和田家文書の中から面白いと思ったものを紹介しています。

平將門②のつづきです。



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平將門③


坂東からことごとく国府を追い出した平將門。

思惑のはずれた貞盛は次の手にでます。


摂政(天皇に代わり政務を執り行う役職)の藤原忠平(ただひら)に取り入り、坂東追捕史(ばんどうついぶし、軍事官)の官職を得て將門討伐に向かいました。貞盛は早速下野(栃木県)に向かい藤原秀郷(ひでさと)を官軍に加え、4000騎を挙兵したのでした。



この頃、氷川神社の荒覇吐神に使える巫女に神がかりがありました。




將門よ、風を背にして戦うのだ。汝は蘇我蝦夷より預かりし天皇記及び國記を奉じて貞盛と秀郷を討つのだ。さもなくば坂東は倭国に侵されよう。日高見(東北と関東)を侵しくる賊を成敗するのだ。

そして、秩父の荒覇吐神社の御神体である銅山堂の祀物と、國記・天皇記を陸奥の秘社に移すのだ。

これは蘇我入鹿が甘橿に命懸けで守り坂東に隠して祀った大切なものである。

我は降神山に天降りし東王父なり。よって汝に『神皇(しんのう)』の名を授ける。


‥と。



イマイチ信じきれない將門でしたが、人目に触れぬようそのまま中も見ずに自らの家紋を記したもので大切に包み、それを辰子(側室)に渡しました。

將門は「これを奥州の日本将軍安倍氏の氏神荒覇吐神社へ持っていき、永遠に祀るよう頼んでくれ」と辰子に託したのでした。


辰子はこのとき身重でしたが楓姫と共に奥州に向かい、無事それらを安倍頻良に渡し生保内(秋田県)の石尊寺に落ち着き、楓姫の妹・澤邪姫を生みました。(と仙北風土記にある)



940年、「まだ敵は攻めてこないだろう」と兵達を農作業へと帰した將門。石井館に留守の兵はわずかに800人。その知らせを聞いた貞盛と秀郷は石井館に急襲をかけました。

多勢に無勢の將門。將門は館の者たちを結城岩柵へ逃し、石井館に自ら火をかけました。


石井館を去る時、將門は巫女の言葉を忘れたのでしょうか。風に向かって兵を進めるとその向かい風に乗って敵の矢が猛然と降りそそぎ一族はことごとく射倒されました。そして將門の首にも絶命の矢がつらぬき、

馬から落ちるとともに息絶えてしまったのでした。



將門はなぜ荒覇吐神の忠告に従って風を背にしなかったのか。主を失った將門一門は奥州安倍頻良の元に移り住みました。その安住の地は今の相馬という。



寛政四年(1792年)九月二日

磐城之住 相馬光將

(北鑑 第六巻 より)


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‥と言うことで、長々お疲れ様でした🙇‍♀️

今回は巫女の神がかりがあってややスピリチュアル回でしたね✨


最後生き残った將門一門の落ち延びた先「相馬」とは、今の千葉県柏市や茨城県取手市のあたりかなと思います。



ここまで3回に渡って紹介してきた訳ですが、私自身「何で?」と思う所がありながら、とりあえず原文のニュアンスを崩さないように気をつけて書きました。年号があるものは調べて西暦になおしました。


でねでね、その中で私がとても驚いたのは天皇記・國記が出てきたこと。


天皇記・國記とは古事記・日本書紀よりも古い日本の歴史書です。

飛鳥時代に蘇我蝦夷(そがのえみし・子)が唯一所有していましたが、乙巳の変で蘇我入鹿(そがのいるか・父)暗殺のときに蘇我蝦夷の家が焼かれ、一緒に消失してしまったと聞きましたが❓え、実はあったって事⁉️

うわ、めっちゃ面白いですね‼️


あと、残念ながら怨霊の件はこの段にはありませんでした👻




私の現代語訳が間違っているかもしれません。おかしいな、と思われた方は出典元のこちら⬇️「平將門」の段をご覧下さい。






次回はなぜ平將門が國記・天皇記を持っていたか❓の段をご紹介しようかなと思っています。





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