執筆依頼は、当初「英語の勉強法」について書いて欲しいというものでした。


入塾時の選抜なしですから、毎年、様々な学力の生徒が入塾しています。


にもかかわらず、県内上位20%に確実に入れて続けているというところに関心を持っていただきました。


英語の指導力を評価していただいたのですから二つ返事でOKして、いざ構想を練ってみたものの、実際に自分がやっていることは基本中の基本ばかり。


3ヶ月に1回のペースで単語テストを行い、8割を超えなかったら、満点が取れるまで毎日呼んで個別指導。知らない単語を溜め込まさせないよう、とりわけ品詞は丁寧に、単語をしっかりと身につけさせる。


毎週の授業では、学校の教科書の例文をベースに、単語を変えただけの英作問題を繰り返します。ここでは品詞が同じであれば互換できるというイメージを持ってもらうことに尽力します。ちなみに、日々の授業での宿題は原則としてありません。


そして、語彙を持たせて、文法を染み込ませた上で、中3の夏辺りからは、私が精選した英語長文(A4裏表)を授業で解説。それを毎週1つないし2つ、音読を繰り返して読み込んでくるよう指示する。


それだけです。なんにも真新しいことない。

語学を学ぶ王道。こんなの誰もがすでに知っていることです。


要は、単語やって、文法やって、たくさんの英文に触れるってことですからね。


こんなの偉そうに本にしても売れるはずがない(笑)


結局、これが王道で、これが一番なのはわかっているけれど、やらない、やれない、ということに語学の難しさ、多くの人の悩みがあるわけです。


つまり、どうしたらこれをやってくれるのかって考えて作ったウィルの指導システムが、英語力を伸ばしているわけで、指導内容で伸ばしているわけじゃない。


ということで、早々に頓挫しました。


編集者の方からは、「では、その指導システムといいますか、考え方や生徒への声かけの仕方などを書かれては?」なんて言われましたが、これはもっと売れない(笑)。だってこれこそやっていることは至極当たり前のことばかりだから。


授業は間違えてなんぼ。ピアノでも、野球でも、柔道でも、できないことをできるようにするために練習するわけでしょう?できないことをやるんだから、できなくて当然。どうやったらできるようになるだろうか?って考えて繰り返すことが連鎖でしょう?授業も一緒。間違えまくれ!


とか、


君たちは、失敗する権利を持っているんだから、ガンガン挑戦して、ガンガン失敗しなさい。怒られるなんてことはない。だって、怒られないようにしようとしたら、挑戦しない方が、できないことをやらない方がいい事になっちゃうもんね。


とか、


「過ちで改めざる。是を過ちと言う。」というように、失敗を改めることなく、無為に繰り返していることが責められるべき過ちであって、過ちを正しく区別しないとね。


とか、


勉強は練習。時間じゃなくて、何ができるようになったのかだから、どれだけ変化したかに、成長したかに目を向けること。できるようになったことを指折り数えて終えましょうね。


とか、


忘れることは、勉強した時間をゼロにしてしまうということ。こんなにもったいないことはない。とにかく忘れないように。知識は貯めて、積んでいくものだよ。


のようなことを、何度も何度も繰り返して、生徒たちの心に刷り込んでいく。


できない理由は、わからないからではない。

考え方が、できなくさせているだけだ。


ゆえに、全員をできるようにするためには勉強を教えていてはダメだと気づいた。


だからこそ、考え方を刷り込む。でも、1回言えばわかる子もいれば、5回言わないと、いや10回言わないと、本当の意味でわからない子もいる。


ではどうしよう。


そのために、早めに入塾してもらって、後から入塾してくることのないように定員制にした。


この考え、この仕組みを書いたところで、誰のための何?って話しです。


でも、せっかくいただいたチャンスです。さて、どうしようか、ということで今、書いているのは英語を勉強する上での補助的なものです。


これがあったらよりやりやすいな、というような痒いところに手が届く本にしたいと考えています。

出版社から執筆の依頼がありまして、その過分な評価に乗せられて引き受けたはいいものの、まったく進まず、書いては消し、書いては消しての毎日。
ひとたび世の中に出てしまったら直せないというプレッシャーたるやそれはもう…
本を書いている人はこれほどまでの思いで書いているのかと、ただただ平伏するばかりです。
ふと気がつくと、2006年から続けてきたブログにもかかわらず、すっかり忘れてしまって書いてない。

ということで、久しぶりのブログです。


しばらくの間は、頭の中にあるモヤモヤを整理するために書かせてください。





塾経営において最も重要なことは、教務よりも営業、マーケティングだと言われる昨今。


なぜなら、教務で他の塾を上回るような成果を上げ続けることは、とんでもない努力と技量が必要になるにもかかわらず、市場がそれに見合うほどの評価をするまでにかなりの時間がかかる、つまり即効性がないからだそうです。


一方、良さそうに見せるため、心を掴むための営業戦略は、すぐに、そして多くの方に評価されるという。


なるほど。なんとなくわかってしまう。


でも、それだと仮に生徒が増えても、自分の存在意義を感じられない。


「あなたがいてくれて良かった」

「あなたに会えてよかった。」


あなたが死ぬまでに、何人の人にそう言ってもらえたか、それがあなたの人生の価値だと、そんな感じのことを学生の頃に読んだ本に書いてあって、なぜだかストンと腹に落ちた。


それ以来、自分の人生の目標は、「自分の葬式に集まってくれる人数を増やす」こと。


教務にトコトンこだわって、ウザいくらいに真剣に向き合って、教え子一人一人の人生をほんの少しでも良い方向に変える。そうでなければ、私のお葬式になんて集まってくれないです。



今週金曜日まで、塾は休館日となっています。

 

さて、日本人ならおそらく知らない人はいないこのフレーズ。

 

ファイト!一発!

 

調べてみると1977年からずっと続いているCMだそうなので、今の子たちも聞き覚えがあるのではないでしょうか。

 

しかし、そのCMがちょっと様相を変えてきてるんです。

 

新シリーズがこれ。 

 

僕らは、頑張りすぎなくていい時代に生きてる。

ほどほどでなんとかなるし、がむしゃらなんて古くさい。

 

でも、だけど、

頑張ったっていいだろ!

 

その頑張りは誰かが見てる。


誰だ?

自分だ。

 

 

基本的に、資本主義自由経済というのはパイの奪い合いだ。自由競争になる以上、競争は本質的に避けられない。

 

しかし、過度な競争は心の疲弊や慢性的な不安、ひいては社会の停滞を生む。

 

このような社会の中で、「がむしゃら(後先を考えずに、ただひたすらに事をなすこと)を美徳にするのは確かに危険だろう。

 

バブル期の「24時間、戦えますか?」は流石にヤバすぎる。


 

かといって、「頑張る(困難に負けず我慢して目標に向かって努力し続けること)ことを美徳にしない風潮は、それを遥かに上回って極めて危険ではないだろうか。

 

そもそも、今の日本が経済的に苦境に立たされているのは、もちろんいろいろな要因はあって、それらが複雑に絡み合ってのことだとはいえ、要は国同士の競争に負けているからだ。

 

かつて、「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、世界一の労働時間で働きまくった日本人も、いまや労働時間は平均以下になっている。

 

OECD加盟国38ヶ国の労働時間ランキング

日本よりも労働時間が少ない国は、ラトビア、イギリス、フランス、フィンランド、ルクセンブルク、スウェーデン、オーストリア、ノルウェー、オランダ、デンマーク、ドイツと、EUの恩恵を受ける国しかない。

 

ちなみに、OECDに加盟していない中国の年間労働時間は2450時間(特に中国インターネット大手企業に限定すると3600時間!?)だというから衝撃だ。これでは勝てるはずがない。

朝9時から夜9時まで週6日働く「996」という言葉が流行

 

言うまでもなく、お金は大事だが、命を削ってまですることではなく、それゆえに仕事に頑張り過ぎて体や心を壊すなんてのは本末転倒だ。

 

しかし、頑張れる力は現代社会においてあらゆる分野において鍵となる力だと言われる。いわゆるgritと呼ばれる力だ。


※ 彼女の研究を要約すると、


才能 × 努力 = スキル 

まず、才能があっても努力しなければスキルは伸びない。


そして、


スキル × 努力 = 成果

スキルある人が努力し続けると成果が出る。


つまり、努力はどちらにも掛かる。


よって、才能よりも努力のほうが重要


という理論。


だからこそ、頑張る力を育てていかなければならない時期の子どもに、「ほどほどでなんとかなるし、がむしゃらなんて古くさい。」という空気を吸わせることはどうなのだろう。

 

鵜呑みにして「ほどほどでいい」と思った子と、「頑張ったっていいだろ!」の子の間に、「頑張れる力」の格差が生まれてしまうのではないか。

 

努力できる幅は、過去に努力した限界までだ。努力できる幅は、限界をほんのちょっとを超えることで広がっていく。


腕立て伏せで例えるなら、連続10回が限界の人に、いきなり連続30回やれと言ってできるはずがない。

 

明日11回にし、それができるようになったら12回、そして13回と、少しずつ増やしていく。そうすることでしか、できる回数は広がっていかないのだ。気合いで増やせるのはせいぜい1回や2回だろう。

 

 

戦後の日本の偉人たちの本を読むと必ずといって出てくる、「戦地と比べれば」とか「あのシベリア抑留の日々を思えば」という言葉。彼らがそれこそ「がむしゃら」に働けたのは、限界までの幅が異次元だったからだと思う。

 

努力の幅は、どんなことにも繋がる。あらゆる可能性を引き上げる。


そして、可能性の格差は、生活レベルの格差を生む。

 

これが極めて少ないことが日本の魅力だと思う。これまで10ヵ国以上に滞在したが、日本ほど格差を感じない国はなかった。

近い将来、世界の大半の国と同じように、日本も格差社会になっていくのではないか。

 

怖いような、逆に頑張る側にとっては競争が減って楽になるわけで、教え子たちにとってはそっちの方が良いような、なんとも複雑な気持ちになる。