大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

このブログのほかに,世界の文化史を紹介するサイト「世界の文化史のミュージアム」も運営していますので,よろしければそちらもご覧ください。

お知らせ

更新情報


新年明けましておめでとうございます。


今年2021年に記念を迎える世界史上の出来事を紹介します。


100周年(1921年)


ワシントン会議の開催


第一次世界大戦中の東アジア・太平洋で日本の勢力が伸長したことを背景に,1921年,アメリカ大統領ハーディングの提唱でワシントン会議が開催された。


この会議にはアメリカ・イギリス・日本を中心に9カ国が参加し,ワシントン海軍軍縮条約九カ国条約四カ国条約が締結され,東アジア・太平洋において日本の勢力を抑えつつ各国の利害を調整することがはかられた。


ワシントン会議
<ワシントン会議>

中国共産党の結成


第一次世界大戦後の中国では,ロシア革命によるソヴィエト政権の成立にも刺激を受けて社会主義への関心が高まっており,そうしたなかでコミンテルンによる働きかけの影響もあって1921年に陳独秀李大釗を中心に中国共産党が結成された。


この後,中国共産党は中国国民党との間で協力と対立を経ながら軍閥および日本に対抗する運動を展開し,第二次世界大戦後には国民党に勝利して中華人民共和国を樹立することになる。


中国共産党初代委員長となった陳独秀
<中国共産党初代委員長となった陳独秀>

200周年(1821年)


ギリシア独立戦争


ギリシアは中世末以来オスマン帝国の支配下にあったが,19世紀には西欧の影響を受けてナショナリズムが高まり,1821年にオスマン帝国からの独立を目指すギリシア独立戦争が始まった。


この戦争では,イギリス・フランス・ロシアが介入してギリシア側で参戦したこともあってギリシア側の勝利に終わり,1830年のロンドン会議でギリシアの独立が認められた。


ギリシア独立戦争を開始したギリシア人
<ギリシア独立戦争を開始したギリシア人>

メキシコ独立


スペインによるアメリカ大陸への進出と征服によって16世紀から植民地となっていたメキシコでは,1810年に開始された独立戦争は失敗したが,1821年に軍人イトゥルビデが現地の白人たちの支持を集め,総督に対して独立を認めさせることに成功した。


これによってメキシコはスペインからの独立を果たし,当初はイトゥルビデを皇帝とするメキシコ帝国となったが,まもなく共和政へ移行した。


メキシコ独立を果たしたイトゥルビデ
<メキシコ独立を果たしたイトゥルビデ>

500周年(1521年)


アステカ帝国の滅亡


14世紀からメキシコを中心に繁栄していたアステカ帝国は,1519年からスペイン人コンキスタドール(征服者)のコルテスの攻撃を受け,1521年には首都テノチティトランが陥落した。


これによってアステカ帝国は滅亡し,メキシコはスペインの植民地となり,テノチティトランの跡地には新たな都としてメキシコシティが建設された。


アステカ帝国を滅ぼしたコルテス
<アステカ帝国を滅ぼしたコルテス>

2500周年(前480年)※


テルモピレーの戦いとサラミスの海戦


前5世紀初めからギリシアのポリスとアケメネス朝ペルシアの間ではペルシア戦争が起こり,アテネを中心とするギリシア軍は前490年にはペルシアの軍隊をマラトンの戦いで撃退したが,前480年にはペルシアのさらなる大軍がギリシアに到来した。


ギリシア側は,陸上ではスパルタを中心とした軍隊がテルモピレーの戦いでペルシアの陸軍と戦って奮戦したが,敵の大軍と策略の前に敗れて全滅した。これを受けて,アテネは海上での決戦を狙ってサラミスの海戦でペルシアの海軍と戦い,テミストクレスの智略や三段櫂船の活躍もあって勝利をおさめた。


このサラミスの戦いはペルシア戦争において戦局を決定づける最も重要な戦いとなり,翌年のプラタイアイの戦いでも勝ったギリシア勢力はペルシア戦争に勝利することになった。


サラミスの海戦
<サラミスの海戦>

※昨年2020年にこのテルモピレーの戦いとサラミスの海戦(前480年)を2500周年と紹介してしまいましたが,厳密には今年2021年が2500周年でした。

「紀元前1年」と「紀元後1年」は連続していて「0年」が存在しないため,周年を計算する際には紀元前の年を数学におけるマイナスの数値のように計算するのは厳密には不正確で,正確には「周年=現在の年-(紀元前の年の数字にマイナスを付けたもの)-1」が周年を求める式になります。(もっとも,実際の紀元前の出来事を記念するイベントでは,このことは気にせずに数字の単純計算で周年を決めている場合が多いですが)

訂正してお詫びします。


120周年(1901年)


最後に番外編として,干支が同じ年の出来事を紹介します。


今年2021年の干支は「辛丑」(かのとうし/しんちゅう)ですが,120年前の辛丑の年には一つ有名な出来事があります。


北京議定書(辛丑和約)


1900年,義和団が北京で欧米諸国および日本の公使などに対する攻撃を開始すると,清はこれを支持して列国に宣戦し,清と8カ国との間の戦争となったが,清は敗れて外国との間で北京議定書辛丑和約)を締結した。


この北京議定書では,4億5千万両という多額の賠償金の支払いにくわえて,北京における外国軍の駐兵権が認められ,19世紀半ば以来外国の進出の受けて動揺してきた清朝はさらに窮地に追い込まれた。


清と8カ国連合の戦闘
<清と8カ国連合の戦闘>

ナゴルノ・カラバフ 地図

ナゴルノ・カラバフは,カフカス地方のアゼルバイジャン共和国南西部の地域で,アゼルバイジャンとアルメニアの間で領有をめぐって紛争が起こっている地域である。


背景


ナゴルノ・カラバフは,カフカス地方南部に位置する地域で,公式にはアゼルバイジャン共和国の領土に属する州であるが,住民の75%ほどをアルメニア人が占めており,現在はアルメニアの実効支配下にある。


古くからこの地域をめぐっては,イスラーム教徒の多いアゼルバイジャン人と,キリスト教徒の多いアルメニア人の間で対立が続いてきた。


19世紀にロシア帝国の征服によってカフカス地方一帯はロシアの支配下に入ったが,ロシア帝国が崩壊するロシア革命以降は再びアゼルバイジャンとアルメニアの対立が鮮明になっていった。


ソ連時代


ロシア革命によってロシア帝国が崩壊した後,社会主義共和国の連邦であるソ連が成立すると,ソ連に属するアゼルバイジャンとアルメニアの双方がナゴルノ・カラバフの帰属を主張したが,ソ連の指導部はこの地をアゼルバイジャンに編入することを決定した。


これに対してアルメニアは激しく抗議し,アルメニアへの帰属替えをソ連指導部に求めたが認められず,ソ連時代はナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン内の自治州となっていた。


ソ連崩壊以降


1980年代末から1990年代初め,ソ連が崩壊して諸共和国が独立していく過程で,ナゴルノ・カラバフをめぐる両国の対立は激化することになった。


1980年代末からナゴルノ・カラバフではアルメニア人の独立運動が高まったが,アゼルバイジャン人はこれに反発し,アゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃する事件も起こった。

そして,1991年にソ連が解体すると,アゼルバイジャンとアルメニアはナゴルノ・カラバフをめぐって軍事衝突を起こしてついに戦争状態に入り,アルメニアはこの地域の大部分を占領して実効支配下に置いた。


この紛争は1994年にロシアなどの仲介もあって停戦したが,その後も度々軍事衝突が発生した。

2020年には停戦以降で最大級の軍事衝突が発生し,現在はロシアやアメリカの仲介での停戦がはかられているが,ナゴルノ・カラバフ問題の解決の目処は立っていない。


アム川 地図

アム川アムダリアアムダリヤ)は,中央アジア西部の大河である。


地理


アム川は,中央アジアの西部を流れる大河で,川を意味するダリア(ダリヤ)を使ってアムダリアアムダリヤ)とも呼ばれる。


パミール高原南東部を水源として西へ流れ,タジキスタンとアフガニスタンの境界を通り,ついでトルクメニスタンとウズベキスタンの国境付近を流れて,アラル海へと注いでいる。


本流は約1400km,全長は約2500kmで,シル川と並ぶ中央アジアの大河となっている。


その中流域はバクトリア,下流域はホラズムと呼ばれ,歴史上,多くの都市や国家が発達して重要な舞台となってきた。


歴史


アム川は,中央アジア西部における重要な交通路となり,しかも周囲に肥沃な土地を形成したため,流域にはバクトラブハラヒヴァなどの都市が発達し,それらを都とするバクトリアブハラ゠ハン国ヒヴァ゠ハン国などの国家も栄えた。


また,アム川はイランと中央アジアを分ける境界となり,イラン系民族とトルコ系民族の交流や衝突の最前線にもなってきた。


20世紀半ば以降は,ソ連のもとでの大規模な灌漑事業により流域で綿花の生産が発展したが,一方でそれは川の水量の大幅な減少を招き,現在ではアラル海への到達前に干上がるようになってアラル海の縮小を引き起こしている。