※高遠城

長野県伊那市高遠町(旧・信濃国伊那郡(のち上伊那郡]高遠)にあった城。別名兜山城。サクラの名所としても有名であり、特に珍しい品種であるタカトオコヒガン1,500本の樹林が名高い。国の史跡に指定されている。

築城年は不明。戦国時代の高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていた。1545年(天文14年)、諏訪の領有を巡りしていた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)と頼継は対立し、高遠城は落城(高遠合戦)。高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。
武田信玄から武田勝頼にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる。
1582年(天正10年)、織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に3万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し、盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、城は落城した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。 高遠城の西では、織田軍が攻城拠点として使ったとみられる「一夜の城」と推定される遺構が発掘されている。
武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する。織田氏の伊那郡支配の実態は不明であるが、毛利長秀は坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城(長野県飯田市)に在城していることが確認される。高遠城は甲州征伐により壊滅しており織田氏時代の城主も不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかは疑問視されている。 同年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。上伊那郡では諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰した。藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子・頼広と共に自害した。徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年7月15日までに高遠城を奪還した。 その後は家康方の保科正直が高遠城に入った。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。 

1872年(明治5年)廃城。廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、この場所は荒地となっていた。1876年(明治9年)、これを見かねた旧藩士たちは城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備した。1936年(昭和11年)、高遠閣が完成。現在、高遠閣は観光客の休憩所、案内所として使用されているが、元々は地域の集会所として作られたものであった。


入口には料金所がありますが閉まっています。


高遠城址公園は花見シーズンのみ入場有利。

毎年4月上旬から5月上旬にかけての観桜シーズンには「高遠城址公園さくら祭り」が催され、夜間のライトアップも行われ全国から花見客が訪れる[。







法憧院曲輪





白土橋









白兎橋を渡りました。

石碑は忠骨蔵






本丸へ向います。



桜雲橋、その先に見えるのは問屋門

問屋門



問屋門を潜り

本丸跡へ



本丸跡





本丸跡に建つ太鼓櫓





本丸跡に鎮座する新城(盛信)神社











高遠公園碑



本丸跡をあとにして

再び桜雲橋を渡り

登録有形文化財 高遠閣

1936年(昭和11年)築、地域の集会所として作られたが、現在は観光客の休憩所、案内所として使用









二ノ丸跡



高遠城址公園を出て





進徳館



進徳館

高遠城内に設けられた高遠藩の藩校である。城址敷地内に現存する藩校建造物は珍しく、1973年(昭和48年)国の史跡に指定された(史跡「高遠城跡」の一部として指定)

































進徳館から坂道を下り



勘助曲輪

痛みの激しい門が





大手門跡









大手門石垣

大手門跡からの眺め

石段を下り








高遠駅へ向かいます


高遠城址

長野県伊那市

令和7年(2025年)1月8日㈬ 撮影

高遠駅から1.3km 

高遠城址公園へ向かいます



高遠城

長野県伊那市高遠町(旧・信濃国伊那郡(のち上伊那郡]高遠)にあった城。別名兜山城。サクラの名所としても有名であり、特に珍しい品種であるタカトオコヒガン1,500本の樹林が名高い。国の史跡に指定されている。

築城年は不明。戦国時代の高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていた。1545年(天文14年)、諏訪の領有を巡りしていた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)と頼継は対立し、高遠城は落城(高遠合戦)。高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。
武田信玄から武田勝頼にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる。
1582年(天正10年)、織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に3万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し、盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、城は落城した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。 高遠城の西では、織田軍が攻城拠点として使ったとみられる「一夜の城」と推定される遺構が発掘されている。
武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する。織田氏の伊那郡支配の実態は不明であるが、毛利長秀は坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城(長野県飯田市)に在城していることが確認される。高遠城は甲州征伐により壊滅しており織田氏時代の城主も不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかは疑問視されている。 同年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。上伊那郡では諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰した。藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子・頼広と共に自害した。徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年7月15日までに高遠城を奪還した。 その後は家康方の保科正直が高遠城に入った。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。 

1872年(明治5年)廃城。廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、この場所は荒地となっていた。1876年(明治9年)、これを見かねた旧藩士たちは城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備した。1936年(昭和11年)、高遠閣が完成。現在、高遠閣は観光客の休憩所、案内所として使用されているが、元々は地域の集会所として作られたものであった。
ナビに従って進みます。ちょっと怖い道











高遠町歴史博物館へ


伊那市立高遠町歴史博物館

 1996年(平成8年)に、⾼遠町⽴歴史博物館として開館。2006年(平成18年)の市町村合併に伴い、伊那市立高遠町歴史博物館となる。 絵島囲み屋敷 高遠城に関する歴史資料が展示されているほか、江島生島事件で1714年(正徳4年)に高遠に流刑になった大奥年寄の絵島(月光院)ゆかりの囲み屋敷が保存されている。 



開館時間  午前9:00 - 午後5:00(最終入館時間は午後4:30) 

休館日 編集 月曜日、祝日の翌日。なお、休日の場合は開館 12月28日 - 1月3日 

入館料 400円(一般)


日本100名城スタンプ 高遠城

は入口前に設置


100名城スタンプを押して

高遠城の御城印、2種類と

城カードを購入

江島囲み屋敷



絵島(1681- 1741)

江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。名前は「江島」が正しいとされる。歌舞伎役者・生島新五郎とともに、江島生島事件の中心人物である。

江島生島事件(1714年)により信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流され、屋敷に幽閉された。
27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に死去。
現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、江島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。

















































伊那市立高遠町歴史博物館を出ました。





伊那市立高遠町歴史博物館の前に建つ


保科正之公 生母お静(志津)


の像


伊那市立高遠町歴史博物館から高遠城址公園へ向かいます。

「桜小径歩道橋」を渡り 


伊那市立高遠町歴史博物館(左の建物)の背後には高遠湖




坂を登り

信州高遠美術館の横を通り過ぎ、








高遠城址公園へ



令和7年(2025年)1月8日㈬

「令和7年1月上旬の旅」1日目は青春18きっぷ・3日間用を使用。

中央本線に乗り上諏訪に来ました。

427M   高尾614発 松本行き

は上諏訪854着

※この記事の続きです。
中央本線・飯田線直通列車に乗り換え

544M   上諏訪922発 豊橋行き

313系 J173編成3連

車内は転換クロスシート

下諏訪(931発)





岡谷(935着945発)

車窓には残雪がチラホラ





川岸(950発)



中央本線と飯田線が分岐する辰野(956着959発)

この先は飯田線、JR東日本からJR東海に


宮木(1002発)、駅名標もJR東海仕様

伊那新町(1005発)

羽場(1008発 )

伊那松島(1011発)

北殿(1026発)

田畑(1029発)

1035着の伊那北で下車。

無人駅なので車掌に青春18きっぷを提示





伊那北駅前にJRバス関東が運行する高遠町方面バス(高遠線)の乗り場。 

ジェイアールバス関東伊那支店が運行する高遠線は、長野県伊那市から同市高遠町を結ぶ高遠電気軌道による鉄道計画の頓挫を受け、国鉄バスにより運行が開始されたものである。主に伊那と高遠とを結ぶ生活路線で、朝夕は一部の便が高遠高校前まで、日中はさくらの湯まで乗り入れる。


伊那北駅1045発 高遠駅行き

に乗車




ICカードは利用できないので運賃は現金にて

伊那市内の中心部を走り



伊那バスターミナル(1045発)





終点の高遠駅1108着、伊那北駅からの運賃530円


※高遠駅

長野県伊那市高遠町西高遠1735-2にあるジェイアールバス関東(伊那支店)バスターミナル(自動車駅)である。

伊那市の高遠町地区にあり、1948年(昭和23年)1月に開設された。国鉄バス時代から高遠町のバス運行の拠点として機能している。構内にはバス待機場が設置されている。 駅舎には定期券・回数券窓口(営業時間10時-12時、13時-17時。お盆年末年始休業)があり、中央道支店の社員が業務に応っていたが、2022年3月31日をもって窓口営業を終了し、無人化された

wikipediaより引用。


日本100名城に選定されている高遠城跡の高遠城址公園までは1.8km













高遠城址公園まで歩きます。