令和7年(2025年)2月11 日㈫  建国記念の日㈷ 

「令和7年2月中旬の旅」1日目は四国フリーきっぷ を使用。予土線の松丸に来ました。

松丸駅から1km、続日本100名城に選定されている河後森城跡を見たあとは再び松丸駅へ



※この記事の続きです。


※四国フリーきっぷ 18,000円

四国全線の特急列車自由席を連続3日間利用可能な、フリータイプのきっぷ。 窓口等で販売の紙きっぷの他に、デジタル版「スマえき四国フリーきっぷ」「しこくるり四国フリーきっぷ」「tabiwa四国フリーきっぷ」も発売。 

有効期間 3日間 

※発売箇所

① 紙のきっぷ JR四国の駅のみどりの窓口、みどりの券売機プラスおよび指定席券売機、JR四国ツアー支店、四国内の主な旅行会社 ※発売箇所

※主な利用条件 

●JR四国線全線(宇多津~児島間を含む)の特急列車・普通列車の普通車自由席及び、土佐くろしお鉄道線(窪川~若井間)の普通列車の普通車自由席が乗り降り自由。 

●JR四国バス 、路線バス(大栃線、久万高原線)に乗車可能(高速バスは乗車不可)。

 ●普通列車の普通車指定席またはグリーン車を利用の場合は、それぞれ座席指定券、グリーン券を別途購入が必要

 ●特急列車の普通車指定席またはグリーン車をご利用の場合は、乗車券部分のみ有効。料金券を別途購入が必要。サンライズ瀬戸号は利用不可。

●伊予灘ものがたりのグリーン個室(3号車「陽華の章」)には乗車不可。乗車には別途乗車券・料金券が必要。 




松丸駅駅舎2階の展望テラス、眺めはちょっと……



松丸駅駅舎2階には「森の国ぽっぽ温泉」という温泉施設。駅入口前には足湯





上り予土線

4820D   松丸1626発 江川崎行き

が到着

車両は キハ54 6 ラッピング列車「しまんと開運汽車 すまいるえきちゃん号」
この列車には乗らず

発車を見送り

乗車するのは下り予土線

4821D   松丸1636発 宇和島行き

キハ32 6

先ほど、宇和島〜松丸で乗車した上り列車の折り返しでした。
伊予宮下(1704発)では 下り 4822D  と交換

4822D の車両は キハ32 3「鉄道ホビートレイン」


予土線と予讃線が合流する

北宇和島(1720発)

上り予讃線 4652D  と交換
北宇和島〜宇和島は予讃線を走り

終点の宇和島1723着

そろそろ夕暮れ

久しぶりに下車した宇和島ですが

※2023年9月に訪れた宇和島 
目的地へ急ぎます。

アーケード商店街「きさいやロード」

広いアーケード商店街ですが楽器に乏しい

かつては買い物客で賑わったのであろうか?

きさいやロードにはデザインマンホール

道の真ん中に駐輪………

しかし歩行者は少ない







宇和島城天守が見えます。

宇和島城も一昨年訪れました。



宇和島城跡への入口

城山北登山口の前にある

宇和島市観光情報センター「シロシタ」へ



宇和島市観光情報センター「シロシタ」 

9時00分〜18時00分 ・年末年始休(12月31日~1月1日)) 

宇和島駅から0.7kmを早足で歩き、下車営業時間終了直前に間に合いました。
宇和島市観光情報センター 「シロシタ」では宇和島市のマンホールカードを配布、頂きました。


城山北登山口の桑折氏武家屋敷長屋門、すでに門は閉ざされています。



再びきさいやロードへ


デザインマンホールと宇和島城天守



コチラが座標?



このようなデザインも

再び宇和島絵駅へ

上り予讃線

1076D   宇和島1808発 特急宇和海24号 松山行き

に乗車




令和7年(2025年)2月11 日㈫  建国記念の日㈷ 

 「令和7年2月中旬の旅」1日目はJR四国・予土線の松丸駅から歩くこと1km、続日本100名城に選定されている河後森城跡に来ました。

※この記事の続きです。


※河後森城(かごもりじょう)

愛媛県北宇和郡松野町松丸にあった(山城)。国の史跡。
四万十川の支流・広見川と、さらにその支流の堀切川、鰯川に囲まれた馬蹄形の独立丘陵上にある。山頂の本郭を中心に、二段・三段の平坦地が設けられ、古城~本城~新城と馬蹄形に曲輪が設けられていた。馬蹄の中央は風呂ヶ谷と呼ばれる谷戸となっている[。発掘調査が行われて、掘立柱建物跡が複数確認されており、調査結果を踏まえて城内に門や建物が復元されている。また16世紀終わりから17世紀初頭の頃に大きな改修を受けており、瓦葺きの建物や多聞櫓等の存在が確認され、天守相当の建物が存在したと言われている。

川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々の居城としており、天文後期から天正年間にかけて機能した。天正8年(1580年)から翌年の間に、城主の渡辺教忠の近習だった芝政景(芝源三郎)が土佐国の長宗我部氏に寝返り、謀略により当城を奪った。天正11年(1583年)の四国の役の後、当地を宛がわれた豊臣氏家臣の戸田勝隆により芝政景は放逐された。その後、当地を治めた藤堂高虎は当城の天守を移築して宇和島の自城板島城の月見櫓にしたと伝わる。慶長19年(1614年)に伊達秀宗が宇和島藩を創立した際、付家老の桑折景頼(石母田景頼)が当城に入っている。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になったとされる。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(179番)に選定された。

wikipediaより引用


風呂ケ谷駐車場か





愛媛県内は数日前に積雪、日陰に残る残雪





誰もいません。









残雪量も増えて足元が悪くなってきました。




ここからは坂道

ちょっと怖い



手すりもなく不安







なんとか上がりました。



門を潜ると

左は西第十曲輪、右は本郭

西第十曲輪へ

奥に見えるのは復元された掘立柱建物








掘立柱建物内に設置されている続日本100名城スタンプ






押しました。

コチラは紙製?の馬











すいません。本郭に登る気力はなく



下におります。下りも怖い



井戸


























再び松丸駅へ





令和7年(2025年)2月11 日㈫  建国記念の日㈷ 

 「令和7年2月中旬の旅」1日目は四国フリーきっぷ を使用。宇和島から上り下り予土線に乗り松丸で下車。

4018D  宇和島1415発 江川崎行き

は松丸1502着


愛媛県内は数日前に降雪、ホームに残る雪

※この記事の続きです。


※四国フリーきっぷ 18,000円

四国全線の特急列車自由席を連続3日間利用可能な、フリータイプのきっぷ。 窓口等で販売の紙きっぷの他に、デジタル版「スマえき四国フリーきっぷ」「しこくるり四国フリーきっぷ」「tabiwa四国フリーきっぷ」も発売。 

有効期間 3日間 

※発売箇所

① 紙のきっぷ JR四国の駅のみどりの窓口、みどりの券売機プラスおよび指定席券売機、JR四国ツアー支店、四国内の主な旅行会社 ※発売箇所

※主な利用条件 

●JR四国線全線(宇多津~児島間を含む)の特急列車・普通列車の普通車自由席及び、土佐くろしお鉄道線(窪川~若井間)の普通列車の普通車自由席が乗り降り自由。 

●JR四国バス 、路線バス(大栃線、久万高原線)に乗車可能(高速バスは乗車不可)。

 ●普通列車の普通車指定席またはグリーン車を利用の場合は、それぞれ座席指定券、グリーン券を別途購入が必要

 ●特急列車の普通車指定席またはグリーン車をご利用の場合は、乗車券部分のみ有効。料金券を別途購入が必要。サンライズ瀬戸号は利用不可。

●伊予灘ものがたりのグリーン個室(3号車「陽華の章」)には乗車不可。乗車には別途乗車券・料金券が必要。 



※松丸駅

愛媛県北宇和郡松野町松丸にある、JR四国予土線の駅である。駅番号はG38。
駅単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎は「松野町ふれあい交流館」との合築で、2階には「森の国ぽっぽ温泉」という温泉施設も入っている。また、簡易委託駅となっている。

駅周辺は松野町の中心部。駅周辺は旧街道沿いに店舗の建ち並ぶ松丸商店街となっており、役場、農協、伊予銀行松丸支店等の施設も集積している。





駅舎二階には温泉

駅を出て、約1km 先の河後森城跡へ向かいます。

その途上にある不器男記念館では河後森城の御城印を販売

松丸町の町並み



芝不器男記念館へ

※芝 不器男(しば ふきお 1903 - 1930年)

愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)出身の俳人、

「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。

1988年、松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館。






河後森城跡の御城印を購入

NAVIに従って進みます。河後森城跡へ向かう坂道

ちょっと心細くなってきました。













道先案内が……





























河後森城跡入口に来ました。

※河後森城(かごもりじょう)

愛媛県北宇和郡松野町松丸にあった(山城)。国の史跡。
四万十川の支流・広見川と、さらにその支流の堀切川、鰯川に囲まれた馬蹄形の独立丘陵上にある。山頂の本郭を中心に、二段・三段の平坦地が設けられ、古城~本城~新城と馬蹄形に曲輪が設けられていた[3]。馬蹄の中央は風呂ヶ谷と呼ばれる谷戸となっている[3]。発掘調査が行われて、掘立柱建物跡が複数確認されており、調査結果を踏まえて城内に門や建物が復元されている。また16世紀終わりから17世紀初頭の頃に大きな改修を受けており、瓦葺きの建物や多聞櫓等の存在が確認され、天守相当の建物が存在したと言われている。

川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々の居城としており、天文後期から天正年間にかけて機能した。天正8年(1580年)から翌年の間に、城主の渡辺教忠の近習だった芝政景(芝源三郎)が土佐国の長宗我部氏に寝返り、謀略により当城を奪った。天正11年(1583年)の四国の役の後、当地を宛がわれた豊臣氏家臣の戸田勝隆により芝政景は放逐された。その後、当地を治めた藤堂高虎は当城の天守を移築して宇和島の自城板島城の月見櫓にしたと伝わる。慶長19年(1614年)に伊達秀宗が宇和島藩を創立した際、付家老の桑折景頼(石母田景頼)が当城に入っている。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になったとされる。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(179番)に選定された。

wikipediaより引用