ヤドリギ金子のブログ -3ページ目

石川善助『亜寒帯』と戯れる20

    襤褸の歴史

 

視たか、その人々の襤褸の着衣を。

不規則に古い布が配列され、

内臓を包み、肋骨を包み、皮膚を覆ふ。

海へ行く日の荒い身支度。

 

そこに貧しい歴史がある。

切れゆき、破れゆき、落魄する、

縫い合せ、継ぎ足し、過労する、

そこに惨めな歴史がある。

 

木橋脚の朽ちた護岸に座しながら

日向(ひなた)に蝿をめぐらし物縫婦(おんな)よ。

繊維を失ふ襤褸に綴る色褪せた襤褸。

知るか、破堤を冠す海の暗い水蝕磨刻(アプレッション)。

 

 

 ストレートに、強烈に、海の労働者の過酷な仕事と生活の断面を切り取った詩篇だ。あえて説明を加えるまでもなく、より具体的に、より直接的に海の労働者の貧困と過酷な生活の断面が衣服に象徴され、海を背景に描かれている。一連目は漁民の「着衣」。「不規則」に「古い布」が、「内蔵」「肋骨」「皮膚」=痩せているが鍛えられた身体を「包み」「覆う」。彼らは沖への出立の日にそれをいきなり身にまとう。二連目。「切れ」「破れ」「落魄する」そして、「縫い合せ」「継ぎ足し」「過労」した、まさに「襤褸」の労働着は「貧しい」「惨めな」「歴史」を示している。漁に出る男たちを、岸に座してうるさい蝿を払いつつ見守りながら、女たちは男たちの労働着の激しい綻びを寡黙に繕う。その女たち、そしてこの詩篇を読む私は、「破堤を冠す海の暗い水蝕磨刻」をいったいどのくらい感じている、知っている、どの程度想像できるというのか?「海の暗い水蝕磨刻」という詩語が、人間のささやかな営みを簡単に飲み込んでしまうような印象を与えて強烈だ。ルビの「アプレッション」=oppressionとは〈人を不当・残酷に扱う弾圧、抑圧、圧制〉という意味のようだが、「水蝕」とは波浪が地表面を削っていくことであり、続けて「磨刻」=〈磨き刻む〉とある。類語を畳み掛けることによって、暗く重い波が、人間をも飲み込んでしまうようなどんよりした勢いでうねる様子を巧みに表しているユニークな詩語だ。

自虐日記22

   (昨日は、レヴィナスの【存在】と〈出会え〉そうな夜だった。いや、これは冗談にもならない、ペダンチックとも程遠い、ゆるすぎる、久しぶりの不眠の夏の夜。それゆえ、これも幸せな馬鹿者の放言と言っていいのだろうか? )

  泥沼にハマりそうだったので、ほぼ一日パソコンに向かわないで、夜にメールの確認くらいしなければ・・・などと自分をごまかして(まあ、誤魔化しはいつものことだが)、薄い蓋を開いてしまったら、このざまだ。

   TVニュースなんて見るんじゃなかった。歴史の終わりの予兆としか思えない悪夢のような、ような? ズタズタにされた「垂れ流しの情報」を見てしまったがゆえに、その後パソコンを開いてしまったタイミングの悪さが、まるでこのブルーライトの光が増幅してしまったかのように視覚を撹乱し、前頭葉をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、歪みきった興奮に導かれてしまった。

  就寝はいつものように11時頃であったのに・・・。(ほぼ直前まで、読み散らした本からの、その真摯さにおいて自分と隔絶している言葉の転記と提出しなければならない(急ぐ必要もないのだが・・・)レポートを打っていただけなのに・・・などと慰めにもならない言い訳をしてみる。)

 そうして、眠れなくなってしまったことへの当てつけのように、画面につぶやく。「爛れ切ったメディアに露出することが、とどのつまりは売名に過ぎないことが、そんなに楽しいか?屁でもない言葉のような消費されるだけの平板な記号を連ねて、そんなに嬉しいのか? 「 私を、僕を、見て見て!」とはしゃぐように 乳繰り合おうとしてんじゃあねぇんだよ! どの界隈もどこの馬の骨も、結局は似たり寄ったりに思えてしまう。「ここがロドスだ、ここで跳べ!」か、ケッケッケッ。何も動かせていないし、どこも変わってなんかいねーじゃねえか。それとも、この鈍磨して味覚も忘れかけた舌先三寸でてめーらの光輝くスベスベのケツを舐めろとでもいうのか? 」

以上のような、屁でもない悪態をついて、ついたつもりになって、ネット界隈の極度に臆病な、悪意にすらならない、クズ言葉を垂れ流している匿名野郎たちと同じように、クズ以下のクズである私は、さらにそれ以下にすら成り果てようとしている、奈落の底に徹底的に落ちることもできないまま。

   ところが、負け惜しみのような(そう言えば、最近は勝ち負けでしか議論できない、下劣で薄っぺらい輩の一人が都民の「多大な」支持を得ていたなぁ。支持を得ること自体が「類が友を呼ぶ」で、実に実に問題なのだが・・・)浅薄な自覚であるがゆえに、こうして打ち付けること自体にたまらない快楽を覚え、隣で気持ちよさそうに寝息を立てているパートナーを横目に、のそのそ夜中に這い出して(いや、眠れなかったのだから起き続けて)無意味な罵詈雑言以下のようなことを〈呟いて≠書いて≠触れて〉しまっている。処置なし!

    悪態をつくこと、徹底的に。無理無理無理・・・。すでに四時をまわろうとしているから、目を瞑れば、眠りにつけるだろう。この不眠後半の悪態は、所詮はそれくらいの悪態に過ぎない。

   提灯アンコウの雄でもになって、偉大な雌の背中に乗っかり、やがては雌の背中に溶けていって・・・自分の臓器をほとんど消失させ、子孫繁栄のために精子だけを噴霧する、そんな夢のような夢でも期待して、眠りに落ちるまで亀殿のように部屋の灯りを点けたまま天井を見続けようか・・・。いや、妻が横で寝ているから、灯りをつけるのは無理だ。亀殿を真似ることすらできない。自分を笑うしかない。外では、久しぶりの雨に、カジカガエルが短い生を燃やし尽くすように、呑気な私を嘲笑するように、妙に金属的な声で合唱している。

  私は彼らの労働時間の短さに激しく憧れながら眠りにつくことに必死になった。

石川善助『亜寒帯』と戯れる19

   亜寒帯小景

 

乾場に広げ干す鯨肉の粉に

鳶は円周を縮めて落下し、

鴉の群に交り啄む。

幾度樺太犬をけしかけても

彼等は彼等を追はうとしない。

亜寒帯の秋の僅かな日だまりのなかで、

和親する動物磁気を人は一日叱るのだ。

 

 善助が郡山宛の手紙に書いているように、実際に釜石の鯨工場で働いた経験に基づいて書かれた詩のようだ。肉の加工場のスナップショット。すでに降り立ち「鯨肉の粉」を啄んでいる「鴉」の「群」れに割り込んで狙おうとして必死な「鳶」。そうした鳥たちを加工場から追い払おうとして、人間は「犬をけしかけ」るのだが、なぜか「樺太犬」は鳶や鴉を=「彼等は彼等を」、追おうとしない。なぜ「追おうとしない」のだろうか?

 動物たちは「動物磁気」=〈目に見えない自然の力〉で結び付けられている=「和親」しているように、人間の命令に逆らうように、その命令を無視するように、「追おうとしない」ので、そのことに苛立つように「人は一日叱るのだ」そうした「亜寒帯の秋の僅かな日だまりのなか」の「小景」。

 善助はどうして動物たちから阻害されている風に労働者=人間を描こうとしたのだろうか?単なる港の、鯨工場の「秋の僅かな日だまり」の中の、亜寒帯地域の景色の一断片をそのまま作品化した、それだけのことなのか?

「釜石は思ったより大きな繁華街である。そこから二里半も半島にある一軒家である。ことに鯨油と骨粉肥料をとるので恐ろしく嗅い。ほんとうに一人きりだ。郵便は二日に一回、ポストがない。わざわざ半里も出しに行く。詩を思ふにはよい所だ。しかし十日もなるが一篇も一行もかけないのだ。ただ今は自然に追随してゐるばかりだ。鯨が毎日のように入ってくる。海湾の入口で妙にするどいピイツつて笛をならすのだ。鳶や鴉や鷗が群らがる無数に。血だらけの巨大な仕事だ。で三食共に鯨の生肉をたべさせられる、肉食獣のやうだ。」(ー1926年8/29の郡山弘史宛手紙からー)

 

動物磁気説(どうぶつじきせつ、Animal magnetism)またはメスメリズム(mesmerism)とは、18世紀のドイツ人医師フランツ・アントン・メスメルが主張した、人間や動物、さらに植物も含めたすべての生物が持つとされる目に見えない自然の力(Lebensmagnetismus)に関する学説のこと。メスメルは空間には磁性を帯びた不認知の流体が存在するとし、このうち生体内を貫流したものを動物磁気と名付けた。そして、当時病因が不明であったヒステリーといった病気が動物磁性の不均衡によって生じると考え、この学説に基づき、施術者が患者に磁気を与えるという治療術を実践した。メスメルと治療術は当時のヨーロッパにおいて高い名声を誇り、専門の学会が作られ、磁気師と呼ばれる多くの施術者も生み出した。しかし、メスメルは動物磁気の科学的立証に失敗し、当時においては既にメスメルの理論自体は否定されていた。ただ、治療術自体は何らかの成果があると見なされて研究は続き、やがて催眠術や催眠療法へと発展する。