ヤドリギ金子のブログ
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ジプシーバスに乗って一度こんな詩を書きたかった ー岡田幸文ー

 

喋りたくないことは喋りたくない 

やりたくないことはやりたくない 

サヨナラを言いたくなるのはこんなときだ 

ジプシーバスがやってきたのは 

午前二時三十分の新宿二丁目の路上を歩いていたとき

僕はサヨナラを言ってもよいと思った 

「行先は?」

 ときくと

 運転手は

「遠くまで」
と答えるので
僕は何も考えないでとび乗った
すると  ジャニスの歌がきこえてきたんだ
freedomʼs just another word for nothing left to lose
このフレーズは日本語におきかえたくないな
と思いながらきいていると
「ジャニスの声をきいていると
彼女がどんなふうに生きたかわかるんだ」
と運転手が話しかけてくる
そうだ
声をバカにしてはいけない
声だけでその人がわかることもあるんだ
そうだ そして
ちょっと話をしただけで その人がたとえば天皇制を支持しているなってことがわかってしまうときもあるんだ 

それは直感ってやつだけど
直感をバカにしてはいけない
そして僕は天皇主義者とはつきあいたくない
「むかし ジャニスをききながら女の子とタバスコをたっぷりかけたスパゲティの大盛をビールを呑みながら食べたこ  とがあるな」 

僕は運転手に話しかけた 

お天気がとてもよくて

僕は女の子にキスすることも忘れて 

ジャニスの話ばかりしていた

 「ぼくもきみも
  出会うという
  覚悟がなかった
  きみには......きみのわけがあろう
  ぼくは出会いが好きたったのだ ! 」* 
ジプシーといえば、何となく
ガルシア・ロルカのことを思い出すけれど
ロルカの歌を僕に教えてくれたのは
十九歳の⻑い髪の女の子の手紙だった
ジプシーバスよ
遠くまで運んでおくれ
僕は遠くまで行きたいんだ
いまの僕は何もすることができない
だから 何でもできるんだ
明け方に安物のウィスキーのストレートを一杯のどに流しこんで 
ベッドの上に倒れこむこともできるし 

ネクタイをしめてオフィスにでかけることもできる

 ジプシーバスがやってきたのは 

サヨナラを言いたくなるこんなとき

サヨナラを言うために
サヨナラを言われるために

      *ロルカ「出会い」(⻑谷川四郎訳)より

 

自虐日記47

 だらだら読んでいる。他にやることがないから読んでいる。言わば、目的論的読書。読むために読むこと。読むという私の残務整理。整理できないくらいに混沌としていた読解が次々に浮上する。テクストたちに読みの浅さを嘲笑される。「無知の知」を痛感する。いったいこれまで私はどんなふうに読んできたのか? 自覚していたつもりであったが、その浅さに自身のことながら愕然としている。また、よく言われることであるが、再読すると、かつて読んだはずの本がまるで異なった様相を呈してくる。新たな発見、というより、数十年前(20〜30代)の読みの浅さ?に気づく。あるいは、当時は特に印象に残らずに読み過ごしていた箇所に良い意味でつまづく。つまづいた箇所に驚く。「なぜこんな所に?」と、かつてだったらすんなり読み過ごしていたはずの所で立ち止まっている自分に驚いてしまう。そして、もやもやばかりが残る。

 これは、はたして読みが深くなったということなのか、浅くなったということなのか? 好みが変化してきていることは間違いないことなのであるが、単なる好みの変化だけとは思えない。いったいこの変化は何なのだろう?

 ごくごく当たり前のことを言えば、様々な経験の積み重ねがテクストの深度に気づかせたということなのだろうが、それじゃあ若い時の読みは浅薄だったということなのだろうか?

 これまでの私の経験など拭けば飛ぶように軽いものでしかなく、そんな経験が新たな深度をもたらしたとはあまり思えない。さらには、若い時だからこそ、鋭敏な感性による読みが可能だったのであり、そこには現在とは異なる唯一無二性もあったはずだ。

 しかし、もう私は若い頃の唯一無二性=感動をほぼ忘れているにちがいない。なぜなら、今同じテクストを読んで、当時引いた傍線箇所に関してすぐに思ってしまうことは〈なんでこんな所に立ち止まってしまったのだろう?〉という、どちらかというと自分の稚拙さに対する落胆ばかりが多い。それは同時に、テクストの新たな発見なのであり、青年期に全体としてたいした感動もなく投げ出していたテクストの深さに気づかされ、感動することである。そうした本が山とある。それゆえ、同時に絶望もする。そう、あまりに浅い読みにすぎなかったにもかかわらず、自分では読みこなしたと勘違いし、テクストの肝心な部分を読み過ごしたままなのに、その核心を理解したつもりになっていた、浅薄軽薄なかつての(いや、今もたいして変わり映えしないのだろうが)自分への情けなさである。

最近読んだ『スマホ時代の哲学』(谷川嘉浩)に以下のようなくだりがあった。再読によって、ここで言うネガティブ・ケイパビリティの不可欠性を強く自覚させられる。

「「わかった気にならない『宙づり』の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる」習慣としてのネガティブ・ケイパビリティが必要なのです。」

「自分が迷っていると自覚しない人は、現実に対峙することができません。・・・・ネガティブ・ケイパビリティは、自分こそが迷っているのではないかと自問する力のことだと言えるかもしれません。そうすることで、謎からいろいろな問いを投げかけられる関係を確保することができるわけです。つまり、ネガティブ・ケイパビリティは、自分の中に安易に答えを見つけようとせず、把握しきれない謎をそのまま抱えておくことで、そこから新しい何かをどこまでも汲み取ろうとする姿勢のことです。」

 

 

牛、高原、農夫           

前のめりに、穏やかに、

首を垂れ草を食む牛は

口元を少しも休めない

月下の黒曜石のような

潤んだ眼をして

ひたすら口元だけを動かし

きさまを遮る

 

ふいに頭をあげきさまを見て口を止めた牛が

「追憶への飢えを、重量を獲得せよ」という

つかの間の強迫を

鋭く折り曲げられる前足で

いっぺんに蹴散らし

きさまを閉ざす

 

ここは草に切られるきさまの牧場

 

弔い人はどこにいる? 

追いすがろうとしてもなお、 遠い、 死者

その瞳のように

牛はただただほほえむ

 

一面橙色とうしょくに染まってきた空、

遠雷に鼓膜がかすかに震えていく

草を踏むごと鼻につく

いきれの残余が朝霧に乗り

水滴に輝く高原に浮遊し

吸う息吐く息にまじりながら

群立する青い玉蜀黍とうもろこしの間を漂うと、

中年の農夫は

玉蜀黍の髭をひきちぎり

 

鼻下にあて

連峰をぐるっと、 突端へ

山肌に演説するように

頭部をゆっくりまわし

朝焼ける空へすっとんきょうにほほえんだ

 

 

(背後にアトランティスのカイザーの大きな影が立ち

「アロー アロー」

抉られて薔薇色に染まる眼がみつめている)

 

気配に溶け込んでしまい

ゆっくり歩きはじめて、

立ち止まった

 

薄明の高原が裸出し

山上の緑野からきわだつ

雪渓のきらめき、

つかの間に、網膜に浮かぶ

球形の追憶、         炸裂!

 

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