出版社から執筆の依頼がありまして、その過分な評価に乗せられて引き受けたはいいものの、まったく進まず、書いては消し、書いては消しての毎日。
ひとたび世の中に出てしまったら直せないというプレッシャーたるやそれはもう…
本を書いている人はこれほどまでの思いで書いているのかと、ただただ平伏するばかりです。
ふと気がつくと、2006年から続けてきたブログにもかかわらず、すっかり忘れてしまって書いてない。

ということで、久しぶりのブログです。


しばらくの間は、頭の中にあるモヤモヤを整理するために書かせてください。





塾経営において最も重要なことは、教務よりも営業、マーケティングだと言われる昨今。


なぜなら、教務で他の塾を上回るような成果を上げ続けることは、とんでもない努力と技量が必要になるにもかかわらず、市場がそれに見合うほどの評価をするまでにかなりの時間がかかる、つまり即効性がないからだそうです。


一方、良さそうに見せるため、心を掴むための営業戦略は、すぐに、そして多くの方に評価されるという。


なるほど。なんとなくわかってしまう。


でも、それだと仮に生徒が増えても、自分の存在意義を感じられない。


「あなたがいてくれて良かった」

「あなたに会えてよかった。」


あなたが死ぬまでに、何人の人にそう言ってもらえたか、それがあなたの人生の価値だと、そんな感じのことを学生の頃に読んだ本に書いてあって、なぜだかストンと腹に落ちた。


それ以来、自分の人生の目標は、「自分の葬式に集まってくれる人数を増やす」こと。


教務にトコトンこだわって、ウザいくらいに真剣に向き合って、教え子一人一人の人生をほんの少しでも良い方向に変える。そうでなければ、私のお葬式になんて集まってくれないです。



今週金曜日まで、塾は休館日となっています。

 

さて、日本人ならおそらく知らない人はいないこのフレーズ。

 

ファイト!一発!

 

調べてみると1977年からずっと続いているCMだそうなので、今の子たちも聞き覚えがあるのではないでしょうか。

 

しかし、そのCMがちょっと様相を変えてきてるんです。

 

新シリーズがこれ。 

 

僕らは、頑張りすぎなくていい時代に生きてる。

ほどほどでなんとかなるし、がむしゃらなんて古くさい。

 

でも、だけど、

頑張ったっていいだろ!

 

その頑張りは誰かが見てる。


誰だ?

自分だ。

 

 

基本的に、資本主義自由経済というのはパイの奪い合いだ。自由競争になる以上、競争は本質的に避けられない。

 

しかし、過度な競争は心の疲弊や慢性的な不安、ひいては社会の停滞を生む。

 

このような社会の中で、「がむしゃら(後先を考えずに、ただひたすらに事をなすこと)」を美徳にするのは確かに危険だろう。

 

バブル期の「24時間、戦えますか?」は流石にヤバすぎる。


 

かといって、「頑張る(困難に負けず我慢して目標に向かって努力し続けること)」ことを美徳にしない風潮は、それを遥かに上回って極めて危険ではないだろうか。

 

そもそも、今の日本が経済的に苦境に立たされているのは、もちろんいろいろな要因はあって、それらが複雑に絡み合ってのことだとはいえ、要は国同士の競争に負けているからだ。

 

かつて、「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、世界一の労働時間で働きまくった日本人も、いまや労働時間は平均以下になっている。

 

OECD加盟国38ヶ国の労働時間ランキング

日本よりも労働時間が少ない国は、ラトビア、イギリス、フランス、フィンランド、ルクセンブルク、スウェーデン、オーストリア、ノルウェー、オランダ、デンマーク、ドイツと、EUの恩恵を受ける国しかない。

 

ちなみに、OECDに加盟していない中国の年間労働時間は2450時間(特に中国インターネット大手企業に限定すると3600時間!?)だというから衝撃だ。これでは勝てるはずがない。

朝9時から夜9時まで週6日働く「996」という言葉が流行

 

言うまでもなく、お金は大事だが、命を削ってまですることではなく、それゆえに仕事に頑張り過ぎて体や心を壊すなんてのは本末転倒だ。

 

しかし、頑張れる力は現代社会においてあらゆる分野において鍵となる力だと言われる。いわゆるgritと呼ばれる力だ。


※ 彼女の研究を要約すると、


才能 × 努力 = スキル 

まず、才能があっても努力しなければスキルは伸びない。


そして、


スキル × 努力 = 成果

スキルある人が努力し続けると成果が出る。


つまり、努力はどちらにも掛かる。


よって、才能よりも努力のほうが重要


という理論。


だからこそ、頑張る力を育てていかなければならない時期の子どもに、「ほどほどでなんとかなるし、がむしゃらなんて古くさい。」という空気を吸わせることはどうなのだろう。

 

鵜呑みにして「ほどほどでいい」と思った子と、「頑張ったっていいだろ!」の子の間に、「頑張れる力」の格差が生まれてしまうのではないか。

 

努力できる幅は、過去に努力した限界までだ。努力できる幅は、限界をほんのちょっとを超えることで広がっていく。


腕立て伏せで例えるなら、連続10回が限界の人に、いきなり連続30回やれと言ってできるはずがない。

 

明日11回にし、それができるようになったら12回、そして13回と、少しずつ増やしていく。そうすることでしか、できる回数は広がっていかないのだ。気合いで増やせるのはせいぜい1回や2回だろう。

 

 

戦後の日本の偉人たちの本を読むと必ずといって出てくる、「戦地と比べれば」とか「あのシベリア抑留の日々を思えば」という言葉。彼らがそれこそ「がむしゃら」に働けたのは、限界までの幅が異次元だったからだと思う。

 

努力の幅は、どんなことにも繋がる。あらゆる可能性を引き上げる。


そして、可能性の格差は、生活レベルの格差を生む。

 

これが極めて少ないことが日本の魅力だと思う。これまで10ヵ国以上に滞在したが、日本ほど格差を感じない国はなかった。

近い将来、世界の大半の国と同じように、日本も格差社会になっていくのではないか。

 

怖いような、逆に頑張る側にとっては競争が減って楽になるわけで、教え子たちにとってはそっちの方が良いような、なんとも複雑な気持ちになる。

今日はウィルの教育理念について書かせてください。


長くなりますので、目次をつけますね。



 教育の目的は自立にあり。よってウィルの目標は「自分で勉強できる人」に育てること。


文部科学省は、教育の目的を「生きる力」の育成としています。社会の中において、自らの力で考え行動する「自立」と、他者と支え合い共に成長する「共生」を両立させることだとしています。


ここに異論はありませんし、国が掲げていることに反抗なんてしません。


では、そこに向かうために、ウィルはどうすべきだと考えているのか。ウィルの掲げる目標は「自分で勉強できる人」にすることです。



ちなみに「自分で勉強できる人」とは、文字通りに自分でペンを持って、机に向かって、学ぶことではありません。それならすでにみんなやってるでしょう。

 

ウィルが考える「自分で勉強できる人」とは、

 

① 自分が求める姿になるために、補強すべきところに目星を付ける。

→ そのためには、何ができていて、何ができていないのか、今の自分の状態を知らないといけない。その上で、今の自分と求める姿との距離を測って、縮めるためにすべきことに目星を付ける。


ちなみに、ここで気をつけるべきは、ネガティブな気持ちにならないことです。今の自分を否定するのではなく、これが備わったらもっとよくなる!とポジティブな気持ちで探すことです。

 

② 足りないものの目星が付いたら、では、それを解決するにはどうしたらいいのか。その方法、作戦を立案する。

→ 足りないものを埋めるためには、どうやってやるのがいいのか。どこでやるのがいいのか。誰とやるのがいいのか。そして、誰に助言を求めるのがいいのか、を考える。


成功する方法なんてものは1つじゃない。それこそ無数にあるわけで、その中から自分にとって、一番手をつけやすく、かつ継続してやれそうなものを選べばいい。


なにより大事なことはやり続けられること。やり方じゃない。どんなに素晴らしい方法もやらなければ効果は出ないのだから、自分の適性、性格、環境を考慮して、一番自分に合うものを選択しましょう。

 

③ その作戦を遂行する。

→ 後はそれを遂行する(→ 実行してやり遂げる)だけ。作戦を遂行する際に大切なことは、遂行中、目的がどこにあるのかを常に意識しておくことです。


作戦はあくまでも数ある手段の一つ。手段は目的のために行われるものであって、逆に言えば、その目的が達成されるならば、立案した手段にこだわる必要なんてない。ぶっちゃけ計画通りに行くことなんてないと割り切って、やり良い方法、やりやすい量にどんどん修正していくべきです。


繰り返しになりますが、目的の達成のために最も重要なことは①でも②でもない。③です。


その③を為す上で最も大切な継続をしていくために、もし①や②が足枷になるのなら、立てた作戦なんかにこだわらず、自分のやりやすいように随時変更していく柔軟性を持ちましょう。

 

そして最後は、③の遂行した成果を検証して、うまくいってなければ①や②に戻る。そうやって随時修正しながら繰り返していく。

 

やってすぐうまくいくことの方が珍しい。


やって、失敗して、直して、やって、そうしながら自分の求める姿を目指し、叶えていく。


つまり、自分で勉強できる人とは、学ぶ力のある人。「できない」を「できる」に変える力のある人。高い問題解決能力のある人のことです。

 

長々と書いてきましたが、これを流行りのAIにまとめ画像を作らせてみると、こんな感じになりました。

 





色々と作ってはみたんですが、どうも漢字がうまくいかないんですよね。


仕方がないので、問題解決能力で検索してみたら、こんなわかりやすいサイトが見つかりました。非認知能力を高める5つの力 ⑤課題解決力 より引用。

 

 

たくさんの画像を見ていただいて、少しでもイメージがクリアになってもらえたら嬉しいです。

 

 ウィルは、基本的に宿題を出さないことにしています。

 

さて、自分に足りないもの(課題)を見つける。→ その課題はどうすれば解決されるのか、いくつか挙げられる解決策の中で、より自分のやりやすい方法を選ぶ。→ 実際にそれを試してみる。

 

このサイクルを回すことで、自分で自分を成長させていける人、それがウィルの考える「自分で勉強できる人」。

 

自分はどうしたらいいのか、誰と、どこで、何を、どれだけすれば問題は解決され、目的は達成されるのか。こういったことを主体的に考えられる力を育成したい。


まずそのために、ウィルでは20年以上前から、宿題は基本的に出さないことにしています。

 

宿題を出すとは、課題をこちらが見つけて、その解決策をこちらが考えて、そしてそれを相手にやらせることです。自分事に落とし込めるような精神年齢高めの生徒ならまだしも、大抵の生徒はそうではありません。


強いられればやりたくない。どうしたって受け身になる。やっつけ作業になる。そうすると怒られますね。ここで生徒が選ぶ道は3つです。

 

① 自分事に落とし込んで、成長する。

② 反発して勉強が苦行になる。

③ 潰されて従順な羊になる。

 

 名門校は「やらせない」

 

よく言いますよね、東大や京大、一橋のようないわゆる凄い大学に行っている人ほど「親から『勉強しろ』と言われたことがない」と。



この仕事をやる前は眉唾でしたけれど、やってきた今ならよくわかります。これ、正しいです。

 

『勉強しろ』と言われて、やらされて、できる側にいられるのは、中学生くらいまででしょう。余程の強制力を持った人がやらせて、余程の従順な人が生徒であれば、ちがうかもしれませんが。

 

東大や京大のような、いわゆる凄い大学に行っている人に『勉強させられていた』人がほとんどいない理由。


それは、勉強は、自分事としてどれだけ捉えられているかによって、その効果が大きく変わってくるものだからです。※ これは勉強に限った話ではなく、スポーツにおける練習も、会社における仕事も同じですよね。やらされていることは、ただの作業でしかないですから。

 

上位難関校に進学した場合、努力していない子が多かった中学生までとは環境がまったく違います。基本的にはみんなやります。同じ時間を勉強に費やしたとして、その中で差がつくのは「どれだけ自分事にしているか」。つまり自分で勉強できるかです。

 

① 自分には今、何が足りないのか。これを誰かと相談しながらでもいい。自分で探す。

② その足りない部分をどうしたらもっとも効率よく習得できるか。これもまた誰かと相談しながらでもいい。自分で見つける。

③ 自分で見つけたのですから、まさに内発的な動機。「むしろ今すぐにでもやりたい。」「やったらどうなるのかを知りたい。」その漲るパワーで取り組めます。

 

ただそうやって取り組んでも、だいたいうまくはいきません(笑)。でも、それもまたいいのです。

 

だって、自分で考えた作戦だから。


うまくいかなかった。では「何が問題だったのか。」「次はどうすればいいのか。」自分の思い通りにいったところと、そうではかったところを検証して、次の作戦の立案に臨む。これもまた楽しい。

 

一方で、やらせられていた子というのは『課題の発見』『課題の解決案の作成』『課題の解決案の遂行』のすべてを「誰か」が代行しています。


「誰か」が課題を指摘してくれて、「誰か」がその課題を解決する方法を提示してくれて、そして「誰か」がそれをやらないことを叱る。

 

これではパワーに差が出るのも当然です。また、自分のやりやすいようにアレンジする余地も、経験もないですから、もっとも大切な継続すら徐々に難しくなっていく。たとえ時間だけは同じ時間を費やしていたとしても、効果に差が出るのは当然でしょう。

 

 最初はやらせるでもいい。やらないよりは遥かにいい。でも、

 

教育は、相手の発達段階に応じてアプローチを変えていかないといけないということです。

 

最初から自分でやるなんてことは稀です。実際にいますけれど、わずか数%です。そんな稀なことが我が子に起きようものなら、それはもう宝くじに当たったようなもの。


実際にはなかなかそうはなりませんから、最初はやらせるというアプローチから入らざるをえません。これはもうしょうがない。

 

とはいえ、いつまでも「やらせるフェーズ」から抜け出せないようでは問題ですから、徐々に双方向のアプローチに変えていき、判断を相手に少しずつ委ねていく必要があります。

 

これは先日の授業、私の板書です。授業後に撮りました。ちなみに社会科です。かろうじて左隅に社会科の香りがします。

 

こうやって粘り強く生徒たちに語り続ける。小学生、中学1年生、2年生と、諦めずに定期テストごとに伝え続けていく。1人が動けば、その人を見てまた1人が動く。徐々に人数が増えていくと、ある瞬間に一気に大勢が動き出す。


 知識を入れるには、個別指導の方が効率がいい。でも、心を育てるには、集団指導の方が効率がいい。

 

専門用語はあまり使いたくないのですが、指導方法には、大きく分けて teaching と coaching があります。

 

 

 

 

coaching とは、知識を教える(ティーチング)のではなく、相手が自ら考え、行動し、目標を達成できるようにサポートするコミュニケーション指導法のこと。一定の時間を要するが、表れた効果はほぼ永続的なものになる。※ AIで調べてみました。


そして、coaching は集団が持つ力学を利用した方が効果的です。人は多数派に引き寄せられるものですからね。


今の私の指導力では、まだ全員を動かすことはできず、毎年7~8割くらいの生徒までしか動かせられないのですが、動けるようになった生徒はみんな爆発的に伸びていって、しかもそれは高校進学後もそうそう変わりません。

 

こういった指導法が、入塾時の選抜なしの先着順(毎年様々な学力の生徒が入ってきます)で、宿題も課題もほとんど出さないのに、毎年7割くらいの生徒が県内の上位20%以内に入っていく要因なのだと思っています。

 

学ぶとは何か。今、君たちに必要なことは何かを粘り強く伝えて、自分ごとに落とし込めるように働きかける。その上で、やるかやらないか、最終的な判断はあくまでも相手の意思に委ね、信じて、寄り添い、待つ。

 

Where there's a will, there's a way. 

 

これがウィルの教育方針です。