娘は毎朝、幼稚園から小学校まで同じクラスだった女子全員と通学し、ランチも食堂で一緒に座る。
同じクラスとはいえ、そもそも1クラスしかない小学校であるから、親密度が濃い。

14人いたクラスメイトのうち2人はジプシー家族であるから、彼らは男子なら父親の仕事を継ぐべく働き、女子は16歳の結婚まで母親の手伝いをして家事を覚える。
数人は遠くの学校へ、そして9人が今のハイスクールに入った。
そのうち7人が女子であるから、つまり今は7人で一緒にランチを食べている。

娘としては、これはこれで楽しい。
しかし、別の小学校から来た子達とも友達になっている一方、入学して2年が経過しても今なお、小学校からの同級生以外と友達になれない子もいる。

先日はポーランド人の友人と2時間ほど町に行った。
カーライルは何もないから、町に行くと行っても、まじで何もすることがない。
店もない。
娯楽が映画館かポールダンスストリップ劇場かボーリング場しかない。
娘らが行けるのはマクドナルドだけ。
田舎育ちとは、実に流行りものから遠ざかるのだなと、娘を見ていてそう思う。
だから大阪に行くと、飲食店の多さだけでも夢のような場所だと言う。
カーライルはテレビはあるし、バーもあるが、お巡りは毎日ぐるぐるである。

娘から「エイドリアーノから、うちに遊びにおいでと誘いを受けた」と言われた。
エイドリアーノ?
娘は「チェコ人の両親やから聞きなれない名前やねん。新しい友達、すごく楽しい子」だと言った。
2年前から同じクラスらしい。
ポーランドやチェコ、ルーマニア…実に色々な国からの友達がいて、田舎だけども移民大国イギリスの良い点でもあるなと思う。
多分、都会の学校ならもっと国際色豊かなんだろうと想像する。

私は娘をカーライルで産むとき、1つの心配があった。
自分がカーライルの街中で浴びせられた「Go Home」や雪を投げられた事、客から「あなた…ここで働いているの…?」と怪訝な顔で頭から爪先まで見られて立ち去られた事…
それらを我が子に経験させたくない、そう思った。
しかし小学生の時にそれは娘にふりかかり、繰り返す中で娘は強くなっていった。
「しょうがないよ、一定数無知がいる以上、それは避けられないと理解してる。大袈裟に反応しないことしかない」娘が小学6年の時点でそう自分から言った。

そうだなと思った。
どこに暮らせどそれはある。
娘の今の環境において、お父さんがイタリア人でお母さんがチェコ人、お母さんがポーランド人でお父さんがイギリス人…そういう友達に出会い、自分の両親がイギリス人でない友達に出会った事でまた視野や価値観は広がったように思う。

9月からは息子もハイスクールに入る。
娘は弟に「無知が頭の悪い言葉を言ってきたとしても、相手にするな。傷付く価値も泣く価値もない。1つのパターンしか知らない可愛そうなやつやから」と話しているのを聞き、私が心配しても仕方ないことだと思った。
娘が強くなったことで出会った友達がいるように、息子も自分で切り開くしかない。

娘が初めて、その見た目から言葉で傷付けられ帰宅した日、私は苦しくて許せなくて声を殺して泣きながら娘を寝かしつけた日を忘れない。
何度目かの時、私は我を失ったか娘に「ごめんね、お母さんがイギリス人やったら、こんな事言われなくて良かったのにね」
と言ってしまった事がある。
娘は「お母さんで良かった」と言った。
また娘に余計な気を使わせたと反省した。
今こうして書けるのも、娘が自分で乗り越えて来たからである。
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昨日は息子の小学生最後の日だった。
いつも通り弁当を持って学校に行った。
日本と違い、実にカジュアルな卒業である。

数日前、夫が保護者から貰ったケーキを持ち帰った。
チョコレートスポンジの上にレモンクリームが重なり、更にラズベリークリーム、ほんの少しバナナのババロアが重なった実に綺麗なケーキだった。
イギリスケーキと違い、バターが一切入っていないクリームは軽くてフルーティー、ああ久々にこんな手の込んだ新鮮さのある軽いケーキを食べた。

保護者はチェコから来た家族で、以前夫が担任を持った事がある。
もう今は担任を持っていないが、毎年必ず夏休み前になるとチェコのチョコレートをくれる。
「お世話になったから感謝の気持ち」とお母さんは言う。

チェコから移住してすぐに子供が入学。
夫は夜勤もある工場勤務で、奥さんは英語があまり得意でなかった。
そのため学校の様々な事が分からず、担任だった夫やアシスタント教員が声かけをして分かりやすく説明したりしていた。
それを「親切にして貰った事を忘れない」と未だに感謝してくださっている。
去年ポーランドに行った後、そのお母さんに夫が「ポーランドのケーキが美味しくて、妻がポーランドに住みたい」と言った話をしたらしい。
次はチェコに行こうと思うと話したら、お母さんが今回「チェコのケーキも是非食べて欲しい」と私に丸ごと焼いて来てくれたのである。

イギリスに来て友達も出来ず、話しかけられても上手く返せず、ついつい静かに我が子を見送る送り迎えの時に、幼稚園や学校のスタッフ、クラスメイトのお母さんから話しかけられたら、それは一生感謝するほど忘れないものとなる。
有り難う、私の英語力を理解した上で親切にしてくれて有り難うと、まるで神様に出会ったように嬉しく有難いのである。

この1年で、カーライルはこれまで数年に1度見るか見ないかのシリア系やアフリカ系黒人を、頻繁に見かけるようになった。
非国際田舎町カーライルも、遂に国際色が入って来たのは間違いない。
10年先、多分もっと学校には国際色豊かな生徒が入っていることかと思う。
出来れば美味しいパン屋とケーキ屋があれば言うことなし。
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イギリス人は転職を何とも思わない。
年齢制限もないし、履歴書に写真もないし、採用側が良しとしてくれたら採用される。
公務員でない限り、会社が良いのなら何歳までも働ける一方で、働かないやつは本当に働かん。

昨日はどうしようもない役立たず2人が辞表を出した。
一人は大学で旅行業を学ぶらしい。
一人はスーパーに採用が決まった。
うちの職場より時給も高いからだという。
勤務時間の半分以上を携帯を見て過ごすこの女を採用したスーパーも、外れくじを引いたもんである。

とにかく今日からうちの職場も面接採用が始まる。
携帯依存症の人材だけは勘弁して欲しいが、もう今の時代それは無理なんだろうか。
携帯はロッカーに入れろとルールがあっても、生理ナプキンを取るふりをして携帯を手に持ちトイレに20分消える。
20分も座るなら、掃除くらいして出て来いよと思うが、汚しはしてもそれは無い。
まあ、掃除など移民か下層階級の仕事だと思っていてやるわけないか…

夫のこれまでの職場だって、所変われど教師なのに自分が使ったコーヒーカップは放課後に来る掃除のおばちゃんの仕事だと教室に放置する教師がほとんど。
掃除のおばちゃん達は、私らの仕事やないと絶対に片付けない。
当たり前である。
こうして半年ほど我慢大会が続き、いい加減自分の教室に異物が成長したカップがいくつか増え、自分で仕方無しに片付ける女教師達。
しかし、それがまた続く。

今度こそ良い人!なんか夢のまた夢である。
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たまに土曜日に終日仕事に入る事がある。
週末しか働かない18-16歳アルバイトは実に質が悪く、何故だかうちのマネージャーが面接の権利を与えられず、ウェールズにある人事部のババアがオンライン面接で全員採用したから、過去私とマネージャーが一緒に働いていた職場でクビにした17歳さえ混じっている始末で、履歴書のどこを見て採用したのか全く理解出来ない人事採用の集まりである。

あれから8か月が経過し、面接採用決定権も与えられ、一人一人と良い人材が増えてはいる。
質が悪い18-16歳11人のうち、5人が来月末で去る。
一人は大学に、後はガレッジや別の仕事を探すらしい。
試着室に隠れて携帯20分、トイレで電子タバコ…これを勤務中に繰り返し、まともに働かんやつが自ら去ってくれる。
こんな夢のような話があろうかと、マネージャーと喜んでいる。
新しい職場でせいぜいサボるが良い。

18-16歳で既にニコチンが欠かせなくなってどうする…
サボられる迷惑もあるが、電子タバコだって依存症から抜け出すことは困難になるとも知らずに手を出すのである。

9月から新しいアルバイトの面接採用が始まる。
とにかく時間通りに来る、返事をする、ゴミをゴミ箱に入れる、バーイと言って帰る…これが出来るアルバイトを採用したい。
イギリスはこれが出来たら採用である。
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先週、娘の学校で「スポーツに関わってくれて有り難う」みたいなパーティーがあり、娘も呼ばれて行った。
運動部に入っている、または学校選抜の大会などに抜擢された児童に対して学校が有り難うね、みたいな感謝をしてくれる茶話会みたいなパーティーである。

で、この学校のパーティーというか茶話会は夕方5時過ぎから始まり、8時前にお開きとなる。
一応「スマートカジュアル」な服装で来てくれという条件がある。
正装過ぎないシュッとした服装…
13歳がかい…
娘は「皆ドレスで行くって言うてる」と言った。

そもそも、部活といっても週1のたった1時間、しかも半年しかない。
先生の負担がないよう、そうなっている。
だから近所の学校と試合はあれど、日本の部活みたいに春の新人戦、夏のブロック大会、大阪選抜、さわやか杯…みたいなタイトルの大会なんか無い。
部活のメンバーや顧問とも、深い信頼関係があるわけでもなし、そんなものは構築されないまま部活は終わる。
それなのにパーティーである。

娘は黒いワンピースにGジャン、私が昔履いていたコンバースで行った。
待ち合わせ場所に連れて行くと、同級生らがハイヒールに背中がお尻まで開いたドレスを着て立っていた。
髪は巻き、化粧は化粧品カウンターのスタッフばりの完ぺきフルメイク、ネイルで登場。
娘が私に「な?私はあの中ではまともやろ?」とニヤッと笑い車から降りていった。
娘よ…強くあれ…

夜は夫が仕事帰りに娘を迎えに行った。
同級生の格好がそんなと知らない夫は、学校の門の前で車を停車し娘を待っていたが、立ちんぼが立っている娼婦通りかと間違うくらいの格好をした少女がズラリ立っていて、13歳にあれで行かせる親は何を考えとんねん!と帰宅して呆れていた。
親の価値観それぞれである。
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私は最初の子が娘だったから、まあしかし幼稚園から女の子という実にややこしく複雑な生きざまを見せつけられた。
女の病とも言うべき、その複雑かつ巧妙なやり口に、私は悩み娘は泣き、そして母娘と共に強くあらねばと今に至る。
結局、幼稚園から先生にも疎まれ、友人らを泣かせてきた病持ちの女の子は、今はあまりにも無残に友人はうちの娘だけとなり、その娘も「私が離れたら一人になってしまう」という同情からの友情を保つのみである。
幼稚園から中学まで泣かされた生徒の母親は皆、自業自得と笑う。

で、下の息子は数える程のイザコザに巻き込まれたが、しかし男子はアッサリ仲良しで終わる。
勿論、人を泣かせたり殴ったりとキレやすい男子に困ることもあったが、それも1、2人だけで、翌日にはまた一緒に遊ぶのが男の子だと知った。
であるから、息子のクラスにもいるであろう問題女子が私には全く分からず、息子に聞いても勿論知るはずもない。
仲良しのお母さんは男の子2人のお母さんで、女子というものが幼稚園から小学校において、実にややこしいのだと知らない。
女の子を持つと入ってくる情報が、男の子を持つとまるで皆無になる面白さを体験した。

私の職場も16歳から17歳の同じハイスクールのアルバイト達がいるため、まあ悪口合戦で忙しい。
互いがそんなに気になるのだろうな…若いときは…と自分もそうだったのだけれど、今は腰や手首の痛みに気が向き、ババアはそれどころや無いのである。

不思議なもので、ある時からふと悟ったように人が気にならなくなり、どうだって良い、一人で良い、一人が良いとなる年齢がくる。
それまでは、しかし実にややこしい。
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職場で気になるリストカット癖のあるバイトの女の子が辞表を出した。
16歳になり、ハイスクールも卒業し、進学も出来る学力も気持ちもないし、やってみたいことが1つあるから…というのか理由だった。
アーミーに入隊するという。

アーミーなら自分に出来る、向いている何かが見つかる、見つけてもらえるかも知れないし、資格も取れる。
何に向いているか分からず、何が出来るのか自分でも検討がつかないから、とりあえずアーミーに入ると言った。
まさかの選択に、それもアリかも知れないと思った。

中は甘くはない。
同僚の弟は3週間で海軍訓練を辞めた。
いじめもあるし、力自慢をしたい若者らが意味なく喧嘩を吹っ掛けてくる。
大人しい性格はすぐにターゲットにされ、仲間意識が出来る前に耐えられないという。
海軍にいた義兄は「喧嘩慣れしてなかったらキツイ」と言っていた。
訓練に入る前にそれがキツイらしい。
女の子の場合はまた違うかも知れないが、自分に挑戦する気持ちがあるだけ良かったと思う。

ハイスクールはとりあえず卒業し、しかし別に働きたくはないし、でもバイトはやっとこうか…みたいな16歳がうちに2人いるが、目は死んでいて、何を教えても返事はないし、お願いしたらため息をついて壁に持たれて一点を見つめるやる気のない若者よりは、アーミーに入って挑戦したい彼女を応援したい。
駄目だったら戻っておいでや!と言うと、「そうならんように願うわ」と笑った。

アーミーか~
ちょっと尊敬する。
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私が初めてイギリスに来て暮らしたのは、マンチェスター空港からさほど遠くない場所で、マンチェスターユナイテッドの選手が多く暮らす高級住宅地に近い場所だった。
夫の両親が住んでおり、そこに同居させてもらった。
とにかく何もかも高い。
スーパーも飲食店も不味いくせ高かった。

そうしてカーライルに移り住み、その物価の違いに笑みがこぼれた。
良かった…イギリスにも庶民的スーパーと飲食店があるのかと、田舎だったが嬉しかった。
私がカーライルに来て出来た友人の一人が、乳牛牧場家庭の人で、乳業や農家の現状を話してくれたり、だから大手スーパーではなく、野菜や肉、乳製品や卵は個人店で買ってあげて欲しい、それが個人経営農家を助けることになるからと教えられた。

我が子が幼稚園に入り、やはりローカルの農家や畜産を助けるための取り組みがたまにあり、地元民や保護者はちゃんと協力していて、大切なことだなあと思った。
義母も幼稚園や小学校のそういう取り組みには必ず参加してくれたし、私は生きてきて地元密着型農家や畜産から買い物をする考えさえなかったために、多少値段はスーパーより高くても、間違いのない品質であることに違いなく、友人のおかげで未だそれは続けている。

来週は息子の小学校卒業式である。
で、日本でいうところの茶話会がある。
漢字で表すとダサい…
ピザをピザ屋から配達して貰うのであるが、カーライルに唯一ある市場とも言えない市場の中にイタリア人のやっているピザ屋があり、ここから配達してもらう。
ドミノピザもあるが、ローカルを助けないと‼️運動により、毎年そこから買う。
カーライルでは抜きん出てピザが旨いし、アランチーニ(ライスボール)はカプリチョーザより旨い。

地元の個人経営を助ける。
小さな頃から教えられ、自然とそれが刷り込まれていく。
何とも有り難き教育現場である。
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昨夜7時から息子の小学校で、卒業生による劇があった。
毎年あり、娘の時はクラスメイト14人によるジャングルブック、今年は息子のクラスが32人いるためスケール大きめの劇になり、1941年第一次世界対戦の最中のクリスマス当日、ドイツ軍の若者兵隊らと、イギリス軍の若者兵隊により停戦が実施され、その日だけは敵味方関係なくサッカーをしてクリスマスを楽しみ、互いに明日から再び殺しあわねばならない事を1日だけ忘れて最後は握手をして互いの陣地に戻り、翌日から望まぬ殺しあいを再開せねばならなかった若者たちの実話を劇にした。

ウクライナは子供病院が爆撃を受けたばかりである。
ガザ地区のことなど学習した今年の卒業生であるから、先生はこれを選んだのかもしれない。
兵隊の役の男子が着た衣装は実際にアーミーから借りた。
近くに基地があり、そこには陸軍の活動に興味のある子供達が所属し活動している。
その子供達から借りた。

ちなみに海軍にいた義兄も、幼少時代から空母や潜水艦に興味が強かった為に小学生の頃から子供海軍に所属、16歳になるのを待って入隊し、核爆弾搭載潜水艦のエンジニアチーフとして16年働いた。
こうして子供の頃から興味をもって貰い、数多くの入隊希望者を確保するためでもある。

夜、ベッドに入った息子が「僕、空軍のエンジニアか戦闘機をデザインする人になりたい」と言った。
息子は私が昔トップガンの映画を見てトップガンになりたいと父に言ったら、「アホかお前無理やで。アメリカ人ちゃうもん」と言われ、アメリカ人しかトップガンに入られへんと知り、夢が音を立てて崩れた話を知っている。
私は息子に「そうか、ほな頑張って勉強せなあかんな」と言った。

義母が息子を16歳で海軍に送り出す時、心情は複雑であったと話したことがある。
どの親だってそうだと言った。
願わくば厳しい訓練に耐えれず帰って来たら…と思ったが、研修期間を終了すれば数ヶ月どこの国にどんな任務で行っているのかさえわからない。
帰宅しても聞くことも話すことも許されない。
ロシアの潜水艦を追跡しているのだろうと予測しているだけだったが、未だ守秘義務があるため実際に義兄がどんな任務だったのかは誰も知らない。

深い劇だった。
幸い先生の一人が、昔オペラ座で衣装と脇役メイクをしていた人であるから、劇とはいえ衣装とメイクはかなりハイレベルでリアルに仕上げられている。
あと1週間ちょっとでお世話になった小学校ともサヨナラである。
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誕生日の翌日は土曜日で、私は休みだったので、文具用品や包装紙、画用紙や紙類を入れている4段式の引き出しの整理整頓をした。
子供らがハサミやらセロテープやらを使ってあちこちに入れるから、定期的にやる。
この引き出しは義母がやはり文具用品入れなどに使っていて、キッチン端の犬の檻の横にある。

誕生日カードと誕生日用の包装紙を入れている段に来て、私は包装紙をガバッと掴み、一度床に取り出した。
するといくつもある包装紙の間から、黒い布袋が出てきた。
何かと思い中を開けると、義母が常に身に付けていたオメガの腕時計がプチプチ(例の梱包用のやつ)にぐるぐる巻きにされて布袋に入っていた。

ビックリした。
私はてっきり義母は腕に付けたまま棺桶に入ったと思っていたからである。
ロックダウン中、病院で義母の最後を看取ってくれたナースが「ネックレスや指輪は着けたまま送りました」と教えてくれたからである。
入院中でも必ず腕にしていた腕時計が、何故あるのか…
私はビックリした。

芝刈り中の夫に走りより、私はそれを見せた。
夫は「ここに隠して行ったんや…」と、しばらく呆然としていた。
私は知らなかったが、義母はロックダウン中に心筋梗塞をお越し入院、その時、横のベッドに入ってきた患者が感染者だと病院は知らずに大部屋に寝かせた。
そして義母は感染した。
心筋梗塞の手術は成功して帰宅。
帰宅して3日後に呼吸困難を訴え救急搬送され、そのまま帰らなかった。
この呼吸困難を起こす前の日、義母はうちの夫に「腕時計が動かない。電池交換したいけどロックダウン中やから無理かな…」と電話で話している。

翌日、自ら異変に気付き救急車を呼んだらしいが、どの段階で腕時計にプチプチを巻いて布袋に入れ、更に誰も見ることがない包装紙の間に入れていたのか…
もう自分はここに戻ることはないと分かって行ったのだと思う。
包装紙なら、よほどこの引き出しを整理整頓しなければ間からこぼれ落ちない、そう考えたのではないか…
私は4度ここを整頓していて、3年過ぎた今に発見した。
誕生日は朝から仕事、夕方は子供の空手教室、夕飯を食べさせ風呂に入れて私は9時過ぎにパックしたまま寝てしまい、娘に「布団入りや…下の戸締まりしとくから」と言われ誕生日終了。
翌日は余韻もなく引き出しの整理整頓。
別にやらんでも良かったが、何故がその日に気になった。

全く不思議である。
ちなみにセロテープばかり入れているところからは、グッチのサングラスが出てきた。
思わず、あのデカサングラスに腕を通さず肩からかけた白いジャケット、赤い口紅の義母の姿を思い出す。
帽子を前斜めに被ったらジュリーやで、ほんまに…
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