ジャック天野のガンダイジェスト

ジャック天野のガンダイジェスト

スモールアームズ(小火器)に関するエッセイです。同じアメブロで書いていたブログを継続して、不定期で更新して行きます。

 リボルバーでは早くから使われていたマグナム弾ですが、オートマチックピストルでは1970年に発売されたオートマグ(Auto Mag)が最初ですね。専用の.44AMP(オートマグナムピストル)弾を使う自動拳銃で、独特のボルトロック機構により、強力な.44マグナム弾を使えるように設計されていました。弾倉には7発の.44AMP弾を装填することができました。メーカーはAMでしたが、排莢不良などの故障が相次ぎ、結局会社は倒産することになりました。それを受け継いだのがTDE(Trade Deed Estates)で、ここではTDE製のオートマグを掲載します。オートマグの特長は銃身上にコルト・パイソンのようなベンチレーテッド・リブを装備していたことです。.44AMPを使用する最初のモデルはモデル180(写真1)でした。モデル160は.357マグナム(写真2)、この2種が代表的なモデルでした。そのほか、モデル280もありましたが、.44AMP弾使用ですが、ベンチレーテッド・リブを装備していない機種も作られたようです(写真3)。このモデル280は別の意味で有名で、「ダーティー・ハリー4」でクリント・イーストウッドがオートマグを使ったので、それを記念してモデル280にCLINT-1の名称を付けて、イーストウッドに贈呈されました。なお、CLINT-1はベンチレーテッド・リブ付きでした。オートマグは最終的にはAMT(Arcadia Machine & Tool)社に受け継がれましたが、同社は設計を根本からやり直して、コルトM1911A1をベースにしたマグナムオートに変身させました。これがオートマグ(Automag)で、最初はウインチェスター・マグナム・リムファイア.22口径用として作られました(写真4)。これがモデルIIで、モデルIIIはなんとM1カービン用の30-30弾を使用するようになっていました(写真5)。モデルIVは.45ウインチェスターマグナム弾使用で、当時としては最高威力のマグナムオートでした(写真6)。なお、オートマグIIIとIVはAMT製ではなく、それを引き継いだIAI(Irwindale Arms Incorporated)の製品です。このオートマグシリーズに対抗するように同時代に作られたのがウィルディで、ウインチェスター.45マグナム弾を7発装填できるようになっていました。スタイルはオートマグとM1911A1を足して2で割ったような外観で、オートマグと同じようにベンチレーテッド・リブが装備されています(写真7)。ガス圧利用式ロータリーボルトで、オートマグのような排莢不良はほとんどなく、好評を持って迎えられました。最終的には.475ウィルディ・マグナム弾を使用するモデルまで作られ、その時点では世界最強のマグナムオートでした(写真8)。このウィルディ.475マグナムはチャールズ・ブロンソン主演の「狼よさらば(Death Wishシリーズ)3」で使われました。イーストウッドの「ダーティー・ハリー」に対抗する意味があったのでしょう。1979年になると、イスラエルのIMI(Israeli Military Industries)とMagnum Researchがデザート・イーグルを共同開発します。リボルバー用の.357マグナム弾を使ったものですが、排莢不良が起きるなど立ち上がりは芳しくありませんでした。しかし、.44マグナム弾を開発し、採用することで排莢不良は減りました(写真9)。そして、独自のリムレス.50口径弾である.50AE(アクション・エクスプレス)弾を採用することで世界最強のマグナムオートを完成することができたのでした(写真10)。このデザート・イーグルはエディー・マーフィー主演の「ビバリーヒルズ・コップ2」で、殺し屋のブリジット・ニールセンが所有しているシーンがあります。さすがに撃ったシーンはありませんでしたね。リボルバー用マグナム実包をオートピストルに採用した例としては、ほかにクーナン.357があります(写真11)。M1911A1をベースにしたボディーに.357マグナム弾を7発装填することができました。クーナン社はいったん倒産しますが、後に復活しています。大口径ハンドガンが好きなアメリカ人にはマグナムオートはこれからも作られるかも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦が終わると、サイレンサーピストルの研究はいったん停滞しますが、ベトナム戦争を契機として、ふたたびサイレンサーピストルが新規開発されます。戦後モデルの特長はサイレンサーのサウンド・サプレッション効果を高めるために、サイレンサーと拳銃本体を一体化したものが多くなったことです。その代表が中華人民共和国の北方工業公司(ノリンコ)が開発した六四式微声手槍(Type 64 Silenced Pistol)で、完全な一体型として設計されました(写真1)。そして、特長は通常のセミオート動作のほかに、手動でスライドを引いて排莢するというシングルアクションが可能なことでした。実包は専用の7.65X17mmリムレス弾で、弾倉に9発を装填することが可能でした。ベトナム戦争で北ベトナム軍特殊部隊が使用し、それが鹵獲されて知られることとなったサイレンサーピストルです。この拳銃は名称通りに1964年から使用されていますが、この後継機種として同じノリンコで製造されたのが六七式微声手槍で、写真のようにサイレンサーの形状が異なります(写真2)。この六七式も六四式と同様の7.65X17mmリムレス弾を9発装填することができました。1967年にはソビエト連邦からも一体型の専用サイレンサーピストルが登場しています。イジェフスク機械工場で開発されたこの拳銃はPB(ピストレット・ベシュムヌイイ=サイレンサーピストル)と呼ばれ、マカロフ(PM)をベースとして開発されました(写真3)。マカロフと同様の9X18mmマカロフ弾を使用し、8発が装填可能です。やはり通常のセミオート作動と手動によるスライド操作のシングルアクションが可能でした。なお、このPBの製造はカラシニコフ・コンツェルンが受け継いでいます。1960年代にはアメリカも専用のサイレンサーピストルを開発しています。S&W M39をベースにしたMk.22 Mod.0で、9X19mmパラベラム弾を使用し、大型化したグリップ内の弾倉には14発を装填することができました(写真4)。スライド・ロック装置を持ち、スライド作動による音も立てないようなシングル・アクション機構が採用されていました。9mmパラベラム弾という超音速の実包を使いながら、サイレンサーが強力なため、作動音は大幅に軽減されています。このMk.22はベトナム戦争で海軍特殊部隊、つまりSEALsが使用したと言われています。愛称は「ハッシュ・パピー」と言われていますが、現在では製造中止になっているようです。ソ連ではさらに特殊な消音拳銃を開発しました。PSS(ピストレット・ベシュヌムヌイイ・ペー・エス・エス)と呼ばれる拳銃で、KGBが開発したものとされています。サイレンサーではなく、実包に工夫をしたサイレンサーピストルで、カートリッジ内部には装薬とピストンが内蔵され、装薬に点火されるとピストンによって弾頭が押し出されて発射されるという構造でした。このため、非常に小型の拳銃になっています(写真5)。使用実包は専用の7.62X41mm SP-4で、6発が装填できました。この特殊実包のため、ダブルアクション作動が可能となっています。アメリカではベトナム戦争の末期にPSSと同様に構造を持つ実包を採用したS&W M29の改良型、QSPR(Quiet Special Purpose Revolver)が開発されました(写真6)。さらに、ソ連が崩壊し、ロシア共和国になってからも、サイレンサーピストルの開発は続けられました。PSSの特殊実包である7.62X41mm SP-4をリボルバーに採用し、QSPRと同様のサイレンサーリボルバーを完成させたのです。シリンダーには5発を装填可能です。メーカーはステーフキンで、名称はOTs-38で、2002年に配備されたと言われています(写真7)。なお、ステーフキン(Stechkin)は日本では「スチエッキン」と呼ばれていますね)。スペツナズ(特殊部隊)やFSB(連邦保安省)の要員によって現在でも使われているようです。そして、2014年にはスイスのブリューガー&トーメ(B&T)から、ボルトアクションのサイレンサーピストルが登場しました。ボルトアクション方式なので、イギリスのウェルロッドのコピーと言ってもいいでしょう。9X19mmパラベラム弾5発のほかに、.45ACPが9発入る弾倉もあるようです。先日、ニューヨークで保険会社の代表取締役が背後から撃たれて死亡しましたが、容疑者はサイレンサーピストルを使っていました。ボルトを手動で操作しているところから、B&T VP9だと思われていましたが、どうやら3Dプリンターでガワを作った「ゴーストガン」だったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイレンサー(消音器)付きのピストルはモデルガンで人気があるようですね。画像検索するとたくさん出てくるからです。発砲音を消す、あるいは抑制する(サウンド・サプレッサー)というと特殊部隊とか、スパイとか、ギャングとか暗殺に関する目的で使われることが多く、暗い歴史とともにあるわけですが、人類は発砲音を消すことに力を注いできた歴史があります。もっとも古いサウンド・サプレッサー付きの拳銃はリボルバーだったようですが、リボルバーとサイレンサーは実は相性が悪いのです。発射ガスがシリンダーとバレルの隙間から噴出してしまい、いくら銃口にサイレンサーを付けても意味がありません。映画「殺人者たち」("The Killers"、1964年)ではリー・マーヴィンの殺し屋がS&W M27にサイレンサーを付けていましたが、.357マグナムのリボルバーでは発砲音はかなりのものになるはずです。映画ではサウンド・サプレッサーが効いているようでしたが、これは演出ですね。ただ、リボルバーでもサイレンサーの効果が大きかったのが、ベルギー製のナガンでした。「ガスシールド」方式と言って、ハンマーをコックし、シリンダーが回転すると同時にバレル後部に密着して発射ガスを封入する方式でした。このため、サウンド・サプレッサーの効果は大きく、ナガンを大量に輸入した帝政ロシアではオフラーナ(帝政ロシア秘密警察)がサイレンサー付きのナガンを好んで使用したようです。ソ連になってからもチェーカー(後にKGB)の要員がナガンを使っていたと思われます(写真1)。写真のナガンには1938年の刻印があります。このナガンを例外として、自動拳銃の普及とともにサイレンサーも多用されるようになりました。たとえば、1908年にイギリスのウェブリーM1908に1925年製のサイレンサーを付けた拳銃が陸軍のSOE(特殊作戦部)に採用されました(写真2)。しかし、もともとウェブリーが.32口径ながら重い自動拳銃で、サイレンサーも重かったため、作戦部員に嫌われてしまいました。SOEはそこで、同じ.32口径(7.65mm)のルガーM1900にサウンド・サプレッサーを装着して使うようになりました(写真3)。それでも発射音が完全に消えることはなく、またトグルアクションの作動音が残ることになったのです。そこで、SOEは手動式ライフルと同様のボルトアクション機構を持つウェルロッドを開発したのです。このウェルロッドは最初9mmパラベラム弾用として作られましたが、のちに.32口径となっています(写真4)。ドイツでもルガーP08やワルサーP38にサイレンサーを付けましたが、それほど熱心ではなかったようです。なお、このワルサーP38は銃身の短いP38Kにサイレンサーを装着したもののようですが、もしかすると後に作られたものかも知れません(写真5)。アメリカではOSS(戦略任務局、のちのCIA)の要員がハイスタンダードHDMを使いました(写真6)。.22LRのサイレンサー一体型自動拳銃で、イスラエルの秘密警察モサドもこのハイスタンダードHDMを使用していると信じられています。

 

 

 

 

 

 

 

 ルガーと言えばP08に代表されますが、基本設計はほぼ同じながら、多くのバリエーションが存在します。その中からおもなものをピックアップし、ルガーの変遷を駆け足で巡ってみたいと思います。周知のとおり、ルガーの原型となったのはフーゴ・ボルヒャルト(英語読みではヒューゴ・ボーチャード)が開発したボルヒャルトC-93ピストル(写真1)です。なお、「ボルクハルト」という表記が見られますが、ボルヒャルトまたは現代語ではボルシャルトが正解です。パラベラム弾を開発したDWM(ドイツ武器弾薬製造社)の技師だったゲオルク・ルガーがC-93のメカニズムを改良して設計したのがパラベラムピストーレでした。1898年に特許に基づいた試作が完成しましたが、残念ながらこのプロトタイプは現存していないようです。ただ、スイス陸軍がこの自動拳銃に興味を示し、量産に成功したのがオルドナンツピストーレM1900(写真2)でした。弾薬は7.65X21mmパラベラム弾で、トグル・アクション(尺取虫運動)のショートリコイル式で、ハンマーはなく、ストライカー方式で撃発するものでした。トグル・アクションは発射の反動で薬莢が後退し、弾頭が銃口を飛び出す瞬間に尺取虫のように後退して、排莢するものでした。マウザーC96を制式採用していた帝政ドイツもパラベラムピストーレに興味を示し、弾薬をより強力な9X19mmパラベラム弾に変更したM1904(写真3)をマリーネゼルプストラーデピストーレ(海軍自動拳銃)としてまず海軍からテスト採用を開始しました。一般にはネービールガーと呼ばれるこのピストル(写真4)はM1900(4インチ)より長銃身(6インチ)となっています。ドイツ陸軍も当然のようにパラベラムピストーレに興味を持っていましたので、DWMはその期待に沿うべくM1906(写真4)を送り出しました。そして、C96との比較の結果、皇帝カイザー・ヴィルヘルムII世は1908年にパラベラムピストーレをP08として制式採用を決定したのでした。このP08(写真5)はグリップセーフティーが省略され、より洗練されたデザインとなって、ドイツ軍全体の主力制式拳銃となり、ワルサーP38が採用された後にも第二次世界大戦の終わりまで使用され続けました。このP08から通称ルガーP08(LP08)と呼ばれるようになったのです。このLP08には別のバリエーションもあり、これはLange P08、つまり長銃身P08という意味でした。約8インチの長銃身で、別名ルガーアーティラリー(砲兵用ルガー)と呼ばれています(写真6)。アジャスタブルサイトを装備し、さらに32発のスネイルマガジンの装着が可能でした。そして、1907年からはアメリカ軍が制式拳銃のトライアルを始め、ルガーもこれに参加することになりました。米軍は.45ACPの弾薬を使うように要求してきたため、.45口径のルガーが製造され、コルト、サベージとともにテストされましたが、最終的にはコルトM1911が制式拳銃になったのも周知の通りです。この45口径ルガーの画像はあまり鮮明ではありませんが、転載します(写真7)。また、空軍仕様のルフトヴァッフェP08もありました(写真8)。

 ルガーは1945年まで使用されましたが、戦後はオーベンドルフ・アム・ネッカーに再建されたマウザー社がルガーP08の75周年を記念したモデルを製造しています(写真9)。また、エルマ社がP08もどきを作ったのも有名ですね。ルガーはこうして歴史の彼方に消えて行きましたが、いまでもその名声は高く、またコレクターズアイテムとして高値で取引されているようです。映画での登場はあまりに多いので、ここでは触れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マウザー(モーゼル)C96と言えば、初期の軍用自動拳銃として世界中で広く使われ、英語圏では「ブルームハンドル」(ほうきの柄)として親しまれていますね。この大型自動拳銃は1895年3月15日に公式の試射が行われ、成功しています。この時に使用されたプロトタイプの写真がいまでも残っていてフレームにドイツ語で1895年3月15日と刻印されています(写真1)。この試射にはドイツ皇帝プロイセン国王のカイザー・ヴィルヘルム2世が臨席して、大きな感銘を受け、プロイセン陸軍の制式拳銃に採用したいという意向をマウザー社に伝えたそうです。そして1896年にC96として製品化されることになります。なお、C96はConstruktion 96の略で、以降さまざまなバリエーションが作られますが、基本はC96から大きくはみ出すことはありませんでした。C96はおもに英国、スペイン、中国、そしてロシアに売られ、軍用拳銃として愛用されました。使用する実包は7.63X25mmマウザーで、.357マグナムが現れるまで拳銃としては最も高い初速を誇りました。弾倉はトリガーの前方にある方式で固定弾倉方式で、10発をまとめて上方からクリップにはさんで押し込み装填する方式でした(アメリカ軍のM1ガーランドに似た方式ですね)。ちなみに、この7.63X25mmマウザー弾はC96を輸入したロシアによって、7.62X25mmトカレフ弾としてトカレフTT30、TT33に使用されることになります。C96は最初から完成された形になっていたので(写真2)、バリエーションも大きく変更されることはありませんでした。ただ、使用する実包は各種あり、そのために銃身の形状が多少変わっています。最初のバリエーションとして有名なのはM1912輸出モデルで、南アフリカと中国に輸出されました。このタイプはより強力な威力を求めて、9X25mmマウザー弾を使用するようになっていました。最も有名なバリエーションはM1916で、ドイツ帝国軍の制式拳銃としてP08と同じ9X19mmパラベラム弾を使うようになっていました。このタイプは7.63mmマウザー弾使用のノーマルなC96と区別するため、グリップに赤い9の文字が大きく刻印されていました(写真3)。なお、M1916にはオーストリー・ハンガリー帝国との契約で輸出されたものもあり、一部は8mmガッサー弾(8.11X27mmガッサー)用として作られています。さらに1921年には実包はそのままで、銃身を4インチに切り詰めたモデルが共産主義革命以降のソ連に輸出されました(写真4)。使用実包は8.15X25.2mmマウザー弾で、8mmガッサー弾とほぼ同じ規格でしたが、互換性はありません。このモデルはソ連共産党のボルシェビキから「ボロ・マウザー」と呼ばれるようになりました。その後、7.63mmマウザー弾がソ連に大量に輸出されました。バリエーションの中で有名なのはM712でしょう(写真5)。M1932とも呼ばれるこのタイプはフルオートに切り替えることができ、ホルスター兼用のストックを後部に装着して、サブマシンガンとして使われました。「シュネル・フォイヤー(速射)」と呼ばれるこのモデルはじつはスペインのアストラ社が本家マウザー社に先んじてフルオート、着脱式弾倉のコピーを製作し、おもに中国で広く使われるようになったからでした。M712が出てくる有名なハードボイルド小説には「深夜プラスワン」がありますね。主人公がこのM712を持ち歩き、用心棒の元殺し屋(S&W M36チーフススペシャルを使用)に皮肉を言われるシーンがあります。コピーと言えば、C96を最初は輸入していた国民党軍もコピーを作るようになり、「ボックス・キャノン(盒子炮)」として広く愛用されました。その中にはスペイン・アストラのフルオートモデルもあり、連射のコントロールをよくするために銃を水平にして跳ね上がりを左右方向にして命中精度を高める水平撃ちが編み出されました。なお、中国製のマウザーには.45ACP弾用の山西(Shanxi)17型もありました(写真6)。また、前述したようにスペインのアストラ・ウンセタ・イ・シア社では1927年にC96のコピーを完成し、1928年にはマウザーM712と同じフルオート射撃可能なM904を完成しています(写真7)。ウィンストン・チャーチルが愛用したり、映画での登場は数えきれないほどの人気があるマウザーC96ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

世界的に有名な銃器設計家というと、AK47を開発したミハイル・カラシニコフ、AR-15を開発したユージーン・ストーナーなどを思い浮かべますが、我が国にも有名な銃器設計家がいます。アリサカ・ライフルで有名な有坂成章、有坂の部下であった南部麒次郎などは海外、とくにアメリカで有名です。今回は南部麒次郎が関わった自動拳銃についてのショートヒストリーを書いてみました。南部麒次郎は東京砲兵工廠(小石川砲兵工廠)で有坂の部下として銃器研究をしていました。南部の最大の関心事は当時(19世紀末)ヨーロッパで盛んになった自動拳銃でした。マウザーC96、ボーチャード、パラベラムピストル(ルガー)など、それまでのリボルバーに代わる自動拳銃がつぎつぎと誕生しました。南部がとくに影響を受けたのがマウザーC96で、そのプロップアップ式ショートリコイル方式を参考に独自の反動利用銃身後退式のメカニズムを考案しました。撃発は撃針を使うストライカー方式で、後部のノブを引くことで撃発準備ができるものでした。C96とは異なり、弾倉はグリップ内に収納されていました。使用実包は独自に考案した8X22mmナンブで、8発が弾倉に装填されるようになっていました。また、初期型はグリップ後部にホルスター兼用のストックを付けて遠距離射撃に対応するようになっていました。この自動拳銃は南部式大型自動拳銃甲型(写真1)は1902年(明治35年)に試作が完成したと伝えられ、1903年から1904年にかけて量産に移りました。そして、ストック装着部を省略した南部式大型自動拳銃乙型(写真2)も作られ、1907年(明治40年)には南部式大型自動拳銃をスケールダウンした感じの7ミリ口径の南部式小型自動拳銃(写真3)も製造されて、陸軍のトライアルを受けました。アメリカでは南部式大型自動拳銃甲型を「グランパ・ナンブ」、南部式大型自動拳銃乙型を「パパ・ナンブ」、南部式小型自動拳銃を「ベビー・ナンブ」と呼び、コレクターの間では高値で取引されているようです。南部式大型自動拳銃は試験的に前線で使われましたが、制式採用とはなりませんでした。また、南部式小型自動拳銃は将校用として一部で使われたにすぎませんでした。ただ、1924年(大正13年)に南部式大型自動拳銃乙型が海軍陸戦隊に制式採用され、上海事変などでドイツ製のMP18マシンピストルなどと一緒に使われたと言われています。1920年代になると、制式軍用自動拳銃への要望が高まったため、南部式大型自動拳銃乙型をベースにグリップ形状などを変えた十四年式拳銃(写真4)が名古屋工廠で製造されました。1925年(大正14年)に制式採用されたこの十四年式は機構が複雑だった南部式に比べて簡素化され、製造コストも下げることに成功しました。この十四年式は南部十四年式とも呼ばれ、アメリカでもType 14 Nambuと呼ばれますが、南部麒次郎はアドバイスをしただけで、直接設計にたずさわってはいません。十四年式拳銃は当初は写真4のようにトリガーガード(用心鉄)が南部式乙型よりわずかに大きくなっているだけですが、後期型の十四年式は用心鉄が大きくふくらんでいます(写真5)。これは満州で酷寒の中で使用する際に手袋をしても邪魔にならないようにするための工夫でした。内部機構は南部式乙型に準じたショートリコイル方式で、8X22mmナンブ弾を8発弾倉に装填することができました。余談ですが、2023年茨城で拳銃の不法所持で逮捕された男が持っていたのはこの前期型の十四年式拳銃でした。南部麒次郎はその後、8X22mmナンブ弾を使用する九四式拳銃(写真6)を設計開発することになります。これは南部式大型自動拳銃や十四年式が大型すぎるという将校からの意見により、小型化を優先して作られた自動拳銃でした。九四式というのは皇紀2594年(昭和9年、1934年)に制式化されたからです。小型化するために弾倉の装弾数は6発となりました。なお、南部麒次郎はまったくノータッチの十四年式改良型自動拳銃が北支十九年式拳銃(写真7)で、北京で製造されました。十四年式との大きな違いはコルトM1911A1のような分解レバーが付いた点で、これで手入れが楽になりました。ただし、昭和19年(1944年)に完成したので、詳細は不明です。南部麒次郎は自動拳銃にとどまらず、一〇〇式機関短銃(サブマシンガン)も設計しています。小火器設計者として南部麒次郎は日本が誇るべき銃器設計家でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治維新によって大日本帝国となった日本は制式拳銃としてS&W No.3(M3)を採用していました。これは幕末時代から、S&W No.2(M2)が輸入されていて、坂本龍馬も池田屋事件で使ったとされるぐらいポピュラーな拳銃でした。このNo.2の後継機としてS&Wが開発したのがNo.3で、口径は各種ありましたが、.44口径が軍用としてもっとも広く使用されていました。そのため、S&W No.3が帝国陸軍および海軍の制式拳銃として採用され使われてきましたが、大型で重いことなどで将校には不向きであることなどから、1880年代に国産拳銃の検討が始まりました。参考にしたのはS&W No.3やベルギーのナガンなどがあり、排莢と装填の早さからS&Wのトップブレイク(中折れ式)を受け継ぐことになりました。使用実包はナガンの9.4X22mmRやS&W No.3の.38S&W(9X20mm)を参考に、独自の9X22mmRの開発に成功し、採用を決めました。またトリガーはS&W No.3のシングルアクションでは速射性がないということで、ナガンなどを参考にダブルアクションとしました。ただし、ダブルアクションオンリーのリボルバーとなりました。こうして、明治26年(1893年)、二十六年式拳銃として制式採用され、将校用拳銃となりました。二十六年式は小型のために、後に南部式や十四年式が開発されても将校の一部では使い続けられました。二・二六事件で反乱軍将校が鈴木貫太郎侍従長を狙撃した際に使われたのが二十六年式拳銃でした。そして、構造がシンプルで手入れもしやすいことから1930年代まで製造が続けられたと言われています。アメリカではType 26として知られています。

 

 

第二次世界大戦が終わるとすぐにCZはVz 45(写真1)を発売します。これは戦前のVz 36の復刻版で、FN製品によく似たポケットピストルでした。口径は.25ACP(6.35X16mmSR)で、弾倉には8発装填することができました。作動方式はシンプルブローバックで、後にCZ 92としてアメリカで販売されることになります。1950年には警察用として、Vz 50(写真2)が発売されました。写真でわかるようにワルサーPPKに似た.32ACP(7.65X17mmSR)のダブルアクションオートで、弾倉には8または9発を装填することができました。作動方式はシンプルブローバックです。1952年になると、ワルシャワ条約軍の制式実包である7.62ミリトカレフ弾(7.62X25mm)を採用したVz 52(写真3)が登場します。じつはこのVz 52は9mmパラベラム弾(9X19mm)で設計されていたのですが、ソ連の命令によりトカレフ弾を使うように再設計されました。トカレフとは外観デザインも違いますが、作動方式がローラーロッキング方式ショートリコイルを採用しています。弾倉に8発を装填することができました。この拳銃の外観は1968年に登場したオーストリアのステアーGBに似ています。2023年に起きた埼玉県蕨市の郵便局立てこもり事件の被告が使用した拳銃はトカレフTT33とステアーGBと見られていましたが、もしかするとステアーGBではなく、外観が良く似たCZ Vz 52かも知れません。そうすれば実包が共用できることになりますから、真実味を帯びてきます。1970年にはVz 50をアレンジしたVz 70(写真4)が発売されました。さらにワルサーPPKに似ていて洗練されたデザインとなっています。そして、1975年にCZ 75(写真5、6)が登場します。もともと7.62mmトカレフ弾用に設計されていましたが、9mmパラベラム弾用に再設計され、ダブルコラムの弾倉には10発またはそれ以上の実包が装填できるようになっていました。まだ作動方式はティルトバレルのショートリコイル方式で、ダブルアクションでした。つまり、FNハイパワーとワルサーP38のいいとこどりをしたような完成度の高い拳銃でしたが、9mmパラベラム弾使用(のちには9X21mm弾のバージョンも登場)のため、ワルシャワ条約軍の規格に合わず、軍制式となったのは1989年のビロード革命以降になります。そして、西側諸国にも輸出されるようになります。なお、このCZ 75を使用する機会があったコンバット・シューティングの神様と言われるジェフ・クーパーがCZ 75をベースに10mmオートのBren Tenの開発のきっかけを作ったことは有名ですね。このCZ 75はさまざまなバリエーションが作られました。1982年にはCZ 82(写真7)が登場しました。ワルシャワ条約軍の制式拳銃がトカレフからマカロフになったため、CZも9mmマカロフ弾(9X18mm)を使用するダブルアクションの自動拳銃を製作したのです。ダブルアクションで、シンプルブローバックの拳銃でしたが、ポリゴナル銃身を備えていたのが特徴です。また、弾倉はダブルコラムで12発を装填できました。外観デザインもオリジナルのマカロフよりもずっと洗練されていますね。また、口径を9mmマカロフのほか、9mmショート(.380ACP)、.32ACPとしたCZ 83も製造されました。そして、軍制式としてはスロバキアで使用されました。そして1997年には.45ACPのCZ 97(参照)が作られ、西側諸国とりわけアメリカに輸出されるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまではCZと言えば、アメリカに現地法人CZ USAを持ち、さらにコルトやダン・ウェッソンを傘下に収めた大手の小火器メーカーとなっていますが、もともとはチェコスロバキアの小さな小火器メーカーでした。正式名をチェスカー・ズブロヨフカというこのメーカーは最初はマウザーM1910の特許にもとづいて軍用拳銃を設計しました。これがCZ Vz 22(写真1)で、Vzはチェコ語で「モデル」、「形式」という意味で製造年を示しています。マウザーM1910とは外観がかなり異なりますが、内部機構はほぼ同じで、ロータリーバレルのショートリコイル方式を採用し、9mmショート弾(.380ACP、9X17mm)を弾倉に8発装填できるものでした。しかし、ロータリーバレルの作動にたびたび不具合が生じ、改良型のVz 24(写真2)が生まれます。銃口をスライドから少し露出させ、マガジンセーフティー機構などを追加したものですが、基本的な機構はVz 22と同じで、やはり作動不良に悩まされます。そこで、口径を.32ACP(7.65X17mm)として、シンプルブローバックに改良したVz 27(写真3)が設計されました。この改良によって作動不良はほとんど起こらないようになり、CZ製造としては最初に成功した拳銃となりました。このVz 27にはセレーション(スライドの指がかり)が斜めのものと垂直なものがあります(写真4)。また、チェコスロバキアはナチスドイツ軍に占領されたため、P27(t)として製造されました。そのひとつでしょうか、ベルギーのFNハースタルで製造されたVz 27もオークションに出ていたようです(写真5)。さらに、マイナーチェンジをしたVz 28もあります(写真6)。このVz28ではセレーションが斜めに戻されているようです。また、1938年にはこれまでの系列とまったく異なったVz 38(写真7)が作られました。写真のように独特のフォルムをしたDAO(ダブルアクションオンリー)の自動拳銃で、口径は.380ACPで、シンプルブローバック方式。弾倉に9発を装填することができました。この拳銃もナチスドイツ軍がP39(t)として使用しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スペイン王国陸軍の制式自動拳銃はベルグマン・ベヤード(参照)でしたが、実戦での使用の結果、不十分と判断され、新しい自動拳銃を制定することになりました。候補になったのはカンポ・ギロ伯爵だったヴェナンシオ・ロペス・デ・セバリオス・イ・アギーレが1904年に特許を取得した自動拳銃でした。この発明をもとにスペイン陸軍はカンポ・ギロ M1912として制式採用しました。この自動拳銃は9mmラルゴ弾(9X23mm)を使用するもので、弾倉には8発のラルゴ弾を装填することができました。9mmラルゴ弾という強力な実包を使用するため、ストレートブローバックではなく、スプリングで遊底が後退するのを遅らせたディレード・ブローバック方式が採用されました。このカンポ・ギロはアストラM400(M1921)に取って代わられるまで、スペイン陸軍の制式自動拳銃として使われました。アストラM400(参照)も9mmラルゴ弾を受け継ぎ、9mmパラベラム(9X19mm)よりも強力な拳銃をスペイン軍は採用していました。このため、スペイン内戦までカンポ・ギロはアストラM400とともに使われることになりました。

このようにスペインではかなり知名度の高いカンポ・ギロですが、映画にはほとんど登場しないようです。調べてみましたら、フランコ・ネロ主演の「ガンマン大連合」(1970年)で主人公に使用されているようです。ちなみに、この映画は原題が"Companoeros”(同志たち)で、メキシコ革命を描いたものですが、邦題はかなりかけ離れたものになっています。