に法によって禁止され,平等な権利が保障されることが定められた。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
ムハンマド・アリー

<ムハンマド・アリー>


ムハンマド・アリー(1769頃~1849年)は,19世紀前半のエジプトの総督で,エジプト王国の事実上の君主となった人物である。


ムハンマド・アリーは,18世紀後半,当時オスマン帝国領内にあったマケドニアでアルバニア人の家系に生まれた。若い時代には兵士の任務についたほか,タバコの商取引などにも従事していたらしい。

18世紀末,オスマン帝国の属州であったエジプトにナポレオン率いるフランス軍が侵入する事件が起こると,ムハンマド・アリーはオスマン帝国によってアルバニア人部隊の副司令官として派遣され,まもなくその司令官へと昇格した。

フランス軍の撤退後は,旧来の支配層であるマムルーク勢力,オスマン帝国軍,そしてオスマン帝国軍から自立したアルバニア人部隊による三つ巴の抗争が展開されたが,ここでムハンマド・アリーは他勢力を巧みに操り,また住民の支持をつかんで,優位を確保していく。そして,1805年には,住民の要請を受けて総督の地位に就任し,オスマン帝国にもこれを追認させた。


こうしてエジプト総督となったムハンマド・アリーは,エジプトを自立した近代的な強国にすることを目指し,富国強兵のための政策を大胆に実行していった。

内政では,マムルークたちをカイロで一挙に虐殺するなど,自己に権力を集中していく。また,経済面では綿花の生産を振興するなど産業の育成に力を注ぎ,軍事面では西洋式の武器や技術を導入することで近代的な陸海軍を築きあげた。

対外的には,その軍事力を利用して積極的な対外政策を展開していく。まず,アラビアのワッハーブ派の討伐やエジプト独立戦争への派兵で活躍し,そのほかスーダンへ遠征を行って支配下に入れた。そして,ついには宗主国であるオスマン帝国に牙をむき,2次にわたるエジプト・トルコ戦争を行い,近代的軍隊の力によってオスマン帝国を圧倒し,シリアを占領下に置くことに成功した。

マムルークを虐殺するムハンマド・アリー

<マムルークを虐殺するムハンマド・アリー>


ところが,ここにおいて,ヨーロッパ列強による干渉が起こり,ムハンマド・アリーはエジプト・スーダンの総督の地位の世襲を認められたが,シリアを放棄させられ,不平等条約のもとでの通商も認めさせられた。この結果,エジプトの事実上の君主の地位を得たものの,自立した強大な国家を建設するという野望は挫かれる結果になった。

以後の彼は失意のなかで精神病におかされて政治から退いていき,そして1849年にその波乱の生涯を終えた。

ヨーロッパ列強との交渉に臨むムハンマド・アリー

<エジプト・トルコ戦争で列強との交渉に臨むムハンマド・アリー>


ムハンマド・アリーはエジプトの自立や近代化を大きく進めたが,同時に過酷な統治によってエジプト人を苦しめ,また野心的な対外政策のために列強による干渉を招くことにもなった。

このようなことから,彼は開明的な君主とされる一方で苛烈な独裁者とも言われ,当時から現在までその評価は大きく分かれている。しかし,いずれにしても,ムハンマド・アリーは19世紀前半の中東情勢の中心となり,そしてエジプトの近代を切り開いた人物であった。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

東京大学2017年第2問(3)(a)の過去問題と,東大世界史講師(管理人)が作成した解答解説です。

- 解く際の注意 -

問題を解く前に解答が目に入るのを防ぐために,問題と解答の間に空白を大きくとってあります。解き終わったら,下へスクロールして解答を見て答え合わせを行い,また解説を読んで知識を補充してください。

不必要に問題の全文を掲載することは避けて,解答するのに直接的に必要な範囲でのみ問題文を引用するか,または趣旨を損なわないかたちで文章の変更や単純化をしています。全文を確認したい人は,WEB上に公開されている各大学の入試問題データや市販の過去問題集などで確認してください。

問題

カナダのケベック州では,今日もなお半数以上の住民が英語以外のある言語を母語としている。このような状況が生まれる前提となった,17世紀から18世紀にかけての経緯を2行(60字)以内で記しなさい。












解答

「フランスがケベックを建設するなどカナダ進出を進めたが,英仏の植民地抗争が展開され七年戦争でカナダはイギリス領になった。」

解説

英仏の北米への進出と植民

カナダなどの含む北米には,大航海時代の開幕した15世紀末以降にイギリスやフランスが進出し,後には植民を行うようになった。

フランスは16世紀前半からカナダ東部のセントローレンス川方面に進出していたが,17世紀前半にはその地にケベックを建設して植民地を形成し,17世紀後半にはこれを直轄として入植や開発を進めた。そのほか,現在の合衆国方面ではルイジアナに進出した。

一方,イギリスも北米東岸に進出し,カナダ方面では東部のニューファンドランドアカディアなどへの進出を行った。また,合衆国方面では13植民地を建設していった。

英仏の北米における植民地抗争

このように北米に競って進出していた英仏両国は,17世紀末から18世紀半ばにかけて,ヨーロッパでの戦争と並行しながら北米で植民地抗争を展開した。英仏は17世紀末から18世紀前半にウィリアム王戦争アン女王戦争ジョージ王戦争で抗争した後,1750年代半ばからは七年戦争と並行して北米でフレンチ・インディアン戦争を展開したが,これらの戦争はイギリスの勝利に終わり,パリ条約によってカナダはミシシッピ以東のルイジアナとともにイギリス領とされた。

こうしてイギリスはカナダを獲得したが,ケベック方面ではフランス系住民が多数であった。このためイギリスはフランス系住民に譲歩して彼らの文化を尊重したが,この結果,ケベック州ではフランス語などのフランス文化をもつ住民が多数を占めるという状況が形成されることになった。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。