nonは高校時代は仏教の進学校に通い
 

その後は、教育学でそこそこ有名な大学の教育学部に進学いたしました。

 
 
 
(※わたしはもっと高い偏差値の大学に行きたかったので、あまり自分の学歴が好きではありません。大学名は伏せさせていただきます)
 
 
 
 
ですので
大学名と学部を言うたびに「教師志望だったのですね」と
よく勘違いをされるのですが
 
わたしは教師を目指したことは過去に一度もございません。
 
 
 
 
「他者を教育したい」のではなく
 
「教育界そのものを改革したい」
 
という意志で、教育学を学んでおりました。
 
 
 
(そもそも多種多様な教員養成の学部のある大学なので、教師になりたい人間は教員養成系の学部に進学するのです。その大学で「教育学部」に入る人間は、最初から教師を目指す気のない「純粋に教育学を学びたい人間」ばかりでした)
 
 
 
 
ちなみにわたしの家系には
 
教師とか医者とか公務員のお偉いさんとか政治関係者とか
立場上「先生」と呼ばれる人間がちらほらいたため
 
わたしは子供の頃から
「先生」という存在に対して憧れや特別意識を持ったことがありません。
 
 
 
昔から勘の良い子供でしたので
 
「立場や権威を振りかざして己の波動の低さをごまかす」大人に対して
嫌悪のような感情すら抱いておりましたし
 
自分一人が教師になったところで
教育の現場が良くなるわけではないことを
よくわかっておりました。
 
 
 
教師や教育の世界に憧れて
教育学を選んだわけではなく
 
「腐った教育者を減らしたい」
「穢れた教育世界を改革したい」
 
という気持ちで教育学部を選びました。
 
 
 
 
大学一年時入学当初のわたしの口癖は
 
「教壇に立っても教育の世界は変わらない」です。
 
 
 
教育する立場ではなく
教育を改革する立場に立たないと意味がない
 
と、入学する前(高校時代)から強く思っておりました。
 
 
 
 
 
まあそんな教育学に対する熱い想いを抱いて
教育学部へ入学したわけですが
 
大学に入った後はものすごい勢いで教育学への興味を失いました。
 
 
 
 
 
大学時代には
教師志望の友人知人が沢山できましたので
 
素晴らしい志をもって教師を目指す方にも多く出会えましたが
 
 
「自分で自分を育てられないから、その代わりに自分が教師になって他人を育てようとしている」人間も
 
わたしは散々見てきました。
 
 
 
自分の方が相手より目上であるという舞台設定をしないと一対一で何も話せない、
 
 
「先生でも何でもないありのままの自分」では他者と向き合えない人達です。
 
 
 
「自分が上の立場にならないと他者と向き合えない」
「教壇に立たないと自分に自信を持つことができない」
「先生って呼ばれないと自分の意見を言うこともできない」
 
 
「先生」になりたがる方々の中に、そのような方はたくさんいました。
 
 
 
 
 
先述の通り、
 

そもそもわたしは

「教育」「教師」「先生」という事象に対して

憧れを全く持たないまま教育学部に進学しましたので

 

 

そのような「教師」「先生」という隠れ蓑を使い

自身の愚かさや不足感をごまかそうとする方に出逢うたびに

 

わたしの内にあった「教育の世界を改革したい」という情熱は

どんどんと勢いを失くし消えていきました。

 

 

「やっぱり教育業界はこんなもんだよね」と

再確認してやる気を削がれるような感覚です。

 
 

 

 

 

また
 
大学に入ったわたしは
子供と一緒に遊んで子供文化を研究するサークルに入ったのですが
 
 
そこで日々、

子供の穢れない聖なるパワーを目にして圧倒され
「ただ子供と触れ合うだけで癒されている自分」に気づき
 
 

「子供は本来大人の教育を必要としていない」 

「子供は自由に遊ばせて自由に学ばせることで神性を発揮する」

「子供こそ神様で、大人は子供の神性が腐らないよう見護るだけでいいのだ」
 
 
と改めて実感するようになりました。
 
 
 
 
わたしはそのサークルに入る前は、
 
現代の子供たちに対して

「腐った教育に可能性を潰された可哀相な子供たち」
というイメージを勝手に持っていたのですが
 
 
狭い教室から飛び出して

思い思いに好きなことをする子供たちは

 
まったく「可哀相」ではない、
無敵の天使のような存在でした。
 
 
 
そうして
 

全力で遊ぶ素直で可愛い子供たちから

「大好きだよ♡」「また遊んでね♡」という

愛情と優しさでいっぱいのエネルギーをもらう内に、

 

 

「正しい教育のあり方とは…」とか

小難しいことが書かれた学術書を読んで


素直じゃなく可愛くもない教授や学生達と

教育についての論議を日々していることが

 

本当に馬鹿馬鹿しくなってしまったのです。

 
 
 

教育学を語る死んだ目の教授や学者の話を聞くより

 

純粋で愛に溢れた子供たちのエネルギーに

直に触れて学ぶ方がよっぽどいい。

 
 
 
それをしみじみと実感して
 
「教育学を学ぶことに何の意味も無いな」
と心底感じるようになりました。
 
 
 
 
 
そもそも子供に「教育」は必要ない。
 
学びたいものを好きに学ばせて、
遊びたい時に遊ばせるだけでいい。
 
 
子どものその姿から「学ぶ」のは
むしろ大人の方なのだ。

 

そのような結論に自然と達しました。
 
 
 
 
 
そのような結論を出した上でも
 
 
「教育」に対する情熱や信念は捨てきれず
子どもと接する時間を執拗に求める自分に気づき
 
 
 
なぜわたしは未だに「教育」にこだわるんだ?
 
どうしてこんなにも「子供たち」に癒されることを望むんだ?
 
 
 
と自問自答して
 
 
やっと、
 
 
 
「わたしが「教育」にこだわるのは、自分の中にいる子どもが「教育」に傷つけられて、癒されていないだけだ。」
 
 
「自分の内にいる子どもを思う存分遊ばせてこなかったから、こんなにも子どもとの触れ合いを欲するのだ。」
 
 
ということにも気づきました。


 

 

 

 

 

 

その後は教育学の勉強そっちのけで

 

「全力で自分の中の子どもを癒して遊ばせることに舵を切った」ため

 

 

子どもの頃に好きだった

音楽や物語の創作や絵を描くことにエネルギーを使い

 

バンドをやったり漫画を描いたりとし始めたわけですが

 

 

 

それすらも「自分の本当の望みではなかった」と気づくのは

もっと後の話です

 

 

 

 

(参考記事たち)

 

 

 
 
 
 
そしてそれからまた数年が経ち
 
スピリチュアルな世界に足を踏み入れて
 
 
「子供時代に引き受けた痛みの解放」や
「子供時代に解消したカルマの残響の消化」や
「教育という事象に纏わるエネルギー的なシナリオの解体と再生成」に
 
本格的に向き合い
取り組むようになりました。
 
 
 
「教育」という事象自体にまつわるブロックの解放や
シナリオに纏わる癒着を一つ一つ解いていったり
 
 
またツインレイに出逢い
過去生やソウルワークを知る事により
 
「教育」というものに対する恐れや
洗脳の奥底にあるものの意味を知り
 
 
それらの事象をひとつひとつ解ききった上で
自身の内に在る定義を創り変えてきました。
 
 
 
 
 
ですので
 
 
「スピリチュアルの道に本格的に進む前のわたし」の
 
過去話における「教育という事象にまつわるエトセトラ」は

 

 

もうわたしにとって「前前前世」レベルの話です。
 
 
 
 
 
「昔のわたし」について書くと
 
世界観のレベルを「その時代のわたし」に合わせざるを得ない文章になるので
 
どうしても記事全体の波動が低くなります。
 
 
 
ですので
 
 
本当はもう、こういう過去話を
 
わたしはしたくないのです。
 

 

 

 

 
ですが、
 
 
ツインレイだから
まあ当然なのですが
 
わたしのツインレイの相方は
教育系の仕事を長年やってきた人間で
 
 
 
 
エネルギー的な色々な事情から
 
(説明が面倒くさいので省きますが)
 
 
このたび
 
「わたしにとっての『教育』についての見解を過去話と共に書いて表に出せ」

天から言われましたので
 
 
今回の記事を書きました。
 
 
 
 
 
(「何でこんな「とっくに終わった話」を書かなきゃいけないの…」と文句を言いつつ、天にあおられるようにおろされる文章をそのまま打ちました。「教育学を学んでいた時代の話を書いた方が良い」と示唆されてはいましたが「今のわたしの波動」とあまりに乖離した内容の記事になることがわかっていたので、書きたくなかったのです)
 
 
 
 

 

 
 
 
もちろん
ツインレイの彼が
わたしのブログを読んでいるとは思いませんが
 
 
(わたしもツインレイの彼の情報は知りません)
 
 
 
わたしがこうして
自分の過去話を「公的に発信する」だけで
互いのエネルギーは変わりますし
 
 
 
ネットの海は無限大ですので
 
こうして言葉に変換して表に出す事で
バタフライエフェクト的な効果が起きて
 
 
わたしにとっての「教育」の話(のエネルギー)は
間接的にいつかどこかで彼に伝わることでしょう。
 
 
 
 
 
 
まとめを書いておきます。
 
 
 
 
わたしは
 
「他者を教育する」ことに興味がなく
 
「教育という概念そのものを俯瞰して創り変えていく」ことにしか興味がありません。
 
 
 
昔から、そういう人生です。