あんたは払うよ、権藤さん。の真意 -68ページ目

あんたは払うよ、権藤さん。の真意

ご来場いただきまして誠にありがとうございます。「その1」などと付してある記事は続き物になっていますので、数字の若い順にご一読いただけると幸いです、としていたのですが、最近、数字入れ忘れてました。ごめんなさい。では、そろそろ開演です。Oh, yeah! Play it loud!

私は、超能力と言われるものが存在してほしいと思っている。

故に、ユリ・ゲラーに始まり、その類のテレビ番組は真剣に観ていた。今でも、つい観てしまうことがある。そして、見る度に「もうやめよう」と思う。

何故ならば、そこで披露される超能力というものが、残念ながら私の期待を大きく裏切るものばかりであるからである。


簡単な例として、スプーン曲げ。

何故、超能力で曲げる必要があるのか?手で曲げればいいではないか?それに、曲げてしまったら、そのスプーンは使えなくなってしまうぞ。

一体、何の役に立つのだろう?

超能力で元に戻すこともできます、と言うかもしれぬ。しかし、元に戻すならそもそも曲げる必要はないであろう。


空中に浮いただけでは何の役にも立たない。

浮いたまま、日本武道館の斉藤和義のコンサートに行けるのか?電車と同じ速度で。風圧が厳しそうだな。だからといって、ゆっくり行って遅刻したら意味ないぞ。それに、到着したら疲れ果ててしまった、というのではライヴが楽しめない。それなら電車で行った方がいいじゃないか。


私はバビル二世並みの超能力を期待しているのではない。ロプロスもポセイドンもいらない。もちろんロデムも。


「役に立つ」超能力は無いのかぁ~っ!?

通常の能力でできることなら意味はない。通常の能力を使えばいいんだから。

今なら、震災の瓦礫を消滅させるなんていいじゃないですか。もちろん地方公共団体の負担なしで。

同時に原発を原因とする放射性物質の除去だ。

液状化が起きた田んぼも元に戻してもらいたい。

あ~その前に津波を止めてもらいたかったな。


と、こんな感じで、たまに超能力の類のテレビ番組を見ながらブツブツ言ってると、子供達はうんざりした顔で「役に立たないんだから観なければいいじゃない!?」と言ってくる。

全く、君たちの言う通りだ。君達はそういうものに嵌りそうもないな。

しかし私は、超能力は存在してほしいのだ...本当だ、本当なんだ。





子供たちはヨシオに勉強する理由を聞いた後、ヨシオの配偶者に同じ質問をした。

「ねえ、ママ、何で勉強しなきゃいけないの?」


ヨシオと配偶者は出身大学こそ同じとは言え、配偶者はヨシオより難易度の高い学部であった。しかもヨシオは一浪に対して配偶者は現役。

いや、その前に、配偶者の志望した大学は、叶わなかったもののT大文一のみ。外国語は仏語で受験している。

勉強、試験については雲泥の差があった。


「はぁ?勉強するのに理由なんて要るの!?登山と同じよ!そこに山があるから登るだけじゃない!山があるんだから登るんでしょ?理由なんか無いじゃない!私は勉強する理由なんて考えたこともないわっ!そもそも何故そんなこと考えるのか、それ自体がわからない。」


うーむ。

目の前に山があっても、登るか、眺めるか、それとも海に行くかは人により違うと思うが...

言うまでもないことだが、ヨシオは黙っていることにした。

それで良かった。

子供から「何故勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたことがある。

その時、私は以下の通り答えた。


いや、しなきゃいけない、とは思わないけどね。

「運動ができる」とか、「歌が上手い」とかと同じように、「学校の勉強に向いてる頭」、「向いてない頭」ってやっぱりあると思うんだよね。「運動の才能」、「歌の才能」、「勉強の才能」と言ってもいいよ。だから、お前たちがどんなに勉強してもどうしても敵わないっていう人はいるし、それでいいんだよ。足の速い奴はやっぱり速いだろ?

ただ、もしお前たちが勉強しないで、自分より勉強の才能がない人が勉強しちゃった場合、試験の結果は、お前たちより勉強の才能がない人の方が上になるでしょ?すると、その人よりお前たちは、その点では馬鹿ってことになるわけだ。言い方悪いけど。ホントは自分より馬鹿な人より自分が馬鹿な立場って、我慢できる?


それ以来、子供は「あー勉強したくねえ!」とかは言ってるものの、「何故勉強しなきゃいけないの?」と聞くことはなくなった。

問題がひとつ減った。

これはいいことだ。

仕事を終え、家についたヨシオは、バルコニーに洗濯物が干してあることに気づいた。





ヨシオは、「気がつくとやってしまう」性質であった。


流しに皿があると「気がつくと」洗うし、休日に洗濯物がカゴの中にあると「気がつくと」洗濯する。「気がつくと」というのは、いつも「気がつく」とは限らないからだ。また、「やってしまう」とは、とにかく、何かやることがあるから単に「やる」というだけである。





夜の9時だ。もう乾いているかもしれない。乾いてたら家の中に取り込んでおくか。


ヨシオがバルコニーに出て、物干し竿の子供のシャツに手を伸ばした刹那、


「何する気なの!?」妻の怒号が響いた。


は?何するって、乾いてたら取り込もうとしたに決まっているが...





「さっき干したばかりなの!」


干した時刻は俺の知るところじゃない。今帰って来たばかりなんだから。





「濡れてるに決まってるじゃない!」


触って濡れているのがわかれば、そりゃあ取り込まないよ...





そもそも何故、洗濯物に手を伸ばしただけで怒鳴られなければならないのか?





もう止めよう、とヨシオは思った。


しかし、ヨシオの性質は変わらなかった。


やはり「気がつくとやってしまう」のである。


いや、変わったことはあった。


「やってしまう」前に、身体が小刻みに震える様になったのである。


この休日はどのように過ごすのであろうか...


私は、主人公が一人で敵と立ち向かう、という感じの映画が好きである。

したがって、『スター・ウォーズ』は面白いと思っても好きではない。『用心棒』は好きだが、『七人の侍』はいくら傑作でも好きな範疇ではない。

一番好きな映画は『真昼の決闘』であったが、『ダイ・ハード』が出現してからは、『真昼の決闘』と『ダイ・ハード』の両方になった。



『ダイ・ハード』を観ている途中、「これ、『真昼の決闘』のビル版!?」と私は思った。本当だ。本当にそう思ったんだっ!

そして、最後の対決の場面で『ダイ・ハード』は『真昼の決闘』のリメイクであると確信した。そもそも『真昼の決闘』を観ていなければ、台詞の意味がわからないではないか。

これ、ひょっとして映画好きな人の中では当たり前の話ですか?私は映画の雑誌とか全く読まないので。

ちなみに、ロイ・ロジャースという役者は知らなかったので、後日父に聞いたら、父はやはり知っていた。


そういう理由で、好きな映画の話になると、私は『真昼の決闘』と『ダイ・ハード』と答えるようになった。

そして、『真昼の決闘』を知らない人には「『ダイ・ハード』の西部劇版」、『ダイ・ハード』を知らない先輩には「『真昼の決闘』のビル版です」と説明している。これは便利だ。


『真昼の決闘』観てから『ダイ・ハード』観ると尚更面白いと思うんだけどな...

『ダイ・ハード』はみんな見てるだろうから、もう遅いか。

いや、私よりもっともっと若い世代だっているぞ。

それに週末だ。明日DVDを借りるあるいは買う人もいるだろう。よしっ!


「もし今度の休日に『ダイ・ハード』を観ようとしている方々がいたら、まず『真昼の決闘』を観るのをお勧めします。『真昼の決闘』のDVDは今や本屋さんで500円くらいで売ってると思います。」


あ、『ボディガード』も『用心棒』を観てからの方が面白いような...これはリメイクだとは思わないけど。