我が名は狼 天は未来を見つめ 地は過去を見つめ 人は現在を見つめる -49ページ目

我が名は狼 天は未来を見つめ 地は過去を見つめ 人は現在を見つめる

詩人-我が名は狼の世界へようこそ 私は、詩を書き続けて 約15

年以上を経つでしょうか? 言葉と文字に触れ合い そして 学ぶ

ことが沢山ありました。 これからもまだまだ 言葉と文字を心で

感じながら 詩を書いていきます。 



生の完全な燃焼が死だ



高見  順            昭和時代の作家








孤独は 人のふるさとだ 恋愛は 人生の花であります いかに退屈であろうとも この外に花はない




坂口安吾          1906年10月20日 - 1955年2月17日

昭和時代の作家







道心の中に衣食あり  衣食の中に道心なし



最澄                 平安時代の天台宗開祖










人生の目的は宗教観念がなければ解決できない



新渡戸稲造     農学者 教育者






人生劈頭(へきとう)一個の事あり  立志是れなり



春日潜庵       江戸時代の儒学者








われ童子の時は誇ることも童子のごとく  おもうことも童子のごとく


論ずる事も童子のごとくなりしが  人と成りては童子のごとくを棄てたり




新約聖書        紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書








世の中に なほいと心憂きものは 人ににくまれんことこそあるべけれ



清少納言              平安時代の作家

本名は清原諾子(なぎこ)という説もある







懺悔は一種ののろけなり 快楽を二重にするものなり 


懺悔あり  ゆえにあらたむるものなし


懺悔の味は人生の味なり



斉籐緑雨          1868年1月24日 - 1904年4月13日


明治時代の作家・ジャーナリスト







ただ いっさいは過ぎていきます 自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた いわゆる人間の世界において


たった一つ  真理らしく思われたのは  それだけでした




太宰治            1909年6月19日 - 1948年6月13日

昭和年代の作家






男子は 一個の女性を礼賛するのにその全生命を以てするが


全体の女性を礼賛するには舌のみを以てする




長谷川如是閑            1875年11月30日 - 1969年11月11日

大正昭和時代の評論家






自分へのごほうび何が欲しい? ブログネタ:自分へのごほうび何が欲しい? 参加中
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一番 海外旅行に行きたいね  コロンビアのボゴタかスペインに行きたい 友達がいるので 

逢いにいきたい~ 

コロンビアのボゴタの友達は しばらくあってないからなぁ・・ 


これは 贅沢すぎるから、どこかの牧場で 一か月か~半年 住み込みたい

自然と 動物に囲まれた生活をしたいね 


これも贅沢かなw


こんな感じですかね





人若い時貯金へして年寄りての疾肝要なり とても向へは持て行けず なうてならぬ物は銀の世の中




井原西鶴        江戸時代の作家








智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地をとおせば窮屈だ





夏目漱石       1867年2月9日 - 1916年12月9日

明治大正時代の作家








衣類の事木綿紬の間たるべし  食は黒飯たるべし



加藤清正        安土桃山時代の武将







自心すなわち仏たることをさとれば、


阿弥陀ねがうに及ばず 自心の外に浄土なし



一休          室町時代の臨済宗僧侶







人生は一箱のマッチに似ている 重大に扱うのはばかばかしい 重大に扱わなければ危険である




芥川龍之介      1892年3月1日 - 1927年7月24日

明治大正時代の作家






古来賭博に熱中した贋世主義者のないことは


如何に賭博の 人生に酷似しているかを示すものである



芥川龍之介        明治大正時代の作家







人生はつねに複雑である


複雑なる人生を簡単にするものは暴力よりほかにあるはずはない




芥川龍之介        明治大正時代の作家






あるものと忘れつつなほなき人を  いづらと問ふぞ悲しかりける



紀貫之        平安時代の歌人 随筆家

三十六歌仙の1人  紀友則は従兄弟にあたる






朝に死に夕に生きるならひ  唯水の泡にぞ似たりける




鴨長 明     鎌倉時代の文人・歌人







人のよわいは草のごとく  その栄はのの花のごとく



旧約聖書              ユダヤ教およびキリスト教の正典





天文11

1542

三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1]

天文13

1544

於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2]

天文16

1547

9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3]

天文18

1549

父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4]

弘治元

1555

元服して松平次郎三郎元信となる。[5]

永禄2

1559

駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6]

永禄3

1560

今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。
駿府で竹千代の面倒をみた外祖母源応尼(於富の方)駿府にて没年行70余歳[7]

永禄4

1561

今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8]

永禄6

1563

元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9]

永禄9

1566

12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10]

永禄11

1568

三河を平定、浜松引間城に入る[11]

元亀3

1572

見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12]

天正3

1575

織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13]

天正7

1579

側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を
遠州富塚村にて殺させる享38歳、長男信康も二俣城にて自害に追い込む享21歳。[14]

天正10

1582

天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15]

天正12

1584

小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16]

天正14

1586

秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17]

天正18

1590

正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18]

文禄4

1595

側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19]

慶長元

1596

秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20]

慶長3

1598

秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21]

慶長5

1600

関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。
側室お亀の方伏見にて九男(五郎太)義直を生む。(尾張家の祖)[22]

慶長6

1601

東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23]

慶長7

1602

家康従一位に除せられる。[24]

慶長8

1603

征偉大将軍に任ぜられる。[25]

慶長9

1604

秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26]

慶長10

1605

家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27]

慶長14

1609

オランダ船の来航を許可する。[28]

慶長16

1611

二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29]

慶長19

1614

大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。
側室阿茶局、11月22日和議の使者として大阪城に行く。12月21日和議成立。[30]

元和元

1615

大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。
2月4日次女督姫(池田輝政正室)死亡享年51歳
一国一城令の公布。武家諸法度を定める。[31]

元和2

1616

家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。
久能山に葬る。東照大権現の神号を贈られる。
[32]

天文11

1542

三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1]

天文13

1544

於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2]

天文16

1547

9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3]

天文18

1549

父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4]

弘治元

1555

元服して松平次郎三郎元信となる。[5]

永禄2

1559

駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6]

永禄3

1560

今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。
駿府で竹千代の面倒をみた外祖母源応尼(於富の方)駿府にて没年行70余歳[7]

永禄4

1561

今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8]

永禄6

1563

元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9]

永禄9

1566

12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10]

永禄11

1568

三河を平定、浜松引間城に入る[11]

元亀3

1572

見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12]

天正3

1575

織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13]

天正7

1579

側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を
遠州富塚村にて殺させる享38歳、長男信康も二俣城にて自害に追い込む享21歳。[14]

天正10

1582

天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15]

天正12

1584

小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16]

天正14

1586

秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17]

天正18

1590

正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18]

文禄4

1595

側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19]

慶長元

1596

秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20]

慶長3

1598

秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21]

慶長5

1600

関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。
側室お亀の方伏見にて九男(五郎太)義直を生む。(尾張家の祖)[22]

慶長6

1601

東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23]

慶長7

1602

家康従一位に除せられる。[24]

慶長8

1603

征偉大将軍に任ぜられる。[25]

慶長9

1604

秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26]

慶長10

1605

家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27]

慶長14

1609

オランダ船の来航を許可する。[28]

慶長16

1611

二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29]

慶長19

1614

大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。
側室阿茶局、11月22日和議の使者として大阪城に行く。12月21日和議成立。[30]

元和元

1615

大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。
2月4日次女督姫(池田輝政正室)死亡享年51歳
一国一城令の公布。武家諸法度を定める。[31]

元和2

1616

家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。
久能山に葬る。東照大権現の神号を贈られる。
[32]


カラオケで1番最初に歌う曲 ブログネタ:カラオケで1番最初に歌う曲 参加中
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狼は カラオケが好きで 結構 行きますね

でも 最近は行ってないか・・・行きたいなぁ



最初に歌う曲は  狼の好きなアーティストでもあり  


長淵 剛さんですね   「とんぼ」  「夏祭り」  「涙のセレナーデ」 

などなど いろんな曲を歌います


もちろん 他の方の アーティストも歌います

ケツメイシ アンジェラアキさんの 手紙など  平原綾香さん

さだまさしさん 南こうせつさん  中島みゆきさん

演歌では 長山洋子さん  石川 さゆりさん  北島三郎さん


色んなジャンルで好きですね 最近では 


て・・ことで 一番最初に 歌う曲は 長淵剛さん です^^











毎日食べても飽きない自信のある食べ物 ブログネタ:毎日食べても飽きない自信のある食べ物 参加中
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毎日なら 狼は ラーメンが好物なので ラーメンかな 塩 か  醤油味なら 


毎日食べられる・・・・  たぶんwww    健康を気にしないでいいんならね





第二 候補あげるなら   

またまた、麺類なるけど・・・蕎麦(そば) だね


蕎麦だったら  いろんな味に変化できるし   それは ラーメンも一緒かww


またまた 健康に悪そうな食べ物だけどww  


毎日、食べられるなら  この ラメーン  蕎麦 かな





人間の一生は、投機に手を出してはいけないときが二度ある それができる余裕のないときと それができるとき


とが  すなわちそれだ



マーク・トウェイン       1835年11月30日 - 1910年4月21日


アメリカ人の作家、名作「トムソーヤの冒険」の著者

あのウォルト・ディズ二ーも憧れた人物






人生は謙譲という永い教訓である




ポール・ヴァレリー     1871年10月30日 - 1945年7月20日

アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー

フランスの詩人 フランス第三共和政を代表する知性と言われる






愛は幻想の子であり 幻想をさまさせる両親であり 愛は寂しさの慰めである 愛は詩に対する唯一の医薬であ



る というのは それが死の兄弟なるがゆえである




ミゲル・デ・ウナムノ       スペインの思想家







人生とは辛いもの  自分で自分を守っていかなければならぬのだから



マリア・カラス          ギリシアのソプラノ歌手






「われ存す」ということが不断の驚きであるが  つまり  それが人生である



ラビンドラナ―・タゴール     1861年5月7日 - 1941年8月7日

インドの詩人





お前のいちばんひどい幸福とは それ自身が幸福だからじゃない お前が自分と自分の生涯の間に そのような



幸福があると思っているからなんだ



ミハイル・アルツィパーシェル      ロシアの作家







われらの目的は成功ではなく  失敗にたゆまずして進むことである



ロバート・スティーヴンソン     1850年11月13日 - 1894年12月3日

イギリスの作家

本名はロバート・ルイス・スティーヴンソン

小説家・冒険小説作家・詩人・エッセイスト






われわれは生まれたときに泣く  死ぬときではない




ロバート・スティーヴンソン       小説家・冒険小説作家・詩人・エッセイスト








濛々炎々として、三十年  濛々炎々として六十年  末期に糞をさらして梵天に捧ぐ



一休                   室町時代の臨済宗僧侶







世に銭程  面白き物はなし



井原  西鶴          1642年 - 1693年9月9日

江戸時代の作家




































僕は 今  寂しさの渦の中で 君を探していた



どこにいってしまったんだ・・



君は・・・ 遠い記憶に行ってしまった 僕の中で



僕は 溺れそうな海の中で もがきいて 君の残した



想い出を 一つ 二つと 僕は 手にして 



僕は 今 涙を流して 僕の過ちを    



君の流した涙を意味を知った・・



君が去った あの日  僕は 絶望の中にいた 



君がくれた僕への贈り物は 僕は 捨てられないまま 



今は 寂しそうに 部屋に隅(すみ)に 残す 



想い出と一緒に・・



君が 僕に 「さよなら」 を告げた日 



僕が僕でなくなったように・・



君も君でいることを忘れてしまった



あの頃の 僕と 君は  もう ここにはいない