仏国で誕生した「ミッシェル・ポルナレフ」は、5歳の頃からピアノの英才教育を受け、パリ音楽院入学時には天才ピアニストと云われて、将来のクラシック界を背負っていくだろうと、誰もが期待していました。
ところが、ある日のこと、米国のロックンロールをラジオで聴いた瞬間、彼は、クラシック音楽から180度の方向転換をしてしまいます。 ![]()
1966年、「ノンノン人形」を発表、これがデビュー・ヒットとなりました。
この曲は海外でも評価が高く、「花のサンフランシスコ」の「スコット・マッケンジー」もカバーしています。
同年、「愛の願い」も続いてヒットし、暮れにはファースト・アルバム「愛と青春のトルバドゥール」を発表しました。
このアルバムには、後に「レッド・ツェッペリン」のギタリストとなる「ジミー・ペイジ」と、ベーシストの「ジョン・ポール・ジョーンズ」がバック・ミュージシャンとして参加しています。
それから、「プロコル・ハルム」の「キース・リード」も、作詞で参加しています。![]()
1971年、「シェリーに口づけ」を発表、日本だけでも40万枚をセールスする大ヒットとなりました。
それが縁で、翌年、初来日を果たしています。
東京厚生年金会館でのライヴ(当時は実況録音と言ってました)が、アルバム「ポルナレフ・ア・トーキョー」として日本だけで発売されています。
彼が「仏国と日本ではウケる曲が全く違うのが面白い」と言うように、
日本で大ヒットした「シェリーに口づけ」は、本国仏国ではアルバムにも収録されていませんし、シングルはあるもののB面扱いなのです。
セカンド・アルバム「ポルナレフの世界」は、仏国で大ヒットし、シングルも数曲カッティングされていますが、日本でこのアルバムからA面扱いとしてカッティングされた曲はありません。
1972年、「愛の休日」が日本で大ヒットした事もあって、次のアルバム「ポルナレフ革命」を、日本が世界に先行して発売しようというプランが持ち上がりました。
翌73年、アルバム用のマスター・テープのコピーが、パリから日本へと空輸されます。 ![]()
しかし、運の悪いことに、その飛行機がハイジャックされてしまったのです。 ![]()
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そして、大事なテープは、犯人による機の爆破によって焼失してしまったのでした。 ![]()
結果、日本でのアルバムの発売が世界で一番遅くなったと云う逸話が残っています。 (ノ_-。)
ちなみに、この事件、「ドバイ空港での日航機ハイジャック事件」でした。
もうちょっとおしゃべりしたいところですが、紙面の関係でこのつづきは次回へ・・・。
つづく