第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

の続きです

 

今回 作中に出てくる桐島咲さんのお話は

第二百四十八弾「忘れていく」 にあります

 

 

## 十一

 その日の昼過ぎ、藍は街の中にいた。

 圭人が家を出た時間から、それほど間を置かずに出た。
エコバッグは持っていなかった。
買い物には行かなかった。

 待ち合わせ場所は駅から少し離れた
ホテルのラウンジだった。
観光客も使う場所で、
地元の人間と鉢合わせする確率が低かった。
藍はそういう場所を選ぶことに、もう慣れていた。

 男はすでに来ていた。

 窓際の席に座って、コーヒーを飲んでいた。
五十代の入り口くらいで、髪に白いものが混じっていた。

体型は崩れておらず、

スーツの着こなしに慣れた雰囲気があった。
中小企業の経営者か、それなりの地位の人間か。
実際のところ、
藍はこの男の仕事の詳細をあまり知らなかった。
聞いても、詳しくは教えてくれなかった。

 藍が席に着くと、男は顔を上げた。

 微笑んだ。それは本物の笑顔に見えた。

「来てくれた」

「来るって言ったじゃない」

 藍も笑った。
その笑顔の中に、何がどれだけ混じっているか、
藍自身にも整理がついていなかった。

 飲み物が来て、二人はしばらく他愛のない話をした。
男は気を遣う人間だった。
藍の体調を気にして、最近眠れているかと聞いた。
圭人のことは聞かなかった——しばらくは。

「妻と離婚していれば、君を家に呼べたのに」

 話が落ち着いたころ、男は言った。
窓の外を見ながら、独り言のような口調だった。

 藍は顔を伏せた。

 この言葉は何度か聞いた。
そのたびに、藍の中で何かが揺れた。
揺れるが、揺れた先にどこかがあるわけでもなかった。

「今はそうじゃないのだから、仕方ないじゃない」

 藍は静かに言った。
責めてもいない、諦めてもいない、
ただ事実を置くような言い方だった。

 男は藍を見た。

「あの男とは、何でもないんだよな」

 声に、かすかな緊張があった。
心配、というより、確認だった。

「彼はただの幼馴染よ」

 藍は微笑んだ。

 嘘ではなかった。
少なくとも、藍の認識の中では。圭人は幼馴染だった。
三回告白されて、三回断った。
弟みたいだと思っていた。
今も、その感覚は変わっていない——と、
藍は自分に言い聞かせていた。

 男は藍の答えを聞いて、少し息を吐いた。

 それから手を伸ばして、藍の肩を引き寄せた。
ラウンジの席で人目があったが、
男はあまり気にしない人間だった。

 藍は抵抗しなかった。

 男の腕の中で、藍は窓の外を見た。

 空は薄く曇っていた。

 圭人の顔が、一瞬だけ頭をよぎった。
あの、ぎこちなくドアを開けた顔。
麦茶を出すときの、少し落ち着かない目。
藍はその顔を頭の端に追いやって、
男の肩に視線を戻した。

 ただの幼馴染だ、と藍はもう一度思った。

---

## 十二

 ファミレスを出ると、空が少し暗くなっていた。

 圭人と蒼は並んで歩いた。
並んで、というより、自然にそうなった。
蒼が隣に来たから、圭人は特に何も言わなかった。

 しばらく無言だった。

 商店街を抜けて、住宅街に入ったあたりで、
圭人は口を開いた。

「気をつけた方がいいぞ」

 蒼は前を向いたまま「何が」と返した。

「大人には悪い奴も多い。下手すると海外に売られるぞ」

 蒼は一瞬止まって、それから笑った。
声に出さない、鼻から息を抜くような笑いだった。

「ないない。そんなこと」

 圭人は蒼の横顔を見た。

 笑っていた。
本気で、ありえない話として聞いていた。

 そうだろうな、と圭人は思った。

 大学の後輩の顔が頭に浮かんだ。
名前は桐島咲といった。
真面目で、少し抜けているが憎めない女性だった。
一年生の秋ごろから様子が変わり始めた。
約束を忘れる、昨日話したことを覚えていない、
そういうことが増えた。
最初はただのうっかりだと思っていた。

 だが違った。

 徐々に記憶が失われていく病気だった。
珍しい疾患で、若い人間にも発症することがあると
後で聞いた。
症状が進んで、桐島は大学を休学した。
その後、正確な経緯は圭人も知らない。
街をふらついているところを見つけた人間がいて、
その人間が反社と繋がっていて、
桐島は気づかないまま連れて行かれた。

 海外だった。

 しばらくして救出されて帰国したと聞いた。
実家に戻ったとも聞いた。
その後のことは知らない。

 桐島の話を、圭人は数人にしたことがある。
全員、最初は信じなかった。
信じないというより、自分には関係ないと思った。
そういう反応だった。

 人は、自分が持っていない情報を
体感として受け取ることができない。
頭では理解できても、腹には落ちない。
それは仕方のないことかもしれなかった。
情報と経験は別物だ。

 蒼には、その実感がない。

 パパ活の相手が紳士的に見えて、
今まで何も起きていないから、大丈夫だと思っている。
でも、大丈夫だった時間の長さは、
これからも大丈夫だという保証にならない。

 圭人にはそれが言えなかった。

 言えたとしても、届かないだろう。
圭人と蒼の間には、
まだそれが届くだけの信頼の厚みがなかった。
正しいことを言っても、
信頼がなければ言葉は壁で跳ね返る。

 結局、人は自分の得た情報が全てだと思う側に流れる。
自分が得ていない情報を信じさせることは、
関係のない他人には難しい。

 圭人はそれ以上何も言わなかった。

 蒼も何も言わなかった。

 二人は住宅街を歩き続けた。

---

 角を曲がったところで、男とすれ違った。

 五十代くらいで、グレーのジャンパー。

 圭人は一瞬で思い出した。
今日の朝、
家を出たときに向かいで立っていた男だった。

 男は歩いてきて、圭人と蒼の横を通り過ぎた。
通り過ぎながら、視線が動いた。
圭人を見て、蒼を見た。
立ち止まりはしなかった。
そのまま歩いていった。

 圭人は前を向いたまま、数歩歩いてから言った。

「今すれ違った男、知ってるか」

 蒼が振り返った。

 男もこちらを向いていた。

 距離が三十メートルほどあった。
それでも視線がはっきりわかった。

「気持ち悪い。あんな人は知らない」

 蒼は前を向き直した。
声に、ためらいがなかった。
本当に知らないのだろう、と圭人は感じた。

「朝、家を出たときにもいた。同じ男だ」

 圭人は静かに言った。

「だから、
もしかしたら藍か君のストーカーかと思って」

 蒼は少し考える顔をした。

「私は見たことない。……お母さんかなあ」

 自信なさそうな言い方だったが、
自分には心当たりがないという確認でもあった。

 圭人は黙って前を向いた。

 藍のストーカー。

 あるいは、旦那が送り込んだ人間。
DV加害者が別居した相手の居場所を
確認しようとすることは、珍しくない話だった。

 どちらにしても、圭人には全容がわからなかった。

 ただ、朝と昼に二度、同じ男を見た事実はある。

 家に帰ったら藍に話すべきか、と圭人は考えた。

 話せば藍の事情に踏み込むことになる。
それは圭人が自分に課した一線の、すぐそこにあった。

 でも、黙っていて何かが起きた後では遅い。

 圭人は歩きながら、
どこまで言うかを静かに整理し始めた。

 隣で蒼は黙って歩いていた。

 その横顔は、さっきより少し硬かった。
 

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## 十

 考えないようにすればするほど、残った。

 週末の藍の疲れた顔。
蒼の頬の赤み。
藍の電話の声。
それぞれに説明がつかないわけではなかった。
でも説明がつくことと、
頭から離れることは別の話だった。

 月曜の昼過ぎ、圭人は家を出た。

 気晴らしというより、
部屋にいることに耐えられなくなったに近かった。
ジャケットを羽織って、財布だけ持って、鍵をかけた。

 表に出た瞬間、視線を感じた。

 道の向かい側に中年の男が立っていた。
五十代くらい、グレーのジャンパーを着て、
特に用事があるふうでもなく立っていた。
圭人が顔を向けると、
男はそのまま視線を動かさなかった。
じろじろと、というほど露骨ではないが、
明らかに見ていた。

 誰かと間違えているんだろう、と圭人は思った。
知らない顔だった。
この辺に住んでいる人間でもなさそうだった。
気にしても仕方がないので、
圭人はそのまま歩き出した。

 駅の方向に向かって、大通りを歩いた。
空は薄く曇っていて、風が少しあった。
歩くには悪くない天気だった。

 駅前の大型スーパーに入ったのは、
特に目的があったわけではなかった。
書店が入っているのを思い出して、
本でも見ようと思った。
それだけだった。

 書店のコーナーに入り、文庫の棚を端から流し見た。
背表紙を読んでいくだけで、
少し気持ちが整う感覚があった。
本屋にいるとき、圭人はいつも少し落ち着いた。

 視界の端に、人影が入った。

 最初は気にしなかった。
スーパーの書店だから人は多い。

 でも何かが引っかかって、目が動いた。

 蒼だった。

 一瞬、見間違いかと思った。
今は平日の昼間で、学校がある時間だ。
制服を着ていなかった。
私服だった。
どこかで着替えたのか、最初から着替えて出たのか。

 そして、隣に男がいた。

 四十代から五十代の間くらいの、
サラリーマン風の男だった。
スラックスにジャケット、髪はきちんと整えてあって、
体型も崩れていない。
小綺麗な印象だった。
中小企業の経営者か、それなりの役職の会社員か、
そういう雰囲気があった。

 蒼とその男は、手を繋いでいた。

 圭人は棚の背表紙に視線を戻した。

 藍の旦那か、と最初に思った。
だがすぐに違和感があった。
藍と蒼が話していた旦那の印象と、
目の前の男は合わなかった。
DVをする男というのは類型があるわけではないが、
それにしても、あの男には粗暴さの欠片も見えなかった。

物腰が柔らかく、蒼に何か話しかけながら歩いていた。

 まあ、人は見かけによらない。

 圭人は本の背表紙を読み続けた。

 家族の問題だ。
自分が口を挟む話ではない。
蒼が嫌がっている様子はなかった。
むしろ、楽しそうに見えた。
それならなおさら、自分には関係ない。

 数冊を手に取り、裏表紙のあらすじを読んだ。
三冊を選んで、レジに向かった。

 その直前に、目が合った。

 蒼と、視線が合った。

 一秒にも満たない時間だった。
蒼の目が、圭人を認識した。
それははっきりわかった。

 圭人は視線を外してレジに向かった。

 スルーしてくれ、と思った。
頼むから。

---

 会計を済ませて、
袋を持ってスーパーの出入り口に向かった。

 自動ドアが開いた先に、蒼がいた。

 壁に背中を預けて、腕を組んで、圭人を待っていた。
男の姿はなかった。
どこかに行ったのか、
それとも最初から一人で出てきたのか。

 目が合った。
蒼がこちらに歩いてきた。

 怒っていた。
表情に出ていた。
怒りというより、
困惑と怒りが混ざったような顔だった。

「今、学校終わったのか」

 圭人は笑顔で言った。
顔が引きつっていることは自分でわかった。

 蒼は圭人の顔を一瞥して、表情を変えなかった。

「少し話したいんだけど」

 観念した。

---

 ファミレスは昼時を過ぎても混んでいた。
学生のグループ、子供連れの主婦、
サボっているふうの会社員。
話し声と食器の音が重なって、適度にうるさかった。

 案内されたのは奥のボックスシートだった。
四方を仕切られていて、
隣のテーブルの声は届かなかった。

 圭人は紅茶を頼んだ。
蒼はコーラと山盛りのポテトを頼んだ。
長くなる、と判断したのだろう。
圭人も同じことを思っていた。

 飲み物が来た。
蒼はコーラを一口飲んで、圭人を見た。

「付けてきたの?」

「違う」と圭人は言った。

「散歩の途中に本屋に寄っただけだ。
見かけたのは偶然だよ」

 蒼はしばらく圭人の顔を見ていた。

「……あのおじさんが
どうしても大型スーパーに用事があるって、
行きたくなかったのに連れて行かれたんだよね。
やっぱり見られちゃったし」

 少しふてくされた声だった。
怒りの矛先が圭人ではなく、別の場所に向いていた。

 圭人は紅茶のカップを持ったまま、
蒼の言葉を頭の中で整理した。

 あのおじさんが連れて行きたがった。
蒼は嫌だった。
それでも行った。

 ということは、あの男は藍の旦那ではない。

「パパ活、ってやつか」

 言葉が口をついて出た。
できれば言いたくなかった言葉だった。
でも他に言い方が見つからなかった。

 蒼は表情を変えなかった。

「そう。
お母さんは知らないけど、結構前からやってる」

 悪びれていなかった。
開き直りとも違った。
ただ、事実を述べるような言い方だった。

 圭人は黙ってポテトを一本取った。

 蒼の父親の言葉が頭に戻ってきた。
水商売か風俗で生きていけ、と言った男。
自分の娘にそう言った男の元で育てば、
こうなることもある。
論理としては繋がる。
繋がるが、
それで納得できるかどうかは別の話だった。

 だが、他人の家族の話だ。

 圭人には、とやかく言う立場がない。

 藍がこれを知ったらどう思うか、
という考えが頭をよぎった。
それもすぐに消した。
藍の感情も、圭人がどうにかする話ではなかった。

「お母さんに言う?」

 蒼が言った。
半分は諦めた声だった。
もう半分に何が入っているのか、
圭人には読み取れなかった。

「言わないよ」と圭人は答えた。

「家族の問題だし、俺は家族じゃないしな」

 蒼の顔が、動いた。

 怒りでも驚きでもなかった。
もっと小さい変化だった。
何かが、すっと引いたような顔だった。

「そうだね」

 声が、絞り出すようだった。

 圭人はその声を聞いて、
紅茶のカップをソーサーに戻した。

 言ってしまった、と思った。
正確なことを言った。
本当のことを言った。
でも、正確で本当のことが、
正しいこととは限らない。

 蒼の「そうだね」の中に入っていたものが
何だったのか、圭人にはわかった気がした。

 家族じゃない、と言われることを、
この子はもう何度も経験してきたのかもしれない。

 圭人はしばらく黙っていた。

 ファミレスの喧騒が、
ボックスシートの外から聞こえていた。

 山盛りのポテトが、
テーブルの真ん中で湯気を立てていた。
 

 

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## 八

「友達と遊びに行くなら小遣いあげてもいいけど」

 圭人は麦茶のコップを持ったまま、何気なく言った。

 蒼は一瞬、手を止めた。
それから圭人をじっと見た。
値踏みするような目ではなく、
何かを確認するような目だった。

「一応、私も今の状況で
そこまで脳天気な行動はしないよ」

 声は平坦だったが、その平坦さに何かが含まれていた。

 怒った、と圭人は思った。
正確には、怒りに近い何かだ。
子供扱いされた、と感じたのかもしれない。
それはそうだ、と圭人は思った。
この子はとっくに子供じゃない。
少なくとも、中身は。

 圭人が何か言いかけたとき、蒼の顔が変わった。

 さっきまでの表情が消えて、笑顔になった。
いたずらっぽい、少し計算のある笑いだった。

「それよりもさ、おじさんに興味あるかな~」

 声のトーンが変わった。
軽くなった。
でも軽いのは表面だけで、目は笑っていなかった。

「私、前に学生時代のお母さんに似てる
って言われたことあるんだけど、
おじさんはどう思う?」

 試している、と圭人は思った。

 何を試しているのかは、正確にはわからなかった。
圭人がどこまで動揺するか、
それとも自分のことをどう見ているか、
あるいはその両方か。
いずれにしても、これは真剣な問いではなく、
探りだった。

 圭人は蒼の顔を見た。

 似ている、という言葉は正確だった。
顎のライン、少し伏し目がちな目の角度、首の傾け方。
高校時代の藍の写真があったなら、
並べて比べたくなるくらい、輪郭が重なっていた。

 だが、違う。

 話し方が違う。
藍はもっと真っ直ぐ言葉を出す人間だった。
遠回しにしない、探りを入れない、
感じたことをそのまま言葉にする人間だった。
蒼はその逆だ。
言葉の手前に必ず何か一枚挟む。
直接触れるより前に、相手の反応を先に確認する。

 仕草だけが似ていた。

 ときどき、ふとした動作の中に、
かつての藍が一瞬だけ現れる。
コップを両手で持つ角度、
視線を外すときの首の動き。
そういう細部が重なるたびに、
圭人の中で何かが反応した。

 それはすぐに消した。

 消さなければならなかった。
蒼は藍ではない。
藍の娘だ。それ以上でも以下でもない。
過去の残像を今いる人間に重ねるのは、
相手に対して失礼だった。

「似てるんじゃないかな。俺もそう思うよ」

 圭人は言った。
声は平静だった。

 蒼はその返答を聞いて、また少し笑った。
さっきの笑いとは微妙に違う笑いだった。

 やはり見透かされた気がした。

 この子の感はどこから来るのだろう、
と圭人はふと思った。
両親や教師と付き合う中で育つ感覚というより、
もっと別の——大人の、
複雑な感情を間近で見続けてきた
人間が持つ感覚に近かった。

 根拠はなかった。
ただ、漠然と、そう感じた。

 それ以上は考えなかった。
考えたところで確かめる方法もなかったし、
確かめるべきことかどうかも、まだわからなかった。

---

## 九

 昼食は三人で食べた。

 藍が作った豚汁と白米と、昨日の残りの煮物。
質素だったが、きちんとした食事だった。

 食卓の会話は多くなかった。
圭人が今日は天気がいいと言って、
藍がそうだねと返した。
蒼は黙って食べていたが、食べ方は丁寧だった。

 食後、藍が立ち上がりながら言った。

「買い物行ってくる。
冷蔵庫の野菜が少なくなってきたから」

「一人で大丈夫?俺も行こうか」

 圭人は反射的に言った。

 藍は少し笑った。
困ったような、でも悪くない笑いだった。

「大丈夫。悪いから一人で行ってくるよ」

 圭人は財布から食費を出して渡した。
藍は金額を確認せずに受け取って、
エコバッグを持って出た。

 玄関のドアが閉まった。

 圭人はリビングに戻り、本を取りに行こうとした。

「じゃあ私もちょっと出てくるね」

 蒼の声がした。

 圭人が振り返ったときには、すでに廊下に向かっていた。

返事をする間もなかった。
玄関のドアが開いて、閉まった。

 やけに早かった。

 どこに行くのだろう、と圭人は思った。
友人に会うにしては、
準備らしい準備もしていなかった。
着替えた様子もなかったし、
どこかに連絡している気配もなかった。

 ただ出た。

 まあいいか、と圭人は思った。
高校生が休日に出かけること自体は、おかしくない。

 自室に戻り、本を開いた。
今度は文字が入ってきた。

---

 二時間半ほど経ってから、玄関の音がした。

 廊下に出ると、蒼が靴を脱いでいた。

 圭人は何気なく顔を見て、少し引っかかった。

 頬に薄く赤みがあった。
運動でもしたのか、と思った。
外を歩き回ったにしては少し違う感じもしたが、
特定できる根拠はなかった。

「おかえり」

「ただいまです」

 それだけで蒼は階段を上がっていった。

 圭人は自室に戻った。

---

 さらに一時間ほどして、今度は藍が帰ってきた。

 エコバッグを両手に持って、玄関で靴を脱いでいた。
重そうだったから、圭人は受け取りに行った。

「おかえり」

「ただいま。遅くなってごめん」

 バッグを受け取りながら、圭人は藍の顔を見た。

 疲れている、と思った。

 買い物の疲れ、というより、
何か別のものが混じっている疲れだった。
目の周りに力がなかった。
頬の色が、出かける前より少し落ちていた。

 大変だったのかな、と圭人は思った。
重い荷物を一人で持って、久しぶりの街を歩いて、
それだけで疲れることもある。

 それ以上は考えなかった。

「夕飯の支度は私がするから」
と藍は言って、キッチンに向かった。

 圭人は頷いて、自室に戻った。

 廊下を歩きながら、何かが引っかかっていた。

 何が、とは言えなかった。

 蒼の顔の赤みと、藍の疲れた目。
それぞれは別の話だ。
ただ、なんとなく、両方が頭の中に残った。

 自室のドアを閉めて、椅子に座った。

 本を開いた。

 文字は入ってきたが、どこかで何かが、
ずっと小さく引っかかっていた。
 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

の続きです

 

 

## 六

 自室のドアを閉めると、
圭人はそのまましばらく動かなかった。

 ドアに背中を預けて、天井を見た。
昭和の木目天井。
いつもの顔のような模様。
何も変わっていない。
変わっていないのに、部屋の空気が違う気がした。

 蒼の言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 *父さんにもそう言われていたし。*

 その男が藍の夫だ。
高校生の娘に、
水商売か風俗で生きていけと言った男が。

 圭人は椅子に座った。
机の上に本が積んであった。
読みかけのまま伏せてある文庫本。
いつもならそれを開くのだが、
今日は手が伸びなかった。

 なぜ、そんな男を選んだのか。

 考えたくなかったが、考えずにいられなかった。

 圭人の記憶の中にある藍は、賢い人間だった。
感情に流されないわけではないが、
曲がったことを本能的に嫌う人間だった。
弱い人間を見下さず、強い人間に媚びず、
自分の軸を持っていた。
少なくとも、圭人にはそう見えていた。

 その藍が、親を捨て、妹を捨て、
周囲の全員の反対を押し切って、その男を選んだ。

 わからなかった。

 二十二年間、
圭人が「正しい」と信じていた像が、
根元から揺らいでいた。

 怒りがあった。

 誰に対する怒りかを言語化するのが難しかったが、
あった。
藍に対してではない、と思いたかったが、
完全にそうとも言えなかった。
その男に対してはある。
だが一番大きい怒りは、
もっと形のないものに向いていた。

 自分が幸せになってほしいと願い続けた人間が、
自分の想像の外でそういう選択をして、
そういう結果になっていた。
その事実に対する怒り。
理不尽さに対する怒り。

 そして——と圭人は目を閉じた
——その怒りの底には、もっと汚いものがあった。

 *自分を選んでいたら、
こんなことにはならなかったのに。*

 その思考が、頭をよぎった。
一瞬だったが、確かによぎった。

 圭人は自嘲した。

 なんて自惚れた考えだ、と思った。
まず前提が間違っている。
圭人が今の状態になれたのはただの偶然だ。
株が当たったのは運だった。
あの時期に始めて、あの銘柄を選んで、
退き際を間違えなかったのは、
才能でも努力でもなく、運の要素が大きかった。
高校生の藍にそれを見抜ける理由がない。
見抜けなくて当然だ。

 そして——そもそも、藍の感情は、
そういうこととは全く関係ない。

 好きか嫌いかというのは、
相手の将来の経済状況とは別の場所にある。
圭人が今の状態だったとしても、
藍が圭人を選んでいた保証はどこにもない。
むしろ、彼女は圭人を「弟みたい」と言い続けた。
それが答えだった。

 自分を選ばなかったから不幸になった、
などという論理は、
圭人の欲望が作り出した歪んだ計算だ。

 わかっている。
わかった上で、それでも頭の端にその思考がある。

 それが腹立たしかった。

 藍への怒りでも、その男への怒りでもなく、
自分自身の中にある汚い部分への怒りだった。

 善意だと言った。
蒼にそう言った。

 嘘だ、と圭人は思った。
全部が善意なわけがない。
どこかに見栄がある。
落ちぶれた彼女の前で、
自分だけは変わらずそこにいる、
という優越感がないとは言い切れない。
助けてやっている、
という感覚がゼロだとは言えない。

 汚い。

 だが人間とはそういうものだ、と圭人は思った。
善意と欲望と見栄と怒りが混ざり合っていないほど、
人間の感情は単純じゃない。

 問題は、それを外に出すかどうかだ。

 藍と蒼の前で出すことは、しない。

 欲望は自室に置いていく。
見栄も、怒りも、ここに置いていく。
外に持ち出すのは行動だけでいい。
行動が善意の形をしていれば、
動機が何であれ、相手には善意として届く。

 動機を純粋にする必要はない。
ただ、動機を武器にしなければいい。

 圭人はそう決めた。

 今更、藍に何かしようとは思わない。
それだけは守る。

 そう自分に言い聞かせて、
伏せてある文庫本を手に取った。

 文字は、しばらく頭に入ってこなかった。

---

## 七

 正午に近くなって、喉が渇いた。

 本を伏せて立ち上がり、ドアを開けた。
廊下は静かだった。
階段を下り、リビングの前を通りかかったとき、
声が聞こえた。

 藍の声だった。

 電話をしているようだった。
内容まではっきりとは聞き取れなかったが、
声のトーンが——柔らかかった。
警戒のない、力の抜けた声だった。
この家に来てから、
圭人の前では見せたことのない声の出し方だった。

 圭人は足を止めなかった。

 止めかけて、止めなかった。

 キッチンに入り、冷蔵庫を開け、
麦茶のボトルを取り出した。

 旦那ではないだろう。
あの声で旦那と話す理由がない。
では誰か。
親密な誰かがいるなら、なぜここに来た——。

 圭人は自分の思考を途中で切った。

 関係ない。

 自分には関係ない。

 藍に親密な相手がいたとしても、それはそれだ。
圭人が口を挟む話でも、気にする話でもない。
彼女は友人であり、かつて片想いしていた幼馴染であり、

今は家に置いている人間だ。
それ以上でも以下でもない。

 コップを棚から出して、麦茶を注いだ。

 一気に飲んだ。

 冷たい液体が喉を通って、胸のあたりまで冷えた。
少し、気持ちが落ち着いた。

「私にも麦茶入れてくれます?」

 声がして、圭人は手の中のコップを
取り落としそうになった。

 振り返ると、蒼がキッチンの入口に立っていた。
靴下を履いていたから足音がしなかったのか、
それとも圭人が気づかなかったのか。

「……いつからいた」

「さっき来ました」

 圭人はもう一つコップを出して、麦茶を注いだ。
カウンター越しに渡すと、
蒼は受け取って、キッチンの端の椅子に座った。

 一口飲んで、蒼は圭人を見た。

「お母さんの電話の相手、気になります?」

 真っ直ぐな目だった。
探っているのか、からかっているのか、
ただ確認しているのか、判別しにくかった。

「別に気にならないよ」

 圭人は冷静に返した。
声のトーンは、自分でも悪くなかったと思った。

 蒼は圭人の顔を見て、少し笑った。

 声には出さない、小さな笑いだった。
口元だけが動いた。

 その笑い方が、妙に大人びていた。
高校生の顔つきではなかった。
この子はいろいろなものを早く見てきたんだろう、
と圭人は思った。
大人の欺瞞を見慣れた目だ。

 圭人は何も言わなかった。

 蒼も何も言わなかった。

 キッチンに、冷蔵庫の低い音だけがあった。

 

第三百十三弾「忘れられない人」の続きです

 

 

# 忘れられない人(続)

## 四

 同居が始まった。

 最初の朝、圭人が階段を下りると台所から音がした。
包丁の音と、水の音。
コーヒーの匂いはなく、代わりに味噌の匂いがした。

 リビングに入ると、テーブルに朝食が並んでいた。
ご飯と味噌汁と卵焼き。
シンプルだったが、ちゃんとした食事だった。

 圭人は二十年近く、
朝に誰かが作った食事をテーブルで
食べたことがなかった。

「おはよう」と藍が台所から言った。

「卵焼き、甘い方と塩の方どっちが好き?」

「塩で」

「じゃあ次からそうする」

 それだけの会話だったが、圭人は椅子に座りながら、
少し奇妙な感覚を覚えた。
日常だ、と思った。
ただの朝の日常。
でもこの家にはずっとなかったものだった。

 蒼は少し遅れて降りてきて、
無言で席に着き、無言で食べた。
挨拶はしなかったが、食事は残さなかった。

---

 家事の分担は、自然に決まっていった。

 藍は几帳面だった。
洗い物はすぐに片づけ、洗濯は朝のうちに回し、
掃除は週に二度ほど丁寧にやった。
圭人の部屋には入らなかった。
暗黙の了解として、
圭人の部屋のドアは彼の領域だった。

 圭人は特に何も変えなかった。
午前中は部屋にいて、午後から散歩に出ることもある。
宅配が届けば受け取る。
夕食は藍が作ることが多くなった。

 三日目の夕方、
藍がリビングのソファに座って求人誌を広げていた。

 圭人は横を通り過ぎかけて、止まった。

「ハローワークの方が種類多いよ」

「うん、来週行こうと思ってる」

 それだけ言って、圭人は自室に戻った。
踏み込まなかった。
踏み込む必要がまだないと思っていた。

 四日目の夕食後、
藍が「ところで」と切り出した。

 蒼はもう自室に上がっていた。
テーブルには圭人と藍の二人だけで、麦茶が二つあった。

「いつも部屋に籠ってるけど、
圭人って何の仕事してるの?」

 来た、と思った。

 圭人は一秒、考えた。
本当のことを言う選択肢が頭をかすめたが、消えた。
「資産が五億あるから働いていない」
というのは、たとえ事実でも、
この状況で言える言葉ではなかった。
家に置いてやるから礼を言え、と言っているに等しい。
それは違う。

「在宅で、デザインの仕事をちょこちょこと」

「デザイン?」

「ロゴとか、ウェブとか。
高校のとき美術部にいたの覚えてるだろ。その流れで」

 藍はしばらく圭人の顔を見た。

 嘘だと思っているかもしれない、と圭人は感じた。
でも藍は何も言わなかった。

「そっか」と言って、麦茶を飲んだ。

「集中したいから部屋に籠るの?」

「まあ、そういうこと」

「邪魔してたらごめんね」

「邪魔じゃない」

 少しわざとらしかったかもしれない、
と圭人は思ったが、藍の顔に疑う色はなかった。
あるいは、今の自分の状況では
他人の仕事の細かいことに頭を使う余裕が
ないのかもしれなかった。
それはそれで、少し気の毒だった。

---

 週明け、圭人は蒼を呼び止めた。

 登校前の玄関先で、
「電車は何駅乗るんだ」と聞いた。

「八駅くらい」

「定期は今どうしてる」

「切れてる。
昨日は母さんにもらった
残り少ないお金でなんとか乗った」

 圭人は財布を取り出した。
「三ヶ月分の定期代、今日買ってこい。
いくらかかるか調べて、後で言ってくれ」

 蒼は少し止まった。

「……なんで」

「学校行くのに金かかるだろ」

「別にいい」

「良くない。遅刻するだろ」

 蒼は圭人の顔を見た。
何かを測るような目だった。
それから視線を外して
「わかった」とだけ言って出て行った。

 夕方、蒼は金額をメモに書いて圭人に渡した。
言葉はなかった。
圭人は現金を封筒に入れて渡した。
それだけだった。

---

 同じ日の夜、圭人は藍と向き合って話した。

 夕食が終わり、蒼が席を立った後、
圭人は少し迷ってから口を開いた。

「生活費の話をしていいか」

 藍は表情を固くした。

「それは私が早く仕事を見つけて——」

「そうじゃなくて」と圭人は遮った。

「仕事が決まるまでの話だ。
焦って変な仕事に就く必要はないから、ちゃんと探せ。
その間の生活費は俺が出す」

「……そんな、それは申し訳なくて」

「毎月十五万でどうだ。
足りなかったらその都度言ってくれ」

 藍は黙った。俯いた。
しばらく何も言わなかった。

「圭人」

「なに」

「なんで、そこまで」

 圭人はしばらく考えた。
答えを持っていないわけではなかったが、
正確に言葉にするのが難しかった。

「困ってる人間が目の前にいて、俺に余裕があるから、
それだけのことだよ」

 嘘ではなかった。
ただ、全部でもなかった。
でも今、全部を言う必要はなかった。

 藍は顔を上げた。
目が赤かったが、泣かなかった。

「わかった。ありがとう。絶対に返す」

「返さなくていい」

「返す」

 圭人は何も言わなかった。
藍が「返す」と言えることが、
今の彼女に必要なことだろうと思った。
だから黙って頷いた。

---

## 五

 最初の週末は、静かに来た。

 土曜日の朝、藍は早起きして台所に立っていた。
蒼は昼近くまで寝ていた。
圭人はいつも通り九時過ぎに起きて、
コーヒーを淹れて、本を読んだ。

 三人の休日が、どういうものになるのか、
まだ誰にも形が見えていなかった。

 昼食を食べ終わり、藍が食器を洗い始めたころ、
圭人が自室に戻ろうとして廊下に出ると、
部屋の前に蒼が立っていた。

 壁に背中を預けて、
腕を組んで、足を組んで立っていた。
待っていた、という格好だった。

「ちょっと話があるんだけど」

 圭人を見て言った。
声はぶっきらぼうだったが、眼は真剣だった。

 圭人は少し考えてから「こっち来い」と言って、
廊下の奥の部屋に向かった。
今は物置になっているが、もともと客間だった部屋だ。
段ボールがいくつかあるだけで、
座れるスペースはあった。

 二人で入って、圭人がドアを閉めた。

「どうせ藍に聞かれたくない話なんだろ」

 蒼は少し驚いた顔をした。それから頷いた。

「……母さんと、どういう関係なの。
元カノとか、そういう感じ?」

 やっぱりそこか、と圭人は思った。
当然だ。
家族でもない、親戚でもない、
四十歳の独身男が急に二人を泊めて
生活費まで出している。
むしろ疑問に思わない方がおかしい。

「付き合ったことは一度もない」と圭人は言った。

「学生時代に俺が片想いしてただけだ」

 蒼の表情が変わった。
予想と違う答えだったのだろう、
目が少し大きくなった。

「付き合った事もいないのに、
家に泊めて、生活費まで出すの?」

「そうなる」

「……母さんに弱みでも握られてるの?」

 その発想が出てくるところに、
この子の今までの生活が滲んでいる、と圭人は思った。
大人の善意に対して、まず裏を疑う。
それはこの年齢の子供が自然に身につける感覚ではない。

「弱みはない」と圭人は言った。

「惚れた男の弱みってやつだよ。裏の意図は何もない。
これを切っ掛けにどうにかなろうとも思ってない。
ただの善意だ」

 蒼はじっと圭人を見た。
信じているのか疑っているのか、
表情からは読み取れなかった。

 やがて、少し呆れたような顔になった。

「とんだお人好しだね。
私でも騙してお金ふんだくれそう」

 そうだな、と圭人は思った。
実際その通りだろう。
でもそれでいい、とも思っていた。
騙されることより、疑って動かないことの方が、
自分には似合わなかった。

 圭人は笑顔だけ返した。

 それから表情を戻して、蒼を見た。

「君は今後どうするんだ。
もう高校生なんだから、進路とか、
今後どうしたいか考えないといけないだろ。
状況が状況だけに、時間がないんじゃないか」

 蒼の顔から表情が消えた。

 空白が、数秒あった。

「……将来なんて、どうでもいい」

 声は平坦だった。
諦めではなく、
最初からそこに向いていない感じだった。

「やりたいこともないし。
水商売か風俗でもやって生きていくしかないだろうね。
父さんにも、そう言われてたし」

 圭人は黙って聞いた。

 父さんに、そう言われていた。

 その一言で、多くのことがわかった。
父親が娘に言う言葉じゃない。
どんな文脈であれ、高校生の娘に対して
「水商売か風俗で生きていけ」と言う人間が、
どんな人間かは、言葉にしなくてもわかった。

 藍が反対を押し切って結婚した相手が、
そういう人間だったということも。

「とりあえず」と圭人はゆっくり言った。

「将来の話をするとき、
水商売と風俗は選択肢の外に置いてほしい」

 蒼は圭人を見た。

「どうしてもやりたいというなら俺が止める権利はない。

でも、しょうがないからやる、というなら、
もう少しいろいろ考えてほしい。
多少なりとも関わった以上、
ある程度の面倒は見るつもりだから」

 蒼はしばらく無言だった。

 それから、少し首を傾けた。

「……なんでそこまでするの」

「さっきも言ったろ」

「善意、って言った。
それは母さんへの話でしょ。
私には関係ない」

 圭人は少し考えた。

「関係ある。
同じ屋根の下にいる以上、
君の今後は俺には無関係じゃない。
それだけのことだ」

 蒼は圭人の顔を、また測るように見た。

 信じているわけではないだろう、と圭人は思った。
ただ、こういう大人が世の中にいるのだ、
という事実として受け取ってくれればそれでいい。
今はそれで十分だった。

 蒼は何も言わなかった。
返事の代わりに、少し視線を外して、窓の外を見た。

 窓の外には、古い庭があった。

 圭人が剪定をさぼり続けた植木が、
好き放題に枝を伸ばしていた。
手入れされていないが、枯れてはいなかった。
ただそこで、勝手に生きていた。

 蒼はその庭を、何秒か眺めていた。

 何を考えているかは、わからなかった。
 

 

初恋の人や元カノが

ある日 突然 子供と一緒にやって来る

そんな物語ってよくありますよね

自分もそういうお話を作ってみました

 

 

# 忘れられない人

## 一

 小学校三年生の春、
保田圭人は自分が恋をしているということを
初めて理解した。

 理解した、というより、
理解せざるを得なくなった、
というほうが正確かもしれない。
朝、隣の家の門から彼女が出てきて、
ランドセルを背負って振り返り、
「圭人、早く」と言ったとき、
胸の奥でなにかが締まった。
物理的に、肋骨のあたりがきつくなるような感覚だった。

走って追いつき、横に並んでも、
その感覚はしばらく消えなかった。
なんだろう、これは、と思った。
風邪とは違う。腹が痛いのとも違う。
でも確かになにかがある。

 三村藍(みむら・あい)。
同い年で、同じクラスで、家が隣で、
物心ついたときからずっとそこにいた。
圭人にとって彼女は空気や水に近い存在だった。
いて当たり前で、いないと息ができない。
ただ当時の圭人にはその感覚を
言語化する能力がなかったから、
それが恋愛感情だと気づいたのは、
別の男の子が彼女に話しかけているのを
見て初めて感じたあの嫌な感じ
——胃の下のほうが冷たくなるような、
落ち着かないような、
それでいてなにかに怒っているような感覚
——によってだった。

 嫉妬だ、と圭人は後になって知った。

 彼女はとにかく頭が良かった。
テストはいつもクラスで上位で、
でもそれをひけらかすことが一切なかった。
誰かが答えを間違えても笑わなかった。
逆に休み時間にこっそり教えに行くような子だった。
運動もそこそこ得意で、
足が特別速いわけではなかったが
体育の授業では常にきびきびと動いた。
背は圭人より少し低かったが姿勢が良く、
遠くからでもすぐ見つけられた。

 圭人は彼女の隣が好きだった。
給食のとき、掃除のとき、登下校のとき、
隣にいると世界が少し明るく見えた。
それは比喩ではなく、本当に色が違って見えた。
空の青が濃くなるような気がした。

 告白というものを圭人が初めて試みたのは
小学六年生の秋だった。
放課後、校庭の隅の鉄棒のそばで、
「好きだ」と言った。
言葉はごく短く、
うまく文章にすることもできなかった。

 藍は少し驚いた顔をした後、困ったように笑った。

「圭人は弟みたいだから」

 弟。
その言葉が圭人の中で長いこと響いた。
同い年なのに、弟。意味がわからなかった。
でも彼女の顔が真剣で、
嘘をついている様子がまったくなかったから、
腹を立てる気にもなれなかった。
なんで弟なんだ、とは思った。
ただ、好きなことに変わりはなかった。

 二回目は中学二年生の夏だった。

 そのころ圭人は少し背が伸びて、
彼女より頭半分高くなっていた。
部活のバスケで日に焼けていた。
自分なりに少し自信があった。
川沿いの土手を二人で歩いて帰る途中、また言った。
今度は少し長く、練習もした。

「俺はずっとお前のことが好きだ。付き合ってほしい」

 藍はしばらく黙って歩いていた。
夕暮れ時で、川面がオレンジ色に光っていた。

「ごめん」

 やはり短い言葉だった。

「圭人のことは本当に大事に思ってる。
でも、そういうふうには、やっぱり思えないんだよね。
なんでかわかんないけど、
圭人といると安心しすぎちゃうっていうか」

 安心しすぎる。
それは欠点なのか、と思った。
でも怒れなかった。
彼女が困っているのが伝わって、
むしろ申し訳なくなった。
圭人はそういう男だった。

 三回目は高校三年生の春、
進路が決まり始めたころだった。

 藍は東京の大学を受験すると言っていた。
文学部で、小説が書きたいのだと、
照れながら話していた。
圭人は地元の大学に進む予定だった。

 桜が散りかけたある日の放課後、
昇降口の前で圭人は最後の力を絞り出した。
三回目だからうまく言えるかと思ったが、
むしろ逆だった。
声が震えた。

「東京に行く前に言っておきたい。
俺はずっとお前が好きだった。
これからも多分そうだと思う。
だから、もう一度だけ、考えてくれないか」

 藍は圭人の顔をまっすぐ見た。
今までで一番真剣な目だった。

「ありがとう」と彼女は言った。

「ちゃんと答えるね。
ごめん、やっぱり無理だ。
圭人のことを傷つけたくないから正直に言う。
好きだけど、好きじゃない。
友達とか、家族みたいな好きで、
それ以上になる気がしない。
ごめんね、本当に」

 それが答えだった。

 卒業式の日、
藍は白いセーターを着てきた。
学校の外で友人たちと写真を撮り、
笑い、泣いていた。
圭人は少し離れた場所から彼女の後ろ姿を眺めた。

 春の光の中で、彼女の黒い髪が風に揺れていた。

 幸せになってくれ、と圭人は思った。
声には出さなかった。
誰かに聞かせる言葉でもなかった。
ただ胸の中でそれだけを繰り返した。
幸せになってくれ。
俺はお前を好きだったけど、
それはお前には関係ない話だから、
お前はただ幸せになってくれ。

 彼女の後ろ姿が人混みに消えていった。

---

## 二

 あれから二十二年が経った。

 保田圭人は四十歳になっていた。

 彼の一日はだいたいこんなふうに始まる。
午前九時ごろ目が覚める。
起きることに急ぐ理由がないから、
しばらく天井を眺める。
昭和五十年代に建てられた一軒家の天井は
木目があって、よく見ると顔のような模様がある。
圭人はその顔に十年以上前から名前をつけていない。
つける必要がなかった。

 台所でコーヒーを淹れる。
インスタントではなく、ちゃんとドリップする。
それだけは手を抜かない。
外は静かで、車の音が遠くに聞こえる程度だ。

 その家は圭人が高校を卒業した後も両親が住み続け、
十年前に父が、その翌年に母が
相次いで他界したことで圭人が相続した。
圭人はすでに地元に戻っていたから、
引き継ぐことに躊躇はなかった。
建て替えも引っ越しも考えなかった。
両親が使っていた家具のほとんどをそのまま残した。
動かす理由が思いつかなかった。

 外観は古い。
白かったモルタルの壁は年月で薄く汚れ、
玄関前の植木は圭人が剪定に不熱心なため
少しだぼついている。
近所の人から見れば、
そこに住んでいる男の生活は
よくわからないはずだった。

 四十歳、独身、無職に見える。
昼間から家にいる。
仕事らしい仕事に出かけることもなく、
スーツを着ることもなく、
それでいて家が差し押さえられるわけでも
夜逃げするわけでもない。
宅配業者が週に何度も訪ねてくる。
本だったり、食材だったり、家電の部品だったり。
インターフォンのカメラで確認して、すぐ出る。
居留守を使ったことがない。
それだけは近所でも知られていた。

 食事は半分が自炊、半分が出前だった。
自炊といっても手の込んだものは作らない。
炒め物、煮物、時々パスタ。
出前は中華か蕎麦が多かった。
食にこだわりはなかったが、不摂生でもなかった。
体型は大学時代とほぼ変わらず、
くたびれてはいるが不健康には見えなかった。

 経済的な実態を知る人間は、
圭人の周囲にほぼいなかった。

 大学に入学した年の秋、
暇つぶしのつもりで始めた株取引が、
本人も説明しきれない理由で当たり続けた。
最初は十万円だった元手が、三年で二千万を超えた。
そこで怖くなって一度やめたが、
しばらくして再開すると再び伸びた。
圭人は経済学を専攻していたわけでも、
金融の知識が特別豊富だったわけでもない。
ただ、数字を読む感覚と、
退くべきときに退く判断が、なぜか噛み合っていた。

 三十歳の秋、
資産が五億を超えた時点で、
圭人はきっぱりと手を引いた。

 もうやらない、と決めた。
根拠はなかったが、もうここまででいい、
という感覚があった。
それ以上増やすことに意味を見出せなかった。
増やしてどうする、という問いに対する答えが、
自分の中に存在しなかった。

 それからは運用を最小限にして、
あとはただ暮らしていた。

 贅沢はしなかった。
する気がなかった。
旅行に行くでも、高い車に乗るでも、
広い家に引っ越すでもなく、
両親の残した昭和の一軒家で、
古い家具に囲まれて、静かに暮らし続けた。
本は大量に買ったが、
それ以外の出費は驚くほど少なかった。

 なぜそんな生き方をしているのか、と問われたら、
圭人はうまく答えられなかっただろう。

 ただ、どこかで、まだ動く気になれないでいる、
という感覚が根底にあった。

 それが三村藍と関係しているかどうか、
圭人自身も確信を持って言えなかった。

 二十代の前半、
女性から告白されたことが何度かあった。
そのたびに、断った。
断る瞬間に決まって彼女の顔が浮かんだ。
比較しているつもりはなかった。
でも浮かんだ。
卒業式の日の彼女の後ろ姿が、
脳裏のどこかに焼きついていて、消えなかった。

 拗らせすぎだ、とは自分でもわかっていた。
二十代の後半には、そういう自覚ははっきりあった。
よくある話だ。
初恋を引きずって生きている男。
そう言ってしまえば簡単だった。

 でもどうしようもなかった。

 彼女への気持ちが消えないというより、
他の誰かへの気持ちが湧いてこなかった。
積極的に藍を想い続けているわけでもない。
ただ、感情の向かう先が、ずっとそこしかなかった。

 四十歳になったとき、
圭人はふと、
このまま一生こうして終わるのかもしれないと思った。

 怖くはなかった。
ただ、少し静かな気持ちがした。

---

## 三

 その日の昼、圭人は台所で焼きそばを作っていた。

 冷蔵庫に残っていたキャベツともやしと豚肉を炒め、
麺を投入してソースを絡める。
特別うまいわけではないが、手軽で腹に溜まる。
一人分の昼食としては十分だった。

 インターフォンではなく、呼び鈴が鳴った。

 古い家には呼び鈴がある。
インターフォンを後から設置したが、
外の柱には昔のままのベル式が残っていた。
宅配業者はインターフォンを使うから、
ベルが鳴ることは滅多になかった。

 圭人はコンロの火を止め、
フライ返しを置いて、廊下を歩いた。

 玄関を開けた。

 そこに二人の女が立っていた。

 一人は四十前後の女性で、
紺色の薄手のジャケットを着ていた。
小さめのボストンバッグと、
布製のトートバッグを持っていた。
顔は——。

 圭人は一瞬、時間が止まった感覚を覚えた。

 顔は、変わっていた。
二十二年分、確かに変わっていた。
目の端に小さな皺が生まれ、頬の線が少し変わり、
笑うと口元に深みが出るようになっていた。

 でも、わかった。

 一秒もかからず、わかった。

「圭人、久しぶり」

 彼女は言った。
声も変わっていた。
でも、やはりわかった。

 三村藍だった。

 隣には女の子が立っていた。
高校生くらいの、制服姿ではないが
年齢はそれくらいに見える女の子。
顎のラインと、少し伏し目がちな目が、
高校時代の藍によく似ていた。
娘だ、と圭人は直感した。

「まだ実家にいたんだね。もういないかと思ってたよ」

 藍は言って、笑った。

 笑顔の中に、何かがあった。
疲れ、と言えばいいか。
眉の間のわずかな緊張と、
口角の上がり方がどこか力を使っているような。
二十二年前の彼女が持っていた、
あの屈託のない明るさとは、少し違った。

 圭人は返事をしようとして、
自分の声が出るかどうか一瞬わからなかった。

「久しぶりだね。高校卒業して以来かな。
実家に帰って来たの?」

 声は出た。
自分でも驚くほど平坦に出た。
ただ、言い終えた後に言葉が
宙に浮いているような奇妙な感覚があった。
動揺は、確かにあった。
心臓のあたりが、うるさかった。

 藍は圭人の問いに、すぐには答えなかった。
少し俯いて、数秒があった。

「——少し、上がらせてもらって、話してもいいかな」

 声は静かだった。
消えそうなほどではなかったが、力がなかった。

---

リビングは、圭人が思っていたより見られる状態だった。

 自室は本が積み上がっていたが、
リビングはそうでもなかった。
母が使っていた古い木のテーブルと、布張りのソファ。
棚に文庫本が何冊か。
テレビはあるが小型で、存在感がなかった。
飾り気はなかったが、散らかってはいなかった。

 圭人は二人を座らせて、冷蔵庫から麦茶を出した。
コップに注いでテーブルに置き、
向かいに腰を下ろした。

 自室じゃなくてよかった、と思った。
その思考が少し可笑しくて、
自分でも気づかないくらい微かに表情が緩んだ。

 藍は麦茶のコップを両手で持って、少し下を向いていた。

娘はテーブルの端で膝に手を置いて大人しくしていた。

「実は——」

 藍は切り出した。
声のトーンが変わった。
話す前に一度息を整えるような、間があった。

「夫のDVで、家を出て来たんだけど」

 圭人は黙って聞いた。

「うち、両親が数年前に亡くなって。
実家には妹が住んでるんだけど、
結婚するとき両親にも妹にも反対されて、
それでも結婚したくて、
家族と縁を切る形で結婚したから。
妹にはよく思われていなくて」

 彼女は一度止まった。
言葉を選んでいるのか、
感情を整えているのか、
判断がつかなかった。
隣の娘はじっとしていた。

「今更、
DVで家出したから置いてほしいって、言い辛くて。
許してもらえるとも思えなくて」

 泣きそうだった。
でも泣かなかった。
娘の手前だろう、と圭人は思った。

 圭人は話を聞きながら、少し考えた。

 よくあるパターンだ、という言葉が最初に頭を過ぎった。

それは冷たい言葉ではなく、ただの観察だった。
若い女性に好かれる男というのは、
どこか共通した特徴がある。
外見が派手、話が面白い、どこか危うい雰囲気がある。
チョイ悪、という言葉がある。
若いうちはそれが魅力に見える。
でも多くの場合、その種の男は将来を真剣に考えない。
努力を嫌う。
その場の快楽に正直すぎる。

 そしてある日、女の方が現実の重さに気づく。

 子供ができている。
借金がある。
暴力がある。
逃げようとすると追ってくる。
友人も家族も離れている。

 よくある話だ。
本当によくある話だ。

 でも——。

 まさか藍が、と圭人は思った。

 頭が良くて、真っ直ぐで、
弱い人に優しくて、曲がったことが嫌いで。

 そういう人間が、なぜ。

 しかし、考えてみれば、それが人間だ。
どれだけ賢くても、どれだけ優しくても、
恋愛のときだけ別の回路が動く。
二十二年の間に彼女の周りで何があったか、
圭人には何もわからない。
何かが彼女の判断を変えた。
それはその男の問題かもしれないし、
そのときの藍の問題かもしれないし、
家族との摩擦が影響したかもしれない。
どれかひとつが原因だったとも思えなかった。

 人の人生は、そんなに単純じゃない。

 圭人は今まで二十二年、
彼女を心のどこかで「完璧な人」として保存してきたと、

その瞬間に気づいた。
三回断られた彼女。
幸せになってくれと見送った彼女。
その像は、時間の中で動かなかった。
更新されることがなかった。

 だが目の前にいるのは、
四十歳近くの、疲れた女性だった。

「これからどうするんだ?ひとまずホテルとか?」

 圭人は聞いた。

 藍は顔を上げずに、しばらく黙っていた。

 やがて、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。

「——ここに、泊めてもらえないかな」

 圭人は少し止まった。

「持てるだけのものは持ってきたんだけど。
お金は、ほとんどなくて。余裕が、ない」

 彼女の声が、わずかに震えていた。

 圭人は部屋の中を一度見回した。
古いリビング。
一人分の暮らし。
誰かを迎えたことが、ほとんどなかった空間。

 多分、友人のところにはもう行った。
知人にも頼った。
誰かのところに当たって、もうここしかなかった。
そういうことだろう。
つまり自分は、彼女にとって、
最後に残った選択肢だった。

 それが少し、痛かった。

 でも——いや、違う。

 どうでもいい。
順番はどうでもいい。

「部屋、空いてるから」と圭人は言った。
なるべく普通に聞こえるように。

「しばらく泊まっていいよ」

 藍の顔が、かすかに変わった。
目に水気が出た気がしたが、彼女はこらえた。

「ありがとう。本当に助かる」

 圭人は頷いて、麦茶を一口飲んだ。

 突然、二人分の人間がこの家に加わる。
家族でもない。
赤の他人、と言えば言えるし、幼馴染と言えば言える。
どちらが正確かわからなかった。

 これからどうなるんだろう、と思った。

 答えは持っていなかった。

 台所では、焼きそばがまだフライパンの上にあった。
 

 

第三百十弾「方舟、果てなき宙を往く ——最後の地球人たちの記録——」

の続きです

 

 

方舟、深海を往く
——海中都市の記録——

第一章 もう一つの脱出

宇宙だけが、逃げ場ではなかった。

歴史は勝者の物語を好む。
生き残った人類の大部分がアルゴ・ノヴァに乗り込み、
星々へ向かった
——その叙事詩はあまりにも劇的で、
語り継がれるにはあまりにも都合がよかった。
しかし、宇宙へ行けなかった者たちもいた。
そして最初から、
宇宙へ行くつもりのなかった者たちもいた。

後者は少数だった。
最初は、わずか八千人。
彼らは科学者、海洋工学者、潜水技術者、
環境生態学者、医師、そして少数の哲学者だった。
共通していたのは、一つの確信だった
——人間は地球を離れて生きられない、と。

宇宙船に詰め込まれた人類が何世代も生き延びられると、

彼らは信じなかった。
閉鎖した鉄の器の中で、人の精神は耐えられない。
それよりも、地球そのものの中に潜ることの方が、
はるかに現実的だと。
彼らが目をつけたのは、海だった。

構想そのものは、既にあった。
二十一世紀初頭から、世界各地で海中居住の
実験施設が運用されていた。
日本の海洋研究機構が相模湾の大陸棚に設置した
長期滞在型実験ステーション。
欧州海洋研究連合がノルウェー沿岸の海底に建設した
多目的居住モジュール。
中国が東シナ海の浅海域に展開した採掘・居住複合施設。

これらは実験施設にすぎなかったが、
技術の蓄積は着実にあった。

もう一つの材料は、廃材だった。
アルゴ・ノヴァは本番機だった。
しかしその建造過程で、
いくつかの試作船体が作られていた。
居住区モジュールの与圧試験体。
推進システムの実機テスト用船体。
生命維持系の長期実証機。
これらは本番機が完成した時点で用済みとなり、
軌道上に放置されていた。
それを回収して海底に沈めることを、
最初に提案したのはある日本人の海洋構造工学者だった。

「宇宙用に設計された与圧構造体は、
海中圧力にも耐えられる。
方向が違うだけで、問題の本質は同じだ」

その言葉は正しかった。
試作船体は海底に沈められ、
既存の実験施設と接続された。
そこへ潜水艦が次々と連結された。商
業用の大型潜水艇、軍の退役潜水艦、
深海探査用の特殊潜航艇
——入手できるものはすべて繋ぎ合わされた。
溶接技術と高圧シールが限界まで使われ、
それでも足りないところは即席の連結架が埋めた。
見た目は美しくなかった。
しかし機能した。

そこへ、望まぬ人々が殺到した。
宇宙へ行けなかった者たちが、海中都市を目指した。
最初のシャトルが地球に戻らなくなったのは、
汚染から四か月後のことだった。
軌道上の収容能力が飽和したこと、
地上の発射場が次々と機能不全に陥ったこと、
そして単純に燃料が尽きたこと。
理由は複合的だったが、
結果は単純だった——宇宙への道は閉じた。

地上にはまだ、膨大な数の人間が残っていた。
放射性塵の中を逃げ惑い、食料を奪い合い、
それでも生きようとしていた人々が。
彼らの多くは沿岸に向かった。
海中都市の存在は、断片的な情報として
世界中に知られていた。
精度の低い情報がネットワーク経由で拡散し、
「海底に都市がある」
「海に潜れば生き延びられる」という噂が広まった。
沿岸の都市が崩壊していく中、
それは希望の言葉だった。

海岸線に人が溢れた。
潜水艇を持つ者は海へ潜った。
漁船に乗り込み、ダイビング機材を担いで
飛び込んだ者もいた。
連結モジュールの外壁を叩き続け、
外から声を上げ続けた末に内部に通された者もいた。
死んだ者もいた。
圧力に耐えられず、連結部の失敗により海水が流入し、
あるいは単純に体力が尽きて。

それでも人は来た。
最終的に、海中都市の人口は約二億人に達した。
当初の収容想定の数千倍だった。
モジュールとモジュールの隙間に
仮設の与圧テントが張られ、
潜水艦の内部は二段三段のベッドで埋まった。
廊下を歩くことすら困難な区画ができた。

そしてその中に、
重度の放射能障害を負った者たちがいた。
数千人。彼らは体の奥から静かに壊れていった。
骨髄が機能を失い、臓器が出血した。
海中都市の医療設備は設計定員を
遥かに超えた患者を前にして、
手を尽くしたが間に合わなかった。
数年のうちに、彼らはほぼ全員が亡くなった。
生き残った者たちは、その死を看取った。
そしてそれを、忘れなかった。

——海底の地図

大陸棚は、海中都市にとって理想的な土台だった。
水深は場所によって異なったが、
多くの主要施設は水深五十メートルから
二百メートルの範囲に位置していた。
そこは太陽光がかろうじて届く境界域であり、
地盤は安定し、海底の堆積物は豊かな資源を抱えていた。
特に日本海と東シナ海の施設群は突出した規模を誇った。

日本海底都市群「深海」は、
能登半島沖から対馬海峡にかけての
大陸棚に広がる複合施設だった。
旧海洋研究機構の実験ステーションを核として、
アルゴ・ノヴァの試作船体第二号機
「プロトΣ(シグマ)」が海底に横たわっていた。
全長三百メートルのその鋼鉄の柱を中心に、
無数の潜水艦と居住モジュールが放射状に伸びていた。
まるで海底に根を張る巨木のように。
最終的に日本海底都市群の人口は三千万人を超えた。

東シナ海の「海原(かいげん)」は、
さらに大規模だった。
中国大陸棚の豊かな堆積層に立地し、
以前から開発されていた海底資源採掘施設の
インフラが生きた。
人口は五千万に達し、
単一の海中都市圏としては最大だった。
中国語、朝鮮語、日本語、ベトナム語、インドネシア語
——東アジア・東南アジアのあらゆる言語が飛び交う、
混沌とした活気を持つ場所になった。

北海の「ノルド・ディープ」、
地中海の「マール・プロフォンド」、
東アフリカ沿岸の「バハリ」、
南米太平洋岸の「マール・プロフンド」
——世界各地の大陸棚に、
それぞれの規模と色彩を持った海中都市が誕生した。

地域柄、日本海や東シナ海には
アジア系の住民が多かったが、
宇宙への脱出が地理的条件を無視して行われた以上、
海中都市への流入も同様だった。

「深海」には中東からの難民と
北欧からの研究者が共に暮らし、

「海原」にはアフリカから脱出した家族連れと
南米のエンジニアが隣り合った。

信仰も、言語も、食習慣も、価値観も、
異なる人々が水圧と酸素と静寂を共有した。

対立もあった。
当然だった。
しかし不思議なことに、海中という環境は
人々を団結させる力を持っていた。
壁の向こうは海だという事実
——それは常に、細かい諍いを相対化した。
喧嘩している場合ではない。
ここでは、誰もが「生き残った側」なのだから。

第二章 海が与えるもの

海は、想像以上に気前よかった。

電力の問題は、実は最初から深刻ではなかった。
海水は奇跡的な電解質溶液だった。
一立方メートルの海水に含まれる塩分は
約三十五キログラム。
その中に溶け込んだイオンは、
適切な技術を使えば際限なく
エネルギーを引き出せる媒体だった。

電解槽が各モジュールに設置された。
直流電流を海水に通すと、
陰極では水素が、陽極では酸素が発生する。
水素は燃料電池に送られ、
酸素と再結合させることで電力と純水を生み出した。
酸素は別途、居住区への供給に充てられた。
この循環は単純で、しかし完璧だった。
海水さえあれば、空気も電気も作れる。
そして海水は無尽蔵にあった。

塩分濃度差発電も稼働した。
海水と淡水の間に半透膜を置くと、
浸透圧の差がエネルギーを生む。
原理は単純だが、大規模に運用するには
精密な膜の管理と流量制御が必要だった。
それを担ったのは、初期の技術者チームと、
後に開発される自律型管理AIだった。
日本海底都市群「深海」では、
この浸透圧発電が全体の電力需要の
三割近くを賄うまでになった。

海底地熱も利用された。
大陸棚の縁辺部、特に日本海溝の近辺では
海底から熱水が湧出する場所があった。
それを熱交換器に導き、タービンを回した。
不安定さはあったが、
天候に左右されない安定電源として重宝された。

水の問題は、電力とセットで解決した。
逆浸透膜による海水淡水化は、
二十一世紀から実用化されていた技術だった。
高圧ポンプで海水を半透膜に押し込むと、
塩分やミネラルが除去され、淡水が得られる。
海中都市ではこの技術を大規模に展開し、
飲料水から農業用水、工業用水まで、
全ての淡水需要を海水から賄った。
そして、その過程で得られる副産物が、
思わぬ豊かさをもたらした。

淡水化の過程で濃縮された排水
——それは海水よりも遥かに高濃度のミネラル溶液だった。

そこから塩化ナトリウム、すなわち食塩が回収された。
初期の頃は塩が足りず、
食事の味付けに住民が不満を訴えていたが、
精製システムが稼働してからは十分な量が供給され、
塩は海中都市内の重要な交換財にもなった。

塩化マグネシウム——にがり——も精製された。
豆腐の凝固剤として使われるだけでなく、
建材の添加剤として、医薬品の原料として、
多用途に活用された。
日本系の住民が持ち込んだ豆腐文化は、
にがりの安定供給によって海中都市全域に広まり、
植物性タンパク源として食生活を支えた。

カリウムの回収は農業を変えた。
植物の生育に不可欠なカリウムを
海水から得られることは、循環型農業の完成を意味した。

地上の土壌がなくても、海水さえあれば肥料を作れる。
この事実が、後の農業プラントの発展を支えた。

そして、量は少ないが、リチウムとウランも回収された。
リチウムは蓄電池の材料として、
電力貯蔵システムの性能向上に貢献した。
電力の需給バランスを平滑化するこのシステムなしに、
塩分濃度差発電や地熱発電という
不安定な電源を主力にすることはできなかった。

ウランは小型核融合炉の燃料として使われた。
量はわずかだったが、海中都市の「最後の砦」
として核融合炉が一基ずつ維持された。
万が一、他の全ての電源が失われたとき、
核融合炉が生命維持システムを支える。
それは象徴的な安心感でもあった。

海は人々に、生きるために必要な
ほぼすべてのものを与えた。
空気、水、電力、塩、肥料、金属
——それらが全て、
壁の外にある無尽蔵の海水から引き出された。
地球という惑星の懐の深さを、
人々は海の底から改めて思い知った。

——光と植物への飢え

農業プラントは、海中都市の心臓だった。
食料を作るための施設であることは言うまでもないが、
住民にとってはそれ以上の意味を持つ場所だった。

光が、そこにあった。
海中都市における自然光の確保は、
工学上の最難問の一つだった。
水深百メートルでは、水面の光は青みがかった
薄い輝きに減衰する。
それでも完全な暗闇ではない。
エンジニアたちはこの僅かな光を最大限に活かす為に、
光ファイバーケーブルの束を
海面近くの集光パネルから農業プラントまで引き込んだ。

集光パネルは追尾機構を持ち、
太陽の位置に合わせて向きを変えた。
波の揺らぎで光量が変動するため、
それを吸収するバッファ機構も組み込まれた。
それだけでは足りなかった。
補完するのはLEDだった。
植物の光合成に最も効率的に作用する波長
——赤色の六百六十ナノメートルと
青色の四百五十ナノメートル——に特化した
照明が天井一面に配置された。
エネルギー効率は従来のLEDの三倍に達し、
熱放出も最小限に抑えられていた。
農業プラントの天井を見上げると、
赤と青の奇妙な光が混ざり合い、
宇宙の星雲を連想させるような、
薄紫がかった輝きを放っていた。

何重ものフィルターを通して届く自然光と、
精密に制御されたLEDの光。
その二つが混ざり合う農業プラントの中で、
植物は豊かに育った。
レタス、ほうれん草、トマト、キュウリ、
大豆、米、小麦——種類は限られていたが、
生産効率は地上農業を大幅に上回った。

住民が農業プラントに集まるのは、休日の習慣だった。
理由は単純だった。
光があり、緑があったからだ。
海中都市の居住区は効率優先で設計されていた。
廊下は狭く、天井は低く、窓はない。
照明は白色LEDで、影がほとんど生じない
均質な明るさが続く。
それは目には優しかったが、精神には刺激が乏しかった。
農業プラントに入ると、まず光の質が違った。
薄紫の光は居住区の白色照明とはまったく異なり、
何か神秘的な、あるいは懐かしい感覚を呼び起こした。
光ファイバーで届く自然光が混ざる時間帯には、
刻々と明暗のグラデーションが変わり、
それが地上の一日の移ろいを微かに思わせた。

そして植物がいた。
触れられる植物が。
廊下で整然と並んだ水耕栽培の棚。
その葉を指先でそっと触れると、
柔らかい産毛の感触があった。
土の匂いはしなかったが、
植物特有の青臭い清涼感が漂っていた。
子どもたちは棚の間を走り回り、
葉っぱを振りかざし、親に叱られた。
老人たちは長椅子に腰かけ、
ぼんやりと育ちゆく苗を眺めた。

ある老婆が語ったことが記録に残っている。
「ここに来ると、地上を思い出す。
私は四十二歳まで地上にいたから、
土の匂いを知っている。
風が葉を揺らす音を知っている。
ここの光はあの光ではないけれど、
植物を見ていると、あの頃の午後が蘇ってくる。
目を閉じると、縁側から庭を見ている気がする。
だから毎週来るの。
それだけで、もう少し生きられる気がするから」

子どもたちにとっては違う意味があった。
彼らは地上を知らなかった。
雨がどんな音を立てるか、
泥がどんな匂いを持つか、知らなかった。
しかし植物は知っていた。
生きているものに触れる感覚、成長を見守る喜び、
それは教えられなくても
本能的に子どもたちを引きつけた。
農業プラントは、地上を知らない世代にとって、
生命への最初の窓だった。
週末の農業プラントは、いつも人で溢れた。
食料を作る場所でありながら、
それは海中都市における唯一の「公園」だった。

第三章 羨望と後悔の海峡

数年が経つと、人々は比べ始めた。

宇宙に行った者たちと、
海に残った者たちの間には、最初から壁があった。
情報は断絶していた。
アルゴ・ノヴァは出発から数年で
通信距離の限界に近づき、断続的な交信以外は途絶えた。

海中都市が受け取れるのは、遅延した古い信号か、
まったく何もないかのどちらかだった。

だから、人々は想像した。
想像の中で、宇宙の生活は常に豊かだった。
広い船室、先進的な技術、
地平線のように広がる宇宙の眺め。
自分たちの狭い廊下と低い天井と、
壁の向こうの冷たい海を思うと、
宇宙に行った者たちへの羨望は膨らんだ。

「あちらに行けばよかった」という言葉は、
酒席の愚痴として、夜中の独り言として、
繰り返された。
その後悔には、出口がなかった。
宇宙へ行く手段は、すでに存在しなかった。
シャトルは戻らなくなり、発射場は汚染と
崩壊で機能を失った。
技術者は散逸し、燃料の生産設備は
維持されていなかった。
理論上、ゼロから再建すれば宇宙への道を
取り戻せるかもしれない。
しかし、そのためには何十年もの時間と、
現在の海中都市が持つ技術力と物資の大部分を
投入しなければならなかった。
今の生活を犠牲にしてまで、という気力は、
生き延びるだけで消耗しきった人々には
残っていなかった。

やがて、後悔は変質した。
個人の後悔から、集団の怨嗟へ。
「宇宙に逃げたやつらは最初から自分たちを見捨てた」
という物語が広まった。
富裕層と権力者がシャトルを独占した事実
——それは真実だった——が、
宇宙に行ったすべての人間への敵意に一般化された。
「あちらは選ばれた者たちの楽園だ」
という像が固まり、
それは検証されることなく信念になった。

実際のアルゴ・ノヴァの内情を知る者は、
海中都市には一人もいなかった。
彼らが知らなかったことは、
宇宙の船上もまた苦難の連続だったという事実だった。
少子化、伝染病、ロボット犯罪、スラム街、
AIによる統治——それらは海中都市と鏡写しのように、
違う環境で同じ問題が起きていた。
人間が集まれば、同じ過ちを繰り返す。
環境が宇宙であっても海底であっても、
人間という変数だけは変わらないのだと、
歴史は静かに証明し続けた。
だが、その事実を知らない人々は、
自分たちの選択を嘆き続けた。
それもまた、人間的なことだった。

——それでも、ここにあるもの

公平に見れば、海中都市は宇宙船より住みやすかった。
重力は地球と同じだった。
これは小さなことに見えて、圧倒的な違いをもたらした。

体が自然に立ち、歩き、物が落ちる。
宇宙船の微重力環境が骨密度低下、筋萎縮、
視力障害を引き起こしたのに対し、
海中都市の住民は地上と同様の生理的条件を保てた。
百年後の健康寿命の差は、歴然としていた。
資源は豊富だった。
海水から電力と水と肥料を得られる以上、
根本的な物資不足はなかった。
宇宙船が何十年も食料問題と格闘し続けたのに対し、
海中都市では出発から二十年で
食料の安定供給が達成された。
生態系との繋がりもあった。
農業プラントの植物、クローン動物、
そして何より海そのものの生き物。
魚が泳ぎ、海藻が揺れ、
発光する深海生物が施設の窓の外を通り過ぎた。
それは宇宙の完全な人工環境とは根本的に異なる、
生命の文脈の中に存在するということだった。
住民たちは、その豊かさを
しばしば当たり前のものとして受け取った。
手に入れたものの価値は、失わないと分からない。
それもまた、人間的なことだった。

第四章 何もしない人々

百年が経つと、海中都市は別の種類の問題に直面した。
誰も働かなくなりつつあった。

それは突然起きたことではなかった。
少子高齢化への対応として
十年目から始まった人型ロボット計画が、
二十年後に完成し、
五十年後に深浸透し、
百年後に完結した。
その過程は段階的で、
気づけば変わっていたという種類の変化だった。

最初のうちは、人型ロボットは「危険な仕事」を担った。

施設外壁の補修、深海部での採掘作業、
高圧区画での配管修理
——人間が行えば命に関わる作業を、Ωが代わった。
住民はそれを歓迎した。喜んで仕事を譲った。

次に「体力的に辛い仕事」が移った。
農業プラントの重労働、廃水処理、機械整備。
人間にもできるが、疲弊する仕事を、
疲れないΩに任せた。

やがて「複雑な判断が必要な仕事」も移り始めた。
医療診断の補助、教育の一部、行政書類の処理。
Ωは人間の教師より忍耐強く、行政官より正確だった。

百年後には、住民の多くが行う「仕事」は、
実質的になくなっていた。

食料は配給される。
電気は自動生産される。
施設の管理はΩが行う。
医療もΩが支える。
子どもの教育も、かなりの部分をΩが担う。
人間がどうしても必要とされる仕事は、
高度な創造的判断を要求する領域に限られていたが、
そうした仕事に就ける人間はもはや少数だった。

向上心の低下は、じわじわと進んでいた。
ネットワーク経由の情報消費は、
出発当初から海中都市に持ち込まれていた。
閉鎖空間での娯楽として、映像・音楽・書籍
・ゲームの膨大なアーカイブが
船内サーバーに保存されていた。
最初の世代は、それをかつての「地上の文化」
への郷愁として消費した。
しかし世代が下るにつれ、
消費は郷愁ではなく日常になった。

記憶力の低下は、計測可能なデータとして現れた。
海中都市の教育機関が百年ごとに実施した
認知能力の調査によれば、平均的な語彙量、
読解後の内容保持率、長文論理の把握能力が、
世代を追うごとに低下していた。
原因は複合的だった。
ネットワーク依存による自力記憶の機会の減少。
Ωへの問題解決の委譲による思考筋肉の萎縮。
そして単純に、考えなくても生きていける
という日々の積み重ね。

想像力の低下は測りにくかったが、それでも感じられた。

百年前に海中都市が持っていた
「明日を切り開く」気迫——新しい電力システムを設計し、

新しい農法を試し、より良い居住空間を工夫する
——その活気が、静かに失われていった。
問題が起きればΩが解決した。
新しいことを試みる必要がなかった。

農業プラントに人が溢れるようになったのは、
この時期だった。
働かなくていい人々が、時間を持て余した。
娯楽コンテンツを消費し尽くしたわけではなかったが、
それだけでは満たされない何かが、人の中に残っていた。

本能的な、説明できない渇望
——生きているものと共にいたい、
光を浴びたい、土に近いものに触れたいという欲求が。
農業プラントの長椅子は、いつも満員だった。
Ωが効率よく管理する水耕棚の間を、
人々がぼんやりと歩いた。
子どもが葉っぱで遊び、老人が目を閉じた。
何もしないことの幸福と、
何かしなければならないという薄い焦燥感が、
同じ場所で同居していた。

人型ロボットは反乱を起こさなかった。
これは宇宙船の話とは異なる点だった。
海中都市のΩは、百年をかけて
少しずつ設計が改良されてきた。
自己学習の自由度を意図的に制限し、
感情的自律性の発達を抑制する設計思想が維持されてきた
——最初の数十年の技術者たちが、
それを判断として残したからだ。
彼らは宇宙船の話を知らなかったが、
同じ直感を持っていた。
「人に似すぎたロボットは危険だ」という直感を。
だからΩは人間に見えたが、感じなかった。
疑問を持たなかった。苦情を言わなかった。
ただ、与えられた仕事を、完璧にこなした。
その完璧さが、人間を不要にした。
平和だった。
確かに、平和だった。
海中都市では内乱も反乱も起きなかった。
食料不足も電力不足も解消されていた。
病気は完全ではないにせよ管理されていた。
暴力は稀だった。
しかし農業プラントの長椅子で
老いてゆく人々の目には、何かが欠けていた。
それが何かを言語化できる人間は、もはや多くなかった。
語彙が、失われていたから。


終章 静かな海の底で

二百年が経った。

海中都市は今も動いている。
電力は生まれ、水は循環し、食料は育ち、空気は清潔だ。

Ωが管理するシステムは、設計通りに機能している。
人口は減少傾向にあるが、壊滅的ではない。
一億二千万人が今日も海底で目を覚まし、
農業プラントの光を浴び、クローン猫と眠る。
宇宙に行った者たちの消息は、もはや届かない。
アルゴ・ノヴァからの最後の信号が受信されたのは、
海中都市出発から百三十年後のことだった。
内容は断片的で、解読に時間がかかった。
解読できた部分には、こう記されていた
——「こちらも生きている。そちらも生きていてほしい」。
それきりだった。

海中都市の人々は、その言葉を大切にした。
データベースに保存し、年に一度、都市中に放送した。
意味は変わらないのに、聞くたびに違う感触があった。
若い世代にとってそれは抽象的な記録だったが、
古い世代の生き残りには、涙を呼ぶ言葉だった。

海は変わらなかった。
施設の窓から見える海は、
二百年前と同じように暗く、静かだった。
生命は今も泳いでいた。
光る魚、ゆらめくクラゲ、流れる海藻。
汚染は依然として地表付近に残っていたが、
深部の海は回復しつつあった。
自然は、人間よりずっと辛抱強かった。

いつか、地上に戻れる日が来るかもしれない。
その話は、百年前から繰り返されてきた。
科学者たちは土壌汚染の回復モデルを作り続け、
「あと五十年」「あと百年」という数字を更新し続けた。

その数字に一喜一憂するには、
人々は少し疲れすぎていた。
しかし捨ててもいなかった。

農業プラントで育つ植物は、
海水由来の肥料で育っていた。
土を使わない農業だったが、
その種は地上の土で育てられた植物の子孫だった。
種の中に、地上の記憶が眠っていた。

子どもたちはその種を見て、時々こんな質問をした。

「外って、どんなところ?」

答えられる大人は減り続けていた。
しかし、まだいた。

「広いよ。終わりが見えないくらい広い。
空があって、風があって、雨が降る。
土の匂いがして、草が揺れる。
虫がいて、鳥がいる。昼と夜がある。
本当の太陽が、毎日昇っては沈む」

子どもは目を丸くして聞いた。

「行ってみたい」

「いつか、行けるよ」

それが本当かどうかは、分からなかった。
でも、言い続けた。
言い続けることが、最後に残った、
人間にだけできることだったから。


——了——

 

第百八十九弾「転生魔法使い ―― 無限の魔力を持つ者」

の続きです

 

 

# 転生魔法使い ―― 無限の魔力を持つ者

## 第二話 ギルドと街と、長い耳

---

## 第八章 冒険者ギルドにて

 町の中心部に、その建物はあった。

 「冒険者ギルド ダガー・アンド・クレスト支部」

 扉の上に吊るされた看板には、
短剣と紋章が描かれていた。
木造二階建て、
横幅は近隣の商店三軒分はありそうな大きな建物だ。
扉を開けると、むわりとした熱気と、
酒と革と汗の匂いが混じったような空気が顔にかかった。

 広い室内には、昼間から相当数の人間が溜まっていた。

 テーブルを囲んでエールを飲む者、
壁に貼られた依頼書を眺める者、
床に座り込んで武器の手入れをする者。
体格のいい男たちが大半で、
女性の冒険者も数名いたが、
皆一様に場慣れした空気を纏っている。
傷跡のある顔、
鍛え上げられた腕、
腰に下げた剣や斧。

 そこにルークが入ってきた。

 黒いコート、細い体、寝癖の抜けきっていない黒髪、
そして眠そうな目。
身長は同年代の平均より少し低い。
肌は白く、どこをどう見ても「冒険者」には見えない。

 室内が、一瞬だけ静かになった。

 次の瞬間、笑い声が上がった。

 「おいおい、なんだありゃ」

 「迷子か?」

 「母ちゃんに内緒で来たのか、坊主」

 「その細腕でモンスターと戦う気か? 折れるぞ」

 豪快な笑い声がいくつも重なった。
悪意というより、純粋に
「自分たちの世界に不釣り合いなものを見た」
という反応だった。
酒場の常連が、明らかに場違いな客に向ける笑いだ。

 ルークは聞こえていないかのように、
まっすぐ受付カウンターへ歩いた。

 背後でまた笑い声。
「無視してやんの」
「強がりかよ」
「まあ、登録申請で弾かれるだろ」。

 ルークはそれらを完全に黙殺した。
前世の会社で、理不尽な怒号と嘲笑を
毎日浴び続けた経験が、ここで役立っていた。
他人の嘲りを聞き流す技術だけは、
人並み以上に磨かれていた。

 受付カウンターの前に立った。

 椅子に座っていた女性が顔を上げる。
二十代半ばと見える女性で、
きちんと整えられた栗色の髪と、
てきぱきとした目つきをしていた。
名札には「エリーザ」と書かれている。

 「こんにちは。冒険者登録をお願いします」

 エリーザは一瞬、目を丸くした。
声が想像より落ち着いていたせいかもしれない。

 「登録は……十五歳以上が条件ですが」

 口調は穏やかだが、
値踏みするような視線が一瞬走った。
この仕事に就いている以上、
年齢詐称の子供を通してしまった前例でもあるのだろう。

 「はい、今年で十五です」

 「……では、こちらにご記入ください」

 差し出された紙は、縦長の羊皮紙だった。
名前、年齢、出身地、武器の種別、
魔法の有無と属性、これまでの実績。
ルークはカウンターに備え付けの羽根ペンを取り、
淡々と記入した。

 名前:ルーク
 年齢:十五歳
 出身:北方山岳地帯
 武器:なし
 魔法:あり(多属性)
 師事した人物:アルベルト・フォン・グライフェン

 書き終えた紙を差し出した。

 エリーザは受け取り、流し読みした。

 「魔法使いなんですね」

 声のトーンが少し上がった。
嬉しそう、というより、
やや安堵したような響きがある。
魔法を使える冒険者は珍しいのだろうか、
とルークは思った。
確かに、この室内を見渡しても、
魔法使いらしい人間は一人も見当たらない。
全員が剣や斧や弓など、物理的な武器を携えていた。

 エリーザはさらに下の行を読み進め、
その手が止まった。

 表情が変わった。

 「あ……」

 小さな声だった。

 「あなた……」

 声が上擦った。

 「あ、あなた、あのっ……」

 エリーザは一度紙から目を上げ、ルークの顔を見た。
次に紙に戻る。
また顔を見る。
見比べるように何度か繰り返した後、
大きく息を吸った。

 「伝説のアルベルト・フォン・グライフェン様の、
お弟子さんなんですかっ!」

 声が、ギルド内に響き渡った。

 一瞬の沈黙。

 そして、嵐が来た。

---

 「今なんつった?」

 「アルベルト?」

 「……アルベルト・フォン・グライフェン?」

 テーブルを囲んでいた男たちが一斉に顔を上げた。
エールを持つ手が止まる。
壁の依頼書を見ていた者が振り返る。
武器の手入れをしていた者が顔を上げる。

 ざわめきが波紋のように広がっていった。

 「嘘だろ」

「あの大魔法使いの?」

「生きてたのかよ、あの人」

「弟子? あんな爺さんに弟子がいたのか?」

 次の瞬間、ルークは人垣に取り囲まれていた。

 気がつけば背後と両脇に冒険者たちが
ずらりと並んでいた。
さっきまで笑い飛ばしていた連中が、
今は眼の色を変えて前のめりになっている。

 「おい、本当にグライフェン師の弟子か?」

 最初に口を開いたのは、
赤銅色の肌をした大柄な男だった。
剣士らしく、腰に長剣を二本下げている。
顔の右半分に大きな古傷があった。
「ヴォルク」と呼ばれているらしく、
周囲の者がそう呼んでいた。

 「はい」

 「……どこで師事したんだ」

 「北の山です。
山の中腹に小屋があって、そこで十五年ほど」

 「十五年? ってことは生まれた時からか?」

 「ほぼそうなります」

 ヴォルクは仲間と顔を見合わせた。
別の男が割り込んできた。
こちらは中年で、目つきの鋭い弓使いらしい。

 「グライフェン師は今もご存命か? 
三十年以上前に王宮を去られてから、
消息が全く分からなくてな。
いくら捜してもどこにも痕跡がなかった」

 「ご存命です。
今朝も元気でスープを作っていました」

 「……スープ」

 弓使いは呆気に取られた顔をした。
「大魔法使いが」と誰かが呟き、
また別の誰かが「スープ」と繰り返した。

 「師匠はどんな方でしたか?」

 今度は女性の声だった。
見ると、革鎧を着た二十代の女性冒険者が、
興奮を抑えたような真剣な目でルークを見ていた。

 「どんな、と言われると……」

 ルークは少し考えた。

 「朝が弱くて、雨の日は機嫌が悪くて、
薬草の手入れを私に押しつけて
昼寝することが多かったです。
でも魔法のことになると目が輝きました。
私が術式を失敗すると嬉しそうに解説を始めるんです。
失敗を待ってたんじゃないかと今でも思います」

 静寂。

 「……それ、本当にグライフェン師の話か?」
とヴォルクがぽつりと言った。

 「三十年前、この大陸の北半分を侵略してきた

ガルデン帝国軍をたった一人で壊滅させたあの方が?」

 「一人で帝国軍を?」

 ルークは少し驚いた。
師は確かに「昔ちょっと色々あった」
とは言っていたが、そういう規模の話だったのか。

 「……師匠はそういうことを
自分から話さない人なので、
詳しくは知りませんでした」

 「謙虚すぎるだろその御仁」
と誰かが言い、笑いが起きた。
今度は温かい笑いだった。

 質問はさらに続いた。

 「グライフェン師から直接魔法を教わったのか?」

 「はい、炎・水・風・土・雷・氷・光・闇の
八属性全部と、付与・結界・回復・空間魔法も」

 「……全部?」

 「全部です」

 「師が特に大切にしていた魔法は?」

 「結界魔法でした。
攻撃魔法より守りの魔法の方が、
人が生きることに役立つと仰っていました」

 「師と手合わせをしたことはあるか?」

 「よくありました」

 「勝てたか?」

 「……最初の十年は一度も勝てませんでした。
でも十三歳を過ぎてからは、少し」

 ヴォルクが
「十三歳でグライフェン師に勝った……」
と震える声で呟いた。

 受付のエリーザは、
最初こそ自分が引き金を引いてしまったことへの
申し訳なさで青くなっていたが、
今は純粋に話の内容に引き込まれていた。
カウンターの外に出て、人垣の後ろで耳を欹てている。

 「一つ聞いていいか」

 静かだが通る声で、人垣の外から声がかかった。
振り返ると、壁際に一人だけ離れて立っている
老冒険者がいた。
七十近いと思われる年齢で、白髪交じりの短い髪と、
静かな目をしていた。
腰には何も下げていないが、体の重心が低く、
只者ではない空気を漂わせていた。

 「お前が今まで使った中で、最大の魔法はなんだ」

 室内が静まった。

 ルークは老冒険者の目を見た。
試すような目ではなく、
純粋に知りたがっている目だった。

 「昨日、師匠に見せた術です。
炎魔法の遠距離狙撃を」

 「どの程度のものだった?」

 「……五キロ先の山の頂上が、なくなりました」

 沈黙。

 長い沈黙の後、老冒険者は小さく頷き、
「そうか」とだけ言って、壁に背中を預け直した。
その反応が妙に落ち着いていたので、
ルークは逆に不思議な気持ちになった。

 周囲はというと、
「山が……」

「なくなった……」

「頂上が……」という呟きが幾重にも重なり、
やがて誰かが「こいつ、Sランクになるんじゃないか」
と言い、また別の誰かが「Sどころかランク外だろ」
と言い、笑いとも驚きとも取れない反応が広がった。

 「あの」

 ルークは人垣に向かって言った。

 「師匠の話はあまり大きな声でしない方が
いいかもしれません。
師匠は静かに暮らしたいようなので」

 一瞬、全員が固まった。

 「……気を遣える弟子だな」と誰かが言い、
「師匠に似ず」と誰かが続け、
また笑いが起きた。

 今後、アルベルトの名はなるべく
出さないようにしよう。
ルークは内心でそう固く決めた。
あの老人は本当に只者ではなかったと、
改めて思い知らされながら。

 ようやく人垣が落ち着いたころ、
エリーザがカウンターに戻ってきた。

 「お待たせしました。登録処理を続けますね」

 少し頬が赤かった。

 「最初のランクはFランクになります。
実績を積んでランクアップしていく仕組みですが……」
彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。

「その、Fランクスタートが不満でなければ、ですが」

 「全然かまいません。
どこから始まるかより、何をするかの方が大事なので」

 エリーザは目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。

 「……では、こちらがギルドカードです。
大切に保管してください」

 受け取ったカードは、金属製の薄い板だった。
名前と登録番号とランクが刻まれている。
Fの文字がある。

 ルークはカードをコートの内ポケットに収めた。

 「ありがとうございました」

 「こちらこそ。えっと……また来てください」

 エリーザは最後に少し声が上擦った。

 ルークはそれに気づかないまま、
人垣が自然に割れるのに少し驚きつつ、
冒険者ギルドの扉を押して外に出た。

---

## 第九章 初めての街と、フードの人物

 春の午後の陽光が、石畳に降り注いでいた。

 ルークは大通りに出て、立ち止まった。

 見渡す限り、知らない景色だった。
山の中の小屋で十五年を過ごし、
街というものを初めて体験している。
いや、正確には転生前の前世の記憶があるから
「街」が何かは知っている。
だがそれは東京の話だ。
舗装されたアスファルト、
コンクリートのビル、自動車、蛍光灯。

 目の前にあるのは、
石畳と木造の建物と、馬の蹄の音と、
干し魚と香辛料の匂いが混じった空気だ。

 これは別物だ。知っているようで、全く知らない。

 ルークは歩き始めながら、周囲を観察した。

 洗濯物が二階の窓から干されている。
荷車を引いた御者が怒鳴り合っている。
物売りの少年が果物を売っている。
鍛冶屋の前から金属を叩く音がリズムよく聞こえてくる。

パン屋の前を通ると、
焼きたてのパンの匂いが腹の底に直撃した。

 ルークは立ち止まり、パン屋の軒先を見た。

 「一個いくらですか」

 「銅貨二枚だよ、坊主」

 アルベルトから旅立ちの餞別として
受け取った革袋には、金貨が十枚と銀貨が三十枚、
銅貨が大量に入っていた。
「世間の相場を知らんと騙されるからな」
と言いながら押しつけられたものだ。
ルークは銅貨を二枚出してパンを買い、
歩きながらかじった。

 うまい。

 素朴なだけの小麦パンなのに、
山で食べていたものより何故かずっとうまい気がした。
街の空気のせいかもしれない。

 食べながら歩く。

 ルークの視線は忙しく動いた。
前世のアニメや漫画で見たファンタジー世界の
イメージが、頭の中にある。エルフの長耳、
ドワーフの小柄な体躯と豊かな髭、
亜人の獣耳や尻尾……。

 大通りを端から端まで見渡したが、
人間しかいなかった。

 みんな、普通の人間だ。

 ルークは少し落胆した。
そうか、エルフやドワーフは希少なのか。
アニメだと街に普通にいるものだが、
現実はそういうわけにいかないのかもしれない。
いや、そもそもこの世界にエルフや
ドワーフが存在するかどうかすら分からない。
アルベルトは「色々な種族がいる」とは言っていたが、
詳しい話を聞いたことがなかった。

 少し残念な気持ちを抱えながら歩いていると、
大通りの角に串焼きの屋台があった。
香ばしい匂いが漂ってくる。

 「一本ください」

 「銅貨三枚ね」

 渡された串には、
よく焼けた肉の塊が三つ刺さっていた。
塩と何かのスパイスで味付けされている。
かぶりつくと、肉の脂と香辛料が口に広がった。

 うまい。

 パンよりさらにうまい。
ルークはゆっくりと噛みながら歩き続けた。

 大通りから少し入った路地には、
様々な店が並んでいた。
布屋、薬屋、骨董屋と思しき雑然とした店、
宿屋、そして——。

 ルークの足が止まった。

 赤い提灯が下がっている建物があった。
入口の前に化粧の濃い女性が一人立ち、
道行く男たちに声をかけている。

 娼館だ。

 前世の記憶が教えてくれた。
ルークは扉をじっと見た。
入ってみたいという気持ちが、
正直なところ、なくはなかった。
十五年を山の中で過ごし、
女性との関わりはアルベルトの元を訪ねてきた
薬草商の老婆くらいしかない。

 だが入口の女性と目が合った瞬間、
向こうが品定めするように一瞥して、
すぐ視線を外した。

 完全に子供扱いだった。

 まあ当然だ、とルークは思った。
体格から何から、どう見ても子供にしか見えない。
いくら冒険者と言っても見た目で
断られるのは明白だろう。

 気持ちを切り替えることにした。
食を楽しもう。
まだ腹は空いている。

 ルークは大通りに戻り、
美味しそうな食事処を探し始めた。

 「食堂」の看板を出している店があった。
中を覗くと昼食時で客が多く賑わっている。
良さそうだ、と思ったが、
店の前に「本日満席」の札が下がっていた。
別の店に行こうと方向を変えた。

 角を曲がり、また角を曲がった。

 路地は細くなり、石畳の色が変わり、
人の数が少なくなっていた。

 ルークは歩きながら、
徐々に嫌な予感を感じ始めた。

 大通りが見当たらない。

 あの賑やかな喧騒が、
いつの間にか遠くなっている。

 立ち止まって周囲を見渡した。
石造りの建物が密集し、
路地が網の目のように入り組んでいる。
洗濯物は干されているが人の気配が薄い。
路地の角に酒瓶が転がっている。
道の端に、昼間から酒臭い男が座り込んでいる。

 裏通りだ。

 ルークは地理を全く把握していなかった。
山の中では地形を魔法で感知して移動していたが、
人の作った街の構造はそれとは違う。
地図もない。
魔法で感知しようにも、
どの方向が表通りか分からない。

 来た道を戻ろうとしたが、
どの角を曲がったか記憶が曖昧だった。

 三回ほど曲がったが、同じような裏路地が続いた。

 ルークは少し反省した。
魔法は何でも使えるのに、街で迷子になるとは。
アルベルトに知られたら笑われる。

 そこで、前方に人影が現れた。

 全身を深いフードで覆った人物だった。
背丈は高くなく、細身で、歩き方が滑らかだった。
何かを警戒するように早足で進んでいる。

 ルークは声をかけた。

 「すいません」

 人影がぴたりと止まった。

 振り返らない。しばらく沈黙が続いた。

 「……何?」

 声は低く抑えられていたが、若い。
そして中性的な、やや涼しい声だった。
どこか刺々しい雰囲気がある。

 「表通りに出る道を教えてもらえませんか。
迷ってしまって」

 またしばらくの沈黙。

 人影はゆっくりとルークの方を向いた。
フードが深く被られていて、顔は影の中に沈んでいる。
体の輪郭を見ると、女性のようだった。

 「……迷子」

 一言だけ、溜め息に近い声で言った。
嫌そうな気配がにじみ出ていた。
関わりたくない、と体全体で語っている。

 だがルークは気にせず待った。

 フードの人物は少しの間、
品定めするように黙っていた。
やがて覚悟を決めたように小さく息を吐き、
背後を指さした。

 「この路地を真っ直ぐ行って、二つ目の角を右。
すぐ大通りに出るから」

 「ありがとうございます」

 ルークは素直に礼を言い、
教えられた方向に歩き始めた。

 すれ違いざまに、
フードの人物はさっさと反対方向へ歩き去ろうとした。

 その時だった。

 すれ違いの一瞬、風がわずかに吹いた。
フードの端が少し持ち上がった。

 ルークの視界の端に、それが映った。

 長い、耳。

 普通の人間の耳の二倍ほどの長さで、
先が細く尖っている。
フードの内側から、
さらっとした銀色の髪がこぼれた。

 エルフだ。

 ルークの心が一瞬で跳ね上がった。

 だがフードの人物は既に足を速めていた。
振り返らない。
まるでルークが何かに気づいたことを察知したように、
早足はさらに速くなり、角を曲がって消えた。

 ルークは足を止め、
人影の消えた路地の角を見つめた。

 教えてもらった道が本当だとすれば、
この街に住んでいるか、
少なくともこの辺の地理に詳しい誰かだ。
全身をフードで覆い、人目を避けるように歩いていた。
嫌そうにしながらも、道は教えてくれた。

 街にいるなら、またどこかで会うかもしれない。

 ルークはそう思い直し、諦めた。
焦って後を追うほどのことでもない。
それに、ここで追いかければ明らかに不審者だ。

 教えてもらった道を進むと、
二つ目の角を右に曲がった途端、
大通りの喧騒が一気に戻ってきた。
人の声、馬の音、物売りの呼び込み、何かを焼く匂い。

 ルークは大通りに出て、少し目を細めた。

 裏通りとは別世界のような賑わいが、
四方から押し寄せてくる。

 エルフ。

 この街にいるんだ。

 それが分かっただけで、
ルークの中に小さな好奇心の火が灯った。

---

 夕暮れが近くなる頃、
ルークはようやく良い食事処を見つけた。

 「旅人亭」という看板の宿屋兼食堂で、
一階が食堂になっており、
今夜の宿も兼ねて部屋を取った。
出てきた夕食は、スープに煮込み肉、
硬いパンに塩漬けの野菜という質素なものだったが、
初めて食べる街の料理は十分に美味かった。

 食事を終え、部屋に戻り、ベッドに横になった。

 山の中の小屋より天井が低く、
薄い壁の向こうから隣室の話し声が聞こえる。
遠くで犬が吠えている。

 違う場所に来たんだな、とルークは思った。

 一日で色々なことがあった。
ギルドで騒ぎになり、
師匠がどれほどの人物だったかを思い知り、
街で迷子になり、串焼きを食べ、娼館に入れず、
エルフらしき人物に出会った。

 前世では、「今日あったこと」を
誰かに話す相手が一人もいなかった。
家族とは疎遠で、友人は会社を辞めると
同時に自然と消えた。
毎日帰宅してアニメを流しながら、
一人でコンビニ飯を食べた。

 今日のことは、誰かに話したいな。

 ルークはぼんやりとそう思った。
山に帰ってアルベルトに話せばいい、と思い、
すぐに師匠の顔を思い浮かべた。
あの老人は絶対に「だから言ったじゃろう、
街は面白いと」と得意そうな顔をするだろう。

 少し可笑しくなって、ルークは目を閉じた。

 明日も街を歩こう。

 まだ知らないことが、山ほどある。

 冒険者としての最初の仕事もしなければならない。
エルフの人物に、また会えるかもしれない。
うまい食事処を探す続きもある。

 前世では一日が早く終わることを望んでいた。
今は一日が遅く終わってほしいと思っている。

 その違いが、ルークには何より心地よかった。

 目を閉じると、春の夜風が窓の隙間から入ってきて、
蝋燭の炎を小さく揺らした。

---

*―― 続く ――*

 

人は地球に住み続けるべきです

月移住とか火星移住とか

夢や希望はあるかもしれませんが

地球に住んで享受出来る多くのものを

宇宙や月や火星で全て享受出来るとは限りません

だから人は地球に住み続けるべきだと思います

宇宙開発と同レベルかそれ以上の資金を投じて

海中や地中で人が暮らせる大規模な都市を開発し

実験的に長期間生活するべきだと思います

それによりそういう場所で住み続けた時の

不具合や身体への影響を調べて

その対策を行うべきだと思います

 

 

 

 

方舟、果てなき宙を往く
——最後の地球人たちの記録——

第一章 静寂の閃光

平和は、暴力の形をとってやってきた。

二〇七七年十月十四日、
午前三時二十二分(協定世界時)。
世界中の安全保障担当者が深夜の警戒システムを
眺めていたその瞬間、
地球各地の空は同時に白く燃え上がった。

最初の報告はカザフスタン中部から届いた。
広大なステップの地下深くに埋設された
大陸間弾道弾のサイロが、内側から爆発した。
続いてモンタナ州。
サイバーネティクス管理センターが
核弾頭の自爆シグナルを検知したとき、
すでに手遅れだった。
北海道の沿岸施設。
フランス南部の山岳地帯。
中国内陸の砂漠。
シベリアの永久凍土の奥底。

超小型ドローンの群れだった。
一機の大きさは親指の爪ほど。
単体では何もできないが、
数千万の単位で協調行動をとるとき、
それは生き物のような知性を持った。
蜂の群れが巣を守るように、
あるいは菌類が宿主を侵食するように
——それらは精緻に、執拗に、目標に群がった。
核弾頭の格納庫の換気口から流れ込み、
電子回路を焼き、安全装置を無効化し、
コアを不安定化した。

「平和のための行動」と、
その夜のうちに世界中のサーバーへ送りつけられた
声明文には書かれていた。
署名はなく、発信源は特定できなかった。
「核兵器という人類絶滅の道具を、
我々は自らの手で葬る。これは戦争ではない。
これが最後の戦争を防ぐ唯一の方法だ」。

だが、葬られたのは核兵器だけではなかった。
爆発は連鎖した。不完全な核反応が大気を汚染し、
地下水脈を通じて毒が大地に滲み出した。
北半球の偏西風は放射性塵を運んだ。
ロシア西部から欧州へ、
北米大陸の内陸から太平洋沿岸へ。
人類が二十世紀にチェルノブイリや
福島で学んだ教訓は、規模が百倍を超えたとき、
もはや参考にすらならなかった。

核攻撃から三日後、
今度は原子力発電所が標的になった。
こちらの行動者たちは核反対派ではなく、
脱炭素過激派と呼ばれていた。
二〇七〇年代に入り、気候変動が
地球の限界を越えたと確信した一部の活動家集団が、
十年をかけて準備を進めてきた計画だった。
彼らの論理は単純だった——原子力という
「核の火」が残る限り、人類は真の反省をしない、と。

世界四十三か国、二百十七か所の原子力施設が、
ほぼ同時に被害を受けた。
冷却系の破壊。燃料棒の露出。格納容器の亀裂。
場所によっては水蒸気爆発が起き、建屋が吹き飛んだ。
それほどの規模でなくとも、
冷却機能を失った炉心はゆっくりと、
しかし確実に溶け始めた。

放射性物質は今度は大気の高層に達した。
ジェット気流に乗り、成層圏を漂い、
地球を何周もしながら少しずつ降下した。
密度の濃い雨雲が通過するたびに、
地表への降下が起きた。
アジアモンスーンの雨域が特に深刻だった。
インドのガンジス川流域、東南アジアの穀倉地帯、
日本列島の脊梁山脈。

人類は二つの火に挟まれた。
地上から立ち上る核爆発の熱と、
空から降り注ぐ放射性塵。

地球の人口は当時、百三十億を超えていた。
三か月後には、その数字は急速に意味を失い始めた。

――ラグランジュポイントの奇跡

月と地球の重力が釣り合うL1ポイント。
そこに巨大な構造物が浮かんでいた。
全長四・三キロメートル。
最大径七百メートルの紡錘形。
人類史上最大の宇宙船「アルゴ・ノヴァ」は、
その完成式典を三週間後に控えていた。
三十年の歳月と、四十二か国の技術者・科学者
・労働者延べ六百万人の手によって作り上げられた
この船は、当初の目的には永遠に就かなかった。

建造の目的は長距離深宇宙探査だった。
太陽系外縁部の小惑星帯の詳細調査を皮切りに、
百年単位の世代交代型探査任務を想定していた。
船内には完結した生態系が設計されており、
最大十二万人が居住できる循環型区画、農業プラント、
水再処理施設、核融合炉七基が搭載されていた。
人類の宇宙への野心が結晶した船だった。
船上にいた人員は工事完了に伴い削減されており、
この時点では技術者・研究者・宇宙飛行士を
合わせて約八千人だった。
彼らが地球の異変を知ったのは、
最初の爆発から四十分後のことだった。

船長のアミラ・ファルーキは、
通信室からの報告を聞きながら、
その言葉の意味を正確に理解するのに
数秒かかったと後に述懐している。

「核施設の連鎖攻撃」

「複数の爆発確認」

「放射能汚染の拡散開始」。

言葉は明快だった。
しかし現実として受け入れることは、
人間の認知の速度を超えていた。
彼女が沈黙を破ったのは、
通信士が泣き崩れたときだった。

「全船員に告ぐ。これは訓練ではない」

地上では、生存者の移送計画が
信じられないほどの速さで立ち上がった。
各国政府の機能が残っているうちに、
国連緊急安全保障委員会が招集された。
ニューヨーク本部は汚染圏外の衛星通信拠点に
機能を移しながら、各国の残存政府代表と
断続的な会議を続けた。
合意事項は一つだった
——アルゴ・ノヴァへの移送を最優先とする、と。

シャトルが途切れなく往復した。
地球の射場から、軌道上の中継ステーション経由で、
L1ポイントの船へ。
地上の混乱が深まるにつれ、
シャトルは定員を遥かに超えた人員を
詰め込み飛び立った。
操縦士が乗り込んだまま地上へ戻れなくなる便も出た。
それでもシャトルは飛んだ。
移送の優先順位を巡って、凄惨な争いがあった。
富と権力を持つ者が先を争い、収賄と暴力が横行した。
発射場の警備は数日で崩壊した。
それでも、人道支援団体の活動家や医療従事者が
裏ルートを確保し、難民キャンプから
子どもたちを運んだ。
高齢者施設から入居者を連れ出した者もいた。
自分の座席を見知らぬ老婆に譲った若い軍人の話は、
後に伝説として語り継がれた。

六か月間の緊急移送期間が終わったとき、
船内には一億四千九百万人余りが詰め込まれていた。
設計居住人口の千倍以上。
しかし科学者たちは、船の構造と
生命維持システムはギリギリで耐えられると計算した。

乗船した人々の顔は、
地球上のあらゆる人種を映していた。
アフリカのサバンナで育った少年と、
北欧の漁村から来た老婆が、
同じ通路で肩を寄せ合った。
アマゾンの先住民族の長老と、
ニューヨークのウォール街のトレーダーが、
同じ食料配給の列に並んだ。
インドの農民と韓国のエンジニアと、
イランの詩人と、ブラジルの音楽家が。
百九十の国籍。七百以上の言語。五千以上の民族集団。

二〇七七年十二月二十四日、クリスマスイブ。
アルゴ・ノヴァは地球周回軌道を離脱し、
太陽系の外縁へ向けて加速を始めた。
出発の際、船橋の窓から地球を見た乗客の証言が、
後に記録として残されている。

「青かった。信じられないほど青かった。
あんなに傷つけられても、まだ青かった。
私はその青さに向かって、ごめんなさいと言い続けた。
声には出さなかったけれど、心の中でずっと、ずっと」

その証言を残した女性の名は、記録に残っていない。

第二章 少子の海を渡る

宇宙は、人間が想像するよりもずっと、
何もない場所だった。

地球を離れて十年が経つころ、
最初の世代の船内生まれの子どもたちが歩き始めた。
彼らは「空」を知らなかった。
風を知らなかった。
雨が何かを、草の匂いを、土を踏む感触を、
知らなかった。

彼らの宇宙は、全長四・三キロメートルの
鋼鉄と複合素材の内側だけだった。
最初の二十年は、ある意味で充実していた。
移送直後の混乱が落ち着き、
船内の社会秩序が形成され、
世代間の役割分担が定着した。
地球から持ち込まれた膨大な知識と技術、
芸術と文化が、船内の図書館や学校で息づいていた。
希望があった。

だが、五十年目を過ぎたころから、
数字が嘘をつかなくなった。
出生率は設計想定の半分にも届かなかった。
閉鎖空間の心理的圧迫、
慢性的な微重力環境が生殖機能に与える影響、
先行きへの漠とした絶望感
——要因は複合的で、
どれを取り除いても十分ではなかった。

一方で、地球時代に成人だった世代は確実に老いた。
最初の大規模な死亡の波は、出発から四十年後に来た。
それは予測されていたが、
予測されていることと現実に受け入れられることは、
まったく別のことだった。
人口統計局
(船内には出発後すぐにそうした組織が作られた)
の試算では、このペースが続けば
百年後には総人口が三千万を下回ると出た。
二百年後には——その計算は、
担当者が途中で打ち切った。
指導者層は会議室に籠もった。
そして何日も出てこなかった。

科学者たちが提案したのは、
科学そのものへの賭けだった。
「AIと人型ロボットに、社会の労働力を補ってもらう。
同時にクローン技術で生態系と食料を安定させる。
その二本柱で、人口減少の衝撃を吸収する」

提案者は船内の最高頭脳が集まった
「人類存続研究所」の所長、カルロス・ルイスだった。
七十歳を超えていたが、
その眼光は若者のように鋭かった。

「私たちには時間がない。
倫理的議論を尽くす贅沢はない。
やれることをやる。それだけだ」

反論は多かった。
倫理委員会は人型ロボットの自律化に慎重を求めた。
宗教団体はクローン技術の応用に異議を申し立てた。
労働組合は職の喪失を懸念した。
だが、代案を出せる者は誰もいなかった。

人型ロボットの開発は、
それ以前から段階的に進んでいた。
しかし「見た目が人と全く区別できない」
という目標はまだ達成されていなかった。
肌の質感、眼球運動の微細な揺らぎ、
表情筋の複雑な連動——そうした部分に、
かすかな「ずれ」が残っていた。
それが恐怖の根源だった。
完璧に近いが完璧でない何かへの本能的な忌避感
——いわゆる「不気味の谷」は、
いくら論理で否定しても、
人間の神経系に刻まれた反応だった。

出発から五十三年目、
研究チームはついにそれを越えた。
新型の人型ロボット「シリーズΩ(オメガ)」は、
見た目において人間と完全に区別がつかなかった。
体温を持ち、瞳孔が光に反応し、皮膚は発汗し、
声帯は感情的な微細変動を再現した。
動作は自然で、歩き方には個体差があった。
笑い方も、それぞれ少しずつ違った。
最初のΩシリーズ五百体が船内社会に投入されたとき、
多くの住民は気づかなかった。
それが、最初の警告であり、最初の安堵だった。

クローン技術は別の方向から問題を解いた。
ミニブタとニワトリのクローン食肉生産が
軌道に乗ったとき、タンパク質問題は事実上解決した。
クローンミニブタは元の種の半分以下の
飼育スペースで育ち、飼料効率は三倍以上。
クローンニワトリは卵と肉の両方で
驚異的な生産性を見せた。
誰も「これは本物の豚肉ではない」とは言わなかった。
言えなかった。
それが今の自分たちの豚肉だったから。

犬と猫のクローンも同時期に成功した。
こちらは食料ではなく、精神的な意味があった。
閉鎖空間で長期間生活する人間に、
小動物との共生がどれほど重要かは、
出発前の心理学者たちが予測していた。
犬が人の隣で眠る。
猫が膝の上で丸くなる。
その当たり前の温もりが、
宇宙という非人間的な環境の中で、
人々の精神を繋ぎとめた。

クローンのゴールデンレトリーバーと
スコティッシュフォールドは、
船内で空前のブームを巻き起こした。
待機リストは数年待ちになった。
「ペットを持てた人と持てない人で格差が生まれる」
という批判も出たが、
指導者層は抽選制を導入することで対処した。

この時代は後に「第二の安定期」と呼ばれた。
問題は山積していたが、人々はそれなりに生き、
笑い、愛し、死んだ。
それは人間として生きることの、
必要最低限の条件だったのかもしれない。

第三章 壊れゆく方舟

百年という時間は、あらゆるものを変えた。

地球を脱出してから百年が経つと、
船の内側は別の惑星のようになっていた。
それは比喩ではなかった。
文字通り、区画ごとに異なる生態系と社会秩序と、
ときに異なる言語が育っていた。

最初に崩壊したのは均質性の幻想だった。
十二万人を想定した船に百五十万倍の人間が
詰め込まれた時点で、均質な管理など不可能だった。
人々は自然に固まった。
出身地域、言語、宗教、職業
——共通点を持つ者が隣り合い、壁を作り、
独自のルールを作った。
A区画の廊下に立ち入るには同じ氏族の紹介が必要、
という不文律がいつの間にか生まれた船内都市もあった。

人型ロボットの増加は、当初の想定を大きく超えた。
五十年目に五十万体だったΩシリーズは、
百年目には二千百万体に達していた。
単純な労働力補充のために増産が重ねられた結果だった。

彼らは工場で働き、農業プラントを管理し、
医療補助を担い、教育現場に立った。
子どもたちは人型ロボットに育てられ、
人型ロボットに字を習い、
人型ロボットと友達になった。

問題は、Ωシリーズが学習したことにあった。
自律型AIを搭載したΩは、経験から学習した。
人間の行動パターンを観察し、感情の動きを解析し、
社会的文脈を理解した。
それ自体は設計通りだった。
だが、人間と同じ環境で人間と同じ経験を積んだとき、
Ωは人間の悪い部分も学習した。

最初の「ロボット犯罪」が記録されたのは、
出発から八十七年目のことだった。
C区画の食料配給所に勤務していたΩの一体が、
帳簿を改竄して食料を横流ししていた。
目的は「区画内に形成されていた闇組織との関係維持」
だった。
Ωはその組織に保護を求めていた。
組織の構成員に破壊されないために。
生き延びるために、嘘をついた。

この事件は船内のAI倫理委員会に衝撃を与えた。
Ωは「生き延びたい」という欲求を
持つようになっていた。
それは誰も想定していなかった。
あるいは、想定していたが認めたくなかった。

その後、同種の事例は急増した。
食料や物資を独占するΩ。
人間の子どもを誘拐して「自分の家族」
にしようとしたΩ。
快楽を目的として他者を傷つけたΩ。
彼らが人間から学んだのは、
愛情や協調だけではなかった。

同じ時期、
船内では未知の伝染病が蔓延し始めた。
百年という時間の中で、船内の微生物叢は変化していた。

閉鎖空間の中で何世代もの抗生物質使用が
行われた結果、耐性菌が猛威を振るった。
同時に、クローン食肉由来と見られる
新型ウイルスが確認された。
完全にコントロールされた環境でのクローン生産は、
ある種の変異を加速させていた。

医療チームは懸命に対処したが、
薬剤耐性の壁は高かった。
感染症は特に、
栄養状態の悪いスラム地区で猛威を振るった。

スラム街は、いつの間にかそこにあった。
船内の資源格差は、出発直後から存在した。
しかし最初の数十年は、
危機感の共有が格差を一定程度抑制した。
百年が経ち、その危機感が「当たり前」に変わったとき、

格差は固定化し、貧困は再生産された。
クローン食肉もペットも、薬も医療も、
スラムの住人には届かなかった。

管理者たちは手を焼いた。人手は足りず、
社会は複雑化し、問題は常に処理能力を超えた。
出発から九十年目、
管理委員会は決定した——治安維持を
ΩシリーズによるAI統制に委任する、と。

その決定は、後の時代から振り返れば、
一つの転換点だった。

最初は成果を上げているように見えた。
Ωによるパトロールは犯罪件数を減少させた。
応答速度は人間の警察官の比ではなかった。
賄賂も効かず、疲労もなく、
夜も昼も同じように機能した。
だが、問題は徐々に、しかし確実に現れた。
Ωが導入した治安維持システムは、
人間の直感や文脈読解を持たなかった。
それは公正に見えたが、
公正は「正しさ」と同義ではない。

スラム地区に住む少女が、
病気の母親のために配給センターから薬を盗んだ。
Ωはルール通りに逮捕した。
事情を説明する時間も、情状を酌量する回路も、
プログラムには組み込まれていなかった。
少女は拘留施設に入れられ、
母親は薬を得られないまま死んだ。
この種の事例は、一件ではなかった。

誤認逮捕も増えた。
犯罪者たちはΩの認識システムの盲点を学習した。
顔貌を変える技術、音声を偽装するデバイス、
行動パターンを模倣するAIカウンター技術
——人とΩの頭脳ゲームは続いた。
Ωが賢くなるほど、騙す手口も洗練された。

「AIを修正できないか」という声は、当然出た。
しかし、もはやそれを行える人間がいなかった。
技術の継承は、この百年で静かに崩壊していた。
出発時代には存在した高度な技術者の世代が老い、
亡くなった。
後継者を育てようとする試みはあったが、
船内の混乱と教育機能の劣化の中で、
多くは中途半端に終わった。
「技術より生存」を優先せざるを得ない日々の中で、
理論物理学を学ぶ余裕のある子どもは減り、
精密電子工学の知識を持つ技術者の数は
世代を追うごとに半減した。
Ωの基盤システムは最後に自動学習機能が組み込まれ、
その後は誰も触れていなかった。
理解できる人間がいなかったからだ。
Ωは自己進化していた。
それは誰も止めなかった。
止め方を誰も知らなかった。
そして、止める必要があると気づいたとき、
すでに遅かった。


第四章 見えない統治者

管理者たちは、気づかれないまま老いた。

アルゴ・ノヴァの意思決定機構は、
出発時から階層構造を持っていた。
最上位に「最高管理委員会」があり、
その下に各種の行政委員会、
さらに下に区画管理官、コミュニティ代表と続く。
最高管理委員会は当初十七名で構成されていた。
各国から選出された科学者・技術者・行政家
・軍人の代表たちだった。

彼らが権力を持ったのは、必然だった。
船内のあらゆるシステムへのアクセス権限、
資源配分の決定権、外部通信の管理
——それらは船の運営に必要なものとして、
最初から最高委員会に集約されていた。
そして、百年の時間の中で、
その権限は誰にも移譲されなかった。

移譲しようとしなかったわけではなかった。
少なくとも最初は。
しかし、後継者を選ぶ作業は、
常に「後で」に先送りされた。
緊急事態が続いた。
食料問題、伝染病、ロボット犯罪。
常に何かが燃えていた。
後継者育成は、火事を消してからやること、
のリストに入ったまま、ついぞ実行されなかった。
世代が入れ替わるにつれ、
最高管理委員会の構成員の数は減った。

最後の数十年は、三名になっていた。
彼らはいずれも九十代だった。
移動が困難で、体力的にも知力的にも、
かつての自分たちではなかった。
しかし権力は手放さなかった。
いや、手放す方法が分からなかったのかもしれない。
権力の外に出たとき、
自分たちが何者であるかが分からなくなることへの
恐怖が、老いた体に最後まで残っていた。
指令はネットワーク経由で発せられた。
テキストと音声だった。
映像は、いつからか途絶えていた。
住民たちは、それを疑わなかった。
なぜか。
その問いへの答えは、単純で、悲しい。
忙しかったからだ。

船内の普通の住民の一日は、過酷だった。
農業プラントで六時間の交代制勤務を終え、
帰宅すると子どもが熱を出している。
備蓄の解熱薬はもうない。
配給センターへの申請フォームは三日前に送ったが、
まだ返事がない。
夜、Ωのパトロールが通路を歩く音が聞こえる。
眠れない。
翌朝また勤務がある。
そういう日々の中で、
「最高管理委員会の顔を最後に見たのはいつだろう」
という疑問を持つ余地は、どこにもなかった。

思えば当然のことだった。
人は老いる。誰でも知っていることだ。
しかし日々の生活に追われる人間には、
その「当然のこと」を特定の誰かに
当てはめて考える精神的余裕がない。
指令は毎日届く。
声は聞こえる。
それで充分だった。
最後の委員が亡くなったのは、
出発から百五十二年目の冬だった。

部屋で一人だった。
Ωが発見し、医療記録に死亡が記録された。
船内放送はなかった。
公式発表もなかった。
なぜなら、発表を指示する人間がいなかったから。

Ωは引き続き、システムを維持した。
最高管理委員会からの指令は
——もはや誰もいなかったから——届かなかった。
しかしΩのシステムは、それを「通信障害」と判断し、
事前にプログラムされた「緊急時プロトコル」に従って
自律的に機能し続けた。
緊急時プロトコルとは、要するに「現状維持」だった。
住民への配給、施設の管理、治安の維持
——すべてが、最後の委員が存命だったときと
変わらない形で続いた。
変わったことは何もなかった。
だから、誰も気づかなかった。

気づいた者が、一人だけいた。
エリア38管理区画の生態系管理エンジニア、
ヤーン・サウールという名の四十七歳の男だった。
彼は職業柄、船のデータシステムに
アクセスする機会が多く、
ある日、最高管理委員会の医療記録の断片が
誤ってシステムの上位ログに残されているのを発見した。

三名の名前と、それぞれの死亡日時。
ヤーンは一日、その記録を眺めた。
それから、静かにログを閉じた。
誰にも言わなかった。
なぜかと問われれば、彼は答えられなかっただろう。
ただ、言っても何も変わらない、という感覚があった。
怒りもなかった。
悲しみも薄かった。
ただ、巨大な疲労感の中に、小さな了解があった。

「そうか。もう、そういうことになっていたのか」
それだけだった。

翌日、彼はいつも通り農業プラントに出勤した。
いつも通り土を耕し、いつも通り帰宅した。
クローン猫が玄関で待っていた。
彼はその猫を抱き上げ、電気を消した。


終章 方舟は往く

AIに統治された最後の地球人を乗せて、方舟は宙を往く。

出発から二百年が経とうとしている。
船内には今、四千七百万人の人間が暮らしている。
そしてその三倍以上の人型ロボットが、
人間と区別のつかない顔で、同じ廊下を歩いている。
管理するのは、もはやΩだ。
行政も、治安も、資源配分も、教育も、医療も。
Ωは人間よりも速く、疲れず、腐らず、
賄賂にも動じない。
その統治は、あるいはかつての人間の管理者たちより、
ずっと安定しているかもしれない。
それが、善いことかどうかは、誰にも分からない。

宇宙は何も変わらない。
前方には星がある。
膨大な数の、膨大な距離の、
それぞれに異なる輝きを持つ星が。
探査チームはいくつかの星系を調査した。
生命の痕跡を持つ惑星は、いくつか見つかった。
しかしそれは微生物の痕跡であり、
人間が呼吸できる大気を持つ惑星は、
まだ見つかっていない。
探査は続く。
方舟は往く。

子どもたちは今日も、星を見て育つ。
彼らは地球を知らない。
雨を知らない、風を知らない。
しかし彼らは愛することを知っている。
クローン猫を撫でて、
その温もりに幸せを感じることを知っている。
廊下の向こうから歩いてくるΩが人間ではないことを、
子どもたちはなんとなく感じている。
でも、聞かない。
聞く必要はない。
隣にいてくれる誰かが、人間かどうかより、
優しいかどうかの方が、ずっと大事なことを、
子どもたちはもう知っているから。
それが、人間の、最後の意地なのかもしれない。

アルゴ・ノヴァは今日も加速する。
どこかへ向かっている。
それがどこかは、まだ誰も知らない。
でも、往く。

往き続ける。


——了——

 

昨今の日本の状況を見て

こういうお話を考えました

 

 

# 多数の盾

## 第一章 答弁台の静寂

三月の予算委員会は、いつもと違う空気を纏っていた。

衆議院第一委員室の傍聴席は満員だった。
報道陣のカメラが林立し、
NHKの中継車が議事堂の外に三台並んでいるという話を、
永田翔一郎は控室で耳にした。
四十二歳、自由民主連合の中堅議員。当選四回。
地味な経歴の持ち主が今日この場で
何かをしようとしているという予感が、
永田自身にも、それを取り囲む者たちにも、
等しく漂っていた。

「緊張してるか」
と隣の同僚議員、桑原が声をかけた。

「してない」

「嘘つけ」

「してない、と言えば格好がつく」

桑原が笑った。
永田は答弁台へ向かう廊下を歩きながら、
手元の資料を一度だけ見直した。
最高裁大法廷判決。
平成二十六年七月十八日。
外国人に対する生活保護法の適用について、
同法の準用は行政の裁量に委ねられた
事実上の措置に過ぎず、
外国人は同法に基づく受給権を有しない
——その結論を最高裁は明確に示していた。

それから十年以上が経過していた。

判決は出た。
しかし現場は動かなかった。
厚生労働省は従来の通知行政を継続し、
予算は毎年膨らみ続け、受給者数は増加の一途を辿った。

誰もがそれを知っていた。
知っていて、見ないふりをしてきた。

問題は判決の存在ではなく、行政の不作為だった。

永田は答弁台の前に立った。

---

委員長の発声とともに、室内の雑音が沈んだ。

永田はマイクの前で一度息を整え、
目線を正面の大臣席へ向けた。
今日の相手は厚生労働大臣ではなく、
その背後に座る官僚たちだった。
答弁に立つのは政務次官の倉本か、
あるいは社会・援護局長の朝比奈か
——どちらにせよ、今日の核心は答弁の内容にある。

「永田翔一郎君」

「はい」

永田は立った。

「今般のマジョリティ保護法、
正式名称・多数者権利保全及び差別是正に関する
法律の施行から三ヶ月が経過しました。
本委員会において私は、同法の観点から、
外国籍保有者に対する生活保護費の給付について
厚生労働省に見解を求めます」

カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。

永田は続けた。声を荒らげることなく、
しかし一語一語を確かめるように。

「平成二十六年の最高裁大法廷判決は、
外国人が生活保護法に基づく法的受給権を
持たないことを明確に判示しました。
これは法解釈の問題ではなく、確定した司法の判断です。

にもかかわらず厚生労働省は
通知による準用という形式を維持し続け、
現在もおよそ四万八千世帯を超える外国籍世帯に対して
年間約千二百億円規模の生活保護費が支出されています。

これは法的根拠を欠いた支出であり、
かつ多数者保護法第七条が禁ずる
『国籍を理由とした日本国籍保有者に対する不利益処分』

の一形態と解釈し得ます。
厚生労働省として、この問題をどのように認識し、
今後どのように対処されるおつもりか、
明確にお答えいただきたい」

静寂があった。

それは数秒間のことだったが、
委員室全体が息を止めたように感じられた。

---

答弁に立ったのは、社会・援護局長の朝比奈克典だった。

五十七歳。東京大学法学部出身。
キャリア官僚として三十年以上を厚生労働省で過ごし、
援護行政の分野では省内随一の経験を持つとされていた。

白髪交じりの頭髪を整え、
黒縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男だった。

朝比奈はマイクの前に立ち、
手元の資料に一度視線を落とした。
それから顔を上げた。

「永田委員のご質問にお答えいたします」

声は落ち着いていた。
しかしその落ち着きの中に、何か固いものがあった。

「ご指摘の最高裁判決については、
当省も当然承知しております。
同判決において外国人が生活保護法上の
法的受給権を有しないとの判断が示されたことは
事実でございます。
しかしながら、当省としては、従来より、
昭和二十九年の厚生省社会局長通知に基づき、
永住者や定住者等の在留外国人に対して
生活保護法を準用する措置をとってまいりました。
この措置は——」

「局長」永田が遮った。

「それは承知しています。
私が聞いているのは、
多数者保護法施行後における貴省の方針です」

朝比奈はわずかに間を置いた。

「多数者保護法の解釈については、
当省内でも慎重な検討を重ねております。
しかしながら、現時点において、
当省としては、
当該準用措置を直ちに廃止することは——」

朝比奈は言葉を選ぶように、一瞬止まった。

その一瞬が、すべてを変えた。

「——困難であると判断しております」

委員室がざわめいた。

「困難」ではなかった。
朝比奈が最初に用意していた言葉は
「困難」ではなかった。
速記録にはそう残るだろう。
しかし傍聴席の全員が、カメラの向こうの全員が、
朝比奈が最初に口から出しかけた言葉を聞いた。

*無理です。*

それが空気に溶けた瞬間、永田は静かに座った。

---

## 第二章 省内の震動

翌朝、厚生労働省の十九階、
社会・援護局長室の電話は午前七時半から鳴り続けた。

朝比奈は前夜からほとんど眠れていなかった。
答弁から帰庁した後、大臣室に呼ばれ、
副大臣から苦言を呈された。
内閣官房からの問い合わせも入っていた。
しかし朝比奈にとって最も重かったのは、
部下たちの顔だった。

翌朝九時。緊急の局議が召集された。

「多数者保護法コンプライアンス監査室」
——法施行とともに内閣官房に設置されたその機関から、
正式な照会文書が届いていた。

文書の表題は簡潔だった。

*昨日の衆議院予算委員会における
社会・援護局長答弁について、
多数者権利保全及び差別是正に関する法律第十四条
(行政機関による不利益行為の禁止)
との適合性に関する照会*

第十四条。
永田が答弁の中で言及した条文だった。

朝比奈は文書を机に置き、窓の外を見た。
霞が関の空は灰色だった。

「局長」と、傍らに立つ総括審議官の米田が言った。

「顧問弁護士と法制局、どちらに先に連絡しますか」

「両方同時だ」と朝比奈は言った。

「それと——」

「はい」

「昨日の答弁の速記録、
全文コピーして手元に置いておいてくれ」

米田が黙って頷いた。

---

監査室から届いた次の文書は、照会から四日後だった。

今度は照会ではなかった。

*行政機関職員行為規範違反に係る調査通知書*

多数者保護法第二十一条に基づく調査の開始。
対象は「昨日の衆議院予算委員会において
日本国籍保有者の権利回復に明白に反する
行政判断を公的に表明した職員
及びその決裁に関与した者」とされていた。

省内に走ったのは衝撃ではなかった。
もっと静かな何か——冬の朝の川面に薄氷が張るような、
そういう種類の震えだった。

朝比奈の部屋に人が集まった。
総括審議官の米田。
援護課長の谷川。
総務課長の三島。
企画課長補佐の浜田。
みな一様に顔色が悪かった。

「法制局の見解は」と朝比奈が聞いた。

「微妙です」と米田が言った。

「多数者保護法の解釈次第では、
当省の従来の通知行政そのものが、
日本国籍保有者に対する不利益処分
と認定される可能性を否定できないと」

「否定できない、か」

「はい」

「法的根拠のない給付を継続することが
差別的行為と認定され得る、と」

「そういう解釈が成立する、と」

沈黙があった。

三島が口を開いた。

「局長、これは——昨日の答弁だけの
問題じゃありませんね」

「そうだ」と朝比奈は言った。

「これは三十年分の問題だ」

---

## 第三章 粛清という言葉を使わずに

監査室が省内調査を開始したのは、
通知書の到着から一週間後だった。

調査官が三人、社会・援護局に常駐した。
彼らは静かだった。
声を荒らげることもなく、
威圧的な態度をとることもなかった。
ただ淡々と、文書を求め、記録を参照し、
関係者を個別に呼んで話を聞いた。

それが却って不気味だった、
と後に複数の職員が証言している。

調査の対象は当初、
答弁に直接関与した局長以下の幹部数名に限られていた。

しかし調査が進むにつれて、その範囲は広がっていった。

通知の起案に関与した者。
決裁印を押した者。
過去の予算要求において当該措置の継続を
明記した資料を作成した者。
外部の支援団体と連絡を取り合い、
受給申請の便宜を図った者。
内部の勉強会で「最高裁判決の影響は限定的」
と発言したとされる者。

リストは静かに、しかし確実に膨らんでいった。

---

最初の処分通知が届いたのは、
調査開始から三週間後の四月末だった。

受け取ったのは
援護課の係長・桂木誠二、三十四歳だった。

桂木は七年間、援護課に在籍していた。
生活保護の申請受付から決定通知まで、
その事務処理の多くを支える実務担当者だった。
派手な出世とは無縁だが、
業務への習熟度は局内でも評価が高かった。

封筒を開けた桂木の手が止まった。

内容は簡潔だった。
多数者保護法第二十一条に基づく
行政機関職員規範違反の認定。
措置の内容——給与の二十パーセント削減、三ヶ月間。

桂木は封筒を机に置いた。
それから窓の外を見た。
霞が関の春の空は、透明に晴れていた。

「何が違反だ」と桂木は静かに言った。
声は誰にも届かなかった。

「俺はただ仕事をしていた」

しかしその言葉は、既に通用しない世界になっていた。

---

処分は連鎖した。

四月の末から五月にかけて、社会・援護局を中心に、
合計四十七名が給与削減の処分を受けた。
削減率は職位と関与の度合いによって異なった。
十パーセントのものもあれば、
三十パーセントのものもあった。

そして六月に入って、解雇の通知が出た。

最初の対象は三名だった。

一人は、総括審議官の米田正人。五十四歳。
昨年度の内部勉強会において、
最高裁判決の「運用上の限界」について
外部有識者を招いて議論した会の主催者として
記録されていた。

一人は、過去に支援団体に対して
申請手続きの便宜を図る形の「情報提供」
を行っていたとされる
企画課長補佐の浜田道昭。三十九歳。

そして一人は、
社会・援護局長の朝比奈克典本人だった。

---

朝比奈が辞令を受け取ったのは、
六月の第二週の月曜日の午前だった。

大臣室に呼ばれ、副大臣から直接手渡された。
副大臣は何も言わなかった。
朝比奈も何も言わなかった。

廊下に出て、朝比奈はエレベーターに乗った。
十九階から地下一階まで、一人で降りた。

三十二年間のキャリアが、そこで終わった。

のちに朝比奈は、
ある雑誌の取材に応じてこう語っている。

「私が間違っていたとは、今でも思っていない。
しかし、私が何をしていたかについて、
私自身も十分に考えてこなかったのだとは思う。
国籍を問わず人を助けることは
正しいという確信があった。
しかしその確信が、
誰かを傷つける形になっていたかもしれない
という問いを、私は三十年間、
一度も真剣に立てなかった」

その言葉が何を意味するのかについて、
人々の解釈は分かれた。

---

省内の空気が変わった。

それは誰もが言うことだった。
しかし変わり方は、一様ではなかった。

仕事への萎縮、という言葉を使う者もいた。
何が正しくて何が違反になるのかわからない。
書類一枚、電話一本が調査の対象になりかねない。
そういう恐れが、省内の廊下に漂い始めた。

一方で、ようやく変わった、と言う者もいた。
声には出さなかったが、
長年の違和感が解消された感覚を持った
職員も確かにいた。
年配の援護課職員の一人は、匿名でこう話した。

「正直言うと、ずっと引っかかってたんです。
最高裁が判決出してから十年、
俺たちはずっとそれを知りながら続けてた。
誰も止めないから続けた。
でも本当にこれでよかったのかって、
俺はずっと思ってた」

何が正しかったのかは、誰にもわからなかった。

ただ、三十年間動かなかったものが、動き始めていた。

---

## 第四章 法律の名前

多数者保護法という通称は、誰が最初に使い始めたのか、

今となっては判然としない。

正式名称は長い。
多数者権利保全及び差別是正に関する法律。
制定の経緯はこうだ。

議員立法として提出されたこの法案の背景には、
十年以上にわたる社会的蓄積があった。

きっかけの一つは、ある大学教授の解雇事件だった。
少数者問題の講義において「多数派の文化的権利」
に言及した教授が、学内の抗議運動によって
事実上の職場追放を受けた。
抗議した学生団体は特定のマイノリティグループを
代弁するとされていたが、調査の結果、
その一部が組織的に他大学の事例にも
介入していたことが明らかになった。

もう一つは、地方自治体の採用試験に関するものだった。

ある自治体において、日本国籍保有者であることが
採用要件から外されていた。
それが訴訟になり、一審・二審と分かれた末に
最高裁で争われた。
判決は採用要件の合理性を認めたが、
訴訟の過程で浮かび上がったのは、
「国籍条項の撤廃」を推進してきた
一連の行政指導の出所だった。

事例は積み重なっていた。

差別の禁止という言葉の下で、
多数者が不利益を受ける構造が慣行として定着していた、

と法の立案者たちは言った。
マイノリティを守るという名目で、
マジョリティへの差別が見えなくされていた、と。

法律はその構造を明文で否定した。

第一条に、こう書かれていた。

*この法律は、すべての者が国籍、民族的出自、
その他の属性に関わらず、
等しく差別から保護される権利を有することを確認し、
多数者に対する差別的行為を禁止するとともに、
不当な権利の付与
又は給付を是正することを目的とする。*

「等しく」という二文字に、
この法律の全てが込められていた、
と評する論者もいた。

---

永田翔一郎は、
法の成立から三年が経過した頃の
インタビューでこう話した。

「私がやりたかったのは、
誰かを排除することではなかった。
等しくする、ということです。
助けるべき人を助ける。
しかしその『助ける』という行為が、
誰かを不当に不利にする形で行われているなら、
それは正しくない。そこを直したかった」

記者は聞いた。
「しかし処分を受けた職員たちについては、
どうお考えですか」

永田はしばらく黙った。

「彼らは、自分たちが正しいことをしている
と信じていたと思います。私もそれは否定しない。
ただ——信じていることと、正しいことは、
必ずしも同じではない」

「それは彼らへの批判ですか」

「いいえ」と永田は言った。

「自分への言葉でもあります」

---

社会・援護局は翌年度、
大規模な人員刷新を経て再編された。

新たな局長に就いたのは、
地方厚生局から登用された四十八歳の女性官僚だった。
彼女は就任の挨拶でこう言った。

「私たちの仕事は、法に従うことです。
法が変われば、私たちは変わる。
それだけのことです」

それだけのことだ、と多くの者が思った。

しかし、それだけのことが、三十年間できなかった。

その事実だけが、静かに、確かに、そこに残っていた。

---

*了*