六鎮の乱 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,魏晋南北朝時代の北魏の歴史で追加された「六鎮の乱」を紹介します。


六鎮の乱は,中国の南北朝時代の北魏において,北方の軍人たちが起こした反乱である。


背景


北魏は,モンゴル高原にいた遊牧民の鮮卑族が,南下して内モンゴルや中国の華北を支配して建国した国である。

建国後の北魏は,新たにモンゴル高原で台頭してきた遊牧民の柔然に対抗して北辺を防衛するために,首都平城の北方,万里の長城の付近に「鎮」と呼ばれる軍団の拠点を置き,その鎮には鮮卑人などが住んで軍人として防衛に従事した。

当初は,この鎮に属する人々は北魏の国防を担う存在として重視されており,鮮卑族の名門の出身の者も多く,特権も与えられ,その人々は誇りを抱いていた。


ところが,第6代の孝文帝の時代には,鮮卑の風習を否定して中国の文化を受容する漢化政策が推進され,首都も平城から南方の洛陽へと移された。

この結果,鎮は首都から大きく離れて重要性が低下し,単なる北の辺境地帯という位置付けに変化していく。

また,中国文化が重視されるようになるにつれ,北方の鎮に属する軍人たちが国家において出世する道は閉ざされ,むしろ差別や冷遇を受けるようになっていった。


経緯


北魏の六鎮

このような漢化政策などの政策に対して鎮の人々の不満が高まっていたことを背景に,523年に主要な鎮の一つである沃野鎮で反乱が起こると,つづいて懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・柔玄鎮・懐荒鎮にも波及し,これら六つの鎮による反乱へと拡大した。

これを六鎮の乱と呼ぶ。


さらに反乱は長城方面から華北内部にも拡大して,全国的な反乱へと発展していった。


結果


当時の北魏の宮廷では皇帝と太后の間の対立が起こっており,反乱に対して有効な対応ができなかった。

こうしたなか,山西省で強い勢力を有していた族長の爾朱栄が,宮廷の内紛に介入して実権を握るとともに反乱軍の討伐にあたり,530年頃までに反乱はいちおう鎮圧された。


しかし,その後も北魏では権力をめぐる争いが続き,爾朱栄が暗殺された後,六鎮の出身者である高歓や宇文泰が介入して,帝室を巻き込みながら抗争を繰り広げた。

そして,結局,534年に北魏は崩壊し,高歓が実権を握る東魏と,宇文泰が実権を握る東魏に分裂することになった。


こうして,六鎮の乱は,北魏の崩壊・分裂の契機となった。