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ウルトラマン・Hの ひとりごと

音楽について語りたくてたまらないんです。

スリー・B」という言葉があります。

何かというと、20世紀の3大作曲家、つまり、「ベートーベン」、「ビートルズ」、そして「バート・バカラック」の頭文字を取って「3(スリー)・B」というわけです。


バート・バカラック」は、1928年生まれ、米国の大音楽家であり、大作曲家、アレンジャー、ピアニスト、プロデューサーで、シンガーソングライターでもあります。


少年期はピアノとフットボールに夢中になっていたそうですが、如何せん背丈が足りず、フットボールを断念。

その興味を音楽へと集中させていきました。

ハイスクール期は、バンドを組んで、パーティ等で活躍していたようです。


その後、マッギル大学、マンズ音楽学校、サンタ・バーバラ音楽アカデミーへと進み、音楽を専攻します。

勉強が好きというか、音楽の仕組みや作り方を習得するのが楽しくて仕方がなかったというところでしょうか。


バカラックの作曲技法は、西洋クラシック音楽の作曲家達に師事していると言われています。

大学時代、クラシックの作曲家「ダリウス・ミヨー」や「ヘンリー・カウェル」に学んでいます。

もともとシンガーでしたが、オーケストラの指揮やアレンジャーとして注目を集めるようになったのでした。

そして、他のアーティストに楽曲を提供、そのアレンジからプロデュースまでを手掛けることで有名になったのです。


1957年、作詞家の「ハル・デビッド」との出会いがあって、コンビを組んでヒット曲を量産する事になります。


彼の作った楽曲は、米国でベスト40以内に「70曲」、英国でもベスト40以内に「52曲」を送り込みました。


バカラックが提供したアーティストには、ディオンヌ・ワーウィックドリフターズトム・ジョーンズジーン・ピットニーと、数え上げるとキリがありません。


70年代になって、映画「明日に向かって撃て」の主題歌「雨にぬれても」(B・J・トーマス)は、全米第1位を記録し、アカデミー主題歌賞を獲得しました。


カーペンターズが唄った「遥かなる影」も、全米第1位になっています。


80年代は、クリストファー・クロスの「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」が、そして、パティ・ラベル&マイケル・マクドナルドが唄った「オン・マイ・オウン」が全米第1位に輝きました。


バカラック・サウンドの魅力は何処にあるのか、ある音楽評論家が話してました。

考えられない場所で、考えられない楽器を、考えられないリズムやアレンジで導入している。


大ヒット曲「雨にぬれても」が、いきなりウクレレのイントロから始まっている事を例に上げて、誰もが考えつかないような独特の音を作り出している、と言っています。


そして、「何かいいことないか子猫チャン」、「素晴らしき恋人たち」等、ワルツの曲が多いのも特徴です。


それから、どう拍子を取ったらいいか分からないような変拍子、演奏者泣かせの転調の多用等、変なリズム、想定外の編成こそが、バカラックの人気の要因なのかもしれません。


そうそう、リード楽器にトランペットを使う事が多いようにも思います。


変なリズム」とか何とか言っても、「サンホセへの道」、「雨にぬれても」、「恋よさようなら」、「遥かなる影」と、み~んな口笛で吹けてしまうでしょう。


要するに、美しいメロディ、分かりやすいメロディというのが、バカラック・サウンドの一番の特徴と言えますね。


バート・バカラック」、本当に偉大な音楽家です。


つづく




BSで「ドアーズ」の特集を見ていた時でした。

ライト・マイ・ファイアーハートに火をつけて)」を唄う、「ホセ・フェリシアーノ」の最近の画像が流れました。

涙ちょちょ切れのシーンでした。


ホセ・フェリシアーノ」は、1945年、カリブの島国、プエルトリコで生まれた天才ギタリスト&シンガーです。


彼は、先天的緑内障のため、生まれた時から両目が不自由でした。

その代わりに、耳(音)に対する感性が並外れて素晴らしかったのです。


3才の頃から音楽に目覚め、9才の頃には、ギターはもちろん、マンドリン、バンジョー、ベース、キーボード、アコーディオンを弾きこなすほどになっていました。(もちろん、全て独学です。)


初めて買ったギターは、当時で10ドルだったそうです。

そして、毎日14~5時間もギターを弾き続けたといいます。(学校はどうしたのかなあ?)


21才の時、アルゼンチンのミュージック・フェスティバルに出場、そこで演奏を聴いていたRCAのレコード・プロデューサーの目に留まり、契約を結びました。


1968年、「ドアーズ」の曲、「ハートに火をつけて」をカバーしないかと、プロデューサーから勧められます。

ドアーズのこの曲、1965年にヒットしましたが、オリジナルは「ロック」なんですね。

それを、彼は、アコースティックギターとコンガ、ベース、ストリングスのみの演奏でカバーしたのです。(ドラムは入っていませんでした。)

発表するや、全米チャートの第3位となる大ヒットを記録しました。


ちなみに、この時ベースを弾いていたのが、彼のギターにぞっこんだったジャズ界の大物、「レイ・ブラウン」でした。


この曲、その年のグラミー賞の「最優秀男性歌手」と「最優秀新人歌手」の2部門を獲得しています。


カバー曲の多いフェリシアーノですが、彼の凄いところは、カバー・バージョンが、オリジナルを超えてしまうところにあります。


例えば、レイ・チャールスのカバー「アイ・ゴッド・ア・ウーマン」、これってフェリシアーノのオリジナル?って思ってしまうほど、レイ・チャールス色が消えています。


それから、ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン」、

ニューヨーク・ハーレムの暗い寒い場所に居ると、明るいカリフォルニアへ行ってみたいって思うよねえ

と、フェリシアーノがスペイン語で唄っています。

彼は貧しい少年時代を過ごしてきたので、これって本心だったのでしょうね。

すっかり自分の作品にしてしまっています。(この曲、本当は、暗いイメージの内容だったのですね。)


彼は、カバーばかりでなく、オリジナルも唄っています。

この雨の時期、よくラジオから流れてくる「雨のささやき」、大好きですねえ。

彼のギターのテクニックはというと、それは凄まじいものがあります。

クラシックの名曲「熊蜂は飛ぶ」をギターで弾いていますが、その迫力にぶっとんでしまうでしょう。


それから、「ママ・ドント・アラウ・イット(だったかな?)」、

マンドリン、ハワイアン・ギター、ベース・ギター、エレキ・ギター、そして、ドラムスとパーカッションを、アコースティックギター1本でそっくりな音色で奏でてくれます。

まるでギターのマジック・ショーを見ているようで、目が点になりますね。


ホセ・フェリシアーノ」は、今年65才になって、ちょっぴり太目になったようですが、今でも精力的に活動を続けています。

卓越したギター・テクニックと、圧倒的な歌唱力は、今なお健在です。


つづく


ピーター・フランプトン」は、1950年生まれの英国のシンガー&ギタリストです。


ロンドンのハイスクール時代、先輩に「デビッド・ボーイ」が居て、休み時間等に二人でギターを弾いていたそうです。


1966年、「ザ・ハード」にギターとボーカルで参加、美少年であるが故に人気者になりました。


ウォーカー・ブラザーズの「スコット・ウォーカー」に顔が似ていたこともあって、「ヤング・スコット」などと呼ばれた事もあったようですね。


しかし、フランプトンは、アイドル扱いに嫌気がさして、「スモール・フェイセス」の「スティーブ・マリオット」と「ハンブル・パイ」を結成したのは、先のブログで書きました。


1972年、「ハンブル・パイ」を脱退した彼は、「フランプトンズ・キャメル」を結成、「ジョージ・ハリスン」や「ニルソン」のアルバムにギタリストとして参加しています。


1974年から2年間、全米ツアーを慣行し、それを収録したアルバム、「フランプトン・カムズ・アライヴ」を発表、たちまち全米第1位の大ヒットとなりました。


このアルバムは、全世界で1,000万枚以上を売り上げる驚異的なセールスを記録しました。(私も持っています。)  叫び


このアルバムの中で特にヒットしたのが、「ショー・ミー・ザ・ウェイ」、「アイ・ラヴ・ユア・ウェイ」、「ドゥー・ユー・フィール・ライク・ウィー・ドゥー」の3曲で、シングル発売されました。 目


1977年には、「アイム・イン・ユー」をヒットさせました。


そんな順風満帆なフランプトンでしたが、「フランプトン・カムズ・アライヴ」のアルバムの大ヒットで運を使い果たしたのか、その後は不幸の連続となるのです。


1978年、自動車事故で大怪我を負いました。 ドクロ

1980年には、ツアーの途中、愛用の機材を乗せた飛行機が墜落、ツアー・キャンセルの訴訟を起こされ、無一文になってしまいます。 ドクロ


その後、栄光をもう一度と作品を発表しますが、全く評価されず、結局、いわゆるところの「一発屋」になってしまったというわけです。 爆弾


彼は、ピックアップが3つ付いたブラックのレスポールをいつも愛用していました。


それから、1989年に日本だけで発売された「スーパー・セッション」という、ベンチャーズ結成30周年記念ビデオに出演していて、「アパッチ」と「パイプライン」を演奏しています。


「ショー・ミー・ザ・ウェイ」のアドリブで使っているのが「トーキング・モジュレーター」というエフェクターですが、彼が世界で始めて使ってポピュラーになったのです。


1995年になって、20年前の栄光をもう一度と、「フランプトン・カムズ・アライヴⅡ」を発表、そこそこの評価を得て、波乱に満ちた不幸な時代からの復活を果たしました。


円熟味を増したフランプトンのギターは、過去の不幸を全て洗い流すように囀っています。


つづく

ハンブル・パイ」は、それぞれ実績のあるスーパー・ミュージシャンが集まって、1969年に結成された、英国のスーパー・グループです。


メンバーは、

ギター、ボーカルの「ピーター・フランプトン」・・・元ザ・ハードのギタリスト

ギター、ボーカル、キーボードの「スティーブ・マリオット」・・・元スモール・フェイセズのギタリスト

ベースの「グレッグ・リドレー」・・・元スプーキー・トゥースのベーシスト

そして、ドラムの「ジェリー・シャーリー」の4人です。


大きな期待を背に、デビュー・シングル「ナチュラル・ボーン・ブギー」を発表、英国チャートの5位にランクインするヒットとなりました。


「ハンブル・パイ」は、ブルース、ロック志向のスティーブ・マリオットと、アコースティック、ポップ志向のピーター・フランプトンという、個性の全く異なる二人のギタリストを抱えていたため、サウンドの方向性が明確に定まっていなかったようです。


事実、当時のライヴでは、いつもエレクトリックのセッティングとアコースティックのセッティングの両方をセットしていました。

このスタイルは、今では当たり前のセッティングなんですけどね。


しかし、1970年にリリースされたアルバム「ロック・オン」は、パワフルなハード・ロックを前面に押し出したサウンドとなりました。


アルバム1曲目の「シャイン・オン」は、フランプトンが曲を書き、リード・ボーカルを務めています。


しかしながら、音楽性の相違から、フランプトンは、このアルバムを最後にバンドを去っていきます。


その後、ジャズ・ブルースのバンド「コロシアム」のギタリストであった「デイブ・クレムソン」をフランプトンの後釜に迎え、1972年「スモーキン」、73年「イート・イット」を相次いでリリースします。


ハードなブルース系ロック・サウンドの「スモーキン」は、アルバム・チャートのベスト10入りを果たしました。


フランプトンが居なくなって、マリオットの目指す音楽性が、全面的に打ち出されたアルバムとなっています。


この後、絶え間無いツアー活動で疲れ果てた「ハンブル・パイ」は、1975年のツアーを最後に解散してしまいました。


1980年、マリオットとシャーリーは、元ジェフ・ベック・グループのギタリスト「ボブ・ティンチ」と、ベーシスト「アンソニー・ジョーンズ」を迎えて、「ハンブル・パイ」を再結成しますが、すぐに解散してしまいます。


それでも1991年、フランプトンとマリオットが再会、オリジナルの「ハンブル・パイ」の再結成が期待されたのですが、マリオットが自宅の火事で焼死してしまい、再結成は実現しなかったのです。

マリオット44歳の悲劇でした。


ちなみに、1973年に実現した「来日コンサート」は、すでに神話になったと言っても過言ではないでしょう。


ノット・ギルティーさんのブログを見ていて、「ハンブル・パイ」を十数年ぶりに聴きました。

懐かしいやら嬉しいやらで、涙チョチョギレです。 

(ありがとう! ギルティーさん。)


つづく

リズム&ブルースの世界で最も有名なバック・ミュージシャン・バンド、「ブッカー・T&ザ・MG’s」をご存知でしょうか? はてなマーク


カタカナに直すと、「ブッカー・ティー&エムジーズ」でしょうか。


1959年、メンフィスで結成された、ソウル・ミュージックのインストゥル・メンタル・グループです。


メンバーは、ギタリストの「スティーブ・クロッパー」、ベーシストの「ドナルド・ダック・ダン」の白人二人、そして、キーボード奏者の「ブッカー・T・ジョーンズ」、ドラマーの「アル・ジャクソン」の黒人二人の、四人グループです。 ロボット


スティーブ・クロッパーはソング・ライターとしても活躍していて、オーティス・レディングが唄った「ドック・オブ・ザ・ベイ」は、彼の作品です。

(オーティス・レディングは、1968年、飛行機事故で還らぬ人となりました。)


ブッカー・T&ザ・MG’s」は、メンフィスにあったスタックス・レコードのハウス・バンドとして数多くのミュージシャン達のバックを努めていました。


(メンフィスのグループ)ということで、「The MG’s」と名乗るようになったのです。 ドア


1962年、スタジオでセッションしていた時に偶然生まれた曲、「Green Onion」を発表するや、ビルボード・ヒット・チャートの第3位に躍り出ました。 ベル


これで、彼らの名前は、一躍全米中に知れ渡ったのです。


この曲、ライブのMCのBGM用にと、軽い気持ちで作られたものだったそうですけどね。


当時は、人種差別が激しい頃で、「ブッカー・T&ザ・MG’s」のように、白人と黒人の混合バンドは非常に珍しかったといいます。 パンダ


だからこそ、「ブッカー・T&ザ・MG’s」のサウンドは、何処にも無い米国南部のソウルを生み出したのかも知れません。


南部黒人のブルースと、南部白人のカントリーの要素が、見事にブレンドされ、新しい音楽が生み出されたと言えるでしょう。 ビール


白人と黒人が何の偏見も持たず、自然に混ざり合うことで生まれた曲の数々、素晴らしいものばかりです。


Uptight」、「Melting Pot」、「Groovin'」、「ハートに火をつけて」等、名曲のオン・パレードですが、私は、何と言っても「Time is Tight」が大好きです。


刻むようなドラムに、シンプルなギターのリフ、そこへベースが被さってきて、ブッカー・T・ジョーンズのハモンド・オルガンがメロディを刻みます。


懐かしくて、胸がキュ~ンとなりますね。

 :*:・( ̄∀ ̄)・:*:


つづく