対戦相手と競うスポーツ競技では、勝負がつかないと殆どの場合延長戦を行います。(バレーボールやテニスなどはセット毎ですが。)
高校野球・甲子園大会での最長延長記録では、1933年の中京商業対明石中学の延長25回が有名です。(↓)
ではプロ野球の最長記録は何回まで行ったと思いますか?
現在の日本プロ野球では延長12回までと規定されていますが、メジャーリーグでは無制限。
1920年5月に行われたブルックリン・ドジャース対トランタ・ブレーブスの延長26回が最高記録なので、当然これが世界最長・・・かと思いきや、然に非ず。
なんと、それよりも長い
延長28回
という試合が、今からちょうど80年前の今日・1942(昭和17)年5月24日に日本で行われていたのです。
つまり大東亜戦争の真っ最中・・・野球は敵性スポーツと見做され、「よし1本」・「ダメひとつ」など英語使用禁止の時代。
なぜそんな時期に・・・と不思議に思いますが、実はこの頃陸軍から
「試合に引き分けがあるのはおかしい。 勝負がつくまでやれ!」
という命令(?)が出されていたのです。
対戦したのは、大洋軍(※旧・大洋ホエールズとは無関係) 対 名古屋軍(中日ドラゴンズの前身)。
両軍とも、この日は変則トリプルヘッダー(!)を組んでました。
第1試合は名古屋軍対朝日軍、第2試合は大洋軍対巨人軍、そして第3試合が大洋軍対名古屋軍・・・そう、この記録に残る延長戦は、お互いにとって2試合目だったのです。😨
序盤にリードした名古屋軍でしたが中盤に大洋軍逆転、しかし9回2死から起死回生の2点本塁打が飛び出して名古屋軍が同点に追いつき延長戦に突入すると、お互い点が取れないまま試合は進んでいきます。
当時はバッティングマシーンなどない投高打低の時代。
さらにダブルヘッダー2試合目ということで、野手は疲れていたのでしょう。
(↑)の通り10回以降延々とゼロ行進が続き、15回を過ぎるとスコアボードは下の段に小さなゼロが・・・。
結局延長28回までで、日没引き分け。
ナイター設備がない時代ですから、致し方なし。
しかし不思議なことに、(アンパイアを務めた島秀之助審判によると)延長戦に入って動きが鈍くなってきた野手の動きが、20回を過ぎた頃から再びキレが良くなったというから不思議。
いわゆるランナーズ・ハイ状態になったのかも。
とはいえ、凄かったのは両軍のピッチャー。
大洋軍・野口二郎投手が344球、そして名古屋軍の西沢道夫投手が311球を投げて、共に完投したのですから。
野口投手 西沢投手
しかし、もっと大変だったのは審判だったかもしれません。
島主審(↓)と2人の塁審は延長10回まで行った第1試合と9回で終わった第2試合、そしてこの延長戦の最終28回までの合計3試合・47回、出ずっぱりでしたから。😱
そして5,000人いた観客も、試合終了まで殆どスタンドに残っていたといいます。
そりゃあ、あの甲子園の延長25回を超える期待感が場内を包み、さらにその25回を過ぎた時点で、
「中京対明石の延長25回の日本記録を破り、次の回へ進みます。」
更には27回に入ると
「大リーグの延長26回の世界記録を破りました!」
なんてアナウンスが入ったそうですから、帰るに帰れなかったでしょうネ。
もしナイターが出来ていたら、一体何回まで行ったのやら?
でも3試合分の延長戦だったのに、試合時間は僅か3時間47分。
現在のプロ野球なら、延長戦なしでこれ以上時間がかかる試合はザラ・・・いかにキビキビしていたかが分かります。
というか、今のプロ野球がダラダラし過ぎ?
選手も観客も、そして審判も手に汗握ったであろうこの試合・・・映像が残っていないのが、実に残念です。
※余談ですが、アメリカのマイナーリーグでは、1981年4月に延長33回(32回サスペンデッドで翌日1イニング)という試合が。
またアマチュアの公式戦では、1983年9月に開催された全国軟式野球大会の決勝戦、宮崎県・田中病院 対 東京都・ライト工業の延長45回という記録が残されています。
選手・審判、そして観客皆さん・・・大変お疲れ様でした!