ウルトラマン・Hの ひとりごと -23ページ目

ウルトラマン・Hの ひとりごと

音楽について語りたくてたまらないんです。

「テケテケ・サウンド」、つまり「エレキ・ギター」のブームは、1965年に日本中で巻き起こりました。 


火付け役になったのは、「ヴェンチャーズ」と思うでしょう? いいえ、違うのです。


実は、1964年、「アストロノウツ」が発表したサーフィン・サウンドのインストゥル・ナンバー、「太陽の彼方に」が火付け役でした。 流れ星

日本語で、「乗ってけ 乗ってけ 乗ってけサーフィン 波に 波に 波に 乗れ 乗れ・・・」と、カバーして唄ったのが橋 幸夫さんでした。 波

インストとカバーと、相乗効果もあったのでしょう、大ヒットとなったのです。


そして、1965年、極めつけの「ヴェンチャーズ」が、2度目の来日をします。 目

パイプライン」、「ダイアモンド・ヘッド」のグリッサンド奏法、つまり、「テケテケテケテケ・・・」のサウンドは、たちまち団塊の世代のハートを鷲掴みにしたのでした。 爆弾


特に、「ヴェンチャーズ」の演奏する「パイプライン」は、オリジナルの「シャンティーズ」を押し退けて、テケテケ・サウンド・ブームを象徴する代表曲となりました。


1966年、「ビートルズ」が来日して話題になりましたが、当時、ある意味「ヴェンチャーズ」は、「ビートルズ」以上に人気があったのです。


その当時生まれたグループは、「スプートニクス」、「シャドウズ」、「シャンティーズ」、「サーファリーズ」、「クリフターズ」、「アヴェンジャーズ」等、上げるとキリがありません。 合格

グループではないですが、ギター奏者の「デュアン・エディ」、「ビリー・ストレンジ」も、忘れてはいけませんね。


英国出身の「シャドウズ」は、もともと「クリフ・リチャード」のバック・バンドでしたが、「春がいっぱい」、「ダイナマイト」、「アパッチ」等、数多くのヒットを連発し、英国では圧倒的な支持を集めました。


スウェーデン出身の「スプートニクス」は、「霧のカレリア」、「空の終列車」等、ロシア民謡を取り入れた哀愁に満ちたクリアなサウンドでヒットを飛ばしました。


ただ、どちらも余りにスマートで洗練されたサウンドが災いしたのか、日本では「ヴェンチャーズ」程は受け入れられなかったのです。


「シャドウズ」、「スプートニクス」にサウンドが似ているのが、「シャープ・ファイブ」のリード・ギター「三根信宏」さん。(あのデイック・三根さんの息子さんです。) 叫び

この「シャープ・ファイブ」、実は、あの「勝ち抜きエレキ合戦」の模範演奏バンドでして、その卓越したテクニックは素晴らしいですよね。


「ベンチャーズ」に似ているのが「ブルー・ジーンズ」の「寺内タケシ」さんでしょうか。

何と寺内さん、今や人間国宝のギタリストですからねえ、恐れ入ります。 叫び


当時は余りに「ヴェンチャーズ」の人気が抜きん出ていまして、「テケテケ・サウンド・ブーム」というのは、いわゆる「ベンチャーズ・ブーム」だったのですね。


つづく

1938年12月12日に生まれた「コニー・フランシス」、本名は、「コンセッタ・ロサ・マリア・フランクネロ」と言います。


幼い頃から才能豊かだったコニーは、3才でアコーディオンをマスター、10才の頃には地元のTVショーに出演していました。 口紅


1955年、タレント・スカウトのショーに出た事がきっかけで、「フレディ」という曲で歌手としてデビューしますが不発でした。

それから、3年間、およそ9枚のシングルを発表したのですが、ことごとく不発に終わるのです。 叫び


なかなかヒット曲に恵まれず、歌手を辞めようとさえ思っていましたが、やはり大好きな歌は捨てる事が出来ません。

もう1枚だけ出してみよう、これが売れなかったら、本当に歌手は辞めよう」との思いで、1958年、発表したのが、「フーズ・ソリー・ナウ」でした。

これは、スタンダード・ナンバーをカバーした楽曲でしたが、全米第4位の大ヒットとなりました。カラオケ

今思えば、この曲が無かったら、ポップス界の女王「コニー・フランシス」は誕生していなかったのです。


その後は、すこぶる好調で、1960年「エヴリボディーズ・サムバディーズ・フール」が、全米第1位になりました。

61年には、「トゥゲザー」が、ビルボード・シングル・チャートで第1位、62年には、「泣かせないでね」も、全米第1位になるなど、ベスト10に60曲近くのヒット曲を送り込んだのでした。


順風満帆のコニーでしたが、不幸にも1974年、滞在中のホテルに不法侵入した黒人に襲われ、一時活動を停止してしまいました。(犯人は未だ捕まっていないそうです。) ドクロ

それでも、1978年、見事にカムバックを果たし、世界中に元気な姿を見せてくれたのでした。


 「コニー・フランシス」は、音楽的なレパートリーが大変広く、ポップスはもちろん、スタンダードからジャズ、カントリー&ウエスタン、ラテン、カンツォーネなど、あらゆるジャンルの作品をこなせるまさに「オールラウンド・シンガー」でした。


世界中でコニーのヒット曲がカバーされています。キスマーク


日本では、弘田三枝子さんや中尾ミエさんがカバーして、ヒットとなりました。


1962年発売の「ヴァケイション」は、日本ではいろいろな歌手が同時にカバーする競作となりましたが、青山ミチさんのカバーが3万枚、弘田三枝子さんのが20万枚の大ヒットとなりました。

この「ヴァケイション」、本場ビルボードでは、最高9位にランクインしています。


中尾ミエさんが唄った「可愛いベイビー」は、米国ではシングル発売されておらず、日本だけのヒット曲なのです。

他にも日本独自のヒット曲があって、「夢のデイト」、「ロリポップ・リップス」がそうですね。


オールディーズ・ファンには欠かせないコニーの歌声、「カラーに口紅」、「思い出の冬休み」、「ボーイ・ハント」、「大人になりたい」・・・、みんな最高ですね。


私は、何故か「ミスター・ツイスター」が大好きです。

ベースラインを好きなように弾けるのが楽しいですね。ドキドキラブラブ


つづく




レッド・ツェッペリン」のギタリスト、「ジミー・ペイジ」のギターの特徴は、「リフ作りの上手さである」と、何かの本で読んだ事があります。


確かに、ちょっとしたブレイクのソロ等に、印象的なリフが見られます。

ペイジは、メロディー・メーカーとしても素晴らしい才能を持っていたと思います。ニコニコ


そういえば、何時だったかライヴで、バイオリンの弓を使ってギターを演奏していた事がありました。

専門用語で、”ボウイング奏法”と言うそうですが、このトリッキーさには、”ギヴ・アップ”ですね。


また、ペイジは、ボトルネックを使ったスライド・ギターや、ペダル・スチール・ギターも弾いています。

それから忘れてはいけないのが、彼はギターのオープン・チューニングの達人でした。かお


ジミー・ペイジのギター・プレイは、ロックンロールやブルースを基本にしたオーソドックスな曲作りですが、ジャンルを問わないさまざまな音楽的要素を取り入れたサウンド作りや、アイデアに富んだフレーズ等は、まさに「スーパー・ギタリスト」と呼ぶに相応しいと思います。


1980年、ドラムの「ジョン・ボーナム」が亡くなった事で、事実上「レッド・ツェッペリン」としての活動に終止符が打たれました。叫び


その後、ペイジは、ソロとしてステージに登場することとなります。


1982年のライヴでは、「ジェフ・ベック」、「エリック・クラプトン」がゲストで登場し、3大ギタリストが一堂に会しました。


また、数多くのミュージシャンと即席バンドを結成し、十数枚のアルバムを残しています。


スタジオ・ミュージシャンとしてはもちろんのこと、チャリティーのライヴ等も数多く行っているようです。


2007年、一日限りでしたが、「レッド・ツェッペリン」が再結成されたのは、記憶に新しいところです。!!


オリジナル・メンバーの「ジミー・ペイジ(ギター)」、「ロバート・ブラント(ボーカル)」、「ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)」に加えて、ドラムには、「故ジョン・ボーナム」の息子、「ジェイソン・ボーナム」が参加しました。


このライヴ、実は、「Zep」が所属していたアトランティック・レコードの創設者で、亡くなった「アーメット・アーティガン」氏の追悼チャリティ・コンサートとして、ロンドンで開催されました。


このライヴのチケット、(何とか)様なるお方が高い金出して手に入れたとか、そんな話が巷に流れてました。

これって、チケットの入手は”完全抽選制”じゃなかったっけなあ・・・?


それから、2008年8月に開催された「北京オリンピック」で、同じ英国の女性シンガー「レオナ・ルイス」と「胸いっぱいの愛を」を共演して、閉会式に華を添えたのは、記憶に新しいところでしょうか。


最近になって、「Zep」のアルバムがリマスター盤として、次々に発売されています。


ジミー・ペイジ」を聴くなら、先ずは「レッド・ツェッペリン」から聴き直してみるのもどうでしょうか。


そして、最後の最後に、1973年、伝説のマジソン・スクェア・ガーデンでのライヴ、「永遠の詩狂熱のライヴ)」を聴いてください。


永遠の詩(狂熱のライヴ)」は、映像もありますので、観てみるとまた違った感動が甦ることでしょう。


ボーカルの「ロバート・ブラント」が、思わず「キャァーッ!!」と声が出てしまうほど、とても魅力的に可愛く映っていますよ。


・・・俺には、男色の気もあったのかい・・・キスマーク口紅


つづく








ロック・バンド「レッド・ツェッペリンZep)」のギタリスト、「ジミー・ペイジ」は、1960年代の英国において最も名高いギタリストです。目


ジェフ・ベック」、「エリック・クラプトン」と並んで、【世界の3大ギタリスト】と呼ばれています。合格


ギターのテクニックは驚くほどではないと思うのですが、技術的な上手さを超越した、人間の感情の内面をギターという楽器を通じて表現する事ができる、そんなギタリストだからなのでしょう。ヘッドフォン

テクニックで言えば、ジェフ・ベックが随一ですかねえ。(私的な感想ですが)


Zep」の全アルバムをペイジがプロデュースしていること、バンドのメロディ楽器がペイジのギターだけだということを考えると、要は、「Zep]の好き嫌いは、ペイジのギターが好きか嫌いかってことになるのかな。カラオケ


Zep」でペイジが使っていたギターですが、ファースト・アルバムでは、ジェフ・ベックから貰ったフェンダー・テレキャスターを弾いていました。


セカンド・アルバム以降は、「58年製ギブソン・レスポール・スタンダード・チェリー・サンバーストを使っていて、これがペイジのトレード・マークとなり、ギター史上最も有名なギターとなりました。ベル


それから、「天国への階段」では、ギブソンのダブル・ネックのギターも使っていました。


書物で読んだのですが、演奏中ギターのチューニングが狂わないように、常に適正なチューニングを保つオート・チューニング・システムを搭載したギターを、ペイジのアイデアでギブソン社が作ったこともあるそうです。

これって、仕組みはどうなっているのでしょうね。(@_@)


で、ペイジのトレード・マークになったギターですが、58年モデルは数が少なく、今では1千万円以上の値が付いています。叫び

もしも、ペイジ自身が使ったものがオークションにかかったら、【】はカタイでしょうね。叫び

まずは、出るはずないですけどね。ドンッ


このモデル、ギブソン社から復刻版が出ていたと思いますが、確か100万くらいしていたと思います。叫び


ジミー・ペイジ」は、日本では、「レッド・ツェッペリン」のギタリストとして、その評価が高くなったようですが、本国英国では、「ヤード・バーズ」加入よりももっと以前、スタジオ・ミュージシャンの時代から名声が高かったのです。

16才の頃からスタジオ入りしていたそうですから、いわゆる「天才」ですね。クラッカー


ヤード・バーズ」には66年、ベーシストとして参加、その後ギターに転向して、ジェフ・ベックとのツイン・ギターを聴かせるライヴは、今では伝説になっています。


68年の「ヤード・バーズ」解散を経て、1969年、「レッド・ツェッペリン」として衝撃的なデビューを飾って以来、「ハード・ロックの帝王」として君臨することになります。


う~ん、1000字では書ききれませんね、と言う事で、次回へ・・・つづく

ミッシェル・ポルナレフ」と言えば、カールしたロング・ヘアと大きなミラー・サングラスです。


このファッションは、日本では井上陽水さんが大きな影響を受けたそうです。

それから、エルトン・ジョンも、彼の影響から、大きなミラー・サングラスを掛けていました。メガネ


実はこの三人、サングラスを外すと意外なくらい可愛い眼をしているのです。

特に、ポルナレフは、女の子のようなまつ毛の長い、つぶらな瞳をしています。

ある意味、ロック・ミュージシャンとしては欠陥(はてなマーク)だったのでしょう。

彼が大衆の面前でサングラスを外さなかったのも、何だか解るような気がします。 宝石ブルー


ポルナレフが発表する楽曲は、そのほとんどが音楽チャートを賑わしました。


1966年の「ノンノン人形」に始まって、68年には「バラ色の心」が、レーモン・ルフェーブル楽団のカバーによって、米国で大ヒットしました。


69年、日本でのデビュー曲となる「シェリーに口づけ」。


71年には、アルバム「ポルナレフの世界」からシングル・カットされた「愛のコレクション」、「愛の物語」がヒットしています。


翌72年には、「愛の休日」、「僕はロックンローラー」と、立て続けにヒットを飛ばしています。



面白いのは、1972年発表のサード・アルバム「ポルナレフの世界」です。

この中には、インストル・メンタルの楽曲が、「愛の旅人達」、「コンピューターの夢」、「しかし、まだ旅は続く」と、3曲も収録されている事です。

ボーカルの入らないフレンチ・ポップスって、在りなんだなあ・・・って、面白いと思いませんか?あせる


私は、初来日の時に聴いた「トランペット」という曲に、衝撃を受けたことを今でも憶えています。

これって、インストル・メンタルなんでしょうかねえ。

彼は、口元に手を当てて、トランペットそっくりな音(?)、声(?)を出していました。

今でこそ、声優の山寺さんやグッさんが、ものまねでそんな事やってるのを見ますが、当時はビックリものでしたよ。


ポルナレフは、仏国での成功を片手に、1973年、米国への移住を決心します。

ラジオから流れる米国のロックを耳にしてからスタートした彼の音楽活動の終着駅は、やはり米国だったのでしょうか。

しかし、長年彼が憧れ続けた地での成功は、彼を待ってくれてはいませんでした。 しょぼん


ポルナレフの音楽は、仏国という文化(言葉も含めて)と、米国のロックとが微妙に溶け合って作る、絶妙なバランスの中から生み出されたものです。

それなのに、彼が米国で、それも英語で唄ってしまったら、その魅力は半減どころか、無くなってしまうのは、当然と言えば当然のことだったかも知れませんね。 ドクロドクロドクロ


御歳66才になられる「ミッシェル・ポルナレフ」、ミラー・サングラスは、まだまだ健在なりです。


つづく