ヤドリギ金子のブログ -5ページ目

自虐日記20

「年とって分かったことのひとつは、考えには結論というようなものは無いにひとしいということである。結論と思ったものは、自分を安心させるためのごまかしだったのだ。だがそのごまかしは多分無益なものではない。ごまかしからごまかしへと生きていく間に、真実が見え隠れするからだ。」(谷川俊太郎)

「寡黙に働いてきた人は必ず立ち直る」(能登の漆職人) 

  一方、パレスチナが奈落に落ち続け、地獄を這いずり回っている人々がいるにもかかわらず、それに慣れてしまいそうな残酷な自分がいる。こう書きながら、自分を許している。許していると書いて許してもらおうとしている自分が、パソコンのキイをペタペタと叩いている。

 路上の土木工事の労働者に、自分と変わらないかそれ以上の年齢とすら思える年寄りが多い気がする。過酷な仕事だ。私だったら半日と持たないだろう。しかし、そんな無責任なことを思いつつ、さらに無責任なことを考える。彼らの労働への対価は?

「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」

「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」

「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 不十分過ぎる対価。エッセンシャル・ワーカーをはじめとして、労働に格付けを当たり前のように与えてしまう資本主義システムにずっぽりハマり、安っぽい同情、冷た過ぎる憐憫で、私は照りつける太陽の下で、黙々と労働している人々を眺める。そう、距離を置いて、俯瞰するように、近づけないように、見るのである。彼らが、雇われた会社から言われているのだろう(「市民の皆さんへの挨拶を忘れないように」とかなんとか・・・)私の車に対して軽く会釈するのに対して、ご苦労さま、とでも言っているような偽善的笑顔で応答したりする。そして、一瞬、彼らの疲労を想像したりする。まったく無意味な気まぐれな想像だ。続けて、私は、これから冷房の効いた部屋にこもってペタペタとバソコンのキイを打つであろう自分のあまりにもノー天気な姿を想像し、彼らと自分との埋められない距離を思う、ただ思う。

石川善助『亜寒帯』と戯れる17

 

   波浪のO R G A N U M

 

傾く天空……

 光を盛る亜鉛の濤

 

   トロコイド線

     白い歯をむく

        水の錯乱(アメンチア)

    吃水線……海泡

  漂流船

 オコツクの潮流に

孵卵する魚

  逆巻いて哭く浪の暗転

     V字型の陥落

       ああ肋骨よ

     水の悲しい洞穴(ルルド)に眠る

   波速力の湾曲

  流れるプランクトン

 ▲黒い岩礁

 

 詩人はここで「音楽」を求めている。他の詩篇でもこのことは言えるのだが、とりわけこの詩篇では意識している。私がそう思ったのは単純なことだ。表題が「O R G A N U M」となっているからに他ならない。O R G A N U M とは、9〜13世紀、ヨーロッパで流行した初期の多声音楽のことであり、グレゴリオ聖歌などの旋律を主声部とし、いくつかの声部を付け加えた楽曲のことである。詩人は変幻自在の眩い光に満ちた海の表情、波の運動を「光を盛る亜鉛の濤」と言ったり、「トロコイド線」を描く波がぶつかり合い「白い歯をむ」いて「錯乱」=アメンチア(思考の錯乱や、意識の混濁を生じる急性の精神錯乱状態)していると人間の心象風景のように描写したりしている。

船と接する海面=「吃水線」には、連続する海の泡=「……海泡」を立たせている「漂流」していくような「船」。そうした荒々しい=「逆巻いて哭く」浪が立つ「オコツクの潮流」にさえ、「魚」たちは懸命に、船同様に波に翻弄されて「V字型の陥落」を繰り返しつつ、それでも「孵卵」している。

 「肋骨」とは何のことだろうか?「波速力の湾曲」を指すのか、それとも波の力=「波速力」によって抉り取られた「黒い岩礁」を指すのだろうか?

 「水の悲しい洞穴(ルルド)に眠る/流れるプランクトン」。プランクトンを擬人化し「ルルドに眠る」と表象している。生命力をこんなふうに表現する善助にモダニズムを感じてしまう。ここには、そうした点において吉田一穂等の影響もあるのかもしれない。それは最終行に置かれた「▲黒い岩礁」からもわかる。「▲」という記号を使用することで、「黒い岩礁」を、北園克衛のそれのように〈立体化〉している。言い換えるなら、言葉の物質化である。それは、この詩篇の行頭の浮き沈み具合からも指摘できる。

 

※ルルドの泉について(ウィキペディアより)

1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルー(フランスでは「ベルナデット」)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。ベルナデットが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。「聖母」はまずベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、さらに患者が教会において模範的な信仰者であることが条件される。このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされるが、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(68件)となっている。1925年にベルナデットが列福され、1933年12月8日、ローマ教皇ピウス11世によって列聖された。その後もベルナデットによって発見された泉の水によって不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こり、鉄道など交通路の整備と相まって、ルルドはカトリック最大の巡礼地になり今日に至っている。

自虐日記19

    日記において、その日食べたモノ、食事のメニューを書く人がいる。そんな中のよく知られた歌人に正岡子規がいる。彼の『仰臥漫録』や『墨汁一滴』の「ココア」を思い出す。彼の日記における「ココア入り」は、啄木の「一匙」同様に、静かに肌に寄り添うように伝わってくる哀しみの〈音〉だ。それで・・・、なのだが、私も彼にならって(まあ、倣おうとしたって倣える訳はないのだが・・まして結核患者でもなく、無駄に健康なジジイに過ぎない)、本日食したモノを書いてみたい。というか、これはただの言い訳で、要するに書くことがいつも以上にないので、この辺から書いて行けば、何か別のことに続くだろうという他力本願の発想にすぎない。

   朝はひきわり納豆(豆が秋田産ということで妻が選んだようだ。豆自体の味がなかなか良かった)と奈良漬と冷たいおみおつけ(妻はいつも翌日の朝の分も含めて夕食に味噌汁=おみおつけを作る。夏はこの冷たい味噌汁が最高だ)。「おみおつけ」という言葉、味噌汁のそっけなさと異なる気がして好きな言葉だ。デザートは庭の片隅で早朝に採ったばかりのミニトマト。

   食後、近年になく(退職して朝が暇になったからか?)はまっている、朝ドラには珍しく鋭い社会性のある「虎に翼」を見て、フェイスブックをチェックし、その後自分の部屋に籠る。本の付箋をした箇所をノートに転記しつつ、昨日のおさらいをする。そんなことをしているうちに、瞬く間に昼になる。茶の間に戻り、TVをつけ、お昼のニュースを見つつ、昼食を食べる。昼の献立は妻の焼いた食パン一枚と目玉焼き、カルシウム入りチーズ、そして好物の牛乳。こんな年齢なのだが、つまりは糞爺なのだが、牛乳一日一杯以上は欠かせない。

 昼食後は、いつもなら眠くなるのだが、今日は不思議と睡魔がやってこなかった。いや、正確に言うと、すぐにはやってこなかった。(二時間くらいして突然やってきて、机に座ったまま寝てしまった)二、三冊の本に摘み食いするように向かう。赤坂憲雄氏の誠実な文章にいつものように感動する。彼の文章には良くも悪しくも冷徹さがない。それを〈甘い〉とも言ってしまえるが、私はそうは思いたくない。独特のロマンティシズムがあって、カサカサに乾燥しかけた私に潤いのようなものを与えてくれる。途中でバルテュス伝をひっくり返したり、再び山内明美さんの新刊を読み直したり・・・。そうこうしているうちに、間に30分くらいの机上の睡眠を含め、たちまち夕餉の時間になった。

 夜のメニュー。妻に頼んで、早めの「丑の日」にしてもらった。鰻と言えば豪華に聞こえると思うが、鰻屋で出す一人前の分量の鰻を妻と二人で半分ずつに分けて小さなドンブリで食べた。それでも、私たち年寄り?には十分だった、十分楽しめた。舌鼓を打った、と言うやつだ。副菜は山形の「ダシ」でオクラとナメコを和えたモノ。そして、里芋と長ネギの「おみおつけ」。

 美味しい! 美味しく食にありつけることくらい贅沢な幸せはない、とつくづく思えるようになった。そんな一日一日のうちのひとつであった。食べることがこんなにも楽しいということに改めて気づかされることが、仕事からほぼ解放されて、多くなった。何ともはや・・・、頭の先から足の先まで極楽とんぼである。