天文11 |
1542 |
三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1] |
天文13 |
1544 |
於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2] |
天文16 |
1547 |
9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3] |
天文18 |
1549 |
父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4] |
弘治元 |
1555 |
元服して松平次郎三郎元信となる。[5] |
永禄2 |
1559 |
駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6] |
永禄3 |
1560 |
今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。 |
永禄4 |
1561 |
今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8] |
永禄6 |
1563 |
元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9] |
永禄9 |
1566 |
12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10] |
永禄11 |
1568 |
三河を平定、浜松引間城に入る[11] |
元亀3 |
1572 |
見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12] |
天正3 |
1575 |
織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13] |
天正7 |
1579 |
側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を |
天正10 |
1582 |
天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15] |
天正12 |
1584 |
小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16] |
天正14 |
1586 |
秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17] |
天正18 |
1590 |
正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18] |
文禄4 |
1595 |
側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19] |
慶長元 |
1596 |
秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20] |
慶長3 |
1598 |
秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21] |
慶長5 |
1600 |
関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。 |
慶長6 |
1601 |
東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23] |
慶長7 |
1602 |
家康従一位に除せられる。[24] |
慶長8 |
1603 |
征偉大将軍に任ぜられる。[25] |
慶長9 |
1604 |
秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26] |
慶長10 |
1605 |
家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27] |
慶長14 |
1609 |
オランダ船の来航を許可する。[28] |
慶長16 |
1611 |
二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29] |
慶長19 |
1614 |
大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。 |
元和元 |
1615 |
大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。 |
元和2 |
1616 |
家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。 |
天文11 |
1542 |
三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1] |
天文13 |
1544 |
於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2] |
天文16 |
1547 |
9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3] |
天文18 |
1549 |
父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4] |
弘治元 |
1555 |
元服して松平次郎三郎元信となる。[5] |
永禄2 |
1559 |
駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6] |
永禄3 |
1560 |
今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。 |
永禄4 |
1561 |
今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8] |
永禄6 |
1563 |
元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9] |
永禄9 |
1566 |
12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10] |
永禄11 |
1568 |
三河を平定、浜松引間城に入る[11] |
元亀3 |
1572 |
見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12] |
天正3 |
1575 |
織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13] |
天正7 |
1579 |
側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を |
天正10 |
1582 |
天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15] |
天正12 |
1584 |
小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16] |
天正14 |
1586 |
秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17] |
天正18 |
1590 |
正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18] |
文禄4 |
1595 |
側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19] |
慶長元 |
1596 |
秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20] |
慶長3 |
1598 |
秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21] |
慶長5 |
1600 |
関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。 |
慶長6 |
1601 |
東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23] |
慶長7 |
1602 |
家康従一位に除せられる。[24] |
慶長8 |
1603 |
征偉大将軍に任ぜられる。[25] |
慶長9 |
1604 |
秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26] |
慶長10 |
1605 |
家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27] |
慶長14 |
1609 |
オランダ船の来航を許可する。[28] |
慶長16 |
1611 |
二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29] |
慶長19 |
1614 |
大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。 |
元和元 |
1615 |
大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。 |
元和2 |
1616 |
家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。 |