今から407年前の今日・1615(慶長20)年5月23日、あの豊臣秀吉の直系が途絶えました。
なぜなら、豊臣秀頼の子、即ち秀吉の孫である
豊臣 国松
が亡くなったから。
国松は1608(慶長13)年、秀頼と側室・伊茶の間に生まれました。
秀頼の正室・千姫との間に子がなかったことを憚り、国松は生後すぐに秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先である若狭京極家に預けられた後、乳母の兄・砥石屋弥左衛門の養子に。
そして大阪冬の陣が始まると、彼は常高院と共に大阪城に入り、その時初めて父・秀頼と面会。
その翌年、大坂夏の陣の際に国松は秀頼と別れの盃を交わし、.乳母とその夫で京極家に仕える田中六郎左衛門と共に大阪城から脱出。
※秀頼と大坂夏の陣に関する過去記事は、こちら。(↓)
しかし徳川方の探索によって捕らえられた国松は、京都所司代・板倉勝重の元に連行されると、5月23日に京都市中を引き回された上、六条河原で斬首されました。
生殺与奪の戦国時代とは言え、僅か8歳で見せしめの如く殺された国松の心中は、如何ばかりであったのか・・・。
静岡県牧之原市・大澤寺にある国松の墓所
ところが、この国松には〝生存説〟が。
それは、彼が薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われた後、豊後国日出藩(現・大分県中部)木下家の分家・木下延由になったというもの。
その木下家には、「国松が薩摩に落ちのびた」という一子相伝の言い伝えがあり、それによると国松は船に乗って四国経由で薩摩国に渡り伊集院兼貞に匿われた後、日出藩に身を寄せたとのこと。
秀吉の正室・高台院の甥で、かつて秀吉に仕えていた同藩の初代藩主・木下延俊は、国松を縫殿助と名付け二代目・俊治の弟として迎え入れると、1642年に延由と改名させた上で1万石を分与するよう遺言を残したとか。
しかし当時の日出藩は3万石の小藩であり、その1/3を譲るのは藩の存亡にかかわるため、家老・長澤市之亟は半分の5千石のみを延由に割譲。
後に裏事情を知った市之亟は「君命に背いた」と遺言を残して割腹自殺を遂げたといいます。
また日出藩は何故か徳川幕府に延由の名を延次と届け出ており、木下家の菩提寺・長流寺にある延由のものとされる位牌には 『木下縫殿助豊臣延由』 と刻まれているそうな。
果たして延由は、本当に生き延びた国松だったのか・・・皆さんは、どう思いますか?
歴史好きな私としては国松生存説を採りたいところですが、では六条河原で首を切られた幼子は、誰?