大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

お知らせ

更新情報


新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,近代の東南アジア史のフィリピンのところで追加された「マニラ麻」を紹介します。


北魏の六鎮

マニラ麻は,フィリピン原産の多年草の植物で,主にフィリピンで生産されている商品作物である。


特徴


マニラ麻は,フィリピンではアバカと言い,フィリピン諸島を原産とする多年草の植物である。


名称の「マニラ」はフィリピンの首都マニラに由来し,主にフィリピンで生産されたことからこのように呼ばれるようになった。

繊維が取れることから「麻」という名もついているが,実際には麻とは全く異なる植物で,バナナなどと同じバショウ科の植物であり,見た目もバナナと似ている。


葉鞘が重なりあって茎のような見た目をした偽茎をつくるが,その葉鞘の部分から繊維が取ることができる。

こうして取れたマニラ麻の繊維は強靭で軽く,また耐水性もあるため,天然繊維として有益で,特に,船のロープとして利用され,そのほか漁網や紙などとしても使用される。


前近代


マニラ麻は,ルソン島などフィリピン諸島に古くから生育しており,フィリピンの先住民によって衣服や織物などの繊維製品として利用されていた。


16世紀にスペインの支援で航海を行ったマゼランがフィリピンに到達した後,フィリピンはスペインによって植民地化されたが,これ以降スペイン人も先住民が栽培して利用しているマニラ麻に出会い,知るようになった。


19~20世紀半ば


19世紀になると,スペインがマニラを開港したことによって外国との貿易が発展し,フィリピンでは輸出するための商品作物の生産が促進されたが,このような輸出用作物の必要性を背景にマニラ麻の栽培は発展する。

マニラ麻は外国に輸出するための商品作物として生産・輸出が急速に拡大することになり,砂糖・タバコと並んでフィリピンの三大輸出商品の一つとなった。


19世紀末には米西戦争アメリカ・スペイン戦争)の結果として,フィリピンはスペイン領からアメリカ領へと移行する。

これ以降,マニラ麻はアメリカへの輸出がさらに増加し,アメリカ植民地時代において砂糖とともにフィリピンの最大の輸出商品となり,フィリピンの経済を支えるとともに,海外で活用された。


20世紀後半から現在


20世紀半ば以降は,病害による打撃や人口繊維の普及もあって,マニラ麻の重要性は下がり,生産はどんどん減少していった。

しかし,1970年代の石油危機によって人口繊維のコストが上がったこともあり,マニラ麻は天然繊維の素材として改めて見直されるようになり,生産はやや回復していった。


現在でも,マニラ麻は主にフィリピンで生産されており,世界全体の生産のうちフィリピンだけで約9割と圧倒的大部分を占めている。

そして,その繊維はロープなどの素材として使用されているほか,また織物・衣服・紙など広い用途で利用されている。



新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,魏晋南北朝時代の北魏の歴史で追加された「六鎮の乱」を紹介します。


六鎮の乱は,中国の南北朝時代の北魏において,北方の軍人たちが起こした反乱である。


背景


北魏は,モンゴル高原にいた遊牧民の鮮卑族が,南下して内モンゴルや中国の華北を支配して建国した国である。

建国後の北魏は,新たにモンゴル高原で台頭してきた遊牧民の柔然に対抗して北辺を防衛するために,首都平城の北方,万里の長城の付近に「鎮」と呼ばれる軍団の拠点を置き,その鎮には鮮卑人などが住んで軍人として防衛に従事した。

当初は,この鎮に属する人々は北魏の国防を担う存在として重視されており,鮮卑族の名門の出身の者も多く,特権も与えられ,その人々は誇りを抱いていた。


ところが,第6代の孝文帝の時代には,鮮卑の風習を否定して中国の文化を受容する漢化政策が推進され,首都も平城から南方の洛陽へと移された。

この結果,鎮は首都から大きく離れて重要性が低下し,単なる北の辺境地帯という位置付けに変化していく。

また,中国文化が重視されるようになるにつれ,北方の鎮に属する軍人たちが国家において出世する道は閉ざされ,むしろ差別や冷遇を受けるようになっていった。


経緯


北魏の六鎮

このような漢化政策などの政策に対して鎮の人々の不満が高まっていたことを背景に,523年に主要な鎮の一つである沃野鎮で反乱が起こると,つづいて懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・柔玄鎮・懐荒鎮にも波及し,これら六つの鎮による反乱へと拡大した。

これを六鎮の乱と呼ぶ。


さらに反乱は長城方面から華北内部にも拡大して,全国的な反乱へと発展していった。


結果


当時の北魏の宮廷では皇帝と太后の間の対立が起こっており,反乱に対して有効な対応ができなかった。

こうしたなか,山西省で強い勢力を有していた族長の爾朱栄が,宮廷の内紛に介入して実権を握るとともに反乱軍の討伐にあたり,530年頃までに反乱はいちおう鎮圧された。


しかし,その後も北魏では権力をめぐる争いが続き,爾朱栄が暗殺された後,六鎮の出身者である高歓や宇文泰が介入して,帝室を巻き込みながら抗争を繰り広げた。

そして,結局,534年に北魏は崩壊し,高歓が実権を握る東魏と,宇文泰が実権を握る東魏に分裂することになった。


こうして,六鎮の乱は,北魏の崩壊・分裂の契機となった。



新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,19世紀のドイツのロマン主義の画家「カスパー・フリードリヒ」を紹介します。

これまで高校世界史のロマン主義の画家というとドラクロワくらいしか出てきませんでしたが(ゴヤをロマン主義に分類するならゴヤも載っていますが),新たにカスパー・フリードリヒが掲載されました。


カスパー・フリードリヒ 肖像画

<カスパー・フリードリヒ>


カスパー・フリードリヒ(1774~1840)は,19世紀前半のドイツのロマン主義画家である。


経歴


カスパー・フリードリヒは,1774年に,ドイツ北東部,バルト海に面するグライフスヴァルトで職人の家庭に生まれた。

厳格なルター派キリスト教の信仰をもつ父のもとで育てられ,そうした宗教観は彼の作品にも影響を与えたと思われる。

子ども時代には,母と妹を亡くし,また一緒に遊んでいた弟が湖で溺死するという事故に遭ったが,このように子どもの頃に家族の死に何度も直面したことは,彼の心に大きな跡を残すことになった。


15歳の頃にフリードリヒは地元の美術学校に入学して絵画を学び,特に野外の風景を描く練習などを通じて風景画に親しんでいった。

つづいて,20歳頃にデンマーク王立美術アカデミーに入学し,ここではオランダなどの優れた風景画を学ぶとともに,当時台頭しつつあったロマン主義に触れて精神的な刺激を受ける。


その後,25歳の頃に,フリードリヒは当時のドイツにおいてロマン主義の中心となっていたドレスデンに移り住み,以後は短期の旅行を除いて生涯を通じてここを拠点とし,詩人や画家と交流しながら創作活動を行った。

ドレスデン移住からまもない19世紀初めには,フランスのナポレオンの侵入が起こるなかでドイツでナショナリズムが高まり,フリードリヒも愛国心を鼓舞されて,ドイツの郷土・伝統への愛をもちながら風景画の制作に取り組んだ。

そして,1805年,彼が40歳の頃,ドイツの大作家ゲーテの主催していた美術展で受賞したことで画家としての評価を確立する。

さらに1810年,45歳の頃には,プロイセンの王室から絵画が評価されて,ベルリン美術アカデミーの在外会員にも選ばれるなど,彼の名声は頂点に達した。


作品


フリードリヒは,ドイツの自然を題材とした絵画を描き,ドイツのロマン主義美術の代表とされる。


ロマン主義においては自然がモチーフとされることは珍しくないが,フリードリヒの場合は,単に自然を観察・描写するというだけではなく,自然のなかに大いなる存在や力・神秘などを感じさせる象徴的な表現を行うことが特徴である。

彼の絵には人間も登場することがあるが,いずれも絵の鑑賞者に背を向けて奥の自然を見つめる構図になっており,その人物は作品を鑑賞する者の代理となって自然に向き合う役割を担っており,人間と対比した自然や神の大きさを感じさせる。


雲海の上の旅人

<雲海の上の旅人>


月を眺める二人の男

<月を眺める二人の男>



彼の代表作の「雲海の上の旅人」では岩の上に立った男が雲で覆われた山々を眺めているシーンが,また,「月を眺める二人の男」では二人の男が月を眺める様子が描かれている。

これらの作品のように,自然の美を描写するというよりも,荒涼とした自然を題材とし,それを人が見つめて対峙する,あるいは思索する,というテーマがフリードリヒの作品には一貫して見られる。

このような点で,彼の作品は,象徴的・思索的であると評価される。


その後

1815年にナポレオン戦争が終わった後のドイツでは,愛国主義の盛り上がりが過ぎ去るなかでロマン主義の熱狂も薄れていき,またフリードリヒが写実性から離れて難解な象徴的表現を強めていったこともあって,彼の絵を支持する人は減っていった。

その結果,晩年のフリードリヒは生活にも困窮し,世間と関わらずに孤独に暮らすようになった。

60歳の頃には脳卒中の発作が起こって倒れ,その後遺症で手に麻痺が残って絵の制作も困難になる。

こうしてフリードリヒは多くの人々から忘れられていくなか,1840年,65歳で生涯を終えた。


しかし,その後,19世紀末頃から象徴主義の美術が台頭したこともあって,フリードリヒの象徴的表現や観念的表現は再評価されるようになった。

そして,フリードリヒはドイツ・ロマン主義の代表であるとともに象徴主義の先駆としても見なされるようになり,現在もドイツの代表的作家として高く評価されている。