岡城跡


大分県竹田市


令和7年(2025年)1月15日㈬ 撮影



※この記事の続きです。




※岡城 (豊後国) 

大分県竹田市大字竹田(豊後国直入郡竹田)にあった城(山城)。臥牛城(がぎゅうじょう)・豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)とも呼ばれる。日本百名城の一つ。雲海に浮かぶ城だが、「天空の城」の火付け役の竹田城とは、「たけだ」と「たけた」と読み方は異なる。

岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。


天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し(豊薩合戦)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている

 豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀]が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。

この修築では、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。 

豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領を安堵。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。 明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。

 昭和11年(1936年)、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)、日本100名城(95番)に選定された。


wikipediaより引用











貫木門跡











太鼓櫓跡









三の丸跡











本丸跡

御三階櫓跡







本丸跡に鎮座する

岡城天満神社








賽銭箱の前には書き置きの御朱印、「セルフ御城」 でした。 


クリア御朱印を頂きました。











上屋のある階段





階段を下りると

二の丸休憩所、ピアノが設置







二の丸休憩所






二ノ丸跡に建つ瀧廉太郎像



瀧廉太郎 (1879-1903) 

音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。


























再び駐車場へ

豊後竹田駅まで歩きます。